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聖なる理念について①/エニアグラム

昨年2022年の6月に弊訳で『自由へのエニアグラム』(イーライ・ジャクソンベア著)が出版されて一年になります。訳していた2021年頃は、正直、まだそれがいったい何を指し示すものなのかが、十分にわかってなかったエニアグラムの用語があるんです。「聖なる理念」(Holy Idea)です。やっと解説できるタイミングがきたようです!

「聖なる理念」は、リアリティがどのようなものかを指し示すものです。

このリアリティというのが曲者で、目の前の現実のことではありません。それは見かけであり、リアリティは無限に広がる愛や、空や、サイレンスなどという言葉で指示される何かです。翻訳していた当時は、私の知覚を覆うベールがだいぶん分厚かったので、もっとも謎な項目だったんです。

『自由へのエニアグラム』では、p321~329に各ポイントの「聖なる理念」についての説明があります。なのですが、スーパーエゴ(エゴをジャッジするエゴ)がどのようしてエゴの仮面の維持に聖なる理念を利用しているかに重きが置かれ、聖なる理念がいったい何なのかについては、詳しく書かれていません。「『分離したエゴを実体だと思う観念と決別したい』という思いを奮い立たせる何か」程度なのです。スーパーエゴの視点から書かれていたので、翻訳する上では問題はなかったんですが、いざ、じゃあ、聖なる理念ってなんなの?と聞かれたら、当時の私は、言葉に窮していました。

著者のスクールのエニアグラムのコースでも、聖なる理念がテーマとして取り上げられた記憶がないんですよね。聖なるもの・真実は、いかなる idea(考え・イデア・理解)をも超えたものだからかもしれません。言葉で説明すると、それは概念化され、結局、エゴの仮面の維持に使われて行きますから.…

なのですが、本の出版から半年たった頃、ある体験を経て、自分の聖なる理念についての感覚を伴う洞察が深まったこともあり、スーパーエゴによる濫用以外の「聖なる理念」についてやっと理解が起きたんです。(この体験については『岩戸開き第7号』に寄稿しました)

さて、私の師であるイーライには3名の講師からエニアグラムを学んだものの、パーソナリティのレベルに限定されたとらえ方に限界を感じ、独自の探求を始めます。

ジェリー・パーキンス、その先生のキャスリーン・スピース、さらにスピー
スの先生にあたるクラウディオ・ナランホからエニアグラムを教わりました。それぞれが重要な視点を私に教え、多くの洞察を与えてくれましたが、三人ともパーソナリティーを紐解くためのシステムとしてエ
ニアグラムを扱っていました。私にはそれがとても制限的に感じられ、自分独自の視点で教えを構築しながら、エニアグラムの源泉を探しはじめたのです。

『自由へのエニアグラム』(イーライ・ジャクソンベア)


イーライと同じくクラウディオ・ナランホから学んだ一人にAH.アルマースがいます。『自由へのエニアグラム』を翻訳し始めたときに、私はメンターからアルマースの『Facet of Unity』という本を勧められたんですが、観念的すぎるし、文章も長いし、単語も難し目。5ページぐらいで落っこちてしまった。ところが、ある体験の後、読んでみると、読める! それどころか、非常に興味深い!すっかり忘れていましたが、『Facet of Unity』の副題は『Holy Ideaのエニアグラム』だったんです。まるごと一冊、「聖なる理念」に絞った内容。自分自身のポイントの聖なる理念にまつわる深まりが起きて、やっと内容が自分に入ってくるようになったんですね。


そうした経緯があって、聖なる理念について、できるだけシンプルに整理したくなりました。よかったら、お付き合いください。


聖なる理念とは

リアリティが、どのようなものかを指し示す地図のようなものです。
(リアリティは、わざとカタカナを使っています。目の前の具体的な現象、いわゆる”現実”じゃなくて、マインドの幻想を超えて存在するもの。マインドの幻想って、いうたら主観だから、客観的に存在するもの=実在という言い方もあります)

リアリティは、いっさい分離のない一体の何かです。実在しているのはこれ(だけ)です。たぶん、そんな風な実感はないと思うけれど。リアリティは私たちのマインドよりはるかに大きくて、マインドがリアリティを把握することはできません。だから、定義できるようなものではなく、せいぜい指し示すぐらいしかできません。

エニアグラムの9~1のポイントの聖なる理念は、それぞれが別の方向から”知覚”されたリアリティを指し示しています。

変なたとえかもしれませんが、たとえば「スイカ🍉」という言葉で、丸さを思い浮かべることもできれば、あの甘味、あるいは、シャリシャリ感、あるいは重さ、黒い種、赤色、縞々模様、など、視点の置き所によって、スイカの様々な性質が明るみにでます。でも、いつだって、🍉は🍉全体としてしか存在していませんが、さまざまな側面を持ちます、側面といっても、🍉から赤だけを抽出することも、シャリシャリ感だけを抽出することもできません。全体として存在しています。

さて、🍉が🍉としてあるように「リアリティは一体の何かが一体としてある」のですが、🍉をテクスチャー、色、形などの側面から知覚できるのと同じように、聖なる理念も視点を変えて説明できます。大まかに以下の3つの視点からリアリティを説明しますね。


  • 全体性

  • リアリティと人類の関係

  • リアリティにおいて働きとは何なのか

ところで、マインドの幻想を超えて存在するもの。実在がリアリティなんだから、今、ここにあるのはリアリティです。それなのに、リアリティに全然気づけないのは、なぜなのでしょうね? それも、だいぶん後になりますが、最後に書きますね。


3種類の聖なる理念

  • 全体性

  • リアリティと人間の関係

  • リアリティにおいて働きとは何なのか

こうした3種類の視点があります。

9、8、1 - 肉体で自我が結晶化したグループ(怒りポイント)

このグループの聖なる理念では、リアリティを全体性として知覚します。私たちひとり一人は固有の誰かとしてここにいますが、9、8、1と縁が深い聖なる理念は、そこではなくて、とにかく一番俯瞰し、包括的な視点からのものです。

6、7、5 - メンタルで自我が結晶化したグループ(恐れポイント)

このグループの聖なる理念では、全体性と人間の関係や、リアリティが個々の人たちにどのよううに反映されているかなどの視点からリアリティを知覚します。

3、2、4 - 感情体で自我が結晶化したグループ(ヒステリー・ポイント)

このグループの聖なる理念では、行動とは何か、生きるとは何か、機能とは何かという側面でリアリティを知覚します。

「リアリティは空で、何も起きていない」

非二元では、そのような言い方がよくされますが、いやいや、日々、生きて、行動しているし、動きが起こっているという実感がありますよね。リアリティとそうしたことの関係を説明します。



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これ、もう完全に実際とはちがうし、まったくのでっち上げ、比喩でしかないのですが、一なる者をイラストにしてみました。

風船と思ってください。あるのは一個の風船です。これが一なる者。一なる者がただ一つ存在しています。風船ですから中には空気が入っています。一なる者の場合、それはいのち・意識です。これというものは何もない空っぽの意識。均一な意識です。風船の中が均一な空気でみたされているように、一なる者は意識で満たされていますI(というか意識です)。そして、固有性を持った存在が無数に風船に生じています。タコと人と花は形はだいぶ違うけれど、同じものでできているし、個別に存在しているように見えるけれど、一切の分離はなく、風船の一部ですね。一なる者の中にも、同じように固有性を持つさまざまな存在が生じています。

めっちゃ引いた視点で風船全体を視座なのが、 9、8、1。
人とかタコとか花とかに気づく視座なのが、6、7,5。
風船自体とそこにある人とかタコとか花の動きを見ているのが、3,2、4なんです。

このように、エニアグラムの9~1のポイントの聖なる理念は、それぞれが、別の方向からみたリアリティを指し示していますが、私たちにはそれぞれ、遺伝的な要素から決まる自分の核となるポイントが1つあります。そのポイントが指し示すリアリティの側面は、自分にとって特に縁が深いものになります。エゴの維持という点でも、エゴを超えるということにおいてもです。

さて、あなたのポイントの聖なる理念について、あなたはどう感じるでしょうか?

今後の記事で、各ポイントの聖なる理念のダイジェストを書きますね。そして、最後に、なぜリアリティだけがここにあるはずなのに、なぜ知覚できないのかにも触れたいと思います。そうなんです、なかなかピンとこないんです。一瞬、その知覚がやってくることもあります。いわゆる一瞥体験もその一つです。

続きはこちら https://note.com/ayumiokada16/n/n139d2e382e6f

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