あなたの隣は私かもしれないし、あなたは私かもしれない


私の人生をご紹介しよう。
あなたにとってはまるでテレビやドラマの世界のように感じるかもしれない。
けれど私にとってはそれが日常で当たり前の世界だった。
そしてそんな人たちは意外と身近に、思いの外たくさん、実にさりげなく、しれっとあなたの隣で微笑んでいる。

紛れもなく、現実であり誰かの日常なのだ。

私の家は決して裕福ではなかった。
物心ついた頃には父親という存在はなかった。
看護師である母は朝から夜まで働いていた。
私を含む兄弟4人と祖母、計6人の家族を養わなければならない。
はっきりと思い出せる古い記憶は幼稚園くらいの時。
その頃私たちは母の職場で用意されている一軒家の社宅に住んでいた。
社宅はボロボロもいいとこで、私たちが出ていったら取り壊すことが決まっていたので好き放題暴れさせてもらっていた。
思春期に入った長男はイライラすると壁に穴を開けるしどこからか拾ってきた石を素手で叩き割る練習をしてるし、何で飼ってたのは思い出せないうちの番犬は庭を掘り穴だらけにしている始末だ。
ネズミは出るわナメクジ、口に出すのもおぞましい「ヤツ」もしょっちゅう出るわ、玄関前にある木のせいでその時期になると毛虫の雨が降るわ…まぁ、とにかくボロかった。
今でも二度と住みたくないと思っている。
ちなみに洗面所の床は朽ちて穴が空いていた。
ある意味やんちゃ盛りの子どもたちにとっては気兼ねなく暴れられるので良かったのかもしれない。

そんな私たちでも頭を悩ませる人がいた。
お隣さんだ。
母の同僚で旦那が看護師、妻がいて子どもが2人。
奥さんはおそらく専業主婦だったと思う。
旦那がとにかくヤバい人で酒に酔うと毎日うちに怒鳴り込んできた。
子どもの声がうるさいだの階段を上がる音がうるさいだのと玄関で喚き立てた。
子ども心に「おっさんの声の方がうるさいのでは?」と思ったものだ。
母が夜勤の時は祖母しか大人がいなかったが、この祖母。
めっちゃ気が強い。
負けない。
津軽の女は肝が据わっている。
大の男が怒鳴り込んできても平然と対応していた。
ばあちゃんまじかっこいい。
余談だがこの祖母、まじで強い。
いたずらしたり私や弟をいじめたりした兄たちを布団叩き(竹でできたやつ)でバシバシ叩く。
悪ガキ代表だった兄たちもさすがにこれは堪えるらしい。
涙目になる兄たちを「ざまぁw」と笑い、よく祖母にチクったものだ。
そんな祖母でも基本的には優しい人だった。
寝てるとき掛け布団をかけ直してくれたり、家事全般は外で働く母に代わり、全て行っていた。
祖母の話はまた後で語るとして、話を戻そう。
隣に住む家族。
母の同僚である男は終いには縁台に椅子を置き酒を飲みながら私の家を監視するようになった。
階段側が隣の家に面していたので2階の窓から覗くとこちらを睨む男が見えた。
今思うとこの男、結構異常だったと思う。
そんなことしてる暇があるなら自分の子どもたちと遊んでやればいいのに。
ある時、庭にいる犬が「キャンッ」と吠えた。
珍しく悲しげな鳴き声だったので様子を見にいくと隣の男が逃げていくのを目撃した。
どうやらうちの犬を蹴ったり殴ったりしていたらしい。
社宅なので何度か管理者にも相談したがあまり効果的な結果にはならなかった。
当時はあまりご近所トラブルに警察が出てくる時代ではなかったので隣の男は野放し状態だった。

それからしばらくしてそれは突然起こった。

夜中、珍しく隣家がバタバタと音を立てている。
慌ただしく何かをしている様子だった。
詳しくは覚えていないが深夜帯だったと思う。
車が走り去る音でその騒がしさは終わった。
ここからは母に聞いた話なので真偽はわからないが、どうやら夜逃げをしたらしい。
その頃夜逃げを題材にしたドラマが放送されていたこともあって、夜逃げの意味は理解していた。
隣に住んでいた男は看護師として働いていたが、実は看護師免許を持たず無免許で職に就いていた…らしい。
今では考えられないことだが…。

そんなこんなでしばしの平穏が我が家に訪れた。

小学校低学年くらいまではまだ落ち着いていたように思う。

次のターニングポイントは、私が高学年になった頃だった。
うちは相変わらずの貧乏だった。
その頃次男がたまたま応募した芸能事務所のオーディションに合格して養成所に通うことになった。
お金がないんだからそんなものやらなければいいのに、母はそれを許してしまった。
そこから貧乏は加速していく。
ちょうど兄たちの進学も迫っていたため、お金が必要になった。
母はアルバイトを掛け持ちしてそこそこ稼いではいたがなんせ出ていくお金が多過ぎる。
到底母1人の稼ぎでは回らない。
闇金に手を出すのに時間はかからなかった。
元々昔、私が生まれる前に自己破産をしたことがあったらしい。
そのため、クレジットカードはもちろんローンも組めないブラックリストに入っていたようだ。
闇金に手を出してからは悲惨だった。
利息は10日で1割なんて当たり前。
5万借りたらその場で手数料として2万引かれ手元にくるのは3万のみ。
でも10日後には利息だけで5千円、全部返すなら5万5千円返さなければならない。
しかも「ブラックリストに載ってるから信用を作るためにも始めは少額しか融資できない」と制限をかけたり…。
なんとも恐ろしい世界だ。
何故そんな細かいことを私が知っているのか。
簡単だ。
その場に私もいたからだ。
母は心細かったんだと思う。
まだ小学生だった私を新宿や御徒町にある闇金事務所に行くとき連れていったのだ。
大通りを外れた地味なビルの2階より上、なんの会社かわからないようなシンプルな社名が貼られたドアの向こうはいつも同じような造りで私たち親子を待ち構えていた。
テンプレで繰り返される融資の説明。
決まって母は闇金の帰りには好きな物を食べさせてくれた。
母なりの罪滅ぼしだったんだろう。
もちろんずっとこのままなわけにはいかない。
膨れ上がった借金は複数社に登り、もはや利息さえ返すことができない。
他社の利息を返すためまた別の所から借りる…。
まさに自転車操業だった。
朝から晩まで取り立ての電話は鳴りっぱなし、家にも借金取りが来ては金を返せと怒鳴りつける。
この出来事のせいかわからないが私は三十路を超えた今も電話が苦手だ。
あるときはブラックリストでも大丈夫という某クレジットカードを作り、キャッシング枠はそのまま借入し、ショッピング枠は限度額いっぱいでブランド品を買いそれを闇金に買い取ってもらうということも行った。
ちなみにこれは闇金会社の指示だ。
母はもう正常な判断ができないくらい追い詰められていた。

ある日。
いつものように、と言ったら悲しいものがあるが。
いつものように借金を借金で返すため、母と2人、新宿付近の闇金事務所に来ていた。
「ちょっと待ってて」と言われしばらくするとそこに現れたのは以前金を借りた(絶賛滞納&返済中)闇金の男だった。
そう、闇金同士は繋がっているのだ。
搾り取るだけ搾り取って、ここらが限界だと判断したのだろう。
闇金たちはこう言った。
「もうこれ以上借りれないよ〜。どうするの?うちの支払いまだ残ってるよねぇ?」
私は「あ、死んだな」って思った。
母は「ここで貸してもらってその分で払います…」とか言ってたけどそれで許してくれるような相手じゃないのは幼い私でもわかりきっていた。
案の定その案は却下され、「どうするの?答えが出なきゃ家に帰せないよ」と地獄の軟禁タイムが始まった。
家族に相談するかと電話をかけさせられたがそもそも大黒柱の母はここにいる。
家に電話したところで未成年の子供たちと働ける年齢ではない祖母だけだ。
解決なんてしない。
家族が警察に通報してくれたみたいだが、事務所に一本電話がかかってきただけで闇金と一言二言交わし実際には来てくれなかった。
当時はこういったことに警察は民事不介入ってやつだったらしい。
闇金たちの空気が悪くなるだけで逆効果だった。
借金のカタに売り飛ばされるのかなぁ?売春?内臓?どっちだろう?と考えていたのを覚えている。
ほんとに社会的にも物理的にも死を悟った時間だった。
これを乗り越えたおかげで大抵のことはこの時よりマシ、と思える図太い精神を養うことができたのは不幸中の幸い。
結局、新規のところで融資を二口分借りて来週?までには全額返済するという内容で私たちは解放された。
外はもう真っ暗で電車は最終、ガラガラだった。
6時間以上軟禁されその間口にした物は闇金にもらった缶コーヒー一本だけだったので、気分が悪くなって帰宅途中で吐いた。
トラウマ級の出来事だったが、缶コーヒーは大好きだし別に新宿とかもなんとも思わない。
今思えばあの闇金たち、まだ優しい方だったのかもしれない。

多分ここが人生の最底辺、どん底だったと思う。

帰宅した私たち(というか母)を烈火の如く怒った祖母。
兄弟たちもかなり心配していたようだ。
そして数日が経った頃。
昔馴染み(?)の取り立て屋がやってきた。
一番古い付き合いのある闇金だ。
何度も借りては返しを繰り返している。
ここのところ返済が滞っていることで何か思うことがあったのだろう。
闇金は言った。
「ねぇ、〇〇さん。もう無理でしょ。うちンとこ返すって約束してくれたら弁護士紹介するよ。債務整理しな」
これで私たちの何度目かの危機は呆気なく終わりを告げた。

度重なる家への取り立てや職場への電話などで母は実質解雇となった。
やんわりといて欲しくない、と言われたようだ。
急遽同じ市内のボロアパートに引っ越すこととなった。
2Kに家族6人。
狭い。
でも仕方ない。
私は中学生になった。
母の新しい勤め先が決まるまでは本当にやばかった。
電気が止まるだけでなく、水道も止まってしまった。
日が暮れてから公園の水道に水を汲みに行くこともあった。
数ヶ月は生活保護も受けたようだった。

それからも大小様々なことがあったけれど、どれもここまでに比べれば些細なことだ。

ただ、覚えておいてほしい。
漫画やドラマのようなお話だが実際に私の身に起きたノンフィクションなのだ。
そして私は特別な人間でもなんでもない。
ありふれた社会を構成する不特定多数の人間の一人。
電車やバスで、公園や道路で。
隣の席のあの子や仲の良い友達。
そんなあなたの隣にいるあの人も、同じような経験をしているかもしれない。
あなた自身も、何かを抱えているかもしれない。


現実は小説より奇なり、とはまさにこのことだ。




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