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50歳のうち16歳~22歳

高校へ入るとすぐにテストがありました。
思いもよらない、いい結果でした。
そこで、思いました。
そのまま上がらずに他大受験しよう。
部活が盛んな学校だったので、スポーツ推薦で入った子がメインで
部活に入ってなかった子も多かった。
母に予備校へ行きたいと言うと母は、早速探してくれました。
今では、かなりの数の校舎がありますが、その時は初めての校舎で現役のみという特徴をもった予備校でした。
学校からも近く、家とは反対の電車へ乗り、ほぼ毎日、通いました。
制服のまま通い、帰りは、母が毎日、最寄り駅まで車で迎えに来てくれました。
月1回のテストでクラスが変動するしくみでした。
塾がない日は、自習室で勉強する。
いろんな学校の子が来ていて、都立の子、県立の子、その中で「付属なのになんで?」と言われながら。
数学は、一番上のクラス。
英語は、上から2番目あたり、選択科目は、物理を選択していました。
テスト結果が貼り出しで自分の名前を探すのが楽しみでした。
勉強が楽しくて仕方なかった時期です。
学校ではというと、ほぼわからないことはなく、
授業中も予備校の小テストの勉強をしていました。
英語などは、皆がわからないと最後に必ず先生にさされる、という感じでした。
勉強に対する自信もつけていました。
当時、その学校では校則が厳しく、最寄駅から先生がところどころ立っていて門の前でカバンを開けて見せる、なんていうスーパー検問というものがありました。
運動と勉強ができる子は、パスという不思議なルールでした。
高校生ながら、やることをやっていれば、細かいことは言われないのだな~と感じていました。
大学の枠は学科で人数が決まっており、学科ごとに成績順で自分が希望学科で何番目かわかるしくみでした。
3年になった頃、担任の先生に「医学部へ行く気はあるか?」と声をかけられました。
即、「ありません」と先生に答えました。
家に帰って親に話すと父はいくらかかるのか、お金ないからおじいちゃんに借りるか、と断ったのにソワソワしていたのを今でも覚えています。
3年の秋、担任から自宅に電話があり「進学、どうしますか?」母は私に確認もなく「そのまま上へ上がります」と答えました。
その時は、とても悔しかったし、それでも親に抵抗することもなく、予備校に行っても受験しないのだから、辞めることにしました。
そのとき母に言われたのは「女の子は、勉強できなくていい。嫁に行く先で決まる。」と。
と言っていたが、家の中のことは何も教えてもらっていなかったし、自分がなぜ抵抗しなかったのかもあまり覚えていない。


大学では理系へ進んだ。
学科の1割しか女子はおらず、硬式テニスの一番強いサークルに入った。
当時、サークルの勧誘はすごく、入るのに男子は経験者、女子はかわいいか経験者でないと入れなかった。
申込書の裏にA~Dと評価がされていたらしい。
私は、もちろん経験者枠。
100人以上のサークルもいろんなことがありました。
体育会系の経験がなかったので、特に女子の先輩方との付き合いが面倒でした。
一番覚えているのが、1つ上の女の先輩から自分が着たテニスウェアを「よかったら、着て!」と渡され、とても戸惑った。
「いらない」と言えず「大丈夫です」と、それでも部屋に置いていき、先輩が出て行った後、
「いらないのだけど」と話していると先輩の身に着けたものが欲しいという同級生がいて、譲りました。


学科では、受験勉強していたおかげで、成績はよかった。
有名な都立から受験で入ってきた友だちに「付属の子に負けるなんて!」と言われたのも余裕で笑えた。
理系の女子は、基本的に気が強い!
CGのゼミに入ったり、もちろん、女子は1人。
でも、ぜんぜん女子扱いされることもなく、私の前で構わず着替える仲間でした。
就職活動もバブルなので、企業からチヤホヤされてる時期でした。
サークルの先輩に誘われて大手電機メーカー、他にはテレビの映像制作を数社、受けました。
その際も母は、見た目とは異なる古風な考えで、大手電機メーカーがいいと、入社を決めました。
一番喜んでいたのは、おじいちゃんでした。
面接時に「お父様は会社経営をされているようすが、後は継がれないのですか?」
「弟がおりますし、誰でもできる職種ではなので」と答えたのに、今、継いでます。
「結婚したら仕事は、続けますか?」とも聞かれ、「環境が許せば、続けたいと思っています」と答えましたが、結婚で退社しました。
嘘ばっかりでしたね。


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