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はり漬けになった、しタラヶ原の英雄

大根のはりはり漬けを作る。醤油と味醂で作った漬け汁に漬けるということから、以前に造った坂本九ちゃん漬けやその源流となった香織さんの胡瓜のパリパリ漬けに近い。詳しくはこちらへ。↓


材料(写真がぼけぼけ)

大根  1/4
生姜  1欠け
唐辛子 1本
昆布  7センチ
塩   大匙1/2
醤油  100ml
酒   大匙1
味醂  100ml
酢   50ml

はりはり漬け、歯応えからそう呼ばれるとか。
はり漬け、いや磔になった人物でほぼ誰にも知られていなかった足軽が思わぬことから大きく名を挙げることになった戦国のシンデレラストーリー(と言っても主人公は推定36歳のむくつけきオッサンですが)


イチョウ切りにした大根に塩を塗して放置。水分を出すためです。

鳥居強右衛門。鳥居という苗字から三河以来の徳川譜代家臣と思ってしまいそうですが、そうではなく三河の国人領主、奥平家の家臣に仕えていたということ。つまり又者。
元は武士ではなかったとも言われます。
しかし、百姓であったとしても、最下層という程でなかったようで、寺で学問を学んだと言われます。体も頑丈で水練、つまり泳ぎが得意。これが後に大きく役立つことになる。

調味料、細切りの昆布と生姜を煮る。

奥三河の長篠城主、奥平貞昌は戦国の小領主の常として武田についたり、徳川についたりと周囲の状況を見ながら生き残りを図っていました。
鳥居強右衛門はその家臣に仕える足軽。直接の主の名前はよくわかりません。
武田信玄が亡くなると、貞昌は徳川方に旗幟を鮮明に。
そのため、武田家に人質として送られていた貞昌の妻子は処刑。
そればかりか、武田勝頼は一万五千の軍勢を率いて長篠城へ攻め寄せる。
長篠城に籠る兵は五百。こうして起こったのが長篠の戦い。


沸騰したら、水気を絞った大根を投入。

信玄が亡くなった途端に武田家を裏切った奥平に勝頼は怒り心頭。それにこの地を抑えれば、徳川領に大きな楔を打ち込めるとやる気満々。
一方の長篠城に籠る奥平勢は奥方を殺された恨み、それに降伏したら殺されるという恐れから奮戦。
兵力差30倍とあっても、なかなか落城せずに持ちこたえる。
それでも徐々に削られていき、死傷者も増えて兵糧も尽きていきと、心も削られていく。


再沸騰したら、大根をザルに上げる。

この窮状は既に家康、その同盟者である信長にも報告されていたのですが、いつ援軍が来るのかわからない状態。援軍が来ない籠城戦は落城を待つばかり。
そこで、奥平貞昌は家臣達を集めて、提案。
「誰か家康公が居る岡崎城まで行って援軍の催促をしてくれまいか」
この長篠の戦いに先立つ高天神城の戦いでは援軍が遅れたために落城。城は徳川から武田に奪われたということがあったので、今回もそうなる恐れは多分にあった。落城すれば当然、恨みを買っている貞昌は殺されるし、家臣や城兵もどうなるか。


調味液を沸騰させて再度、大根等を投入して再沸騰。

誰も手を挙げない。
城の周囲は武田軍により完全に包囲されているので、城を抜け出すことも難しい。仮に城から出られても岡崎に向かっている間に落城してしまったら、あいつは命惜しさに城から抜けたのだと周囲に誤解される恐れがあった。
「そんなことになる位なら、皆と共に死にたい」
それが武士のプライドというもの。
「私が行きます」
そう告げたのが鳥居強右衛門。
長篠城は川に囲まれた台地に築かれた城。その地形のために武田もなかなか落とせずにいたのですが、城から抜けるとなると当然、その川を泳いでいかねばならない。強右衛門は泳ぎが達者なので、それも適任。
足軽なので名のある武士程に体面を気にすることもない。ということから使者となる。


粗熱が取れたら、容器に入れてラップを貼り付けて冷蔵庫で30分以上置いて、味を馴染ませる。

城の周囲には武田軍が設けた鉄の柵や鳴子と言って触れたら鈴がなる仕掛けが設置してある状態。城兵を出さずに兵糧を尽きさせる為。それと城兵が打って出たららわかるようにという用心。
夜陰に紛れて川に入った強右衛門は慎重に柵や鳴子を避けながら川を泳ぎ切る。そこから岡崎目指して走る。走れメロスならぬ走れ強右衛門。


煮汁と具を分離させて、はりはり漬けの完成。

名前の通り、大根のはりはりという歯応えが楽しめる。醤油と味醂の甘辛味がご飯のお供に最適。昆布がいい出汁を加えてくれる。
昆布から水溶性食物繊維のフコイダン、唐辛子のカプサイシンが代謝を向上。

長篠から岡崎まで直線距離で35キロ。道なき道を山伝いに走ったとすれば、65キロ以上?それでも強右衛門は1日で岡崎に辿り着き、家康と信長に一刻も早い援軍をと懇願。
家康も信長も承諾。すぐに出発するので、おまえは休めと勧めたのですが、この吉報を早く仲間達に伝えたいとトンボ返り。

分離させた煮汁を活用して、もう一品。


材料

鱈  2切れ
生姜 半欠け
煮汁

戻って来た強右衛門ですが、なかなか城には近付けず。その内に運悪く捕まり、武田勝頼の前へ。
「援軍は来ないから、降伏しろと城の者達に言え。そうすれば、お前を武田の家臣として取り立ててやろう」
名もなき足軽が一躍、武田家の家臣に成れる。夢のような申し出。
頷いた強右衛門は城の近くに連行される。
「ニ、三日の内に援軍が到着する。それまでの辛抱ぞ」
その叫び声に城方は沸き返り、武田勝頼は頭から湯気を出す。
強右衛門は磔になりました。


細切りにした生姜と鱈を煮汁で煮る。沸騰後、落し蓋をして時々、引っ繰り返して弱火で10分、

強右衛門の言葉通り、二日後に織田徳川連合軍が到着。
設楽原で合戦。3000挺の鉄砲で武田軍を攻撃。武田方は名のある武将を多く討ち取られて敗走。
強右衛門の勇気ある行動により、長篠城は死守された。


はり漬けになった、しタラヶ原の英雄

辛みがある煮汁が鱈の淡白な身によく沁みている。これでタンパク質もしっかりと摂取。

強右衛門が息絶える前、武田の武将、落合平左衛門が頼み事。
「誠に感じ入った。そなたの姿を旗指物に使ってもよいか」
承諾を得た落合は磔にされた強右衛門を描いた旗指物を用いて、以後の戦場を疾駆。その旗は東大史料編纂室に現存。鉄砲玉の跡や血痕と思われる蛋白質の沁みがあるそうです。落合もまた勇気ある武将だったということ。
味方ばかりではなく敵までも感動させた強右衛門。

強右衛門の子孫はその後、奥平家の家老に出世。
自身の身は捨てても、多くの人々に勇気を与え、子孫に恩恵を遺した。これこそ正に大和魂。
身は捨てても魂は捨てず。その生き方を体現した鳥居強右衛門を妄想しながら、はり漬けになった、しタラヶ原の英雄をご馳走様でした。

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