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ほ楯の会

「こんばんは。三島由紀夫です」
昔、市川駐屯地を訪れた時、江頭2:50が自衛官達にそう挨拶したとか。
ギャグのつもりでしょうけど、大胆なことするな。世に言う三島事件の現場ということを踏まえてのブラックジョーク。世界的に名前が知られた作家が起こした思いがけない事件を妄想しながら、帆立を料理した記録。


材料

帆立貝柱 好きなだけ
摺り胡麻 たっぷり
胡麻油  小匙1
醤油   大匙2
味醂   大匙1
酒    大匙1

大正十四年(1925)に生まれた平岡公威が後の三島由紀夫。
幼少の頃、厳しい祖母の躾で男の子らしい遊びを禁じられ、遊び相手も女の子ばかり、女言葉を話すように強制。
そうした躾が合わなかったのか、病弱。
公威が育っていった昭和の前期は軍靴の響きが高まる時代。
そんな空気の中、文学に耽溺し、詩を書く少年時代。
しかし父親は息子が文学を志すことをよく思わず、原稿用紙を破り捨てたこともあったとか。
それでも短編小説「花ざかりの森」を書き上げ、それが同人誌「文藝文化」に掲載されることに。同人誌とはいえ、全国に読者がいる雑誌。
まだ16歳の公威の将来を考えると、名前が知られるのはよろしくないという父親や周囲の意見から、本名の平岡公威ではなく筆名を用いることに。この時点では父親も息子の名前が小説家として高まるのを望んでいなかった?
同人誌の会議は伊豆の修善寺で行われていたが、三島を通ってきたことと、富士山の白雪という連想から、三島由紀夫という筆名が誕生。


調味料を混ぜて沸騰させる。

三島由紀夫の年齢は昭和の年号と同じ。
19歳になった昭和十九年(1944)に徴兵検査に合格。
勤労奉仕などには動員されたものの、結局、戦地に送られることはなく終戦を迎える。
「これからは芸術の世の中だ。やはり小説家になったらいい」と父親は玉音放送を聞きながら、言ったという。それまでの価値観が引っ繰り返ることになるのだから、息子が思うように生きればいいと背中を押す気になったか。


帆立貝柱を投入。再沸騰させる。

本稿は文学者としての三島由紀夫を書いている訳ではないので、これ以降、作家として大成していく様子は割愛します。
昭和三十年(1955)即ち三島が三十歳の時、ボディビルにはまり、肉体改造。元々、虚弱体質だったのがその甲斐あって逞しく変貌。痩せていたのが胸囲が1メートルを超える。
肉体に自信が出て来たこともあり、自衛隊の体験入隊を経て、欧米の民兵組織等を知り、日本にもそうした組織が必要と考えたことから組織したのが「祖国防衛隊」これが後に名称変更して「楯の会」となります。


ここから更に手を加える。山芋を持ち出す。

空手や剣術の稽古もするようになった三島は早稲田大学国防部の代表達と会合。運命を共にする森田必勝らと出会う。
この早稲田国防部から多くの若者が三島の民兵組織に加入。その条件として自衛隊の体験入隊がありました。そうして自衛隊と関わっていく内に、三島は危機感を抱くようになっていったのではないかと妄想。
今の自衛隊ではいざ有事となっても日本を守れない。民兵組織では限界がある。その思いが募っていき、あの事件へ。


摺り下ろした山芋に帆立を煮た汁を加えて混ぜていく。

昭和四十五年(1970)11月25日。
楯の会メンバー四名と共に市ヶ谷駐屯地を訪れた三島は総監である益田兼利陸将と会見。
この日の会見は事前に予約済みなので、三島達はフリーパスで総監室へ。自衛隊の体験入隊を経て、自衛隊との関係も良好だったということか?
三島達は詰襟の「楯の会」制服姿。同行した森田達を一人づつ総監に紹介。
三島と総監はソファーで向かい合って会談。森田、小賀、小川、古賀という同行した四名は直立。
三島の目くばせを受けて、会員達は後ろから手拭いで総監の口を塞ぐ。更にロープ等で椅子に縛り付けて短刀を突き付ける。


この二つの合わせ技がこれから。

こうして総監を人質に取り、三島は自衛官達を本館前に集合させ、自分の演説を聞かせることを要求。
事件はすぐに警察へ知らされる。
そのため、本館前には集められた自衛官だけではなく警察やマスコミまで集合。
集まった自衛官は800~1000人程。
自衛官に決起を促す檄文を撒く楯の会メンバー。そして三島 はバルコニーに立ち、演説を開始。
三島の頭には、七生報国と書かれた日の丸の鉢巻き。白手袋といういで立ち。
「今、日本人が立ち上がらないと、自衛隊が立ち上がらないと憲法改正は成せない。このままでは自衛隊はアメリカの軍隊に成り下がる。
諸君は武士だろう。武士ならば何故、自分達を否定する憲法を守るのか。この憲法がある限り、諸君は永遠に救われん」
大略、このような内容を話したものの、現場にはヘリコプターが旋回。野次も飛んで、よく聞き取れなかったとか。


ほ楯の会

ご飯の上に摺り下ろした山芋、帆立を乗っけて頂く。
煮た後、暫く冷ましておいたので帆立貝柱には調味液がしっかりと沁み込んで美味。煮過ぎないように沸騰したらすぐに火を止めているので、程よい生加減。
帆立エキスが出た汁を混ぜた山芋がご飯によく絡む。
貝類はミネラル豊富。タンパク質や鉄分も摂れます。山芋からはビタミンCやB群も。

結局、笛吹けど踊らず。三島の言葉に奮い立つ自衛官は存在せず。諦めた三島は総監の目の前で切腹。森田が介錯。しかし二度程、斬りそこなう。
それでも三島の首が落ちた後、森田も切腹。

現行の日本国憲法は占領下にアメリカによって作られた憲法。それは事実です。私も日本の国柄にあった自主憲法を制定するべきとは思います。三島もそれを求めていたのでしょうが、明らかにやり方が間違っていた。
自衛官も総監という自分達の頭を人質に取られて、はいそうですかと言うことを聞く筈もなかったと思います。
ただ、三島もそれは織り込み済みでこの事件が語り継がれることで、いつか目覚める日本人が出てくれることを願った?
この事件の前日、三島達は新橋の料亭で会食。女将が
「また来て下さい」と言うと
「また来て下さいと言われても困るな」と三島は苦笑。すでに覚悟を決めていたことが窺える。事の成否がどうあれ、死ぬことを決めていたのでしょう。逮捕されて監獄行きなど、三島にとっては死よりも辛い。
私も日本の国柄にあった憲法の制定は必要と思いますが、自民党が進めようとしている緊急事態条項が入った改正案には反対です。
そんなことを妄想しながら、ほ楯の会をご馳走様でした。

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