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福島正則巻き

スーパーのお惣菜や弁当、私は滅多に買うことない。基本的に自炊ですから。
しかし頂いたら、食べ物を無駄にしたくないのと、下さったお方のお心に応えるために頂くことにしています。
先日、スーパーで購入したという海苔巻きを頂きました。
ちょっと驚きの具が入っていました。何だろうという食感。何と胡桃。
自分流にそれをアレンジした海苔巻きを作りながら、のりが名前に着く武将を妄想した記録。


材料

鮪刺身用   1柵
胡桃     適量
卵      3個
ほうれん草  好きなだけ
焼き海苔全形 1枚
塩      小匙 半分
酢      大匙4
蜂蜜     大匙1と半分
出汁つゆ   小匙1
昆布     7センチ四方
ご飯     2合

海苔、のりということで福島正則を妄想しながら料理開始。
永徳四年(1561)尾張に生まれた市松が後の福島正則。桶屋の息子でしたが、母親が秀吉の叔母。つまり秀吉にとっては従兄弟に当たる。
その縁から譜代の家臣がいない秀吉に、小姓として仕えることに。
幼い頃から乱暴な所があったようで、大人と喧嘩して相手を鑿で殺害したと言われています。


ほうれん草を茹でる。

秀吉に仕え始めると武闘派として活躍。賤ヶ岳の七本槍の一人として名を馳せる。
秀吉が天下人に近づくにつれて正則の地位も向上。
天正十五年(1587)に伊予今治で十一万三千石で大名に。その後、尾張清洲で二十四万石。


出汁つゆを混ぜた卵を解きほぐす。

秀吉の死後、その政権を簒奪しようとしている(と正則は考えていた)石田三成憎しという思いと、豊臣政権内の分断を企む家康の狙いもあり、跡継ぎとしていた甥の正之と家康の養女、満天姫の婚姻を進める。
会津の上杉景勝が謀反の準備をしているとして、家康は会津征伐の軍を起こし、正則もそれに従軍。
その間隙を衝いて、上方で三成挙兵。
進軍途中の小山で、家康は同行の諸将に、大坂に残している妻子が心配ならば、上方に戻って三成に味方しても構わないと告げます。
その時に第一声を発したのは正則。
「我らがすべきことは秀頼公の君側の奸、三成を除くことである。妻子に後ろ髪を引かれて進退を誤ることはない。内府(家康)にお味方致す」と宣言。それにつられて、我も我もと皆、家康に味方。
これにより、関ケ原の戦いは家康方の大勝利。
実は正則、前日に家康からそう言って欲しいと頼まれていたとか。


卵を焼く。

関ケ原では先陣を務める約束でしたが、井伊直政と松平忠吉に出し抜かれる。
戦後、正則の家老が伏見城に居る家康の元へ使者として派遣。その際、通行証を所持していなかったとして、関所の守衛だった伊奈図書は通行を認めず。家老は面目を失ったとして切腹。これに怒った正則は家康に伊奈の切腹を要求。
戦に勝ったとはいえ、まだ政権を取った訳ではない家康はここで騒動を大きくする訳にはいかず、正則の要求を受け入れる。つまり職務に忠実だった伊奈図書が腹を切らされるという理不尽。
先陣を出し抜かれた意趣返し?


昆布と共にご飯が炊きあがる。

福島正則という人物、直情径行というか、思ったことは誰であろうと言い、横車を押し通す印象が強い。乱暴な逸話も伊奈の一件以外にも数多い。
関ケ原の論功行賞で安芸、備後で四十九万八千石の大大名に。
このお国入りの際、船に乗っていると大風が吹き、
「国入りに大風が吹いてよいものか」と言って、船頭を斬り殺した。
甥の正之を跡継ぎにしていたが、実子が生まれたために正之を幽閉。餓死させた。


酢、蜂蜜、塩を混ぜ合わせて、熱いご飯に混ぜる。

酒癖がかなり悪く、酔った勢いで家臣に切腹を命じる。翌朝、それを思い出した時には時、すでに遅し。正則は泣いて詫びた。
使いにやって来た黒田家の家臣、母里太兵衛に酒を強要。仕事中なのでと断る太兵衛に、大杯の酒を飲み干したら、望みの物を取らせるとしつこく絡み、黒田家の侍は度胸がないなどと侮辱。
それならばと太兵衛は見事に飲み干し、正則が家宝として大事にしていた、秀吉から拝領の槍、日本号を所望。
武士に二言はない筈と迫られ、泣く泣く秘蔵の槍を手放す羽目に。
この逸話、民謡の「黒田節」として歌われています。


塗れ布巾を被せて、暫く置いて甘酢を馴染ませる。

天下人となった家康は諸大名に金と労力を吐き出させる目的もあり、天下普請として江戸城や二条城、名古屋城等の築城を割り振る。
正則も名古屋城普請に駆り出され、共に秀吉に仕えていた加藤清正に愚痴る。
「大御所様の城ならまだしも、名古屋城は大御所様のお子様の城。そこまで我らが作らねばならんのか」
「文句があるなら、さっさと国元に帰って謀反の準備をしろ。それが出来ないなら手を動かせ」が清正の返答。
何処で誰が聞いているかわからないので、滅多なことを言うなという戒め。


細切りの鮪、卵、水気を絞った茹でほうれん草、胡桃を海苔とご飯の上に置いて、巻きすで巻く。

やがて起こった大坂の陣。正則は江戸の留守居を幕府から命じられる。
直情のまま秀頼に味方する恐れがあると判断されたからでしょう。
家康が臨終の床に着いている時に暇乞いの挨拶に来た時には、
「徳川家に不満があれば、遠慮なく兵を挙げよ」と家康から冷たく言い放たれる。
この時、正則は人目も憚らすに大泣き。情けなく感じたからでしょう。本当に直情径行。


巻きすでしっかりと巻く。

家康の死後、広島城を無断で修理したことが武家諸法度に抵触したとして、改易。
事前に届け出をしていたものの、本多正信がそれを握り潰したと言われます。
関ケ原直後の伊奈事件が遠因とも言われます。それ以外にも粗暴な振る舞いのツケが回って来た?


渇いたまな板の上で、濡れ布巾を用意して、一つ切る毎に包丁を拭く。これをやらないとべたべたにくっついて切れません。

まったくの牢人とされた訳ではなく、信濃国高井野藩四万五千石に移される。移封後に嫡男、忠勝に家督を譲って隠居。
その嫡男が早世したので二万五千石を返上。
高井野に移って五年後の寛永元年(1624)に64歳で死去。


福島正則巻き

これは良い鮪で弾力プリプリ。出汁巻にした卵も素晴らしい。これらでタンパク質補給。ほうれん草で鉄分。思った通りに胡桃が食感のよいアクセント。砂糖を使わず、蜂蜜使用のすし飯も甘味の質がよい。醤油は少し漬けるだけでよし。

正則の死後、家臣は幕府の検視役が到着する前に遺体を火葬。そのために残りの二万石も没収。大名の福島家は完全に消滅。
主人同様、家臣も詰めが甘い所があった?
高井野での正則、新田開発や治水工事等を行い、それなりの功績は残したようです。
感情の起伏が激しく、直情径行、深謀遠慮が足りなかった?と思われる福島正則を妄想しながら、福島正則巻きをご馳走様でした。

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