商業主義社会と肌が合わない人の生きる場所はあるのか?

いるのかどうかもわからない「お客様」のために、とあくせくひたすら向上をよしとしている商業主義というやつが嫌いだけれど、逃れられないでいる。

私が子供の頃にはもう、「パン屋さんになりたい」「八百屋さんになりたい」というのは、「個人で小さなお店を作って暮らしたい」という意味ではなく、「パン屋に雇用されること」「八百屋に勤めたり、農場で働いたりすること」という資本主義や商業主義の大きな流れに組み入れられるよう誘導されるような世界だった。

就活という、本来は「仕事をお願いしたい人」と「仕事をしたい人」がいれば済むだろうものも、就活市場という名の経済活動の一部なんだなと感じるくらいテンプレートかつ商業化されている。

芸術という、商業主義と遠そうな作家という生き方ですら、それでお金を貰おうか、となると、途端に「ターゲット層が」「ウケる作品を」となり、「作家の内側の発露」みたいなものは、商品として売る会社側には求められていない。

じゃあ、と福祉の支援を受けてみたところで、結局はいわゆる雇われのわかりやすい仕事を得ることを勧められるし、そういう方向に進むのが「よいこと」「健康」とされる。

あれ?これってなんかおかしくないか、とずっと薄々思ってきた。

人間ってもっと単純なものじゃなかったか、と。

食べること、暮らすこと、周りと交流をすること、深く考えること、何かを育てたり作ること…そういうことができれば、十分じゃないのか?

さりとて大量生産された商業主義の製品なしに暮らすことは想像しにくいし、ぶん投げてしまえない程度には都会っ子だ。

こんなふうに商業主義に肌が合わない人間が、疲弊しすぎてしまわない程度に生きていく方法はあるんだろうか?

先日読んだ、「フルサトを作る」で出てきたようなゆるい商いの暮らしなら成り立つかもしれない。

自分の近くの人を賄えるだけのものを作り、物々交換するような、原始的な生活に憧れる一方、都会的な娯楽に慣れた身体はそれを手放せないでいる。

原始人×都会人のハイブリッドな生き方を、できるものならしてみたい。

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