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恋人を卒業した日

晴れの日の大安吉日。空はどこまでも澄み渡り、雲ひとつない美しい青空が視界いっぱいに広がっている。

「とうとう、この日が来たんだ。」

深く、ゆっくりと息を吸い込む。朝の、少しひんやりとした空気に包まれて。私は一人、物思いに耽る。

今日までが長かったのか、短かったのか。私にはよく分からない。あなたと出会った頃は、まさかこんな日が来るなんて思いもしなかった。もしかしたら、これは全部夢なんじゃないだろうか?

そんな事を考えながら、空を眺める。絵に描いたような、綺麗な青空。それを見つめていると、まるでまだ夢の中に居るような。不思議な感覚に包まれてくる。

その感覚に身を委ねることしばし。後ろからふわりと、私を呼ぶ声が聞こえた。どうやら夢じゃなかったみたい。

「もう行かなくちゃ。」

最後にもう一度、空を見上げる。そこには先程までと変わらない綺麗な青空が、限りなくどこまでも広がっていた。

その青に背中を押されるようにして、私は一歩を踏み出した。

彼とは付き合って6年になる。最初の頃はただの友人だった私たち。それが二人で出掛けるようになり、いつの間にか付き合うようになっていた。

こんな事を言うと怒られるかもしれないけれど。正直言うと、彼は私のタイプではなかった。しかも全然。

細めの体格に低めの背丈。いつも柔らかい空気を纏っていて、ふわっとした優しい雰囲気。そんな彼は「恋人」よりも「友人」と言う表現の方がピッタリで。

だからだろうか。付き合いだした当初はもちろんのこと、6年経った今でも彼を「恋人」として上手く認識できていない節がある。

そんな彼と何故付き合いだしたのか、私にもよく分からない。強いて言うなら”直感”だろうか?

具体的な理由なんて何もない。けれど、理屈じゃなくて心が「彼だ!」と私に教えてくれた。

激しい波など一つもなく、静かに凪いだ水面のような私たちの関係。恋に落ちる、なんて大袈裟な感覚もないまま。私たちはたくさんの時間を共有していった。

彼はとても思慮深い人で、私にたくさんのことを教えてくれた。それは考え方であったり、人との接し方だったりと多岐に渡る。けれど、そんな中でも特に私が影響を受けたのは彼の豊かな表現力と感受性。

空の青さや太陽の暖かさ。樹木のたおやかさに風の心地よさ。

彼の口から自然とそういう言葉が出てくることに、最初はとても驚いた。それらのフレーズは本や映画の中で使われる表現であって、まさか現実で出逢う日がくるなんて夢にも思わなかったから。

今までは気に留めることもなかった景色たち。それが、彼といると途端に色鮮やかに輝いて見える。そんな経験は初めてだった。


あなたは覚えているだろうか?

春に訪れた桜の名所。二人で歩いた桜並木。晴れ渡った青空の下、舞い散る桜の花びらを見て、それを『桜の雨』と表現したあなた。あなたにとっては何気ない、口からポロッと零れたその表現は、私にとって大きな衝撃だった。

私には出来ない表現と、思いつきもしない言葉の組み合わせ。そして何より、あなたのその豊かな感受性。

そのどれもが、私にはないものばかりで。だから、それらを持っているあなたが羨ましくて仕方なかった。

一度だけ、その思いをぶつけたことがある。「私にはないものを全て持っているあなたが羨ましい。」と。

それを聞いたあなたは一瞬驚いた顔をして。それから少し困ったような笑顔で、ゆっくりと口を開いた。

「そんなことないよ。それに君は僕が羨ましいと言ったけど、僕は君が羨ましい。だって、僕にはない良さが君にはたくさんあるから。」

それを聞いた私はとても驚いた。まさかあなたがそんな風に思っていたなんて、夢にも思わなかったから。

この出来事をきっかけにして少しずつ、あなたとの距離が縮んでいった気がする。お互いがお互いを尊重し、足りない部分を補い合う。そうやってゆっくりと、私たちは信頼関係を築いていった。

穏やかで緩やかな、私たちの関係。そんな私たちの間に不穏な空気が流れた事は一度もない。あったとしても、大体が一瞬のピリッとした空気で終わってしまう。

この事を友人に話すと「信じられない!一度くらい喧嘩しなよ!」と言われたりもするけど、そもそも喧嘩が起こらないのだから仕方がない。もしかしたら、それくらいの空気が私たちにはちょうど良いのかもしれない。

あれから何度も季節が巡った。けれど、私たちの関係は何も変わらなかった。喧嘩だって、結局一度も起こらなかった。ただただ平穏な毎日が過ぎていくだけ。

でも、それも今日でおしまい。

あなたと歩んだ6年間は限りなく平穏で、暖かくて。いつも優しさに溢れていた。あなたのおかげで私は、自分を見失わずに済んだ。辛い夜も、乗り越えることができた。

今の私があるのは間違いなく、あなたのおかげ。どれだけ感謝しても、し尽くせない。

いつもは恥ずかしくて言えないけれど、今日はちゃんと伝えさせて。

今まで、大切にしてくれてありがとう。

たくさんの、かけがえのない時間をありがとう。

あなたと過ごした時間は、私にとって忘れられない。一生の宝物だから。

心の底から、ありがとう。

そして、さようなら。

私の愛しい恋人。

到着した灰色の建物は、青空を背景に悠然と佇んでいた。陽光を一身に浴びて薄く輝く、無機質な建物。

「本当に、良いんだね?」

そう確認するあなたは緊張しているのか、顔が少し強張っていて。ここで私が断ったら、一体どうするつもりだろうか?

少し意地悪したい気持ちに駆られるけれど、ここは揶揄うような場面じゃない。だから私は、黙って頷いた。

本当は何か気の利いたセリフが言えたらいいんだけど。生憎、今の私には何も思い浮かばない。どうやら私も、少し緊張しているようだ。

気持ちを落ち着かせようと見上げた空には、いつもと変わらぬ綺麗な青。一度深く、息を吸い込む。外の空気はまだ少しひんやりとしていて、緊張した私の心を落ち着かせてくれた。

大丈夫。私の心にもう、迷いはない。

あなたの手には、大きな茶封筒。その中には一枚の紙が、大事に収められている。これ以上ないほど慎重に、丁寧に綴った提出書類。私たちの想いが詰まった、薄い紙切れ。この紙一枚で私たちは今日、恋人を卒業する。

視線を上げると、私を見つめるあなたと目が合った。緊張に揺れる、綺麗な瞳。あなたの目に、今の私はどう映っているのだろう?

穏やかで緩やかな、私たちの関係。今日、私たちはその関係に終止符を打つ。

でも、それは悲しいことなんかじゃない。

例え私たちの関係が変わっても、今まで築いてきたものは何も変わらない。私にとって、あなたが大切な存在であることも。

静かに見つめ合うこと数瞬。どちらともなく笑みが零れた。いつものように、穏やかで暖かな空気が二人を包む。

「行こうか。」

その声を合図に、私たちは最初の一歩を踏み出した。向かう先には灰色の建物と、どこまでも広がる青い空。

願わくば、どうか。

これから歩む私たちの未来が、優しさで溢れますように──。




こちらの企画に参加させていただきました。

今回題材にしたのはFlowerの『やさしさで溢れるように』。この曲は私にとって思い出深い、大切な音楽です。

百瀬さん、いつも素敵な企画をありがとうございます。

来月から始まるクリスマスアドベントカレンダーも楽しみにしています。


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