京大・緊縛シンポの研究不正と学術的問題を告発します⑥研究者の上から目線

1.緊縛シンポの「炎上」対応について

緊縛シンポは、「これが学問か」、「女性蔑視」といった市民からの声に対して、「不愉快な思いをさせて申し訳ない」と謝罪し、その批判が来たとされる日(2週間が経過する1日前の11月5日)のうちに動画を公開停止しました。
ウェブ上で多く指摘されたように、この謝罪の仕方は、緊縛はやはり隠しておかなければならないもので、研究の対象にふさわしくない、といった偏見を強め、スティグマ化を強化するものです。非常によくない対応であったと思います。

出口氏には、私の批判が届いていたわけですから、「不愉快」といった言葉を使わなくとも、例えば、「歴史パートに事実誤認があった」などとして、動画の公開停止理由を説明すれば、このようなスティグマ化も防ぐことができ、炎上することはなかったはずです。

また、出口氏は、京都新聞のインタビューにおいて、「シンポはあくまでもトライアルであり試行だ」と述べており、今回私が指摘したような学術的誤謬は、研究を進める過程で生じるトライ&エラーの結果であり、仕方のないことだ、と考えているようです。

もちろん、どれほど真摯に研究対象に向き合ったとしても、エラーを起こしてしまうことはあり得ます。しかしエラーを起こしてしまったら、速やかに対処をして被害を最小限に食い止める努力をするのが研究者の最低限の倫理ではないでしょうか。動画が59万回視聴されたということは何度も報道されましたが、だからこそ、そのエラーの影響は大きいというのに、それに見合った訂正の努力が現状なされず、私の批判も全く黙殺されていることは、誠に遺憾です。特に偽史は、日本の報道を含む世界の報道で言及されています。

出口氏には、誤った情報の拡散について、今からでも速やかに訂正措置を取ってほしいと思います。

緊縛シンポが仮に学問だったとしても(私は学問だったとは思いません)、トライアルだと言い訳して、十分に検証できていない自説を全世界に発信し、訂正もしないということであれば、緊縛文化およびその担い手を自身の権威付けに利用し、消費・搾取したとのそしりを免れないと考えます。

出口氏が拡散させている言説で、当事者に不利益が発生しそうなものがありますので、訂正しておきたいと思います。

出口氏は、Smart Flashの記事において、緊縛は支配や服従とは全く異なる相互信頼である、と述べ、緊縛は女性蔑視ではない、と強調しています(「『“緊縛”研究は女性蔑視にあらず!』京大教授がYouTube動画へのクレームに猛反論」(最終閲覧日2021年1月11日))。

これは一見当事者サイドに立った擁護発言のように聞こえますが、私は非常に危うい、当事者に不利に働く可能性の高い主張であると思います。

第一に、たしかにシンポで行われたK氏とA氏による緊縛ショーは、女性蔑視ではなかったと言い得るものでしょうが、世の中には女性蔑視的な緊縛、相手の意向を無視した暴力としての緊縛を実践する人びともたくさんいるのが現実です。相互信頼という緊縛の要素を安易に強調しすぎると、これを用いて不当な暴力をともなう緊縛を正当化する人が出現する可能性があり、それはめぐりめぐって緊縛文化を抑圧する世論の構築につながりかねません。

近年、緊縛実践者やSM実践者たちが、不当な暴力をともなう緊縛の実践を批判し、自分たちの実践とは異なるということを主張することが増えてきました。緊縛を安全に楽しめるよう、緊縛教本を出版したり、ワークショップをやったり、緊縛時の事故事例を集積したりと、女性蔑視的な緊縛を減らすべく啓蒙的な活動を行なっている人もいます。緊縛愛好者は、通常、緊縛すべてを全肯定しているわけではありません。出口氏の行なった、安易な暴力性の抹消は、こういった積み重ねを無にする危険をはらんでいます。

第二に、出口氏の発表への言及でも触れましたが、緊縛実践者やSM実践者のなかには、性別にかかわらず、支配や服従の関係こそを望む人たちがいます。また、欧米圏のSM研究やSM運動が、BDSM(Bondage, Domination(支配), Discipline, Sadism, Submission(服従), Masochism)という概念を掲げて自らのセクシュアリティの権利を主張してきたことを尊重するならば、SM文脈で緊縛を語りながら、緊縛は支配や服従ではない、などと安易に言うことなどできません。出口氏の言説は、アートや脱性化した緊縛を擁護することと引き換えに、支配や服従を嗜好する緊縛やSMを劣位に置き、差別の対象とすることにつながってしまうものといえます。

2.研究者の上から目線

出口氏はSmart Flash記事で、さらに以下のように発言しています。

「これは学問なのか」と疑問を呈されたことについては、「むしろ勲章みたいなもの」と胸を張る。「たとえば『源氏物語』や有名な西洋の絵画がテーマなら、誰も文句は言いません。しかしクラシック音楽でも、初演がブーイングの嵐になったといったケースは多々ありました。
 もちろん、今回は半ばクレームのお言葉だったと思いますが、最前線の研究には、“これは学問なのか” という疑問の声がしばしば湧き出るものなのです

出口氏が本当に胸をはっていたのかは分かりませんが、シンポに参加しているなかで、氏に、新しい最先端の研究分野を見つけた自負のようなものを感じるとることは容易にできました。

例えば、冒頭の趣旨説明では、「緊縛ニューウェーブ」とシンポが定義した現象について、「本当にまだ湯気がたっているといいますか、この先どうなるのかわからない、カッティングエッジといいいますか、一番最先端のさまざまな文化現象」(動画0:11:59あたり)といい、新規性を強くアピールし、彼らの研究姿勢について、「まだ正体がわからないものに」に「どんどんぶつかってく」「とびこんでいく」(動画0:12:40あたり)と表現し、これがチャレンジングな試みであることをアピールしたりすることが目立つかたちで行われていたことから、そう感じました。

またこの記事の発言からは、緊縛シンポに対する世間からの批判は、出口氏にとって「最前線の研究」の価値を理解できない人々による反発と認識されていることがわかります。これが出口氏の本音なのでしょう。

出口氏の、緊縛というテーマの新規性を誇る感情の背後には、あくまで緊縛文化や当事者を、研究対象として自身から切り離し、一段下にみる傲慢さがあるのではないかと思います。というのも、このような出口氏の言葉は、緊縛当事者が受けている差別や偏見を、我がこととして受け止める気がないからこそできてしまうもののように思えてならないからです。

私は2011年頃から本格的にサドマゾヒズム・SM研究を始めましたが、SMを研究しているというだけで、これまで研究者をはじめとして、多くの人から白い目で見られてきました。

私がSMを研究しているというと、8割くらいの人は、愛想笑いをしてそそくさと立ち去るか、猥談を始める(セクシャルハラスメントをしてもよい存在として遇する)か、「精神病者」の治療をしている医療分野の人間と勘違いするか、脳内からその情報を消去し、完全に違う話を始めるかします。最近はLGBTブームがあったため、LGBTとSMの区別がつかない研究者に、「いいよね、そういう研究あっても」と、学問分野のすみっこにちょこっと存在するのはかまわないよ、といわんばかりの態度を取られる新しい反応も増えてきました。また、SMを女性への暴力だと思っている研究者、真の女性マゾヒストは存在しないと思っている研究者は多く、これらの人々から私自身が女性差別主義者のレッテルを貼られることもあります。

私は出口氏と同じように、研究者としてSMを飯のタネとして食い物にしている側の人間ですが、このように、SMを研究する中で、SM愛好者が経験する差別に類似する経験はしています。このような経験をし続けると、とても「自分が最初にSMに目を付けたんだぞ」と、安易に胸を張ったりすることはできません。そもそも彼らは私たちが研究する前からずっと存在しているのであり、それに目を付けたからなんだというのでしょうか。目を付けられて迷惑している人も、いるに違いないのです。

出口氏は、緊縛というテーマを発見したという先見性を誇るあまり、当の緊縛当事者のことが視界に入っていないと思います。単に自説をあてはめることのできる素材としてしか緊縛を見ていないからこそ、先行研究を全く参照せず、出口氏の思想のなかにしか存在しない緊縛について論じることができるし、「不愉快」などといった文言を、この文言が当事者にどのような影響を及ぼしてしまうかを考慮することなく掲げ、謝罪ができてしまうのではないでしょうか。

以上、長々と6つの記事に渡って長大な批判を行なってきました。あまりにも微に入り細を穿つ批判だと受け止められた方もいるかと思います。

しかし、記事①でも触れたように、出口氏は緊縛シンポを書籍化すると繰り返し明言しています。

緊縛シンポの内容は、現状では研究とはとても呼べず、誤謬に満ちています。これらが訂正されないまま書籍として、しかも学術研究として世に出てしまえば取り返しがつきません。必ず独り歩きをしてしまいます。このような悲劇をできることなら防ぎたいと思っています。

そして、ここまで度々指摘してきたように、緊縛シンポで語られた内容には、一見、緊縛を擁護しているようにみえるけれど、実際は緊縛愛好者、SM愛好者が大切にしているいくつかの考えを安易に否定するような価値観が横たわっています。このような価値観を省み、「高み」から降りてくることなしに緊縛やSMを研究すれば、それは必ず、当事者を権力的に取り扱い、消費するものになってしまいます

シンポ最後の座談トークにおいて、出口氏は、緊縛ニューウェーブという企画は、「アート化するのがいい、というような前提で動いていたところもある」(動画3:13:31あたり)とシンポ企画の目的を反省しており、実際に緊縛ショーを間近で見て、感銘を受けたところもあるのだと思います。氏が、私のメールに対して「協力してほしい」と言ってきたことも、シンポが極めて問題のある内容であったことを自覚しているのだとは思います。

しかし、私は当日、会場でも(応答はしてもらえませんでしたが)質問や意見を提出しましたし、出口氏に直接メールでも、訂正対応をお願いしたわけです。これらに応じず、ただ「協力してほしい」というのは虫がよすぎますし、私の研究蓄積の搾取や、学術的誤謬の隠蔽のための行為のようにも思えてしまいました。

返信メールでは、メンバーで問題点を共有するとありましたが、その後の関係者のtwitter等での発言を読んだ限りでは、私のメールが共有されているようには思われませんでした。このような事情もあり、この度、書籍化に協力する道ではなく、noteで記事を公開する方法を選択しました。

シンポ開催の責任は主催者が負うべきものであり、研究者として私がすべきことは、安易な協力ではなく、このような当事者加害をきちんと指摘し、二度と繰り返さないようにするための努力であると考えました。

きっとどうやっても書籍化されてしまうのだろうとあきらめ気味ではありますが、せめてシンポ関係者には、どうか拙速な出版は避け、問題点をじっくりと検討していただき、特に誤りが明らかな歴史部分については今からでも対応いただき、書籍にする際できる限り修正していただきたいと思っています。

ただし、はっきり申し上げて、緊縛シンポは、K氏とA氏による緊縛ショーがあってこそ、魅力を放つことのできたイベントでした。書籍化において、そのショーを再現することは不可能です。偽史からなる論考、緊縛と無関係の論考、緊縛そのものをとらえ損なっている論考では、学術書としても、緊縛書籍としても、意義がないものであると考えます。書籍出版については、一から見直す必要がある、というのが正直な感想です。

この度の出来事は、研究者が引き起こした当事者への搾取です。私も研究者であるからには、当事者にとっては、加害者集団の1人に違いありません。シンポ直後である今は、シンポを肯定的に評価する当事者ももちろんいると思います。しかし、主催者があのような形でシンポを「炎上」させたために、そうでなければ書かれることのなかった、緊縛への露骨な差別や罵倒、冷笑が、多く誘発されてしまったことは重い事実です。そして、京都大学教授という社会に影響を与えやすい立場にある人がこのようなスタンスを続けることで、さらなる悪影響が生じないかを大変危惧しています。

以上、ここまでながながとお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。

最後に、緊縛シンポをきっかけとして、捕縄術、緊縛関係史料を読み返す機会を得、これにより新たな発見がいくつかありました。とりわけ、水越ひろ氏の著作を読み直したことにより、大正時代以降に出回っている捕縄の説明は、多くが井口松之助『兵法要務』に依拠しているという重要情報、水越氏が参考文献として挙げている伊勢流故実書、伊勢貞丈『結記』に気づけたこと、この点に関しては、学恩として感謝したいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?