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正論は武器

最初に…
このnoteは自分の考えを整理したり、経験をアウトプットするために書き綴っています。

正論とは

正論とは、道理を説く論について正しいものであると評価する呼び方である。事実に関する議論や認識論について用いられることはあまりなく、ほとんどの場合が「**であるべきだ」という当為についての論である。そのため、論の対象は道徳、倫理や規範、政策など、公共的な要素をもつものが多い。ゆえに、公共に資する論でなければ正しいとはされない。(略)問題に対する最適解ではあるが、現実離れしている場合に論者への指摘として用いられることが多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%AB%96

事実に関する議論や認識論について用いられることはあまりなく、ほとんどの場合が「**であるべきだ」という当為についての論であると書かれているように、道理にかなった正しい意見や議論である。

ただ人間が生きていく上で、どうしようもなく道理にかなわない場面にいくつも遭遇する。さらに、自分が正論だと思っていても相手の立場からは、それが異論(という名の正論)な場合もあるのだ。その場合、どちらの言い分も正しいということになる。

I borrowed the image.

余白がない状態は危険

上記の図で左に立っている人は「6」と言い、右に立っている人は「9」と言っている。第三者としてみるとどちらも事実だ。
「絶対に6だ!」「絶対に9だ!」
かたくなに意見を通そうとすると、永遠に終わりないのない議論を繰り返すことになってしまう。その場合「この!わからずや」と相手に嫌悪感をいだいてしまう。何も産み出さない、誰も成長しない感情のぶつけあいになってしまう。
この場合、何が必要かというと”相手の見ている景色を想像すること”だ。「自分は6を見てるけど、相手は一歩も引かず”9”と主張している。もしかしたら9に見える(という考え方もある)のかもしれない。相手の見ているものを想像してみよう。なるほどたしかに。9だ!」

「絶対に6」と確信があり、主張している場合自分は間違っていないという自身とプライドもあるだろう。そうなると、なかなか相手の見ているものを想像してみようと視野を広げにくい(視座が低いともいうのか)。

そこで日ごろから「絶対もあるけど、絶対はない」という少し余白をもた考え方を習慣をつけておくとよい。
それは、相手に対する物だけでなく、自分をも少しらくにするのだ。

正論は武器

本当は『正論は凶器である』と書きたいが、ここではあえて武器と書く。
というのも正論は自分を守るための武器にもなり、相手を傷つけるための武器にもなりえるからだ。

自分を守る、正論の武器
それは、事実に基づいてとった行動の場合だ。
事実に基づいて(もしくは誰かからの指示で)実行したのにもかかわらず、注意や反論を受けた場合、その事実をエビデンスに理路整然と私は事実に基づいて実行したのになぜ異論を唱えられなければならないのかと正論を述べ、相手の言葉から自分を守ることができる。

相手を傷つける正論の凶器
事を荒立てず、丸く収める場合、たとえ事実と異なることであっても、関係する人々の納得の中間をとるために「正論」とは違った答えを導き出す必要がある時がある。それにはもちろんさまざまな過程と合意とがあった結果ではあるが、その判断、決定(結論・決定)に対して”真っ向な意見をいけしゃぁしゃぁと述べる”人がいる。もちろんその人には悪気はない(と思いたい)。

うん…わかっているよそれが正論だよね。
グサッ、ズサッ…しょぼん。

もちろん過程や経緯をしっかり伝え、その方への理解と合意を得る必要がある。でもその人がまっすぐに正論を通そうとすると少なからずそこでまた議論が発生する。

納得感のバロメーター

私も正論派ではある。でも正直あっちでもこっちでも正論を通そうとすると物凄く消耗する。若いころはそれはそれはそんな消耗もろともせず、正論をぶっ放していた。
若さゆえに想像力も乏しかったと思う。正論を吐いた結果相手がどうおもうかなんてお構いなしだった。
正論が通らなかったときはどうだっただろう。
しっかり腹を立てていたかな。

でも最近はものすごく慎重になっている。正論で相手を論破したって人は育たないし、自分もすっきりとはしない。それは「私の意見や思考を相手におしつけているだけの行為」だということに気が付いたからだ。
もちろん赤信号を渡ろうという人には、止まろうというけれど…。
歳を重ねると丸くなる…それは何かをあきらめたり、疲労を感じるからではなく、取捨選択の経験が増えるからなのかもしれない。そこに力をいれても独りよがりだ。そんな感じになっていくのかもしれない。

正論という武器や凶器をぶんぶん振り回して有り余る体力でたたかっている人を否定する気持ちは全然ない。それは私もいまだにたまにやっちゃうから。でも少し、その武器がそのあとどんな事態を引き起こすか、ぼーっと想像してみるのも、悪くない。


余談

先日インタビューをさせていただいた企業の代表の方とインタビュー前に余談をしていたとき、最近サウナが流行ってますねという話になった。SNSを見ていると、仕事ができる人ほど、趣味にサウナと筋トレと記載している人が多く見受けられる。ストイックなのかな…そのくらいにしか考えていなかったけれど、その方は「きっとデジタル情報から離れて自分と向き合う時間や情報をシャットアウトする時間が必要なんでしょうね」とおっしゃっていた。確かにどちらもスマホを持ったままではなしえない。
テレビや新聞に加え、SNSなどのWebサービスの進化とスマートフォンの普及によって、人が接する情報量は過去10年で530倍とも言われている(※平成18年度情報流通サイエンス報告書)。2006年で530倍と言われていて20年で6450倍と言われているほどだ。簡単に連絡が取りあえる現代。そういったものからしっかり離れて自分と向き合う時間をしっかりつくることが大切なのかもしれない。

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