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[エッセイ]【‘‘書くことのスランプ’’について】

-書くことを通してのスランプ-

最近、note執筆を続けている中で、私自身にとって大きな問題に直面することがありました。
それは、執筆における‘‘執筆スランプ’’によるものです。
何故か、アイデアが思い浮かばない、思うように言葉が出てこない。
私自身がアイデアを見つける為の主な手段としての読書や映画鑑賞、そういったものをたくさん摂取しているのにも関わらず、インプットだけで終わってしまい、アウトプットが思うようにいかないという現象がここ最近続いていたりします。
例えば、小説や、漫画を読んだり、映画を観たり、ある時にはクラシックを聴いたりしたものの中でも、感銘を受けたものは数え切れないほどあったりします。
作品から受けたメッセージを受け取ることが出来ても、そこから自分なりの解釈、新しい発想が浮かんでこないというのがあります。
ですが、その反面、作品から受容したものの中でも無意識の内に自分が拒絶してしまい、創作に活かせなく文章を書くことを躊躇ってしまい、しばらく執筆スランプについてのことで大きく悩んでいました。
考えを巡らす度に、自分なりの答えというものがはっきりと見えてくるようになりました。
それは、作品から受けたものを実人生と結びつけられることを私自身が拒んでいるからだと感じます。作品から受けた言葉、あるいは人から直接受けた言葉、そうした言葉が融和され、活かせる場合もありますが、活かせない場合も文章を書いていると実際に起こるものだと痛感しています。
スランプというものは、執筆に限らず、あらゆるものにも当てはまるものだと実感しています。
あれだけnoteを通して書けていたものが、急に書けなくなってしまうという恐怖感。
note執筆が日々の息抜き、楽しみだったはずが、自分なりの言葉で文章を綴ることが出来なくなってしまう絶望感のような感覚。
読むことは出来ても、思うように書けなくなってしまうというのは自分の中でも不安感を抱いてしまうものがあったりします。
一行でもいい、一言、二言だけでもと、思考を巡らしても、言葉が紡ぐことはなく、紡がれたと思っても途中で糸がほどけてしまう。
何回やっても、書くことを躊躇ってしまう自分のことがより嫌いになってしまう。
なんで、書けないのか、書きたいのに書けない。
しばらく、アイデアが出てくるまで時間を空けても結果は同じで自分自身がスランプに陥っていることを理解するにはそれなりの時間がかかったと改めて感じます。
これまでには、数回ありましたが、ここまで長く続いたスランプは初めての経験でありました。
スランプというものは、決して他人事ではなく、実際に経験すると、相当なダメージになることも理解しました。
今は落ち着いて、文章を書くことは楽しく続けていられていますし、文章を書くことは決して苦ではありません。
書くことは、読書と同じく、私にとっては大切なことの一つであります。
私は今日も、noteに文章を記していく。
誰かの心に深く突き刺さるものを届けたい、それが私自身の願いであるから。

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