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【感想】映画『瞳をとじて』

先日、ビクトル・エリセ監督の新作『瞳をとじて』という作品を見ました。
見た感想としましては、かなり芸術性のある映画だという印象を受けました。
作品の構造としましては、映画の中で映画を語るというメタ構造的な映画であると感じました。
メインとしての『瞳をとじて』から『別れのまなざし』という作品を映画の劇中で、映画館で上映するというシーンがあり、とても不思議な感覚を覚えました。
物語のあらすじとしましては、失踪した俳優を追うというミステリー要素のある映画でもあり、エンタメ性もあって物語が展開するにつれて真実が明らかになっていきます。
『瞳をとじて』の物語の構造として、劇中で描かれる『別れのまなざし』という映画についての考察、そして失踪した俳優の行方と、その失踪の謎についてを深掘りすることで本作に込められたテーマが浮き彫りになっていきます。
ビクトル・エリセは『瞳をとじて』から何を観客側の私たちに伝えたかったのか。
物語の筋としては、失踪した俳優の真実を追う物語なのだが、何故、‘‘探すこと’’を目的として描く必要があったのだろうか。
私自身が思ったことは『別れのまなざし』こそ、『瞳をとじて』を描く為には必要だった映画なのではないかと感じました。
『別れのまなざし』における、‘‘まなざし’’とは何か。まなざしを向けながら、観客である私たちはあることに気付かされます。
表情や思考、風景描写など、あらゆる場面にまなざしが向けられています。
ビクトル・エリセは劇中の中で、失踪した俳優の真実を追う為に、意図的にミステリーの手法をとっていてるのではないかと考えさせられました。
『瞳をとじて』という映画において、本作は何を描いているのかということが肝になるところなのですが、スクリーン上によって描かれていてるのは、ある人の記憶だということが考えられます。
記憶を呼び覚ます作用は、映画の中によって起きており、劇中で『別れのまなざし』のまなざしが向けられた時、本作のタイトルにもなっている『瞳をとじて』における、目を閉じる者というのは誰なのかというところも注目すべきところだと思います。 
映画の中で、映画を語ることで記憶から自らの半生を回想するミゲルの姿。
失踪した俳優のフリオを探す中で娘のアナとも再会し、過ぎ去った過去に向き合うことでいつかは源流へと辿り着くものだと本作から感じました。
「瞳をとじて」の冒頭から描かれたヤヌスの像の意図、まなざしは何を向けているのかが、ビクトル・エリセによって語られる素晴らしき作品でありした。

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