無限小のかけら


2020年2月12日(水)

「あなたの中に置き去りになったままの私のこころを返してって思うよね。私のこころがバラバラの欠片になってあなたの中に残っているから、それを一つ残らず拾い集めて、ちゃんと形にして私に返してって言いたいよね。そうじゃないと私は私に戻れないよね」。

19歳の時に、失恋をした私に親友がかけてくれた言葉である。相手の男の子を忘れられないのはなぜか、ということについて、彼女はそのように表現してくれた。

他者との関係が崩れ去った時には、相手と共有した時間、過去と未来における相手の記憶に「自分」が存在するはずだという切ない確信から、自分のこころが無限に散らばって行ってしまう不安感と、関係の破綻によって、既に散らばったものが跡形もなく消滅してしまうかも知れないという恐怖感とが襲ってくる。

「わたし」の心がここからここまで、と自分で認識できるものではないこと、「わたし」を安定して感じ取って生きているはずなのに、突然その境界線がぼやけて広くて得体の知れない場所に放り出される感覚に陥ること、それが「失恋」なのかもなあとその時思った。

失恋だけではなく、他者との関係性や生まれ育った土地や慣れ親しんだ小物や、「わたし」をとりまく数え切れないもののなかに、バラバラに離散してしまった「わたし」の欠片を拾い集めに出る旅をし続けなければならないことに、少しずつ気付かされる。

私に「バラバラの欠片になったこころを、ちゃんと形にして返して欲しいよね」という表現を教えてくれた親友は、インド哲学を専攻する女性であった(いまは医療の仕事をしている)。人の生き死にを間近で見つめることとなった現在の彼女が捉える「世界」ってどんなものなんだろう、と想像する。

今夜はある本を読んでいて、上記のことを思い出した。

「無限集合論と格闘しながら精神を病んでいった数学者のゲオルグ・カントールが、「潜在的な無限」ではなくあくまで「現実的な無限」を唱えたことにも、私は《ユダヤ》を感じる。彼の切ない人生と思考について詳述した小島寛之は、『有限の中にこそ、「無限」が息づいている。安らかで秩序に満ちているように見えるこの世界のいたるところに「無限」の陥穽が口を開けているのだ』と書いている。このようなものとして世界というシステムを、時空を、そこでの出来事を感じ取る感性、それが筆者にとっての《ユダヤ》にほかならない」
(合田正人 『入門ユダヤ思想』)

エーリッヒ・フロムの著作を熟読するのと並行して、フロムの思想を形作っているもの、その源泉を知りたいと思い、ユダヤ教の思想や「ユダヤ的なるもの」の文化を学ぼうと考えている。

フロムの思想だけでなく、フランクフルト学派の思想家たちや、20代の頃に留学したオーストリアでの日々、その時期に旅した東欧の国々の空気に、なぜこんなにも惹かれるのかということを改めて考えてみると、私自身のなかに「無限」への恐れと好奇心がいつもせめぎあっているからなのだろうと気付く。

田舎の山あいの村落に生まれ育って、自然との距離があまりに近くて恐ろしく「ここを脱出しないときっと私は精神がおかしくなる」と追い立てられる気持ちで過ごしていたことや、毎年誕生月の9月頃になると、高く澄み渡った空の下でゴオッと吹きつける風に混乱していたたまれなくなる感覚、自分がいつか死ぬ日が来ることが「いま」、「なつかしい」という感覚で襲ってくる不思議さのことを思う。

私たちが生まれて生きているこの世界のなかに、「自分のかけら」が散らばっていき、それは無限の散らばりなのだけれど、一方で私たちの肉体には終わりが訪れてしまうということ、無限の散らばりがあるはずなのに、私以外の誰かの気まぐれで、その「散らばり」が消え失せてしまうかもしれないという思いつき、それらはとても恐ろしくて魅力的な感覚だ。

私がフロムの思想を詳しく追いかけたいと思うことや、アドルノの見ていた「世界」の姿を知りたいと思うことは、きっとそういうことなんだろうなあ、とぼんやりと感じる。
自分が自分であるために、散らばったはずのものを探して拾い集める旅の大変さ、煩わしさに気づいた19歳の時のことを思い返してみる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?