見出し画像

私たちは話し合うことができる

最近、恋人との関係性について、考え方の変化がありました。自分にとっては地味に重要なことだったので、ここにメモしておきたいと思います。


恋人とは10年間お付き合いをしていて、
4年前から同棲をしています。

基本的には意見が合う2人なのですが、
当然、何もかも一緒なわけではなく。
たま〜に衝突したりもします。

大抵が、小さな出来事。
けれど、私の中では大きな出来事で。
自分のこころの平穏を守るために、
譲ることのできないポイントだったりするのです。

この前の記事もそう。

自分が他者の雰囲気に敏感過ぎることはよく分かっています。
普通の人だったらこんなこと、気にもしないんだろうなって思うけれど、だからといって心のざわつきを止めることは出来なくて。

・大きなため息
・乱暴な所作の音
・舌打ち

このどれにも深い意図はなく、ただ何気なく発せられているものだと分かっていても、どうしても嫌な気分になってしまうのです。

しかしこれまで、この気持ちを面と向かって相手に伝えたことはありませんでした。
ずっと前に、彼に話し合いを持ちかけた時うまくいかなかったからです。
その時は、お互いの嫌な部分の言い合いみたいになってしまって、ひどい喧嘩をしました。
そこから何となく、真面目に話し合うことを避けてきたように思います。


だからさっきみたいに、ちょっとしたことなら自分の内に留めて、自然に消えるのを待ちました。
そのほうがずっとずっと楽だったから。


けれど、年齢を重ねて、2人の未来を真剣に考えるようになって、本当にこのままでいいんだろうか?と、考えるようになりました。


これまでも、これからも、この人とずっと一緒に生きていきたいと思っているのに、本音ひとつ打ち明けることができないなんて。
そんなの、寂し過ぎる。

どこまでもぴったり意見が一致する、自分の分身みたいな存在や、どこまでも自分に都合の良い、欠点のない人を探したっていいと思うけれど、そんな人に出会える確率って、限りなくゼロに近いと思うんです。

だからこそ、私はいま手にあるものを大切にしたい。

私たちは話し合うことができる。

願わくば、良いところも嫌なところも全部ひっくるめて、愛したいし、愛されたい。

綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、全然そんなことはないと思います。だって、それを叶えるのは地味で根気のいる作業の繰り返し。
自分の思いを伝えて→相手の思いを聞き→お互いに納得できる場所を探すこと


そんなのめんどくさいと思う?
でも、いずれそれが相手への信頼や揺るがない愛情になっていくんだと思うんです。

むしろ、そんなめんどくさいことに向き合うその姿勢こそ、愛情そのものなんじゃないかなぁ、なんて思ったり。

雷が落ちたような衝撃的な出会いには憧れちゃうけれど、やっぱり私は現実的なものに価値を感じるリアリストなんだと思います。
日々の中にある、地味でとるにたらない出来事の積み重ねにこそ価値を感じてしまうから。

恒常的に平和で穏やかな彼との日常に、
あえて問題提起するのはやっぱりちょっと怖い。

だけど、頑張ってみたい。
そう思えたことがまた愛おしいのです。


ここまで読んでくれて、ありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?