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父と私(後編)

父は酒は飲まない、ギャンブルもしない、女遊びをするわけでもない。
でも浪費家であった。
幸い、家は代々農家で、土地がいくつもあった。土地はどんどんなくなった。昔畑があったところには団地ができ、田んぼもなくなって大きな道ができ、ショッピングセンターがたくさんできた。
家を建て、車を買い替え、大きなステレオを買い、出たばかりのビデオもすぐに買った。もちろんワープロもコンピュータも、なんでも買っていた。母はいつも借金の返済に追われていたが、父を止めることはできなかった。いつかはそれが必要な投資だったといえる日が来ると信じていたのかもしれない。

「父のようには絶対ならない。」
これがもう少し成長した私の、そして私たち兄弟の、共通の意識であった。
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夏の海外研修から日本へ戻り、私が発した第一声は「留学したい」だった。母は悲しそうに、でもできるだけ協力すると言った。こうなると思ったとも言った。母は私に対して罪悪感があるようだった。ひとつ上の兄はいわゆる不良と呼ばれ、母にもつらく当たることが多かった。私はそんな兄を見ながら、私がしっかりしなければ、と思ってすごした幼少期だったため、お小遣いももらったことがなかった。お年玉は親戚からもらうもので親からもらうものではなかった。(何か欲しければ 畑に落ちているりんごをひろってジャム工場に持って行き、ひとかご50円で買い取ってもらった。秋にはそれを繰り返してお金を貯めた。)

留学したいと言った私を見て、父はただただうれしそうだった。父は私に夢を託したようだった。それから私はますますバイトを増やし、留学への出発直前に高校をやめた。


まだ少し残っている畑で、父はりんごを育てていた。台風が来ると全部落ちた。昔は田んぼもたくさん持っていたが、貿易摩擦のよる他国からの米などの輸入の開始からか、減反政策も強いられるようになった。農民は土地を売り、仕事はさらになくなり、バブルははじけ、田んぼもなくなった農民たちは自分たちの食べる米さえも失った。いくら貧乏でも、米さえあれば生きられたのに。


父は、日本が嫌いであった。私が留学してから、その日本嫌いはもっとひどくなったと思う。海外逃亡を企てているらしかった。ビザのこと、不動産のことなど、色々な国の情報を集めていた。そして父は夢を見ていた。オーストラリアにも数回来たし、アメリカにも行ったようだった。

久々に日本に戻ると、もうひとり妹が生まれていた。そして実家には釜ができていた。陶器を焼く釜だ。そして父は、スペインへの移住を夢見ているようだった。陶器を作ってスペインで売りながら生計を立てる、そんなはかない夢をみたようだった。私もあるときからスペインに行きたいと思うようになっていたが、父がスペインと言い出したので、びっくりしていた。もちろんその考えは家族の誰にも話していない。

高校を卒業して、父は私に大学に進学して欲しいようだったが、そんなお金はなかった。高校へ行きながら夜はホステス、学校が休日の昼間は市場や厨房で働いていたが、貯金は残らなかった。大学を出ると確かにポイントが上がり、永住権獲得にも近づける。父は、どこでもいいから私に永住権を取得して欲しかった。が、私は日本へ帰国。私の人生を歩んでいた。が、やはり母が心配であった。

日本で生活をはじめ、一人暮らしを始めてたくさん休みなく働いて、ようやく落ち着いてきた頃から、毎月のように20万円ずつ母に仕送りした。どうやら母はそれを使わずに貯金していたようだった。

が、それを父は使ってしまった。残りの畑も売った。父は皆を連れてスペインへ行った。もう私の永住権はないと見切りをつけ、自分で行かないと、と思ったようだった。あきれかえった母も、もうこれがあの人の最後のわがまま、と言って、その後、どうなるかの心配をしてもどうしようもないと、父へのラストチャンスを与えたようだった。
海外生活を体験できる、となると、妹たちも反対するわけがない。それまでもどうやって生きているかはわからないが、彼らはそこまで生きてきていた。
はちゃめちゃな父の野望は、3ヶ月のスペイン滞在で幕を閉じた。
中学3年の妹は高校受験第一志望をすべり、高校2年の妹は留年するはめになった。弟も大学進学をあきらめた。兄はとっくにできちゃった結婚して、子供もいた。父を批判するばかりで、金銭的な協力は何一つしていないようだった。

母は相変わらず働いていて、父は相変わらず働きにも行かず、実も結ばない勉強をしているようだった。でも、帰ってきたことにありがとう、と私は言った。父はプライドが変に高いところがあったので、もう戻って来れないと思っているかもしれないと心配だった。彼らが生きて帰ってきた、それだけで涙が出るほどうれしかった。

私は高額な仕送りをすることをやめた。そのかわり母と末の妹にチケットを送り、遊びに来させ、おいしいものを食べ歩いたりするようにした。

その後私はまた海外へ行き、就職した。バイトから社員になり、エグゼクティブ用の4年ビザを取得できた。次回のビザ更新は永住権を申請する、と誰もが思い期待していたが、ビザが切れる前に帰国することとなった。駄目ならまた戻ってきて永住権を取ればいい、という考えだったが、そのまま私は結婚した。父のはかない最後の望みも絶たれた。

関東で仕事を見つけた、というので、アパートを借りた。一緒に住んでもいいと言ったのだが、父が嫌がって出て行った。だからアパートを借りた。仕事もやっぱりちょこっとしてはすぐに辞めて、の繰り返しをまた2年した。結局先日、母の具合が悪くなり、何でもいいから帰って来いと母に言われ、実家へ帰ったらしい。一番下の妹だけがまだ実家に住み、ようやく中学へあがった。あの祖母はまだ元気に、一緒に暮らしている。

仲のいい友達に父の話をすると、さすがあんたのお父さんだねぇ、と言われる。
相変わらず家では小さくなって、ため息ばっかりついているんだろう父の姿が目に浮かぶ。

一家を少しでも幸せにするためにどうすればいいのかは、いまだにわからない。でも私はもう父を憎んではいない。

この父がいなければ、今の私はいなかった。
それに私たちは、お互いが生きていることに幸せを感じられるのだから。

20050514

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