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戦う絵師たち~永徳と等伯を書き終えて

先日、長谷川等伯について書いた記事が、イロハニアートで掲載された。

もともとは、昨年書いた永徳と対になるよう書きたいと、構想していたものだった。

この二人は共に、「乱世を生きた絵師」であり、コインの裏表をなしていると言っても過言ではあるまい。
だからこそ、同じ場所で二人を書きたかった。

現在、芸術家というと、個人プレーのイメージが強い。
しかし、近代以前、ヨーロッパでも日本でも、画家(絵師)は、チーム(工房、流派)のリーダーとしての役割が強かった。
特に、狩野派の狩野家を核とする結束や、家や流派の存続のための苦心、自身の技量をはじめ、持てるもの全てを駆使して権力者たちと渡り合う永徳自身の生き方を見ると、戦国時代における絵師の生き方、在り方はアーティストというよりも、真田一族のような武将たちに近いものがある。
彼は狩野の家を、一族や門人たちを守り抜かなくてはならなかった。信長に呼ばれて安土に移った時には、家督を弟に譲って別家を立てさせた。万が一の時は、自分が死ぬことも覚悟していただろう。
しかし、そのように命を賭して挑んだ仕事の成果ーーー安土城の障壁画群は、信長の死から間もなくして全て灰になってしまった。
彼の喪失感の大きさは計り知れない。しかし、彼は立ち止まることなく、次へと目を向けなければならなかった。

そんな彼にとって、等伯はどう映っていたか。
エリート家系に生まれ育った永徳と異なり、等伯には拠って立つ家の力もなく、人脈も一から作らなければならなかった。
しかし、彼には永徳にない強みがあった。
「失うものがない」という強みが。
失敗したとしても、大勢を道連れにする心配はない。それが、彼に一種の余裕を与えていたかもしれない。
永徳が、秀吉のもとでキャパシティをはるかに越える仕事を抱えてキリキリしていたのと同じ頃、等伯は、粘り強く人脈を広げ、実績を積み上げていった。
地道な積み重ねに勝るものはない。
彼は、水が染み込むようにじわじわと勢力を広げ、ついにははるか天上の存在とも思えた永徳の喉元に刃をつきつけるに至ったのである。
永徳にとって、自分たちが独占的に請け負うはずの仕事が、一部を等伯たち長谷川派に奪われそうになった時は、まさに寝耳に水だっただろう。
仲良く協力できれば、というのは他人だからこそ言えることであろう。
永徳は、自身の誇りを、狩野派を守るために奔走し、ついには倒れてしまう。

そして、等伯は、リーダーを失って混乱する隙をつく形で台頭するものの、後継と目していた息子を失ってしまう。
それでも絵筆を握り続け、〈松林図屏風〉などの傑作を生み出し、最晩年には家康に招かれる。が、江戸に着く前に彼は病死してしまう。
歴史にifはつきものだが、もし等伯が江戸に着いて、家康のために何か作品を描くことができていたら、どうなっただろう。
等伯の記事を書いていて、そんな疑問がきざした。
永徳を脅かした、という事実から、彼のライバルとして取り上げられやすい(私もやった)永徳が必死に守ろうとした「天下一」の地位に、等伯は彼ほど強くとらわれてはいなかったのではないか、という気もする。
息子の死によって「天下一」への野望が潰えた後も、彼は描き続け、朝廷から法橋、法眼の地位を得る。そして、数々の作品を自身の生きた証とし、歴史に自分の存在を刻み込むことに成功した。
ローカル絵師というスタート地点から、ここまで至った、というのもなかなかのものと言えよう。

どうか、いつかこの二人を通して戦国時代を斬る、そんなドラマができることを。その制作に、できることなら関われることを祈りたい。

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