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吉田博展について

「高い山を見ると其テッペンを登り切らないと腹の虫が収まらない」

 画家・吉田博について、画友・高村真夫はこんなことを語っている。

「山に登るのは、そこにあるから」という登山家の言葉を思い出した。

 今週から東京都美術館で始まった「吉田博展」。

 吉田博という画家の名前をこれまでほとんど知らず、ただ「なんとなく」という感じで足を向けた結果は…「想像以上!!」としか言いようがない。

 こんなにもすごい版画を作る人が、近代の日本にいたとは…!

吉田博 雲海

刻々と移り変わる空の表情や水の煌めき。

それが、このカラー版画の上に再現されている。

前に立つと、美術館内という場所や、コロナ禍という状況から解き放たれ、ふわりと絵の中に吸い込まれていくような、解放感すら覚えた。

吉田博の主なテーマは風景。

特に彼のお気に入りのモチーフは山だった。とにかく山を見るのも登るのも好きだった。富士山については「自分の庭のよう」と呼んでいるほど。

上にあげたような雲海は、まさに山を登り切った人だけが見る事のできる景色である。

自然の中を自分の足で一歩ずつ進む。緑や空を眺めながら。そして頂点に辿りついた時の達成感、そして解放感―――彼自身の「経験」が、絵を通して伝わってくる。

楽な道ではないが、敢えてそこに身を置き、ひたすら歩いて成し遂げる。

そのような点において、「山登り」と、「版画」に取り組むこととは、相通じるものがあるのではないか。

そんなことも思う。

「版画」は、私自身は、小中学校の図工や美術の授業で、2~3作ほど作っただけだ。

特に彫刻刀を使ったときは、悲惨だった。授業が終わるころには、左手が絆創膏まみれになり、クラスメートの母親が、後で自宅に電話をかけてきたほどだった。

以来、私自身は「版画」に対してはどことなく敬遠したまま、今まで来てしまった。

何でこんな「面倒くさい」方法をわざわざ選ぶのだろう、とも思った。

確かに、同じ絵を量産できるのは強みなのかもしれないが…。

そんな私に、版画という技の奥深さを教えてくれたのは、3年前のミラクル・エッシャー展だっただろうか。

https://bijutsutecho.com/magazine/insight/18015

版画と一口に言っても、方法は多岐にわたる。

版木の種類、凸版や凹版、平版などの違いによって、技法の名前も特性も違ってくる。

それらを使いこなし、時に複合させて使っていたのが、エッシャーであり、彼は自分を「芸術家」ではなく、「版画職人」と見なしていた。

そこから感じ取れるのは、版画という技法に対する思い入れ、そして「版画」と名のつく技法ならいかなるものでも使いこなす、という強い自負だ。

会場をめぐり、作品の説明を読みながら、一枚一枚にこめられたエネルギーにひたすら圧倒されるばかりだった。

吉田博展での体験も、それに似ている。

改めて、「版画」という技法の持つ魅力、可能性について思い知らされ、圧倒された、というべきか。

江戸時代まで日本にあった「浮世絵」の伝統を、引き継ぎつつ、彼はさらにそこに洋画のグラデーションを、うつろう光や、きらめく水の表現を取り入れた。

「自分の理想の表現」のため、下絵だけではなく、版木を彫ることも自分で手掛け、人に頼む時にも傍に張り付いて、細かく指示した。

摺りも、多い時で何と100回近くも重ねた。

自分の理想の色や、モチーフの質感を再現するために、決して妥協しなかった。

エッシャーといい、この吉田博といい、版画に関わる人には、求道者が多い。

制約が多いからこそ、色々と手間がかかるからこそ―――つまり、障害が多いからこそ、余計燃える、ということなのだろうか?

険しい山道を登り、頂上を目指すように。



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