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乏しき時代のブロガー(その仲間たちへの檄文)

  今回は、オンラインの仲間について書いてみたい。2週間で「自己紹介」、「オンライン学習」、「オンライン恋愛」と3本書いてきて、この4本目が第1部の完結編だ。PV数を見る限り全部を読んでいる人はまず居ない気がするのだが、こればかりは、前3本を見た上でないと伝わらない自慰的文章となっている。
 
 実は、前回の記事で露悪的なジョークを交えてナイーブな理想論を語った後で、僕はけっこうな自己嫌悪に襲われていた。その後、更にいろいろなことがあり、多少頭が混乱しているところだ。何かを書けば、誰かを傷つける。それを匿名の集団から批判され攻撃される。そんな光景が頭に浮かんでしまう。今回は、少し自分の書き方について整理したうえで、もう一度、僕がブログを書く意図を再確認したいと思っている。そのうえで、ハイデガーが『乏しき時代の詩人』で引用したリルケを孫引きしてみたい。

1.    誰にでも複数の文脈がある

1.1        1つ目の記事の文脈(2022/11/19)

 誰でもそうだと思うが、書かれた文章には隠れた文脈がある。僕は、この秋にtwitterを始め(正確には鍵垢ではない表垢でのツイートを始め)たのだが、人生で最初に僕のツイートをRTしてくれたのは、ゲンロンの上田洋子代表だった。そして、その直後の彼女のツイートで、友の会縮小方針についての東浩紀氏の動画を見た。だから、最初のnoteは、彼について書こうと思った。僕の最初の記事は、一行で書くと、「東さん、なんか直近の動画で落ち込んでましたけど、応援してます!」という意味だ。
 
 もう一つの背景は、ある友人が、僕のこととは無関係に、「簡単に読めない商品名はマーケティング的にアウトだよねー」という趣旨のつぶやきをしているのを目にしたことだ。僕のアカウント名B3QPは、何て読んでいいのか分からない(あえて読むならビースリーキューピーだろうか)。だからこれもアウトか・・・と落ち込んだ。そこで、これにも意味があるのだ! 英数字に分割してバラバラになった僕の苗字(自意識)の「点を繋ぐ」という象徴なのだ! と子供っぽく反発しながら自己紹介文を書いた。しかし、そのような言葉遊びはナンセンスで、理解を求めるのは愚かだとも反省した。(だからこそ、アカウント名の意味を「理解してくれ!」と書いた後で、3番目の記事では「理解を求めるな!」と書いてバランスをとる。でも、そうしたら、「理解のある彼クン」になるために頑張っている誰かを傷つけることになるのでは、と怯えることになる・・・。)そう、人間は、複雑なのだ。

1.2        2つ目の記事の文脈(2022/11/23)

 二つ目のオンライン学習についての記事は、宮台真司氏について書いた。理由は簡単で、僕のtwitterのアカウントを人生で最初にフォローバックしてくれたのが宮台氏だからだ。今これを書いている時点でも、僕の7人しかいないフォロワーの中でボットでもない実名のアカウントは彼一人だけだ。その彼が直近の動画でアクティブ・ラーニングについて語っていたので、それを引用して何か書きたいな、と思った。だから、サブタイトルに氏の著書のタイトル『日本の難点』をくっつけた。
 
 もう一つ隠れた背景がある。実は、一つ目の記事を家族が見て、僕がひどく落ち込んで弱気になっていると捉えられてしまったのだ。弱気な苦労話の上に、強気の決意表明を重ねたつもりだったが、うまく伝わらなかった。氷河期世代のアウトキャスト感を強調するためにいくつかのエピソードを選んだが、他の人や事件だって僕の人生に影響を与えている。人ひとりの半生が、7000字に収まるわけがない。とにかく、そうか・・・、これだと弱気に見えるのか・・・、と思ったので、次の記事では、宮台氏のスタイルに感染し、少し強気な文体に変えてみた。でも、僕のその記事の内容は、日本の大学で頑張っている沢山の人に喧嘩を売るような内容に読めるし、同じ大学の仲間も馬鹿にしているように読める。僕は書き終わった後で落ち込んだ。
 
 社会学に関わる人を引用する以上、エビデンスを出さないわけにはいかないので、末尾に数値を書いたし、感覚で書いている部分には「印象論で申し訳ないが」と書いた。社会学者にとって、「印象論」は「バカ」という意味の侮蔑語だそうだ。いま流行りの言葉では「それってあなたの感想ですよね?」と言うらしい。しかし、そのような私的感覚が意味を持つ領域がある。それが昭和の私小説および文芸批評だ。だからこそ、三本目では「n=1」という統計学にとっての侮蔑語を反転して、「この私」の単独性について書いた柄谷行人の本を引用しつつ、私小説的アプローチをとった。

1.3        3つ目の記事の文脈(2022/11/27)

三つ目の記事は、本日(2022/12/3)までに、実ユーザーからの高評価をいちばん多く頂いた(4つだけどな!)。だから、このnoteでは一般的に、軽いジョークの方が好まれるのかもしれない。冒頭書いた通り、そこで僕は、多少の演技をしている。
 
 「婚活サイト」について書くのだから、恐らく女性も読むだろう。そこで、フェミニスト的な視点が必要と思い誇張した箇所もある(妻は確かに僕を「おまえ」と呼ぶときもあるが、普段はクン付けで呼ぶ)。そして、その想定の元、柄谷行人の引用文では、フロイトの「母」についての記述を「中略」により意図的に削り取った。サード・ウェーブ・フェミニズムのサードの意味も知らないフェミニスト達に、日本人男性は全員マザコンでロリコンだという意味で伝わるのは本意ではなかったからだ。そのような誤解を避けたうえで、でも、どこかでそういった人たちの無意識に僕の文が届き、さらには偶然、意見の対立するフェミニスト女性とオタク男性が結婚するようなことを後押しできる可能性もあるかもしれない、そして少しだけこの社会が良くなるかもしれないという期待を込めた。
 
 書き終わった後で、僕の記事とは無関係に、「ネットに自分以外の人の情報を勝手に晒すなんて信じられない」という匿名コメントが「はてなブックマーク」で流れているのを見かけた。そう、この国では、匿名アカウントの率が異常に多い。その分、個人情報を書くことでより多くの悪意にも晒される。Note運営も注意を促しているのは知っている。僕はまた、そのコメントで自分が責められた気がした。
 
 ただ、まず言っておきたいのは、記事内の「大丈夫だ。問題ない」は「大丈夫ではない」という意味のネットスラングであり、「届かない手紙」はカントの物自体に引っかけるためのネタだということだ。そもそも、「個人情報を書くのは情弱」とツッコミを入れる人は、その書き手が、実は既に色々な集団で誹謗中傷に遭っており、それでも必死に自分を曝け出して、弁解や美化することで名誉を回復しようとしているのかもしれない、とは考えないのだろうか。その場合、悪意の発言のみがネットに残ることに比べたら、様々な内容を暴露した方が有益だ。繰り返すが、人間は複雑なのだ。そして、もっとたくさんの人が自分のことを語るようになれば、少しはそういった短絡的なツッコミも減るかもしれない。

2.    伝え方には人それぞれのスタイルがある

 宮台真司は、初期論集の第二章、「規範の三層構造論・人称図式論」の中で、三田宗介の文章が上手すぎるという話をしている(宮台, 2010, p.178)。幼少期から、どんな文体で何を伝えるか自由自在にコントロールできて、それゆえの疎外感を抱えているようだ、と。宮台氏はそこで言外に、「僕にも分かる」と言っている。頭のいい人たちには、それが分かるのだろう。そして、そのために何らかの戦略を貫徹できる。僕はそれができないまま、揺れた文体で敵意に怯えている。前項で述べたように、全ての文脈が読者に届くことはありえない。そして、僕たちにできるのは、それがどのように伝わるのかをコントロールするために、スタイルを選ぶことくらいだ。
 
 11月30日、文春オンラインの橘玲氏のネット記事の導入部で、「善意の名を借りた他人へのマウンティング」という表現を見た(橘, 2022)。その箇所は記事の編者が追記したものだとは思うのだが、それは、「善意」とどう区別するのだろう。僕はその表現を見て、また自分が責められた気がした。いや、職を転々として現在無職の男はマウントされる側だと思うが、自信はない。もっと更に、自分を否定した方がいいのだろうか。僕にだって嫌な記憶や愚痴を言いたいことは沢山ある。苦しんでいるさまを書き綴れば、匿名の誰かが喜んでくれるのだろうか。
 
 語調には選択肢がある。自信満々に教訓を述べる方法、冗談めかして読みやすくする方法、呪詛の声を怒りにまかせて吐き出す方法などだ。正直、最後のやり方でやってもいい。でも、これは半匿名とはいえ特定可能な個人のブログで、その僕は求職中の失業者だ。あまり苦しんでいるようには見せたくない。恐らく、強気と弱気の中間くらいで、バランスを保つように書くのがいいのだろう。
 
 ただ、一つだけ、スタイルについて決めていたことがある。それは、何らかの引用をしようということだ。これからも、育児、家族、仕事などの人生のテーマと何らかの引用文をくっつけて、5000字程度でまとめるシリーズをやってみたいとは思っている。複雑なものを複雑なまま伝えるのは難しい。複雑さを保つためには、対談あるいは鼎談にしてしまう、あるいは、一人の著者の長文の中でも、会話を模した形式にするという手法もある。引用もその意味では、過去の作品との対話だ。しかし、素人が専門家の言葉を引用することには、誤用や曲解つきまとう。そして、その分野に全く興味がない人には意味が分からなくなるという弊害もある。
 
 「説明なしに専門用語を使用することはやめましょう」というようなアドバイスを見ることがある。しかし、これはビジネスではないのだし、そんなことを気にする必要は無い。哲学書を読むときに、カントの理性を、フッサールの現象を、ハイデガーの存在を、説明されないと読めないとでも言うつもりか。そのようなアドバイスは全体の知性の劣化を招く。誰かが、意味不明な単語を読み飛ばして、それが間違った形で届くことがあっても、その誤解だって、何かの偶然で、社会を良くするかもしれない。

3.    仲間に届くことを信じる

 アルゴリズムは類似の文体をリコメンドする傾向にある。浅い知識で専門用語を書き散らせば、その用語を通じて、予想外の誰かに届く可能性もある。その誰かは、あなたと共鳴しうる「仲間」かもしれない。それは、140文字では到達できない複雑な共感を呼び込むことができるかもしれない。しかし、ここでいう「仲間」とは何だろう。僕にとっては、変なブログを書いている先輩の方々や、これから長文ブログを書こうとしている、僕と同じ捻くれた無職の方々だろうか。
 
 数日前、「自己肯定感が高くて羨ましい。大事にされて育ったんだね」と言われた。その人は僕にとって大切な友達なのだが、少し自分を卑下して環境を責める傾向がある。僕だって、苦労知らずの人間じゃないと思い、Nature vs Nurtureについての科学論文を引用して反論したくなったが、何も言えなかった。悩んだ挙句「いや、僕たちは似ている。僕たちは仲間なんだ」という趣旨の返事をした。
 
 そう、仲間というのは、何かが似ている人だ。これは右翼的発想かもしれない。でも、人間は複雑だ。政治的立場が異なっても、どこかで類似性を持つ人はいる。その接続がより多面的に展開されることに、期待をしたっていい。
 
 同じ日に、少しだけ嬉しいことがあった。特定しないが、僕の記事を読んだのかもしれない、と思える投稿を見たのだ。もちろん、僕の勝手な思い込みかもしれない。でも、そこで何かが共鳴した気がした。そのような共鳴のために、僕は書いているのかもしれないと思った。やはり、動画とツイートの時代でオワコンになったはずのブログをまだ書いている人は、みな、何かを成し遂げようとする「仲間」なのかもしれない。・・・それにしても、なぜ僕たちは今さら、ブログを書くのだろう。

4.    機械に支配された地上で共に冒険を欲する

 匿名のツイートがあふれる現代、人間はアルゴリズムによって最適化されたエコーチェンバーを生きている。それに対抗するためには、変な接続を意図的にする必要がある。そして、その変な接続の中で、時に人は教祖のように振る舞うこともできる。アフィリエイトのための文章の生成は人工知能にでも任せておけばいい。ブログ書きにできるのは、もっと予測不可能で、「冒険」的な何かだ。

世界の王たちは年老いて
もう世嗣をもうけることもないだろう。
王子たちは早く少年の日に歿くなり
色蒼ざめた王女たちは
病める王冠を暴力に与えてしまった。
賤民どもがそれを細かく砕いて貨幣を作り、
時代に適合した世界の主が
それを火にかけて延ばして機械にすると、
機械は怨みをふくみながら賤民の意志に仕える、
しかし幸福はそこにはない。
金属は郷愁を持っている。そして自分に小さな生活を
教えこむ貨幣や歯車を
離れたい、立ち去りたいと思っている。
工場からまた金庫から、
打ち開かれた山々の鉱脈へと
それは戻ってゆくだろう、
そして山々はそれを迎え入れて閉じるだろう。

(ハイデッガー, 1958, p.54-56)

 1950年に『乏しき時代の詩人』を書いているハイデガーにとって、このリルケの詩は、既に技術に支配された地上をその遥か昔に予言したものだ。今読むと、高齢化し衰退した社会で人類がAIに支配された場面を描いているようにも見える。しかし、そこで人間は、動物や植物と異なり、「生そのものよりも」冒険的であるので、そのことが、我々を「庇護」しうる、とハイデガーは主張する。まるで、ブレイン・マシン・インターフェースが完成し、脳をアップロードした人間がもう死ななくなったとしても、それがまだ冒険的である限り、人間は現存在なのだと言っているかのようだ。そして、そこでハイデガーにとっての「冒険」とはすなわち、言語のことだ。いってみれば、こうやってブログを書くということではないか。
 
 そして、お気づきだろうか・・・。実は、今まで順に引用した4名の思想家は、少しずつ間隔を広げながら時代を遡るように配置されている。そして、東浩紀の生年を1とした場合、続く数値は13,19,53・・・そう、全て、素数になっているのだァー!!「な、なんだってー!?」「話は聞かせてもらった!人類は滅亡する!!」「ど、どうやって・・・」「ふっ・・・リルケの書いている通りだ。山々はそれを迎え入れて閉じる・・・つまり、レアメタルの過剰採掘による地殻変動で、この文明は終わるのだ!」
 
 いや、まあ、とにかくだ。時代を超えて残された言葉は、そのように遡って「点を繋ぐ」ことができる。僕たちは、冒険家が岸壁にザイルを掛けるように、何でも繋ぐことができる。ハイデガーは、そのような思考の結節点になるような思想家だ。彼は、「社会という荒野を仲間と生きろ」とは言わないし、「孤立を求めて連帯を恐れず」とも言わないが、『乏しき時代の詩人』でハイデガーに取り憑いたリルケは、ここで「共に歩む」という言葉を使う。仲間と共にではなく、冒険と共に(mit diesem Wagnis)だ。

自然が生あるものもろのものを、
彼等のおぼろげな欲望の冒険に委ね、
そのどれをも土塊や枝で特別に庇護したりしないように、
われわれもまた、われわれの存在の根源から、それ以上には、
 
愛されていない。それはわれわれを冒険する。ただわれわれは、
植物や動物などより、もっとこの冒険と
共にあゆみ、この冒険を欲する。また時として
生そのものよりも
より冒険的でさえある(それも自利のためではなく)。一息だけ
 
より冒険的だ・・・・・・このことが庇護の外部で、われわれに
安全な場所を与えてくれる。そこは純粋な諸力の重力が
作用する場所だ。われわれを最後に庇護してくれるのは、
われわれの庇護なき存在だ。そしてまたその庇護なき存在が
追ってくるのを見て、最も広いひろがりの中での、
 
法則がわれわれに触れてくるどこかの場所で、それを肯定するために、
われわれがその開かれた世界の中へと転入したということだ。

(ハイデッガー, 1958, p.24-25)

 ソーシャルメディア上の短絡的な脊髄反射の応酬は、「細かく砕かれて」アルゴリズムに回収されてしまう。そしてブログ上に書かれる私小説は、機械にとって学習の材料でしかない。しかし、AIの学習への対抗策として、教師データを汚染するという方法がある。ハイデガーが「存在が存在する」といった同語反復、あるいは詩作に、人間を見出したことを思い出してほしい。いや、それすらもまた、学習の材料として回収されてしまうだろう。しかし、AIがまだその内省と遡行の回路を持たないうちに、僕たちは、もっと変な文を書き残しておくべきではないだろうか。
 
 だから、みんなも時代に逆らって、長文のブログを書こう。この「広がった」ネットの中で、コジツケの怪文書で自分を語ろう。それが、機械が支配する「乏しき時代」のブログ書きにとって、「点を繋ぐ」行為であり、「難点」を克服する方法であり、間違って届くかもしれない「手紙」になる。そうすれば、この複雑な世界を記述する豊かな言葉を、過去の概念が突然繋がる喜びを、僕たちの子孫に少しでも多く、残すことができるかもしれない。
 
 以上、今まで書いた4本のブログについてまとめてみた。僕はそろそろ仕事を見つけないとマジで金が無いので、これで第1部を終わりにする。そして、収入を得たらグラボを買ってUnreal Engineとかで遊んでみたいので、もしかしたら、もうブログを書かないかもしれない。でも、こういう文章は、無職無収入でも、誰でもすぐ書ける。もっと大量の人が、新興宗教の開祖のようなブログを書きまくってくれることを願う。そして、歴史が証明しているように、矛盾を抱えた聖典のみが、後世に残るのだ。
 
 ほら、まとまったじゃないですか。こんなふうな感じなんですよ。ねえ。
 
「ねえ。じゃねえよ! まとまってねえし、丸投げじゃねえか! 第1部完って、打ち切りって意味だろ!」と言われれば、返す言葉は、「すんません! 次回作にご期待ください!」だ。
 
 

Reference:
ハイデッガー.(1958). ハイデッガー選集-5 『乏しき時代の詩人』. 手塚富雄・高橋英夫訳. 理想社.

宮台真司. (2010). 『システムの社会理論 宮台真司初期思考集成』. 勁草書房.

橘玲.(2022). 日本人の6人に1人は偏差値40以下、5人に1人しか役所の書類を申請できない…“見えない格差”をつくった知識社会のザンコク 『バカと無知』より #1. 文春オンライン . https://bunshun.jp/articles/-/58823


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