『め印』ⅰ
ⅰ「ふいに」
○ 女子高・廊下
小脇にバインダーを挟み、ゆっくり歩いてくる男性教師。
廊下を歩く者はだれもいない。
目をちらっとつり上げ、2年B組のドアを開ける。
○ 同・教室
室内のざわめきが止む。
おもむろに教壇へつく教師。
ふと黒板を見ると“ABCね”とのチョーク書き。
黙ってそれを消す教師。
生徒に対し口を開こうとし、にやついた視線を受ける。
振り返ると、黒板にチョークで“ABCね”とある。
訝しげにそれを消し、再び生徒に向き直る教師。
その途端、いやな予感。
恐る恐る振り返ると、またもや黒板に“ABCね”。
力を込めてそれを消し、ゆっくり向き直る教師。
安心したのも束の間、微妙な空気が流れる。
振り返ると、またまた“ABCね”とある。
黒板拭きを見つめ、苛立たしげに何度も拭う教師。
しかと念を押し、何事もなかったように向き直る。
だが、むらむらとした衝動が立ち昇ってくる。
意を込めて振り返ると、案の定“ABCね”が。
黒板に殴りかかり、がむしゃらにそれを消す教師。
チョークを窓の外へ投げ捨て、肩で息をつく。
と、その背後に“ABCね”という大きな文字が。
狂ったように声を張り上げる教師。
そして涙声で歌いだす“ABCの歌”。
つられて歌いだす女子生徒たち。
みんなの合唱、なぜか聞こえてくる木魚の音。
○ 同・用務員室前
校舎の隅、渡り廊下の先にある薄暗い部屋。
初老の男が引き戸の前に立ち、校舎の一方に耳をすませる。
聞こえてくる木魚の音。
男は年季の入った戸をガンガン叩く。
初老の男 「(大声で)おじさ~ん、おじさ~ん、いるのかい?」
○ 同・用務員室内
引き戸を開け、初老の男が疑わしそうに入ってくる。
使い古された長椅子に腰を下ろし、前方を睨む。
用務員 「……なんじゃい。用があるんだったらさっさと言わんかい」
と、男は継ぎはぎだらけの回転椅子に座って言い放つ。
初老の男 「……はは、用務員室ってところは平和でいいねえ」
と、男は長椅子へ移ってあたりをざっと見まわす。
用務員 「……けっ、こっちの苦労も知らねえくせに。大切な話っての
があるんじゃねえのか?」
と、男は回転椅子に座りなおしダミ声を発する。
一人二役に疲れたのか、少し息をつく。
ためらうように流し目を送ったあと、カメラのほうを見る。
用務員 「……しょうがねえなあ」
と、扇子を手に椅子の上で胡座をかく。
ある狂歌を出だしに、落語『死神』を噺しはじめる。
用務員 「……偽りのある世なりけり神無月、貧乏神は身をも離れず」
最後にばたりと倒れたままの用務員。
○ 団地・構内(夜)
鞄を手に、男性教師が重い足どりで帰ってくる。
見上げる部屋の明かり。
○ 自宅・玄関
教師 「ただいま」
と、声をかけるが返事はなし。
カラ元気をだし笑顔をつくる。
○ 同・リビング
入口に立つ教師。
臨月の妻が、遠くを見つめるよう揺り椅子に腰かける。
教師 「ただいま」
と、もう一度声をかける。
振り向く妻。
ポンッ、と彼女の頭がみごとに破裂する。
半身の教師。
<終>
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