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「続かない」の続き 1

「続かない」の続きです。

「郵便局で民謡流しに出たとき、踊り教えてくれてる先生がさ、
田中さん、踊りを習ってたでしょう?
って、聞くんだよ。わかるんだねぇ、やってる人は」

達夫が郵便局を定年退職して20年が過ぎた。
長女の一美は嫁いで近所に住んでいる。時々顔を出すと、達夫はかなりの確率でこの話題を持ち出す。
妻のりさ子を振り向いて
「母さんも習っていただろう、踊り。母さんは、チケット持ってたんだろ。
母さんの家は親が習い事の券を買ってくれたんだよな。」

りさ子の実家は商いをしていた。生鮮食品、青果、日用雑貨、酒や煙草も扱っていた。自家調製した総菜も売っていた。店員を雇ってはいたが、子どもながらもりさ子や兄、弟も手伝いに忙しかった。
だからチケットを買ってもらってもあまり使えなかった。それにりさ子は踊りよりも、手芸や洋裁が好きだった。
「俺は名取になれそうだったんだが、高校生はダメだって言われてさ。
未成年は月謝もらえないのかなあ」
とぼけた口調だが、少し誇らしげでもある。

達夫は定時制高校に通いながら、父の清吉と同じ郵便局に勤務した。中学校の担任は普通高校を勧めたが、経済的にそれは許されなかった。すぐに「給料取り」が必要だった。
郵便配達のためには自転車に乗らなければならず、駅前の長い坂道で練習した。達夫は短気なところがあり、すぐにでも自転車に乗れるようになりたくて、いきなり坂道を練習したのだった。

昭和20年代、当時は舗装されていない道路も多く、冬になると、郵便配達は過酷だった。もちろん自転車は使えなくなる。すべて徒歩であった。
達夫の住むところは県内でも有数の豪雪地域である。
村と村の間などで吹雪に見舞われると、道が消える。重い鞄を背負って、埋まらないようにかんじきを履く。白一色の雪原、用水路などにはまったらいけない。電柱と電柱の間が道、という見当で進む。達夫の配達区域には県議会議員の家があり、郵便物がしょっちゅうあるのだった。

達夫にはやがて楽しみが出来た。
町内の同級生たち4・5人とで、バンドを結成して祭りやイベントに出るようになった。達夫はギターも弾いたが、バンド演奏ではドラム担当だった。

「演奏が終わると、出演料が出るんだ。それがさ、何だと思う?」
と気を持たせてから
「酢なんだよ、酢!一升瓶入りの酢、1ケース6本、花の御礼!!」

一美はここでいつも大笑いする。いつもの話の展開だが、やっぱり出演料が「酢」というのは、おもしろかった。
一美の長女が高校から7年間、ジャズバンドで偶然にもドラム担当だったが、それも見えない繋がりのようで嬉しく、達夫もそれを知った時大喜びしたのだった。いそいそとモノクロの写真を出してきて、
「これさ、俺がハタチの時。これ叩いてるの俺だよ」。
しばらくすると、この写真は引き伸ばされ額に納まり、茶の間に飾られた。


〈続…けたい〉

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