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どうしようもないな

 時間は平等に過ぎていくと言うが、そう言いきるのは傲慢だ。全然平等じゃない。同じように移り変わるものは何一つとしてない、ただ時間という一つの尺度や概念があるだけだ。だれも同じように年をとらない。同じ時間をかけたとしても勉強や運動の定着の程度はまるで違う。特定の何かにかけられる時間はそのひとのおかれている環境に依存する。時間は平等に過ぎていくが、それはただ時間が平等に過ぎていくだけで、平等にリソースが与えられているわけではない。

 そうは言ってもどうしようもないなと思う。どうしようもなく時間は過ぎる。どうしようもないなと割り切るしかないし、どうしようもないなと割り切れないときもある。たらればを考えるときもあるし、そう考えてしまうことがかっこわるいと思うときもある。全然かっこわるくない、たらればもたくさん考えていい、じぶんでじぶんのことを否定している時間が一番苦しい。ぼくがぼくの敵になってしまっては、どうしたって攻撃力が高すぎる。職場にぼくのことをいちいち否定してくる上司がいたら楽しくないのと同じで、人生の中でぼくがぼくを否定してたら毎日が楽しくなくて当然だ。

 おまえは幸せそうだよなと、そこまで仲が良いわけじゃない友人もどきたちにしばしば言われる。そんな言葉をひとにかけられる図太い神経をもってして、どうして幸せになれないんだと辟易する。ぼくはひとになにかを決めつけられたり押しつけられたりするのが極端に苦手で、実際は相手がただデリカシーがないだけなのに、どうしても見下されているような居心地の悪さを感じる。ぼくは幸せだけど、幸せを他人がジャッジするのはお門違いだ。

 これまた友人もどきに幸せのハードルが低くて羨ましい、生きるの上手だねと言われたことがあるが、嫌みかどうかはさておき、勝手にハードルを高く設定しているのはだれでもないおまえだろと言いそうになった。低くするのも高くするのも好きに設定できる。そもそも幸せのハードルって意味がわからない。これをしたら幸せ、あれをしたら幸せみたいな基準を設けてしまったら、これやあれをしていないときは幸せじゃないみたいになるじゃないか。ぼくにとって日々に満足するかどうかは基準を超えるか超えないかじゃない、いかに感度を高くもつかだ。それの良しあしはひとそれぞれだが、嫌みを言われる筋合いはないし、嫌みじゃないのであれば、ひとが幸せを感じてるものに対してハードルが低いとかいうのは頭狂ってるレベルで失礼なのでぼくのテリトリーからはいなくなればいい。

 大人になってデリカシーがないのは本当に致命的で、まわりの気持ちを想像する努力ができないとどういう人間関係の中でも上手くやれない。害悪と呼ばれてしまう。だってそうじゃないか、じぶんのことを傷つけてくるひとやじぶんのことを大切にしてくれないひとを、だれが恋人や家族や友人にしたいと思うんだ。若いうちは時間が無限にあるような気がするけれど、残りの人生が有限だと実感するタイミングがだれしも来るし、そう感じだときにこの先まわりにいて欲しい人間を、選ばないわけがない。

 前言撤回で、出した言葉はもとに戻せないので前言撤回とかはこの世にないのだけど、やっぱりデリカシーがあるかないかはどっちでもいいと思う側面もある。そもそもデリカシー云々は当人同士が嫌な思いをしてなければそれでいいし、他人の言動に敏感なひともいれば鈍感なひともいるからだ、八方美人である必要もない。ぼくが無神経な人間が苦手というだけなのに、ノンデリ自体を悪く言ってしまった、これはぼくがかっこわるい。

 ぼくは寝るのが苦手で、寝付けないし、夜中に目が覚めるし、朝早くに目が覚めちゃってそこから二度寝できない。かといって睡眠時間が短くていい体質でもない。悪い夢も毎日みる、じぶんの正当性を訴える夢、大好きなひとと喧嘩する夢、知らないひとが家に入ってきて襲われる夢、だれかから責められる夢、勉強や仕事に追われる夢、これが子どもの頃からほぼ毎日なのでみんなそうなんだと思ってたけど、そうじゃないひとが沢山いるらしい。

 そりゃもう寝られないのは苦しい。薬がないと寝られないというじぶんの健康状態が不安だし、薬を飲んでも寝られない日もある。ゲイだ、片親だ、虐待だ、おまけに睡眠障害かよって思う日もある。だからなんだという感じだ。与えられた環境を恨み続けたところで道は拓けない。一生懸命仕事して自己実現してお金を稼いで、大切なひとを大切にする日々を、あきらめる理由になるわけがない。

 ちなみにぼくは虐待を受けていないし受けたとも思っていない。当時のあれやこれやを虐待と呼んでしまうのはあまりにも乱暴で、育ててくれた母に申し訳ない、育ててくれてありがとう、そりゃ母も人間だからあれこれミスはあるよねと今では思っている。もう恨んでいないし、そもそも恨んでいない。ただどうしようもなく学問上なのか研究上なのかは知らないけど、あれやこれやは虐待と分類されるらしい。大人になったいまでも母の愛を信じてやまないので、信じてやまないというよりかはその愛を疑うのはあまりにも母にとって残酷すぎるのでそういう整理にしているというのもあるが、つまり子どもにとってそれほど親という存在はよくも悪くも大きいのだろう。
 先日久しぶりに母に会ったときに、最近になって子育ての後悔がたくさん浮かぶそうで、そりゃそうだろうなと思いつつ、息子はこんなに立派に育ってるんだから子育て成功でしょ、ありがとうと言っておきました。本心です。親子の縁はぜったいにきれないものだと意味のわからないことを言っていたので、どんな人間関係だろうと双方の努力がないと家族だろうとなんだろうと簡単に縁はきれるから二度とそんなことを言うなと話しました。これも本心です。

 そういえばぼくが幸せかというと、これはぜったいに幸せだと思う。ただ最近気付いたことがあって、たとえばこの人生に不幸という名前をつけたら不幸と呼べてしまう人生だから、ぼくは幸せだと主張しているんだろうと思う。当時は言語化できていたわけではないが、おそらく昔は、幸せだと言い切れる状態じゃないのに幸せだと主張することが恥ずかしいと思っていて、むしろそんな幸せじゃないよと俯瞰した気でいるのが美徳とさえ感じていたのかもしれない。幸せじゃない現状というものがあったからこそ出来た努力だって沢山ある。その頃のその価値観が悪いわけではない。きっとその頃のぼくはその考え方の方が生きやすかったんだと思う。価値観にいいとか悪いとかない。
 一方いまでは幸せだと思っていた方が楽だし、楽しいし、全然かっこわるくないし、むしろかっこいいしどんどんじぶんのこと大好きになっている。幸せか不幸せかってじぶんで決めていいってめちゃめちゃ自由だよな。

 その自由が苦しい時期がぼくにもあって、自由って逆に不自由なんだよな。幸せかどうかってじぶんで決めていいけど、だれも決めてくれないからね、だれかが決めてくれたらいいのにね、だれかと比べてみるとどうしたって劣等感をいだくか、だれかを見下すか、そのどっちかしかないから困ったものです。

 他人と自分を比べたって意味ないよってよくポジティブ人間たちは言うんだけれども、だれも比べたくて比べてるわけじゃないよな。知らないうちについたひとと比べる癖ってなかなか変えられないし、じぶんの中にものさしがなければ、だれかと比べないとよくも悪くも自我を保てないじゃないですか、かといってじぶんの中のものさしってどうやって作るのかだれも教えてくれない。ぼく自身はひとを見下している状態がどうしようもなく居心地悪くなってしまうのでひと見下すことがなかなかない一方で、ひとより劣っているという感情によくも悪くも影響を受けやすくて、努力するためのモチベーションになったり、一方で塞ぎこんだりします。それはそれでべつによくないですか、人間なんでしょうがない。

 いろんなひとや機会に恵まれていまのぼくがいるわけで、そうこうしてぼくの中のものさしっていうものが何年もかけて出来てきて、そのものさしによってある程度生きやすくなったのもそれはそれで一つ事実だ。じぶんのことを大切にすること、大切なひとを大切にすること、だれかを傷つけていい理由はひとつもないこと、しあわせになれるひとはしあわせをずっと信じていること、前髪を少し短くしただけで生まれ変われちゃうこと、これらがぼくのなかで殿堂入りのものさしになっている。ぼく以外のひとには意味がわからないことかもしれないが、ぼくの判断につかうものさしなのでぼくが納得していればそれでいい。

 あなたの人生のものさしはなんですか。

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