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『mellow』を観て、伝えないを選んだ私の気持ちの所在を考える【ANAIS映画随想】

土曜日の朝、10時に起きて怠さを感じながら昨日の残りのカレーを食べた。昨日までの締め切りを無事終えたこと、その執筆のために観なければいけなかった複数本の映画を思い出す。「仕事で観る映画」と、そうでない映画がある。もちろん、私は映画が基本的に好きなので前者は逆に手に取る機会があってラッキーぐらいの気持ちで観ている。ただ、緊張の糸がほぐれた今朝、久しぶりに「自分の観たい映画」が観たかった。Netflixで配信開始した今泉力哉監督の『mellow』。

『愛がなんだ』の監督だと知って、少し身構える。かの作品は原作が好きで、映画化した際にとても観に行きたかった反面、どれほどのエネルギーを奪われるか不安で結局DVDで観ることになった。とても素晴らしかったけど、観ながらパソコンで実況中継よろしく殴り書きした感情のメモを今読み直すと、相当くらっていたことがわかる。いつか手直ししないで、その殴り書きを何処かに出せたらと思う。

『mellow』もやはり、自分の感情に向き合わせられる素晴らしい作品だった。今泉監督作品は、観賞後自分のそれに対する気持ちを吐露したくなる、言葉の溢れるものが多い。

先日、友人とオンラインで飲んでいてこの話題に落ち着いた。「気持ちを伝えるか、伝えないか」問題。本作も、多くの登場人物を繋ぐ共通したテーマだ。私はこれについて日頃、思うことがあり度々(というか恋をするたびに)友人とこれを話す。余談ではあるが、ちょうど一年前の今頃、自分自身と向き合ってこれについて考えを綴ったのがこちらになる。

これは富ヶ谷にある開放的なカフェレストランの、道路側に出ている席でサラダを食べて白ワインを飲みながら、一気に思いの丈を書き吐いたものだ。だから、少し散らかっている。でも本当に思ったことや伝えたいことは、いつだって散らかっている。校正なんかしてられるか。そうしている内に、私の気持ちは少しずつ変わってしまうのだから。上のnoteを要約すると、こうだ。「3年間、好きだった人が結婚する。彼には一度も想いを伝えられなかった。そうしなかった事を後悔している。だから、次好きになった人はどんな結果になろうと気持ちを伝えたいと思う」。

ちなみに、この時実は気になる人がいた。彼の事を頭の片隅に置いて書いたわけだ。しかし、私はやはり彼に気持ちを伝えなかった。それには3つの理由がある。そしてこの3つが恐らく、如何なる場合でも気持ちを伝えないという選択肢を選ぼうとする理由だ。

1、「彼女がいた」2、「明らかに彼が私に好意がなさそうだった」3、「友人としての関係性すら失うのが怖かった」

2と3は直結している。振られるの前提で、その後気まずくなって友達だと趣味趣向があって楽しかったのに、それさえ失うのかと。誰かが、それを「裏切られた」と言ったことがあった。友達だと思っていたのに、暗黙の了解でそれ以上行かないように、そうしたら壊さなければならなくなるのに、それをわかっていて何故、と。それを言われた人は、可哀想だなって思った。もちろん、伝える側だってそれは承知だ。だから、伝えるのを躊躇して、伝えられないんじゃないか。

それでも、この映画に出てくる彼女たちはみんな、想いを誰かに伝えていた。


本作は様々なパターンで「気持ちを伝える」事を描いている。始まりは、ラーメン屋で別れ話をしていたカップルの男側。なんともつたない言葉で、「自分と君は不釣り合いだから」と別れを切り出す男。女にとっては訳がわからない。私が好きなんだから、それでいいんじゃないかと。しかし、男というのはどうやらそういう訳にもいかないらしい。最後、「私以上に好きになる人なんて、できないから」と言って、彼を去る彼女。この一連のやりとりを、私もしたことがある。

ただ、この映画がすでに好きだと感じたのは、彼女のいなくなった場で彼が「彼女のためじゃなくて、自分のためなんです」と本音を漏らしたこと。女は「君のために」なんて信じちゃいない。「自分のため」ってことはわかっている、ただ、じゃあそう言われたいかと言うとわからない。どっちにしろ、「何故」という疑問に数日苛まれるわけだし、それなら「私のために彼は」という受け取り方をした方が、前に進みやすい。そう、男は前に進みやすくしたのだ。今なら、わかる。

そして同性の先輩に花束を渡す決意をした、あの少女。彼女は、先で述べた3つの理由の2と3をふっきって想いを伝えた、一番勇気のあるキャラクターだ。ただ、同じくらい勇気と優しさがあったのは、その先輩。彼女はしっかり、今後まだ残された時間の中で彼女と変わらず仲良くいられるように、気まずくならないよう避けるのではなく、逆に共に過ごすことにした。これは、その先輩が花屋の主人公に告白した際、彼が彼女にとった行動と同じ。告白をして、「ありがとう。でも、ごめんなさい」を言われて、「いいの、全然」を言って、飲み終わったお茶。ここで、「じゃあ」と彼女が店を出てしまうことがあったら、違った。映画では描かれていないが、その後の二人の関係はほぼ確実になくなる。しかし、花屋が「もう一杯、いれるね」と、もう少し彼女と一緒にいる時間を自発的に作ったことが、救いとなり、この優しさが3を回避することができる行為なのだと、映画を観ていて思った。

印象的だった、人妻からの一方的な告白。いや、告白は全て一方的なのだが彼女の場合は第三者を交えた、少し混線したものだった。ただ、彼女の彼と別にデートをしたとかでも、彼からの好意を感じるでもなく、ただ「2週間に1回、うちに来て花を飾ってくれるうちに好きになった」という実直な恋心。あれ自体を「迷惑」と称したら、あんまりだ。そんな程度で、だってまだ何も始まっていないのに、と彼女の周りの人間は些か驚いた様子でいた。だけど、好きになる程度なんて人それぞれだ。好きになっちゃったのだもの、どうしようもない。しかし、伝え方こそが一方的だった。まあ、旦那の言うこともわからんではないけども。しかし、一見そう聞こえて全然話している軸がずれている、みたいな会話の恐ろしさの典型パターンを見させられたような気持ちになった。あれは、花屋が凄く嫌な気持ちになって、傷ついただろうなと同情してしまう。

誰しもが、そういう自分の一方的なエゴで気持ちを伝えることを恐れる。ラーメン屋の娘と、その友人との間で行われた会話が、最も印象的かつ、普段の私と友達の会話そのもので。私もその場にいる相談者の一人かのように、友人の意見に頭を垂れ、ラーメン屋の娘に「そうそう!」と相槌を打った。

「言う必要がない」「それとこれとは別」「まず、告白しないから」

しかし、それに対する友人の意見は「自己満でもダメもとでもいいから伝える」だ。その後、その人と一緒にいれる、いれないという結果を目的とせず、ただその気持ちを「なかったことにしたくない」のだ。これもわかる。しかし、私はやはりラーメン屋の彼女と同じ「(離れるとわかっているなら)あえて伝える必要がない」と言い返すだろう。

「言ってOKだったら?」

これはキツい。後悔の種になるし、先に紹介した私の過去のnoteに繋がる。
別に好意を返してくれなければ好きでいられない、わけじゃない。ただ、やはり好きたいし好かれたい。“し合いたい”。そのきっかけを自分が出せるようになれば、凄く強いのになと思う。今の私は相手の出方を伺ったり、言動を分析したりと、何もかも相手任せだ。片想いとは、積極的に見えて無責任さの塊みたいなものだ。

「じゃあ、あなたの気持ちは誰が知るの?」

誰も知らないままだ。いや、その恋を相談する人は、知っている。しかし、誰も知らないからといって、それがなかったことにはならない。でもなかったことにしたくないから、知られたい。この表裏一体の気持ちに答えを出すのは、何年かかっても難しいだろう。いつしか私は、誰にも知らせない感情を抱えることに慣れてしまった。「ほとんどの好きって気持ちは、表立ってやりとりされるものではない」のだ。

特に今後も関わっていきたい2番の相手に伝えることで、3番になることを恐れてばかり。だから最近も、また、私は「伝えない」を選んだ。あれだけ、今度は伝える、と言っていたのに。そんな私の頭の中を、ラーメン屋の友達の言葉が反芻する。

ところで、先にこの映画に出てくる彼女たちはみんな、想いを誰かに伝えたと書いたが、実は一人そうでない重要人物がいる。花屋の姪っ子だ。彼女も「はるみ」という男の子が好きで、彼に会いたいと劇中想いを漏らす。学校を休みがちな彼女だが、「はるみ」が転校先の同級生なら学校に行くはずだから、恐らく彼は前の学校の男の子。そう、彼女は唯一、“想いを告げずに後悔している”立場の人間として終始みんなの恋物語を見守っている。そんな彼女だからこそ、幼いながらに、人を観察し、気づく色々なこと。放課後花屋のもとへ告白をしに行った先輩と、それを見守る後輩と花屋の三人の様子を見て「おもしろい」と言った彼女は、私の恋の仕方も、面白がってくれるだろうか。

伝えないを選んだ私の気持ちは、今どこに、そしてこれから何処へ向かうのだろう。

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