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「よそ行き」でない文章の共感力〜本来の多様性とは〜

こにちわぬん。ベビだす。
唐突ですが、ベビは「よそ行き」の文章ばかり目にしていると、疲れてしまいます。
若い世代の人は「よそ行き」という言葉自体、知らないかもしれない。
noteはユーザーの年齢層はそれほど低くないと思いますが、よそ行きとは「お出かけ用」の事であって、要するに対外的に取り繕ったものの事です。
平たくいえば、いい子ちゃんバージョンですね。
そこには確かに「相手を思いやる礼儀」も含まれているとは思いますが、「万人ウケしたい・当たり障りない事をそれっぽく書いて安全に票を得たい」という、文章の背後をふと感じ取ってしまう事があるのです。

■計算の無い文章はホッとする


よそ行きの文章に疲れた時、ベビが赴く休憩所とは。
はい、琥珀ベイビー御用達・まとめサイトです(笑)

何かホッとするのです。
よそ行きの文章がなくて、
批判を恐れずに書き込まれた勇敢な文章を目にすると。
万人ウケしようとか、支持されようとか、そんな計算がない本音の文章が、ホッとするのです。

そういう場所にある文章は、noteで記事を長く書いていたり実際に書く事で収入を得ている方から見れば、間違いだらけで稚拙な文章の集まりかもしれません。
どう書けば多くの支持を得られるだろうとか、上手く伝わるだろうとか、読み手に共感して貰えるだろうとか、そんなものがまったく考慮されていない「抜き身の文章」です。

それらを読むと、ベビは生き返ります。
読み手の顔色を窺わず、ただ自分はこう思うのだ、と馬鹿正直に一所懸命綴られた文章に触れると、魂の破れた箇所に絆創膏を貼ってもらったような気になるのです。

ベビは一人の読み手という側になった時、文章として「完成された上手な文章が読みたい」のではないのです。
文章というツールを介して、気持ちを、想いを、心を「見たい」のです。

■よそ行きの文章に疲れる理由わけ


ベビがよそ行きの文章に疲れるのは、多分、「今日は良い天気ですね」のような当たり障りの無さが全てだからでしょう。
もちろんそれが心地良い人も居るだろうし、むしろ生身の声なんて欲しくない、全部よそ行きの声でいい、という人も居ると思います。
もしくは時と場合によって、生身の声に飢える時もあれば、品の良いよそ行きの声に飢える時もあるでしょう。

ベビはよそ行きの文章をまとめて読むと、一定の量を読んだところで疲れてしまいます。
何かがすり減った気がします。
ものすごく率直に言えば、会社の同僚や上司とソツなく会話した後のような疲弊感を伴ってしまいます。

おそらく、よそ行き100%の人は、完全にビジネスツールとして割り切っているからだろうな、と思います。
ビジネスツールである以上、きちんと居住まいを正して品良くソツなく振る舞い、適度な親近感を持ってもらうためにプライベートな面もやはりソツなく見せる、これが正解なのだろうと思います。

なんだか、名刺を貰ったような気分だ。

■自分はどうありたいのか


ベビはどうなのか、というと。
理想ですよ?自分の理想ね?

正々堂々、公私混同でいたいんです。

本が出たら宣伝もするだよ!
有名作家じゃあるまいし、自分で宣伝しなきゃどーしょーもない無名なんだから、そりゃするだよ!(笑)

でもやっぱり、それだけで終わったらいかんと思うのです。
手にとって欲しいためだけに、それの宣伝ばかり繰り返すのは、「琥珀ベイビーにとっては悪手」だとベビの直感がサインを出すのです。
これは結構、その人の性格とか周囲が認識するキャラクターが影響してくると思います。
宣伝をガンガンしても嫌われず、上手くやっていける人もいます。
わかりやすいところだと、すでに著名な人は固定ファンを多く獲得しているからその手法でイケるってパターンがありますよね。
でも今のベビの場合は、もし自分の発信を100%ビジネスツールとしてしまったら、むしろ得てきたものを失うと思うのです。

これはベビの勘よ?
あたちは、公私混同型がイイという直感ね。
何かを発信する時にね。

■成功している人は割と本音を言う


よそ行きの言葉や文章を意図的に書かなくとも、正直なことを書いても味方が離れずにいてくれれば、それは成功しているんじゃないかなと思います。

ホントに成功している人って割と本音言うよね。
自信あるから。怖くないから。

仮にそれで離れる人がいても、それを恐れずに済むくらいの何かを持っています。
その何かは、お金だったりすごい人脈だったり盤石な仕事だったり心の充足だったりと色々ですが、「本当はこれを言いたいけど反応が怖いからやめておこう」と心を怯ませる要素よりも強い何かを持っていることは明白です。
(単なる無鉄砲な乱射とは違って主張のあるものに限る場合)

■才能≠自信。才能ある人ほど恐れた方がいい


発信する、という事に関して、初期段階では才能などは関係無い、と思います。
才能は発掘されてこそ才能たらしめるもの。

発掘されない才能は、確かに実在しています。

今有名なクリエイターより遥かに才能ある人なんて、世の中にごまんと潜在しているでしょう。
何らかのクリエイティブなことに関わっている人なら、そんな真実は当たり前の常識だと思います。
世に出ているか出ていないかの違いだ、
ということは。

なので隠れた才能ある人には、だからこそ「恐れてほしい」のです。

「俺は才能あるから怖くねぇ!」とは思わずに、
むしろ才能あるからこそ怖がって、慎重になることは重要です。
才能ある人こそ初期段階では「よそ行き」と「抜き身」を上手く使い分けて階段を登る方が良い、と思います。

■「速さ」が主流を作る時代だからこそ「本質」を問いたい


ある一つのものが主流になるのは、今の時代においてとても速いという現象があります。

発信されたらどこにいてもすぐに見つけられるからこそ、それに対して初期での肯定が多ければ多いほど、後からそれを読んだ(見た)人も「今はこれが支持されているんだ、じゃあ支持しよう」となります。

人の心理って案外そんなもの。
大きなものに乗っかる、というのはどんなジャンルでもよくあること。
だって楽だから。
大多数が支持しているものを支持するのは。

支持まではしなくても、興味は持つでしょう。

物心ついた頃にはネットが身近だった所謂いわゆるネットネイティブと言われるような若い世代の人たちは、こういう現象に早くから慣れています。
なので一律に支持はせず、肯定と否定(または疑問)が健全にバラける傾向があります。

幼い頃から情報にまみれている若い世代ほど、ちゃんと自分で吟味して判断している。
あるものに対する反応や評価がバラけるというのは、健全な証拠です。

ベビは、今の若い世代は中高年層より「本質重視」だと感じています。
若い世代は、「大勢が支持するものは良いものだ」とは簡単に信じてくれません。
物心つく頃にはネットの世界がリアルに結びついていたからこそ、見極めスキルが高い若者が多いと感じます。
良い意味で慎重であり、疑問を持てる余裕があり、それを言える勇気があるのです。

これは、ベビの希望の光(*‘ω‘ *)☆彡
主流に惑わされず、個々で判断できる若者が時代を担う。幼い頃から当たり前にあったネットだからこそ、「選別し、判断することに慣れて」いる。
それはベビの希望の光なのです。

■たまには「自分のために」書こう


noteを趣味の範囲でのブログとして使っている人も、ビジネスツールとして使っている人も、読者を気にせずたまには自分のために書く、というのも良いと思います。
(ビジネスツールとして割り切っている人はそれをするのは難しいかもしれませんが、非公開にするとか、ファンでいてくれる人のみに向けてマガジン公開するなど)

恐れずに本音や本心を出したら、実は同じ事を思っていたという人と出会えるかもしれません。

飾らない不器用な文章でも、ベビ御用達のまとめサイトでイイネを沢山貰っている人はきっと、勇気ある代弁者なのです。
耳に心地良い当たり障りの無い意見が本音を侵食して来る中で、「よくぞ言ってくれた!!」と共感する人が多いという事は、そういう事だと思うのです。

■何でも認め、受け入れることが多様性ではない~疑問や否定も受け入れてこその多様性~



必要なのは、発言にうるさいこの時代にあっても「本当に思っている事」を書く勇気だと思います。

誰かを傷つけるナイフを振り回すのではなく、
自分にとっての正義や信念や大切な思いくらいは、
見知らぬ誰かに怯えて忖度する事なく、
正直に言える世界がいい。



こんなにも多様性がもてはやされているにも関わらず、表現はどんどんセンシティブになって、結局は当たり障りのないものがメインとなって支持を集める。
これは健全な事なのでしょうか?

多様性とは全て受け入れ認める事なのだろうか?
時に疑問を投げかけ、時に否定するその意見や意志を敵視したり排除することは、本来の多様性に反するのではなかろうか。
疑問や否定を認めてこそ、多様性なのではないだろうか。
そうでなければ、それはただの圧力と変わらないのではなかろうか。


本音を許さない、よそ行きだけの言葉に溢れる世界は「優しい世界のレプリカ」みたいで気持ち悪いなぁ、と思うベビなのでした。

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