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感情と向き合う


 怒りや憎しみの感情が沸き起こるのは、自分が弱く、能力や精神力が足りないせいだと考えていた。さらに、思考は怒りや憎しみを正当化し、正当化するために働いていた。

 どこかでそれは分かっていたのだが、自分の都合のいいように解釈していたように思う。その過程で感じた悲しみや虚しさの世界にも浸っていたのかもしれない。

 だからこそ、自分の心の闇から目を背けず、観察することを怠ってはならない。ようやく、自己否定や自己卑下に陥る前に、自分の感情に気づく時間を確保することができるようになった。

 今まで、そのような感情を抱く自分を罰し、責めてきた。また、怒りや憎しみを抱かせるような状況や出来事、人物に自分の感情を向けることを避けてきたが、その選択も自分の望まない出来事を引き寄せることに気づいた。

 私は、ひとりでいることでしか自分のアイデンティティを確立できないと思い込んでいたのだ。その時は、それが自己喪失感を増大させることになるとは思いもよらなかった。

 そして、意識とは何かを理解することが私の人生のテーマとなった。意識ほど難しいものはない。私は、薬物を使って空間と時間の知覚を変性させ、その領域から幾何学模様や文字列を読み取ることが、現代の科学技術の源ではないか?という推論に至っていた。

 また、その領域の物理現象や人智を超えた次元にも興味があった。そのような出来事を通して、人生に役割や意味、使命を与えてくれる存在がいる可能性を考え、私のような人が他にもいるかもしれないと希望をもった。

 医者に病人扱いされたが、後悔したくないので、ありのまま感じたことを大事にしたい。笑われてもいいから自助グループを通して気づいたこと、感じたことを話したい。同じ苦しみや悲しみを経験したからこそ、わかってもらえることがあると思うから。いつか、理解する立場にもなりたい。

2015 3/27


考えるということは、要するに自分で何か映像をつむぎだしていくということだ。何かが、あたかも自分の眼にはっきりと映るかのようにしていくのが『考える』ことだ。どんな人でも、結局はそういうふうにして考えている。

思考は、そのままでは、いわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

良心とは認識の生が保証する幸福のことだ。認識の生とは、世の中の苦しみにもかかわらず幸福であるような生のことだ。世の中の楽しみを断念しうる生のみが幸福なのだ。世の中の楽しみは、この生にとって、たかだか運命の恵みにすぎない。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン


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