見出し画像

同時存在

 今回は、薬物依存症回復支援施設に入寮して約2年経過した時、「ニュースレター」として投稿した記事です。

 前回は入寮後、1週間も経たずに『iが姿をアラワす』を投稿することになり、私が「医療観察法」の処遇を受ける経緯や過去の生き方を綴りました。



 2013年4月に傷害事件を起こし、2015年5月に司法病棟を退院後、施設に入寮しながら通院処遇を受けることになった。入院中に自助グループのミーティングを設けてくれたので、ミーティングに参加していた仲間のおかげで寮生活にもすぐに慣れることができたし、入院中から付けていた自助グループのワークブックを使った日記も継続することができた。

 しかし、すぐに自分の問題が改善されるわけではなく、紆余曲折を経て施設に入所した仲間たちとは、生活習慣の違いなどあらゆる面で気持ちが左右される機会が多かった。

 入寮当初は、自分の内面を見つめることなく、状況や環境を変えようと奔走していたので、密度の濃い集団生活がきっかけで自分が変わるとは考えにくかった。

 仲間の個性を受け入れられず、彼らの行動と自分の過去の行動がリンクして自己嫌悪に陥り、頭の中では常に葛藤があり、そのような自己矛盾を抱えて生きるのはとても苦痛で、自分の認知のあらゆる側面に疑問を抱くようになった。

 濃密な集団生活の中では机上の空論になりがちな入院中の準備も、行動で経験を積み重ねれば、いつか成功体験や自信につながると信じて、あきらめずに自分と向き合う生活を続けた。

 施設生活が一年経過した頃から、状況や環境は自分自身をどう見ているかの反映であり、状況認識に対する反応として感情を作り出していると理解し始めた。

 「この事実」を受け入れる時間を設けなければ、私は感情に基づいて自分の考えを正当化し、理由づけする傾向があった。そこで私は、自分の問題と他人の問題を混同しないよう、情報の受け取り方に注意して生活するようになった。

 そして過去を整理していくうちに、他者の評価の中で生きようとするあまり、自分の存在価値を仕事の結果と結びつけてしまい、自分自身の責任から目を背けていたことにも気づいた。

 今でも自分の問題を見つめると、それを正当化したり証明したりする必要性を感じたり、他人に評価を求めたりすることがある。また、自分の本心に反してでも必要以上に責任を背負おうとするクセも見直したい。

 一年間の施設での生活を通して感じたことは、状況や環境に柔軟に適応し、その中で自分との関わり方を認識しながら状況を観察していくには、勇気と忍耐が必要だった。

 責任ある立場で必要なのは、効率を求めることではなく、一人ひとりになるべく公平にチャンスを作ること。これが私には最も難しい問題だった。

 心の中で「自分が動いた方が早い」と思ったり、仲間の用意した結果が自分の考えと合わなかったりすると、自分の認知や考えを変えることなく他者の能力を勝手に判断してしまうことを認めるのは、とてもつらかった。

 大切なのは、「仲間も自分も見守る」という行為。「そんな自分を受け入れる」という内省作業が私には必要だった。

 今でも、自己矛盾の苦しみから逃れるために、自分の行動や思考を正当化したくなることがある。

 しかし、そうした苦しみも学びであり、無限の思考の世界と有限の肉体の中で成長するために「今、この瞬間がある」ことを真摯に受け止め、歩みを進めていきたい。

2017 6/28


全ての科学上の問いに、答えが得られようとも、自らの人生上の問いには、答えは出せないだろう。

もちろん、そのときは何も問いは残ってはいない。実は、まさしく問いがないことが答えなのである。

人類は、問題の消滅の中こそ、人生の問題の解決を見る。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

私の人生、みなさまの良心で成り立っております。私に「工作費」ではなく、「生活費」をご支援ください🥷