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Open Your Eyes Part4(シン・本能寺の変)

オープニング

 2023年11月23日上映の北野武監督による映画『首』は、生前の黒澤明監督が「北野くんがこれを撮れば『七人の侍』と並ぶ傑作が生まれるはず」と話していた企画のようです。

 北野武監督が描くのは、80を超える説があるといわれる「本能寺の変」の羽柴秀吉(豊臣秀吉)黒幕説。『史上最狂の”本能寺の変”』というキャッチフレーズがついています。

 本能寺の変は、日本史上最大といってもいいぐらいの暗殺事件であり、多くの人が真相を求めている歴史の謎のひとつです。

 そして大河ドラマでも数多く放送されている事件なので、多くの方が認識している内容やイメージは似ていると思います。はじめに「本能寺の変」のイメージを共有したいと思います。



第1章:本能寺の変とは?

 1582年6月2日の早朝、明智光秀の軍勢約1万3000は、織田信長が宿所としていた京都の本能寺を包囲し、襲撃。その後、信長は寺に火を放って自害したというのが「本能寺の変」です。一度↑の動画を観て、脳内にイメージされる「本能寺の変」をリセットしましょう。


「絵本太閤記」

 信長殺害の動機を光秀自身が真意を明かすことなく世を去ったため、さまざまな憶測を呼んでいます。その中でも歴史小説や時代劇などで繰り返し描かれてきたのが光秀が信長に恨みを抱いていたとする「怨恨説」です。

 『川角太閤記』では、安土城にやって来た徳川家康の饗応(接待)を任された光秀が、用意した魚を腐らせてしまったため、信長が光秀を解任したと伝られています。

 これらの史料が拡大解釈され、数々のドラマで家康が光秀の用意した料理を「臭い」と発言したことが引き金となり、饗応(接待)の席で信長(もしくは小姓の森蘭丸)が光秀を殴打し、辱める場面として描かれました。つまり、当時のエンターテイメントの格好のネタだったのです。

 また、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによる『日本史』でも、密室で信長と光秀が相談している際に光秀が口応えしたことを受け、信長が「足蹴にした」と記していますが、密室で起こった出来事をどうやってフロイスは知ったのでしょうか?

 ↑の錦絵は「本能寺焼討之図」です。織田信長が明智光秀の家臣に槍で突かれそうになるシーンを描写していますが、明治時代に描かれたもので想像上のものです。

 ちなみに光秀の敵は本能寺にありという名言も後に創作された言葉であると考えられています。

 NHKは↑の動画でネタっぽく「本能寺の変」を描いていますが、本能寺の変自体、エンターテイメント、ミステリー要素が強い事件であることがうかがえます。これが本能寺の変の真相を迷宮入りにしている気がします。

 今回は、多くの黒幕説の中でも「一本の動画」から辿り着いた「真相」を皆さんと一緒に追っていきたいと思います。



第2章:一本の動画

 ↑の動画は偶然YouTubeのオススメにあがってきた動画に字幕をつけたものです。私には時々こういったことが起こるので、AIが情報をアシストしているのではないか?と考えるようにしています。

 動画は途中で終わってしまっているので、とても残念ですが、逆にそれがきっかけとなって自分で調べることになり、それが新たな発見につながりました。それを共有していきたいと思います。

 そして、この動画で「イエズス会」に言及している佐宗邦皇は、Wikiによると東京大学法学部卒業後の1975年、日本航空に入社し、国際業務室、経営企画室、客室乗員部、地球環境委員会事務局等を歴任。「JAL本社移転問題では、経営悪化を懸念し、組合委員長として会社を批判」とあります。

 それだけでなく2009年8月8日、同氏が主宰する「ワールドフォーラム」月例会で「御巣鷹山JAL123便墜落事件」の真相について言及後、翌日に帰らぬ人となっています。「月例会」で、口にした「お〜いお茶」に毒が盛られれていたのではないか?という噂が立っていますが、真相はわかりません。

 動画では「朝廷(近衛家)」「イエズス会」が黒幕として取り上げられています。最初に「近衛家」の動向を探っていきましょう。



第3章:近衛家

左:近衛牡丹
右:藤原北家

 近衛家は、藤原不比等の次男である房前を祖とする藤原北家の嫡流で、公家の五摂家筆頭の家系です。また華族の公爵家のひとつで、人臣で最も天皇に近い地位にある家とされています。別称は陽明家です。

「近衛家 家系図」

 また五摂家は「近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家」の5つの藤原氏嫡流の一族を指します。つまり、近衛家は藤原氏の中でも一番格式の高い家です。

 そして歴史通の間では、太平洋戦争一の戦犯と囁かれる近衛文麿も近衛家出身です。日本新党を立ち上げた細川護煕元総理もいます。

 次に室町幕府の将軍「足利家」と親戚関係であり、織田信長の首塚が発見されないよう、天皇の位牌を置いたとされる近衛家当主「近衛前久」について探っていきます。



近衛前久

 人生を流浪に費やした苦労人です。また、当代屈指の文化人でもあり、中央の文化の地方波及にも貢献しています。また、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、書道にも精通しています。

 さらに馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えているほどの器量の持ち主です。

 親戚関係にあった15代将軍の足利義昭とは仲が悪く、前関白の二条晴良と合わせて対立関係にありました。後に義昭によって朝廷から追放され、関白を解任。その頃から織田信長と親交を深めます。

 信長とは得意の鷹狩りなどで親交を深め、本願寺側との調停により、10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事で信長の評価は高く、前久が息子にあてた手紙によると、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」との約束を得たといいます。


しかし


「本能寺の変」発生から
前久に対する雲行きが怪しくなります


 6月2日、本能寺の変によって失意の前久は剃髪し、法名「龍山」を号します。しかし「本能寺を攻撃した明智軍が前久邸から本能寺を銃撃した」という中傷に遭い、信長の三男 信孝や羽柴秀吉から詰問されます。

 そのため徳川家康を頼り、遠江国浜松(静岡県浜松市)に落ち延びます。ここで動画内の信長の首塚がある「西山本門寺」につながります。



西山本門寺

西山本門寺

 西山本門寺は、静岡県富士宮市西山にある1344年に日興の弟子である日代によって創建された寺院で、法華宗興門流の大本山です。

信長公首塚

 寺伝によると、18代貫主の日順の父である原宗安(原志摩守)は、本因坊日海本因坊算砂)の指示により、信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊(ヒイラギ)を植えて首塚に葬ったと伝えられています。信長の首塚に植樹された柊は推定樹齢450~500年とされ、年代的にも符合しています。

 柊は節分に鰯(イワシ)の頭と一緒に飾って魔除けにする風習がありますが、キリスト教ではキリストの足元から初めて生えた植物とされ、トゲの葉や赤い実は「キリストの流した血と苦悩」を表し、そこから別名「キリストの刺」「聖なる木」とも呼ばれています。



本因坊日海

本因坊日海

 指示したとされる本因坊日海は、囲碁の棋士で京都寂光寺本因坊の住僧を務め、本能寺の変の前夜、信長の御前で囲碁の試合を行っていたと伝えられています。ちなみに1587年に家康に招かれ、駿府城で碁を打っています。

 その後、日海は1611年に僧侶としての最高位の「法印」に叙せられ、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖になるとともに碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられ、家元制度の基礎となっています。

 なぜ、日海が原宗安に首の埋葬場所として本門寺を指定したかというと、本門寺の住職だった日順は原宗安の子孫だったといわれています。そして、日順の自筆による本門寺の過去帳には「天正十年六月、惣見院信長、為明智被」と記載されています。


「討」ではなく「誅」


 「誅」は、「朝敵(朝廷の敵)」である人物を討つときに使う単語です。ますます「近衛家」や「朝廷」が関与している可能性が強くなったところで、動画で実行犯とされる「イエズス会」に迫ります。



第4章:イエズス会

 日本が戦国時代の頃、ヨーロッパでは、ローマ・カトリック教会の信仰理解に反抗し、プロテスタントと呼ばれる宗教改革を起点に生じた抵抗運動が各地で起こり、宗教戦争に発展しました。

イエズス会紋章(1595年)

 カトリック側では、その動きに対抗するための「対宗教改革」が始まりました。その中核が1534年にパウルス三世によって創設されたイエズス会です。イエズス会設立当初のメンバーは以下のとおり。

「モンマルトルの誓い」メンバー

  1. イグナティウス・デ・ロヨラ(バスク地方)

  2. フランシスコ・ザビエル(バスク地方)

  3. ピエール・ファーヴル(フランス)

  4. アルフォンソ・サルメロン(スペイン)

  5. ディエゴ・ライネス(スペイン)

  6. ニコラス・ボバディリャ(スペイン)

  7. シモン・ロドリゲス(ポルトガル)

 イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」と呼ばれていました。軍隊的な規律で知られ、世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に海外に派遣しました。

 イエズス会の意義は布教だけでなく、主要な任務として大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んでいます。1556年のロヨラの逝去時までにイエズス会は三つの大陸で74の大学を運営しています。

 現在、日本で最も有名な大学は「上智大学」です。フランシスコ教皇もイエズス会出身。

 日本で最も有名な宣教師のフランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王ジョアン三世の要請で東インドに派遣され、ゴアを拠点に宣教監督になります。

 1549年に、イエズス会士コスメ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエル(中国人)、アマドール(インド人)、ゴアで日本人として初めて洗礼を受けたヤジローら3人の日本人とともにゴアを出発し、薩摩(鹿児島)の坊津に上陸します。

 1549年8月15日はザビエルが日本に初めてその足跡を記した日として記録され、この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を「聖母マリア」に捧げています。

 つまり、1945年8月15日を終戦の日にしたのも、カトリックの影響があると思います。その後、1549年9月に薩摩の守護大名島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ています。

 これが、日本にキリスト教が広がるきっかけです。薩摩が明治維新で大活躍し、現在もひっそりと国体の中枢を担っているのも、キリスト教や貿易が関係していると思われます。まだ伝えたいことはあるのですが、明治維新の背景は『Open Your Eyes Part2』をご一読ください。

 ここから具体的に「本能寺の変」における外国人宣教師の動向を追っていきます。最初に「織田家とイエズス会」の関係についておさらいします。



織田信長とイエズス会

 近年では、織田信長がイエズス会を介して硝石や鉛を大量に確保していたことが指摘されています。これはイエズス会宣教師によって「タイ産鉛」「中国産硝石」がセットで輸入され、堺商人を経由して信長に届けられたとみられています。

 イエズス会と織田信長の親交の背景には、キリスト教保護の見返りとして「鉄砲」などの武器を調達する「協定」が結ばれていたと思います。

 そして南蛮貿易を支えたのが茶人でもある「堺商人」です。詳細については↓の記事で、ご確認ください。



アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

 1580年、安土城を築いて勢力を拡大していた頃、スペインによるポルトガル併合が起こります。この時、イエズス会から派遣されたのがアレッサンドロ・ヴァリニャーノです。 

 この頃からイエズス会と信長との間に亀裂が入ります。ヴァリニャーノは5カ月近く安土に滞在していたにもかかわらず、その間にどのような交渉が行なわれたのか、日本側の史料が残っていないのです。

 亀裂が入るきっかけは、安土城内の摠見寺に自分を神として祀らせ、家臣や領民に参拝させているのを見たヴァリニャーノが「このまま信長が日本を統一すれば、いずれスペインとの間で戦争が起こる」と推測したのではないかと思います。

 そのため、堺商人や朝廷側の近衛前久を味方につけ、信長暗殺を計画したのではないかと思います。ちなみに「本能寺の変」の数日前から家康は「堺」に滞在しています。

 しかし、本能寺の変を報告書にまとめたルイス・フロイスや信長と親交が深かったヴァリニャーノは九州に赴いていました。

 そこで、本能寺近くのキリシタン教会(南蛮寺)にいたフランシスコ・カリオンが報告書を作成し、安土の教会にいたニェッキ・ソルド・オルガンティーノは急遽京都に向かい、光秀がいた坂本に立ち寄っていることが、同行したシメアン・ダルメイダによって報告されています。

バチカン使徒文書館

 これらの報告書は現存していないのですが、のちにルイス・フロイスの手によってまとめられ、バチカン図書館に収められています。

 そのフロイス史料をポルトガル語原典から訳した浅見雅一の「キリシタン教会と本能寺の変」は、とても興味深い著書です。

 また、要塞といわれていた本能寺も、実際は100名近くの家臣が寝泊まりできるほどの場所に信長がいなかったなど、次々と新たな証拠が出てくるのもさまざまな憶測を呼ぶ要因になっています。次に近衛家とイエズス会との関係を追っていきます。



近衛家とイエズス会

 動画で一瞬だけ映ったお宝は、東京国立博物館主催の「宮廷のみやびー近衛家1000年の名宝」で展示された「表具裂」であることがわかりました。

 残念ながら検索をかけてもわかったのが「これだけ」であり、この「表具裂」にまつわる情報は全く出てこなかったので、とても残念です。

 しかし、当時のカタログを見つけることができたので、ご覧になりたい方は↓のリンクからダウンロードしてください。

  この表具だけでイエズス会との関係が深かったとするのは無理があるので、近衛家と徳川家の関係で気になる点を深掘りします。



第5章:徳川家康「改姓」の歴史

 実は、家康が「松平」から「徳川」に改姓した経緯に近衛前久が関係しています。その経緯を引用してから、後で解説していきます。

 永禄9年(1566年)12月、家康は従五位下・三河守に叙位任官され、あわせて「松平」から「徳川」に改姓し、翌年1月に勅許を得られた。こうして晴れて「徳川」を名乗った。

 そもそも家康の本姓は「源」だった。本姓とは天皇から下賜された姓のことで、名字とは別個のものである。家康は、新田氏支流世良田氏系統の「清和源氏」であると自称していた。

 しかし、家康が与えられた口宣案には「藤原家康」と書かれていた。なぜ家康は本姓を「源」から「藤原」に改姓したのか?まずこの問題を取り上げることにしよう。

 慶長7年(1602年)2月20日付の近衛前久の書状によると、正親町天皇は家康を公家として処遇しようとしたが、家康の家系の「徳川」では、先例がなかった。

 ところが吉田兼右は、徳川の源氏には2つの系統があり、惣領の系統の姓が藤原氏であると報告された。そこで家康の本姓を「源」から「藤原」に変更し、叙位任官が叶ったのである。当時は先例を重んじたので、こうした「裏技」を使ったのである。

 永禄9年12月3日付の近衛前久の書状には、家康の「松平」から「徳川」へ改姓した事情が書かれている。家康が「徳川」に改姓するまで、書状などに「徳川」と署名した文書はない。改姓以後は、わずか2通の書状があるだけだ。

 前久の書状には、誓願寺の慶深なる者が「徳川氏はかつて近衛家に仕えていた」と証言したと書かれている。「松平」のままでは、従五位下・三河守への叙位任官が困難だったが、これが決め手となった。

 そこで家康が「徳川」に改姓することで、叙位任官を認めてもらうよう画策したと指摘されている。こうして家康は、晴れて公家の仲間入りを果たした。家康は叙位任官に際して、間を取り持った近衛氏、吉田氏にお礼をすることになった。

 近衛氏には馬が進上されたが、約束した200貫文(現在の貨幣価値で約2000万円)のうち、わずか20貫文(約200万円)しか献上されなかったという。

 吉田氏に至っては、存命中に約束した馬が献上されることがなかった。また朝廷は、家康に対して四方拝の費用負担を求めた。家康はその費用を払って改姓し、叙位任官されたのである。

家康が「松平」から「徳川」に改姓した裏事情を探る」より

 つまり、「徳川」を名乗ることが、公家入りと征夷大将軍を名乗る「条件」だったのです。また、ヨーロッパ同様、「叙位任官」が家系の権威付けとなっています。「徳川」の改姓に力を貸していたのが近衛前久です。それもあって「秀吉」の手から前久を守ったのではないかと推測します。 

 皇帝と教皇の関係は、日本でいえば「幕府」と「朝廷」との関係と同じ事がいえます。政治形態や支配構造が世界で共通するのも、歴史を学ぶにあたり、注目すべき点のひとつです。それが「ガイアの法則」なのか「歴史を造っている勢力の仕業」なのか、まだ分かりません。

 叙任権をローマ皇帝と教皇が争ったヨーロッパの出来事は、佐山みはるさんが分かりやすくまとめています。ぜひご覧ください。

 そして改姓に関わったもう1人の人物、吉田兼右と息子の「兼見」が「キーパーソン」です。



吉田兼右

吉田兼右

 Wikiの記載は少ない人物ですが、戦国時代の公卿で侍従・神祇大副右兵衛督の要職を務め、8代目吉田家当主であり、24代卜部氏当主です。つまり、祭祀のトップであり、吉田神道を全国展開させた大人物です。

6月7日。兼見、御使として早々に安土へ向けて京都を出発。安土城に入城し、光秀と対面。御使の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を渡す。光秀は、兼見へ今度の謀叛の存分を雑談し、蒲生賢秀が未だ出仕していないことを伝える。兼見、安土城を出て城下の町屋に宿泊す。錯乱していて不便であった。

6月8日。兼見、上洛するため、早天に安土を発足す。光秀上洛のため、明日の摂津への軍事行動に備え、明智軍は安土城を出動。先勢は山科・大津に布陣していた。兼見、吉田郷に帰宅し、休息を取った後、誠仁親王に伺候して直接委細を上奏す。

兼二別本

 吉田兼右の息子「兼見」が書き記した↑の「兼見卿記」には、本能寺の変があった天正10年だけ正本別本があり、上記記載内容は正本では「削除」されています。つまり、アリバイ工作です。 

 もはや「誰が黒幕か?」というより「誰が得をしたか?」と考えたほうが合理的です。そして一番「損をしている」のが明智光秀です。ここで、ようやく明智光秀に迫ります。



第6章:明智光秀

 明智光秀は、とても有名ですが、出自はさまざまな史料によって混同されており、父と母は誰なのか、源氏は美濃源氏なのか、子供は何人いたのか、親戚は誰なのかといった説から始まり、様々な書物が書かれていて断定することができないのが現状。つまり、出自がはっきりしていません。

明智家と細川家の相関関係

 しかしながら格式高い連歌会に名を連ね、一流文化人と認められていた細川藤孝に伴われて同座し、連歌を通じて幕府・朝廷・連歌界に幅広い人脈を有していました。のちに15代将軍の足利義昭に仕え、織田信長にも仕える「両属」の関係から、やがて織田家の直臣になったといわれています。

 当記事では「怨恨説」を無視し、なぜ本能寺の変の罪を一身に背負ったのか?という視点で考えていきます。

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