という夢を

(著)バカ公園・夢

お店に着くと、尾木ママはすでにハンバーグをつまみにビールを飲んでいました。
「お待たせしてすみません」
コートを脱ぎながら私が謝罪をすると、
「いいの、いいのよぉ〜」
アルコールが回り始めているのでしょうか、尾木ママは上機嫌に言いました。

私の元へ、ウェイターが注文を取りに来ました。
尾木ママに促されるままに、私もハンバーグとビールを注文しました。
本当は、食欲なんてまったくなかったのですが。
移住を翌日に控えた私は、過剰にナーバスになっていたのでしょう。

注文した私のビールが到着すると、尾木ママはほとんど空になったグラスを掲げました。
かちんと控えめな音を立てて、私たちは乾杯しました。
ビールはよく冷えていて、一息にグラスの3分の2ほど飲んでしまいました。

「それでね、移住のことなんだけど」
「はい」
「手配は全部終わってるの。あとはね、あなた次第よ」
「はい」
「改めて説明するわね」

尾木ママは、鞄から書類が入ったクリアファイルを取り出し、
私の前まで、テーブルの上を滑らせました。
その仕草が、いつもの優しい尾木ママとは違うと感じた私は、
もう後戻りできない、と思いました。
もちろん、移住は私が望んだことですし、この世界に未練はありませんでしたが。

「移住先には、あなたはいなかったわ。これは好都合よね。それでね、
向こうであなたが名乗る名前、戸籍、その他諸々を用意したわ」
尾木ママはジェスチャーで、私にクリアファイルから書類を取り出すように促します。
取り出した書類には、私が移住先で名乗る予定の名前などが記されています。
おそらくこれは、移住先に元々住んでいた人間の身元を手に入れたものでしょう。
その人はもう、その世界にはいないのだと思います。私のように、移住したんだと思います。
私たちのような移住者は、消えた世界での身元を譲り、新しい世界での身元を譲り受けます。

私はこの世界では自由に生きられないことが決まっていましたから、移住を望みました。
大きな規律違反であることは承知の上です。
私の同級生たちは、そのほとんどがすでに使命を全うして命を落としています。
私だけ、使命から逃れようなど、到底許されることではないでしょう。
それでも、私は生きたい。自分の命を、自分のために使いたい。そう思ってしまったのです。

話をもどしましょう。

尾木ママは私に移住先での身元についてや、移住先で注意すること(例えば、微妙な歴史のずれ、文化的差異など)を一通り説明してくれました。
「大変なこと、たくさんあると思う。でもね、やっぱり生きてほしいのよぉ〜。
死ぬために生まれたなんて、認めたくないじゃない。向こうでも、私に会いに来てね」

尾木ママは優しく微笑みました。
私も、小さくうなずきました。

それが、その世界で過ごした最後の夜でした。

私はポータルを通過し、移住しました。
私は自由でした。
見上げた空は青く、とても高く、澄んでいました。
そんな時、ふと思い出してしまいました。
卒業式の日、卒業生は特別に好きなケーキを食べることができたことを。
友人を作るのが苦手だった私は、一人で残ったケーキをひっそりと食べたこと。
校門を出て振り返ったときに見えた、夕日に照らされた校舎のことを。
そして、同級生たちがたどった運命のことを。

私は、自分の命を、自分のために使うことを誓いました。改めて、強く。

そして、この世界の尾木ママに会いに行きました。
指定通りの日に、指定通りの時間に、指定通りの電車に乗って。

私が店に着くと、尾木ママはすでにハンバーグをつまみにビールを飲んでいました。
「お待たせしてすみません」
「やあ、いいんだ。こちらも先に始めてて悪いね」

目の前にいる尾木ママは、ママではありませんでした。
この世界では、尾木ママはママではないようでした。

「さあ、話をきかせてくれないか。そっちの私は、どんな人間だった?」

私は思い出していました。
尾木ママの優しい目を。ほうれい線を。ほうれい線のすぐそばにあるほくろを。
笑顔を。目尻の皺を。

「こっちのあなたは、優しくて、私の恩人で・・・」
私を見つめる視線を感じます。あの日と同じような優しい視線を感じます。

「ママでした」

「ママ?」

「はい。ママでした」

「ママ、ね」

「はい」

「なるほど」

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