『型』って嫌いだったわ。

少し前から1日水2リットルチャレンジをこなしてきて、肌荒れが減ったことを実感してきました。今年の秋は暖かい。

さて、タイトルのとおり、僕は『型』ってもんが嫌いみたいって話です。
「こうあるべき!」という主張を聞くと「は?」って思ってしまいます。
もはや条件反射的に。

昔から、なんとなくそういう性質の人間なんだろうなって気はしていたんですが、社会に出てからより一層強く感じるようになりました。
そうなった要因も、段々と解像度が上がってきたので記しておきます。

両親が教員

これは結構影響あると思います。
先生によってもマチマチだと思うのですが、地元での認知度がある先生と、そこまでない先生がいる。
うちは父親の部活動や教員としての功績?によって認知され具合がエグかったので、物心ついた頃から「息子」として扱われていました。
(ちなみに、30歳を超えた今でもその空気はあるし、父親は今でも休日に一緒に出かけると100%の確率で声を掛けられます笑)
多感な頃は、それをしんどく感じたこともありました。
(今はないよ。尊敬してます)

で、なんでこれが大きな要因になっているか。
両親のせいとかではなく、そう周りから見られていることを自分で過剰に意識して、『こうあるべき』という鎖で自分を縛っていたんです。

自分は常に見られている(学校生活も部活も)
問題になるようなことはしてはダメ
こういうことが起きたらこう対処しなきゃいけない

こんなことばっかり考えて青春時代を過ごしていました。
でも僕だって思春期の頃は他に違わずハミ出したくなって、実際に悪さをしたことだってあります。
(ハミ出し方もかわいいハミ出し方だったと思う)
でもそれがバレた時だって、感じる空気は
「親の顔に泥を塗った」
「息子はどうしようもない」
って類いのもの。でもこれも多分、自分で勝手にそう思い込んでただけ。
当時の周りの大人たちは、もっと理解してくれていたかもしれない。
でも、そうやって情けをかけられるのも嫌だって思ってた。
(なんて扱いづらい奴笑)

そんなこともあり、自立して自分の意思で色々判断し、その責任も負うという、いわゆる『大人』になった時、「こうあるべき」を常に疑う偏屈な奴になってた。多分、ずっと疑って生きてきたから。

でも、社会に出て感じるのは、大人たちは結構な割合で「こうあるべき」の中で生きているということ。組織のルールや社会人としての建前に縛られている。かくいう僕は、すでに人生の半分以上を『こうあるべきワールド』で過ごしてきたので、その世界から出て俯瞰的に捉える術を知っている。
決して奇を衒っている訳ではなく、別の視座を持ててるのかもって話。

良くも悪くも作用する力なので、この力を上手にコントロールできるようにならなきゃね。

ということで、noteも「毎日更新!」とか「何文字以上は書くぞ!」ってのは僕には無理です笑
『型』があると苦しくなっちゃうので。
気が向いた時に、ゆるく、つらつらと。
今、何かしらの『型』の中で苦しんでいる人も、いつか外の世界に出られるし、その時は物事を多角的に捉えれるようになると思うよ。

(結局何が言いたいのか笑)

ではまた!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?