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第六章 マフノ叛乱運動と反ユダヤ主義

原文:http://www.spunk.org/texts/writers/makhno/sp001781/chap6.html
初出:Dyelo Truda(労働者の大義)、第30~31号、1927年11月~12月、15~18ページ

過去およそ7年にわたり、マフノ叛乱革命運動の敵はこの運動について非常に多くの嘘をつきまくっている。こうした輩は一度たりとも赤面しないのだと驚く人もいよう。むしろ特徴と言えるのだが、私自身とマフノ叛乱に--実際、私達の運動全体に--こうした恥知らずの嘘を向けることで、全く異なる社会-政治陣営の人々が団結できるようになっているのである。その中には、あらゆる信条のジャーナリスト達、叛乱運動の邪魔をする著述家・学者・素人、一匹狼や空論家がおり、時として前衛的な革命思想の先駆者だと堂々と自称している。ヤノフスキーのような『労働者の自由な声』紙(訳注:ニューヨークで出版されていたイディッシュ語アナキズム新聞)のアナキストとされる人物を思い浮かべる人もいるだろう。こうした輩は、あらゆる信条・あらゆるタイプの人間であり、私達を知りもしないのに、時として自分の主張すらも全く信用していないのに、厚かましくも私達について嘘を付く。虚偽の締めくくりは当てこすりときた。怒鳴り散らす根拠を立証しようとせず、未来永劫私達を罵り続ける。実際、このヒステリーをほんの少しでも正当化できる根拠はあるのだろうか?少しばかり前、私達マフノ叛乱運動は、たった一つの証拠も資料確認もなしに、ポグロム実行者だと言われた。こうした厚顔無恥な嘘全てのために、私は、フランスとロシアのリバータリアン新聞の計らいで、世界中のユダヤ人に呼び掛け、こうした愚行全ての出典を詳しく説明するよう依頼した。それによって、ポグロムに関する具体的詳細を--私が率いたウクライナ勤労者革命運動がポグロムでどのような扇動や教唆を実行した(もしくは開始した)のかを--提供してもらおうとしたのだ。

パリの有名な「『フォーブール』クラブ」だけが私の「万国のユダヤ人に訴う」に返事をくれた。クラブの幹事達は新聞を通じて、1927年6月23日の会議で討論の際に以下の問題を論じると知らせた:「マフノ『将軍』はユダヤ人の友人だったのか、それとも虐殺に加担したのか?」そして、私達のフランス人同志ルコワンがマフノを擁護するスピーチを行うと付け加えていた。

言うまでもなく、この「フォーブール」の討論開催を知ると、すぐに私はこのクラブのポルデ会長に接触し、手紙を送り、ルコワンを辞退させて私自身にクラブで話す機会を頂きたいと依頼した。前向きな返事をもらい、1927年6月23日、私は集会に姿を現した。

しかし、このクラブの討論は特殊なやり方で行われ、私に関わる件が扱われたのは議事進行の終盤近くだった。私が発言できたのは午後11時頃と非常に遅く、この問題にとことん踏み込めなかった。ウクライナにおける反ユダヤ主義の歴史的性質・源流・パターンを取り上げてこの問題に触れるだけで精一杯だったのである。

多分、私の敵は、私の手に負えないこの要因、そして何よりも私がこの要因のために動きを封じられていた事実を利用するだろう。実際私は、フランス警察の規則によって、同じ考えを持つフランス人同志との連絡を禁じられていた。そのため、私は独自の公開会議を開催してこうした誹謗への反駁を行えなかった。また、厚かましくも嘘を付き、私がパリで「裁判にかけられた」と話している人もいた。嘘の上塗りだ。敵はこの嘘を取り入れた。ロシアとウクライナで過去30年以上苦しんできたユダヤ人の権利と独立を偽善的に擁護している輩がこの嘘を利用しているのだ。

こうした嘘は少しでも事実と一致し得るのだろうか?ウクライナのユダヤ人勤労者は皆、他のあらゆるウクライナ勤労者同様、私が長年指導者だった運動が、本物の革命的労働者運動だったとよく分かっている。この運動が、騙され・搾取され・抑圧されていた勤労者達の実践組織を、人種を理由に分断しようとしたことなど一度たりともなかった。全く逆だ。この運動は、抑圧者達、特に骨の髄まで反ユダヤのデニーキン軍に対して行動を起こせる強力な革命的同盟へと彼等を団結させようとした。この運動は、一度たりとも、ポグロムを任務として実行しなかったし、それを唆しもしなかった。それ以上に、ウクライナの(マフノ叛乱)革命運動の前衛には多くのユダヤ人勤労者がいたのだ。例えば、グリャイポーレ歩兵連隊には二百人のユダヤ人勤労者だけで構成される歩兵中隊があった。また、司令官も含め砲兵と守備隊全員がユダヤ人の4連装砲兵隊もあった。そして、マフノ叛乱運動には、個人的な理由から、混成の革命戦闘部隊に入りたがった多くのユダヤ人勤労者がいた。誰もが皆、自由な戦士であり、志願兵だった。心から勤労者の共同活動のために戦っていた。こうした無名の戦士達は経済組織の中に代表者を置き、軍全体に食料を再補給していた。グリャイポーレ地方のユダヤ人の入植地と村落に行けば、これら全てが証明されるだろう。

こうしたユダヤ人叛乱勤労者は皆、長期間--数日とか数カ月ではなく丸々数年間--私の指揮下にあった。誰もが、私・参謀・軍全体が反ユダヤ主義とそれが生み出すポグロムに関してどのように行動していたのか目撃している。

私達の側に見られたポグロムや強奪の計画は全て、蕾のうちに摘み取られた。こうした行為で有罪となった者は皆、その悪事のために例外なく即座に射殺された。例えば、次のような場合である。1919年5月、ノヴォ-ウスペノウカから来た叛乱農民数名が、後衛で少し休むために前線を離れる際に、ユダヤ人居留地の近くに2体の腐乱死体を見つけた。彼等は、ユダヤ人入植地のメンバーが殺した叛乱兵の死体だと考え、入植地に怒りをぶちまけ、住民を30人ほど殺した。同日、私の参謀はこの入植地に調査委員会を派遣し、虐殺犯の痕跡を見つけた。私はすぐに彼等を逮捕すべくこの村に特別派遣隊を送り込んだ。ユダヤ人入植地襲撃の責任を負うべき者は6人おり、そのうち一人は地区のボルシェヴィキ人民委員だった。全員1919年5月13日に銃殺された。

1919年7月にも同じことが起こった。私はデニーキンとトロツキーの集中攻撃を受けていた。トロツキーは当時、党に「マフノ叛乱運動拡大の可能性が大きくなるぐらいなら、ウクライナをそっくりそのままデニーキンに服従させる方がましだ」と断言していたのだ。そして、私はドニエプル川の右岸に渡らざるを得なくなっていた。これは、私が著名なグリゴーリエフ、ヘルソン地方コサックの長と会った時だった。私と叛乱運動について広まっているバカげた噂に騙され、グリゴーリエフは、デニーキンとボルシェヴィキに対する共同キャンペーンの実施を視野に、私と私の参謀と同盟を結ぼうとしたのだった。

私は会談開催に条件を付けた。コサックの長(オタマーン)グリゴーリエフは、エリザヴェトフラードのユダヤ人に対して、2~3度ポグロムを行ったと報じられていたが、私には自分でそれらを確認する時間がなかった。そのため、2週間以内にグリゴーリエフが私の参謀とウクライナ(マフノ派)革命叛乱軍ソヴィエトに、ポグロムに関する全ての報道には根拠がないと証明する文書を示すよう求めたのである。

この条件によってグリゴーリエフは考えざるを得なくなった。そして、有能な兵士・戦略家の彼は承諾した。彼は、自分がポグロム実行者ではないと証明しようと、自分の従者に社会革命党ウクライナ支部代表がいることを自慢した。そして、彼を革命の敵だと非難した「アピール」を参謀の名で発したと私を非難し、自分の誠意を示すために、グリゴーリエフは自分に随行していた政党代表者達を紹介したのである。それは、ウクライナ社会革命党のニコライ=コポルニツキー・ウクライナ社会民主党のセリアンスキー(別名ゴロベッツ)とコリウズニーだった。

これは、私が主力戦闘分遣隊と共にエリザヴェトフラード郊外にいた時の出来事である。私は、この機会を利用して、コサックの長グリゴーリエフがこの町を占領していた時に何を行ったのか自分で確認しようとした。これが革命家としての私の責務だと判断したのである。同時期、途中で捕まえたデニーキン軍のスパイが、グリゴーリエフは、ヘルソン地方の労働者が知らないうちに、ボルシェヴィキに対する共同軍事行動に向けた結束強化のためにデニーキン軍本部と自分の運動との調整をしようとしていると私に告げていた。

エリザヴェトフラードと近隣村落の住民だけでなく、グリゴーリエフの部隊にいる遊撃兵からの話では、グリゴーリエフが町を占領する度にユダヤ人が虐殺されていたという。彼の立会いの下、彼の命令で、その遊撃兵は約2000人のユダヤ人を殺した。その中には若い盛りのユダヤ人青年がおり、その多くがアナキスト・ボルシェヴィキ・社会主義の青年組織メンバーだった。中には、刑務所から連れだされて虐殺された者もいた。

こうしたこと全てを知ってすぐ私は、ヘルソンのオタマーン --「社会主義革命家」(詐称)--グリゴーリエフを、デニーキン軍のスパイ・公然のポグロム実行者・その支持者達がユダヤ人に対して行っている行為に対する直接の犯人だ、と断言した。

1919年7月27日のセンツォヴォ会談で、グリゴーリエフは、彼の正体を直ちに糾弾され、衆人環視の中その場で処刑された。この処刑とその理由は次のように発表された。「ポグロム実行者グリゴーリエフはマフノ叛乱の指導者達(バトコ=マフノ・セミョーン=カレトニク・アレクシス=チュベンコ)によって処刑された。マフノ叛乱運動はこの行為について歴史の前で全責任を負う。」この声明は叛乱軍ソヴィエトのメンバーと、ニコライ=コポルニツキーを含む社会革命党の出席者(原註:社会民主党のセリアンスキーとコリウズニーはグリゴーリエフ処刑後に完全に姿を消した)によって承認された。

私は、ポグロム実行者やその準備に追われている人に対してこの種の扱いを常に用意していた。そして、叛乱軍自身の兵隊であろうと外部の者であろうと、略奪者達も容赦しなかった。例えば、1920年8月、私達は、レフチェンコとマトヤンシャの指揮下にあるペトリューラ派民族主義の傾向を持つ2つの分遣隊を包囲していた。彼等は私達に使者を送り、私達の兵士として合流したいと言ってきた。参謀と私は彼等を受け入れ、入隊に同意した。だが、これらの分遣隊の民族主義分子が略奪と露骨な反ユダヤ主義に関与していたと気付き、直ちにポルタヴァ地方のアヴェレスキという村で即座に彼等を射殺した。数日後、彼等の指揮官だったマトヤンシャも(ポルタヴァ地方の)ジンコウという町で挑発的行動を取ったために銃殺された。彼の分遣隊は武器を剥奪され、兵士の多くが解雇された。

これは1920年12月に赤軍で再現された。私達はブジョーンヌイ騎兵軍団の猛攻撃に耐え、アレクサンドロフスク地区のペトロヴォという村の近くで彼の軍の第11師団(訳註:英語原文サイト・The Anarchist Library・Marxist.orgでは「XIVth」と書かれているが転記ミス。原書は「XIth」)を撃退し、この師団の司令部全体と参謀全員は第14騎兵師団によって捕虜にされた。第11師団の捕虜の多くが、(彼等の言葉によれば)独裁的な人民政治委員と戦うために叛乱軍に参加したいと言ってきた。ヘルソン地方を横断し、住民の半数以上がユダヤ人のドブロヴェリチカという村に着くと、元ブジョーンヌイ軍・元ペトリューラ軍の騎兵の一部が、マフノ派が「ユダ公」に敵意を持っているという元部隊に広まっていた噂に基づいて行動し、ユダヤ人村民の住宅を略奪し始めた。老練のマフノ軍叛乱兵がこれに気付くとすぐさま全員を逮捕し、その場で射殺した。

このように、マフノ叛乱運動は、存在している間中、ポグロム実行者の反ユダヤ主義に対して容赦ない方針を取っていた。この叛乱運動が、ウクライナにおける本物の革命的勤労者運動だったからだ。

ネストル=マフノ

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