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第七章 クロンシュタット叛乱を偲んで

原文:http://www.spunk.org/texts/writers/makhno/sp001781/chap7.html
初出:Dyelo Truda(労働者の大義)、第10号、1926年3月、3~4ページ

3月7日は、この日クロンシュタットで起こった出来事に何らかの形で関わったいわゆる「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の勤労者にとって痛ましい日である。万国の労働者にとっても同じぐらい痛ましい記念日だ。というのも、クロンシュタットの自由な労働者・水兵が、ロシア革命を死に至らしめようと大忙しの赤色死刑執行人「ロシア共産党」とその手先「ソヴィエト」政府に何を要求したのか、記憶が蘇るからである。

クロンシュタットはこうした国家主義絞首刑執行人に対して、革命を実行したのは勤労者なのだから、町と田舎の勤労者に属していた全てを勤労者に返せ、と主張した。クロンシュタットの人々は、十月革命の根幹を実際に行うよう主張したのだ:

労働者と農民、アナキストと社会革命党左派に、自由選挙のソヴィエトを・言論の自由を・出版の自由を。

ロシア共産党はこれを国内における自分達の独占的立場に対する法外な挑戦と見なした。そして、革命家と労働者の友人という仮面の背後に臆病な死刑執行人の顔を隠しながら、クロンシュタットの自由な水兵と労働者を反革命分子だと発表し、何万人もの従順な警官と奴隷達--チェーカー支持者・クルサンティ(アレクサンドル=スキルダ註:赤軍士官候補生)・党員など--をクロンシュタットに送り込み、優れた闘士・革命家――クロンシュタットの人々――を虐殺しようとした。クロンシュタットの人々は革命的大衆を前に何ら疾しいことはなかった。彼等の唯一の罪は、勤労者の権利と革命を踏みにじっているロシア共産党の嘘と臆病に憤慨したことだったのだ。

1921年3月7日午後6時45分、砲火の嵐がクロンシュタットに対して吹き荒れた。当然であり必然であったように、クロンシュタットは反撃した。自分達の要求のためだけでなく、自分達の革命的権利から闘争しているこの国の勤労者のために、反撃した。この権利をボルシェヴィキ当局は独断的に蹂躙しているのだ。

奴隷化されたロシア全土が彼等の反撃に共鳴した。ロシアは、彼等の高潔で英雄的な闘争を支持する用意ができていたものの、残念ながら、実行する力がなかった。この国の自由な精神と自由意志を破壊すべく特別に編成された赤軍とチェーカーの抑圧的分遣隊によって、すでに武装解除され、絶えず搾取され、隷属状態にあったからだ。

クロンシュタット支持者が被った損害・分別なき赤軍集団の損害を見積もるのは難しい。しかし、一万人以上が死んだのは確実であろう。死者の大部分は労働者と農民、ペテンの党がより良い未来を約束して騙し、その権力掌握に利用した人々だった。彼等は、この国の経済生活・政治生活に党が全権を及ぼす支配力を広げ、確固たるものにするために、党利党略を追及するためだけに、長年利用されていたのだ。

ボルシェヴィキの寡頭政治に対してクロンシュタットが擁護したのは、ロシア革命で労働者と農民が行った最上の闘争だった。まさにこの理由から、寡頭政治の独裁者達は、軍が勝利を収めた直後にクロンシュタットを抹殺し、生き残りをロシア帝政とブルジョア政権から引き継いだ地下牢と小要塞に閉じこめたのである。このように理解すれば、3月7日という日は、万国の労働者にとって深刻に痛ましい記念日だと見なさざるを得ない。従って、戦闘で非業の死を遂げたクロンシュタットの革命家とボルシェヴィキの監獄に残されて痩せ衰えていった生存者達の痛々しい記憶をこの日に再び蘇らせねばならないのは、ロシアの勤労者だけに限らない。この問題は不満を述べて解決するようなものではない。3月7日の記念とは別に、万国の労働者は至る所で集会を開催し、クロンシュタットで革命的労働者と水兵に対してロシア共産党が犯した暴挙に抗議し、ボルシェヴィキの刑務所で苦しんでいる生存者とフィンランドの強制収容所に抑留されている生存者の解放を要求せねばならない。

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