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第一章 ウクライナの十月大革命

原文:http://www.spunk.org/texts/writers/makhno/sp001781/chap1.html
初出:Dyelo Truda(労働者の大義)、第29号、1927年10月、9~11ページ

1917年10月はロシア革命における大きな歴史的分岐点である。都会と地方の勤労者が自分達の生活とその社会的・経済的遺産を掌握する権利を自覚するようになったからだ。その遺産とは、土地の耕作・住宅・工場・鉱山・交通、そして最終的には教育である。教育はこれまで、私達の祖先からこうした財産全てを剥奪するために利用されてきた。

ただ、私達からすれば、ロシア革命の内実全てを見れば、全てを十月に集約するなど的外れである。実際、ロシア革命はそれ以前の数カ月間で計画されていた。この期間、地方の農民と都会の労働者は本質を理解していた。確かに、1917年の二月革命は勤労者にとって経済的・政治的解放のシンボルとなった。しかし、勤労者はすぐ気付いた。二月革命は、進展するにつれ、堕落した自由主義ブルジョア階級の特徴を採用するようになり、それ自体では社会改革活動プロジェクトに着手できないと判明した。そこで、勤労者は二月革命の制限を即座に振り払い、二月革命の疑似革命的側面や目標ときっぱり決別し始めたのである。

ウクライナでこの活動は二つの形を取った。当時、都会のプロレタリア階級は、アナキズムの影響力の貧弱さ・国内の現実政策と国内問題に関する情報不足を考慮し、社会革命党右派とブルジョア階級の同盟を追い出すには、革命遂行のために参加して来た戦いでボルシェヴィキを権力の座に祭り上げることがすぐにでも必要だと考えた。

一方、地方、特にウクライナのザポリージャ地域では、独裁政治も自由の精神を絶滅させられなかった。革命的勤労農民は、地主階級(pomeshchiks)と富農層(kulaks)から出来るだけ早く解放されるためには革命的直接行動が最重要かつ最も基本的な自分達の義務だと見なし、この解放こそ社会党-ブルジョア同盟に対する勝利を早めてくれる、と確信した。

だからこそ、ウクライナ農民は攻撃的になり、ブルジョア階級の武器を奪取(特に、1917年8月にペトログラードで一揆主義者コルニーロフがデモを行っている最中に)し、大地主と富農層による二度目の年次地租支払いを拒否したのだ。(実際、大地主ー富農層同盟の代理人は、この問題を裁定する憲法制定議会の召集まで政府の現状維持を固守するという名目で、農民から土地を取り上げ、地主の土地を確保しようとした。)

そして、農民は立ち上がり、地主階級・富農層・修道院・国有地の不動産と家畜を奪取した。これを行う中で、農民は常に、財産を管理する地元委員会を立ち上げ、様々な村落とコミューンの間で財産を共有しようとした。

本能的アナキズムが、ウクライナの勤労農民の計画全てをはっきりと照射していた。これによって、国家権力全てに対する率直な憎しみ、つまり自分達を解放するという明確な大望に伴う感情が爆発した。実際、この大望は農民の間で非常に強いのだ。本質的に、これを一言で言えば、中央当局が送り込んだ憲兵隊や治安判事のようなブルジョア権威を真っ先に排除する、ということだった。ウクライナの多くの地方で排除が実行された。排除を現実に行う方法は数多くある。エカテリノスラフ(現在のドニプロペトロウシク)・ヘルソン・ポルタヴァ・ハルキウ・タヴリポル(Tavripol)の一部といった地域の農民は、憲兵隊を自分達の村落から追い出した。また、逮捕権を剥奪し、逮捕には農民委員会や村落集会の許可を必要にした場合すらあった。警察官は最終的にこうした委員会や集会の決定の擁護者となった。治安判事の数が仕事に応じて減っていくまでにさほど時間は掛からなかった。

農民自身が、あらゆる犯罪と争議を審判するために村落集会や特別会議の席についたことで、中央当局が指名した治安判事の司法権は全て無視されるようになった。治安判事は時として全く信頼されなくなり、多くは逃げ出したり隠れたりせざるを得なくなった。

自分達の個人的権利と社会的権利についてこのようなアプローチを取ったため、農民は必然的に、「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンが国家権力に転じるのではないかと恐れるようになった。こうした恐怖は、多分、都会のプロレタリア階級の間ではそれほどはっきりしていなかったと思われる。都会のプロレタリア階級は農民よりも社会民主主義者とボルシェヴィキに支配されていたのである。

農民にとって、地元ソヴィエトの権力とは、ソヴィエト諸機構を自治地域ユニットに転換することであり、その基盤は新社会建設のための革命的提携と労働者による社会経済の自己決定にあった。このスローガンにこの種の建設を当てはめながら、農民はスローガンを文字通りに適用し、拡充し、社会革命党右派・士官候補生(自由主義者)・君主制支持派といった反革命の不法侵入からスローガンを防衛した。

つまり、農民は十月の前にフライングしていたのだ。農民は十月以前に多くの地域で地主階級と富農層への農地使用料の支払いを拒否し、集団的にその土地と家畜を奪取し、工場と会社の掌握について何らかの協定を結ぼうと都会のプロレタリア階級に代表団を派遣した。その目的は、友愛的繋がりを作り、勤労者の新しい自由社会を共同で構築することだった。

この時点で、ボルシェヴィキと社会革命党左派は「十月大革命」という考えの実行を支持していなかった。後になって同意するものの、この時点では、これらのグループ・組織・中央委員会はこの考えを荒々しく批判しさえしていた。一方、ウクライナ農民に関する限り、「十月大革命」は、特に政治年表で与えられているその高い地位は、農民が大分前に歩んだ一章程度のようなものだった。

1917年8月には既に、ウクライナの多くの場所で革命的農民が能動的に闘争を始め、非常に好ましい条件で都会のプロレタリア階級を支援していた。十月の出来事の中で、ペトログラードやモスクワといった大都市のプロレタリア階級は、兵士や都会近隣の農民同様、アナキスト・ボルシェヴィキ・社会革命党左派の影響下にあったが、こうしたプロレタリア階級は、単に農民が行ってきたことを合法化し、もっと精密な政治的表現を与えたに過ぎない。

プロレタリア階級版十月の反響がウクライナに届いたのは1カ月半後だった。当初は様々なソヴィエトと政党の代理人が出したアピールに、次にはロシア・ソビエト共和国人民委員会議の布告に「ウクライナ農民は気後れし、任命された役職に参画していない」と書かれていた。裏の意図は明らかだった。

赤軍集団がウクライナに現れたのはこの時だった。大部分がロシアからやって来て、町を攻撃し、ウクライナ中央ラーダのコサックが管理する通信センターを破壊した。コサックは排外主義に大きく影響されていたため、ウクライナ労働者がロシアの同志と関わりを持てるということも、結局は、自身の社会的・政治的独立のために戦うべく待機していた勤労者が革命的精神全体を正しく理解できるということも、理解できなかった。

10周年に当たり、十月大革命をこのように分析すると、ウクライナで私達が達成したことは、1917年後半にペトログラードやモスクワといったロシアの大都市で行われた革命的労働者の行動と完全に調和していたと強調せねばならない。

十月の遙か以前にウクライナの片田舎で示された革命的信念と熱狂を記録する一方、私達は、十月の出来事でロシアの労働者・農民・兵士が示した決断力と活力を寸分違わず尊敬し、それに高い敬意を示す。

過去を再検討する中で、現在に目を向けないままにしておくわけには行かない。現在は様々な形で十月と結びついているからだ。また、私達は、10年を経た今もなお、十月に余すところなく示された諸思想が嘲笑されているという事実に深い苦悩を表明するしかない。嘲笑しているのは、まさにこれらの諸思想の名を借りて権力を手に入れ、ロシアを支配している奴等なのだ。

私達は、十月の勝利のために戦い、現在監獄や強制収容所でやせ衰えている全ての人々に悲痛な連帯を表明する。拷問と空腹にあえぐ彼等の苦難は私達に届いている。十月革命10周年にあたり、私達は、日々の喜びの代わりに大きな悲しみを感じざるを得ない。

革命的責務の問題として、私達は再び、ソ連国境の向こう側から批判の声を上げる:

十月革命の子供達に自由を、組織を作り思想を広める権利を返せ!

ソ連には自由がなく、労働者と革命闘士の権利もなく、その最良の部分を窒息させ、死に至らしめようとしている。ソ連の敵はこれを喜び、あらゆる手段を使って革命を根絶し、それと共にソ連を殲滅しようと世界中で準備を進めているのだ。

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