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エボラ出血熱へのアナキズムの対応2:アナキズムの代案を想定する

初出:https://www.anarchistagency.com/commentary/an-anarchist-response-to-ebola-part-two/(2014年11月29日)

アナキストは、世界の崩壊に関わるグローバルな会話の一翼を担っている。物事が本当に崩壊しているとき--現在のエボラ出血熱の急激な増加のような--に、国家は唯一の答えなのだろうか?無国家社会はこのような課題に対してどのように対応できるのだろうか?この記事は、こうした疑問に対するアナキズムの回答を示すと共に、アナキズムの政治に関わる私達がその立場を入念に考えるべき諸問題を浮き彫りにする。

本稿は二部構成の記事のパート2である。パート1は「何が間違っていたのか?」を参照。

要点

  • AIDS蔓延の時と同じように、草の根運動は、批判的であり続け、独自の代案を構築しつつ、今日の命を守るために国家と大企業の諸機関に圧力を掛けられるし、掛けねばならない。

  • 未来の無国家社会は、人間の健康を支持するシステムを維持できるし、維持しなければならない。こうしたシステムは、概して、叛乱時にアナキストが維持してきたシステムよりも複雑だが、実現可能である。

  • アナキズムの旗の下で批判と脱構築を行っているアナキストが非常に多い。しかし、大規模な代案を企図するとなると、アナキストとして発言しなくなる。そのため、アナキズムの解決策は局所的でローテクで限定的なものでしかないという考えがもたらされている。

  • 一方、医療システム・科学的研究・地域ケアシステムは、アナキズムの伝統--相互扶助・自由連合・地位や階級を問わない万人のケア--を示している。

  • 黒人の命が無意味に奪われた時だけでなく、その生命に充分な価値が置かれていなかったり、生命維持に必要な物質的支援がなかったりした時にも#BlackLivesMatterは反撃すると世界的に認識されている。

エボラ出血熱へのアナキズムの対応:ヴィジョンと論点
パート2:アナキズムの代案を想定する

著者:カーウィル゠ビョーク-ジェイムスとチャック゠マンソン

明らかに、現在の伝染病を悪化させているのは、無能な政府・諸機関・公衆衛生組織・国際的な飛行機旅行・ただただ怯えるだけの人々である。他の危機でもそうだが、国家は、最も困っている人々に対する適切な準備や手助けをできていない。米国のハリケーン゠カトリーナやハリケーン゠サンディを思い起こさせる情況だ。こうした災害の後、活動家から転じて復興主体になった人達は、分権型で水平的に組織された災害対応活動を創り出した。こうした活動自体は限定的だが、そのおかげで、もっと大きな疑問を投げかけられるようになっている。国家なきアナキズム社会の生活では、公衆衛生危機にどのように対応するのだろうか?

ヴィジョンに係る論点1:世界規模のアナキズム革命が明日起こったとしても、富の集中や人種差別化されて大陸中に広がる貧困を解消するための再建と再分配には何十年も掛かるだろう。これらは私達の窃盗が奴等の財産になっている結果なのだ。今回のエボラ出血熱が大流行したのは、訓練を受けた医療従事者の数が不均衡だったためである。こうした不均衡を実際に覆すにはどうすればいいのだろうか?

ヴィジョンに係る論点2:現在のエボラ出血熱の流行のような危機に対するボランティアや水平型に組織された対応の可能性を称揚すること、そして、現在必要な資源の多くを管理している国家・資本主義・縦型諸機関に破壊的な圧力を掛けてそれら諸機関が行えることを行わせること、これらのバランスをアナキストはどのように取るのだろうか?それとも、アナキストは、後者の問題について党派的な沈黙を保つべきなのだろうか?

エボラ出血熱の大流行に立ち向かうこととは、何を意味するのか?

ワクチンもなく専門的治療もない中でエボラ出血熱に対処するための既存ツールは単純明快だ。エボラ出血熱は非常に強力な病気であり、注意深いプロトコルがなければ、家族・見知らぬ親切な人・献身的な医療従事者といった病人を直接世話している人に最も大きな打撃を与える。患者を保護する養生法をしっかり守れば、大抵、エボラ患者の容体は安定し、周囲に感染を広めることはない。しかし、こうしたルーティンは「人員・モノ・空間・システム」--医療提供の物的・人的・物理的要素--が充分備わった上で成り立つ。医療従事者には、自身と患者を保護するための用具・清潔で物資の豊富な治療設備・休息や治療の際の充分な交代要員が必要だ。エボラ出血熱の治療は、現代社会の一部となっている公共サービスの中で行われてこそ意味がある。

HIV/AIDSが流行した最初の数年間と同じように、エボラ出血熱は、グローバル権力構造によって切り捨てられた人々の生命を真っ先に最も激しく襲っている。HIV/AIDS同様、エボラ出血熱は、コミュニティ全体の、国全体すらもの将来を脅かしている。だが、世界の民衆全体にとって直接の脅威というわけではない。

HIV/AIDSで起こった三つの危険な反応はエボラ出血熱にどのように立ち向かうかに直結する。(違いは、エボラウイルスの方がはるかに速く局所的脅威から地球規模の脅威になり得るという点にある。)第一に、この病気は多くの人達にさらなるスティグマを与える口実になる。既に、アフリカ人・西アフリカ人・黒人とエボラ出血熱を関連付ける過剰反応が広がっている。第二に、国際社会は、地位の高い人々が影響を受けるまで、病気への対応に優先順位を付けられない。感染症に対するこの対応は、不必要な死者を出し、最終的に大きなコスト増をもたらす。第三に、新しく開発された治療法も既存の治療法も高い金を払わなければ手に入れられず、世界の多数の手には届かない。エボラ出血熱の治療法が新たに開発されたり、予防措置が本格的に展開されたりした時、それらを誰が利用するのか、命懸けの闘争が迫っている。金持ちで過度に恐れている人達が高い金を積んで、最も危険に晒されている人達に優先されるなどあってはならない。

幸い、AIDSパンデミックへの対応は、現在の危機にいくつかの重要な教訓を残している。AIDS患者の活動家は、医師や薬理学者と同じ計画立案の場に参画しようと闘った。同時に、コミュニティ中心の診療所を建設し、治療資金を勝ち取るべく政治生活を混乱させ、死にそうな患者のために薬を公開するプロセスを変え、グローバルサウスが薬を入手できるようグローバルな知的財産法を拒否し、患者と最も罹患しやすい人々に着せられたスティグマに反撃した。

ヴィジョンに係る論点3:ハリケーン゠カトリーナ以後、アクトアップからコモングラウンドまで優れた草の根公衆衛生活動が数多くある。しかし、こうした活動が一定規模を超えると、インフラの限界に悩まされてきた。立ち向かう諸問題の規模が大きくてもこうした活動が機能できるようにするために、どのような組織化メカニズムを導入できるのか?キューバの保健サービスのような非水平型制度や、「国境なき医師団」(MSF)に力を与えている公式的財政支援から何を学べるのか?解放的諸制度の規模に限界があるなら、緊急のニーズにすぐさま対応するためにこうした諸制度を増やす可能性をどのように注入するのか?現在の利潤追求型システムの外で、医学研究を含めた科学に、そして庶民向け公共サービスにどのように資金を付けられるのか?

公衆衛生と認識論:公共財か?国家による監視か?双方か?

私達はエボラ出血熱について知っている。その治療方法も分かっている。一連の研究者達、ウイルス学・医学・疫学の大きな枠組みが人間社会へのウイルスの侵入経路を探し出しているからだ。こうした研究によって、私達は、1976年にはほぼ理解不可能だった悲劇から、今日、大規模な蔓延を阻止するために必要な緊急の選択肢を概念化し、計画できるようになっている。

こうした科学的システムは人間がこれまで創り出してきた最大の分権型活動の一つである。科学的方法は集団的記憶で動く。同時に、永続的だと称される権威への集団的懐疑論によっても動く。また、科学的事実の集団的記憶は永続的に維持され、この事業を行う上で必須のものとなる。さらにまた、知識を繰り返し交換し、研究者・医療労働者・公衆衛生専門家の訓練も行う。疾病を理解すること・想定される治療に対して病原菌がどのように反応するかを学ぶこと・感染の蔓延と停滞の波を監視すること、これらのアプローチは全てこうした分権型メカニズムで達成される。また、これら全ては恒久的な公共システムに依存している。

しかし、科学の反権威主義的物語は多くの科学者に受け入れられているが、科学的世界観の多くが国家の世界観と結び付いていることが省略されている。実際、科学の多くの部門は、臣民の未来を監視・列挙・計画するという近代国家の執拗な願望から出現している--だから、統計という言葉は、国家の科学に由来するのである。疫学は、誰もが目に見える状況の中で、場所を特定でき、追跡でき、識別できる患者について疾病を集計できるかどうかに依存している。現代的統治をハードウェアとオペレーティングシステムと見なし、そこでは人が「監視され、検査され、スパイされ、指導され、法律を押しつけられ、規制され、枠をはめられ、洗脳され、説教され、統制され、評価され、測定され、検閲され、命令され(中略)記録され、登録され、調査され、料金を決められ、印紙を貼られ、測定され、査定され、賦課され、免許され、許可され、認可され、推薦され、説諭され、妨害され、改善させられ、矯正され、懲罰される」(訳註:プルードンの言葉[十九世紀における革命の一般理念、「プルードンI」、陸井四郎・本田烈 共訳、三一書房、1971年、316ページ]、原文ではクロポトキンの言葉とされているが誤り)と見なすなら、疫学はこのオペレーティングシステム上で動く「キラーアプリ」の一つである。というよりむしろ、キラーとは真逆である。従って、概念としての公衆衛生は、この監視・対応装置の一部と不可分である。

ヴィジョンに係る論点4:アナキズムは、中央集権国家だけでなく、市民を見る(監視する)べく構築したハードウェアとオペレーティングシステムをも破壊しようとしているのか?特定団体の支配から国家を分離しようとしているのか?統制をより小さく断片化しようとしているのか?こうしたあり得る活動の幾つかを除去しようとしているのであって、全てではないのか?病原菌の監視を--例えば、個々人の監視を避けたり匿名にしたりしながら--続けようとしているのか?

私達が想像するアナキズム社会は分権化され、権力と支配力の蓄積を危険視し、それらの蓄積に対しては機関設計や協働文化で対抗しなければならないと見なす社会である。監視と公衆衛生の危険な接点を防ぐために、地域レベルの診療所は患者の露出を最小限に抑えようとするだろう。国家と資本主義の医療制度ではまずあり得ないが、健康状態の詳細を暗号化して匿名にしてから地域社会を超えて情報共有することもできる。アナキズム社会はまた、他者を支配する単一の組織や機関が存在しない社会でもある。現在の世界とは異なり、一つの組織(重要な仕事を引き受けている職場でさえも)があらゆる記録を検査する普遍的力を持たず、ましてや、そのような要求を力づくで行わせる力など持たない。その代わり、優先事態が発生した場合には、事態に最適に対処できる集団が他の集団に協力養成することになるだろう。

驚くべきことに、エボラ出血熱の現状は、こうしたプロセスの一部を予見させている。エボラ出血熱に真に有効な対応には、予防教育・治療・日常生活ルーティンの変更に対する地域社会の関与と積極的参画が必要である。各地域の国家は、辺境の農村地域や都市の密集した町内に対してこの種のコンプライアンスを強制できるほど強くない。多くの日常的必需品もそうだが、物事を実際に成し遂げる道筋は同意と説得である。アナキストは、人間的に可能な限りこの原則を一般化しようと努めるのである。

国家なき社会はエボラ出血熱にどう対応するのだろうか?

アナキズムについて昔から言われる質問は「アナキズム社会では誰がゴミを片づけるのか?」である。資本主義社会では、その仕事は嫌いだがお金が必要だという人が行う。対照的に、アナキストは概して、地元地域で責任を引き受けることが明らかに必要だとか、不快な仕事をする人に報酬を与えるようにするとか、輪番制を創設して3K仕事の一部を誰もが行うようにするとか述べる。「誰もがやりたがらないから、皆が行わねばならない」は社会全体のスローガンになり得るし、おそらく相互承認システムを使って確実に実行されるようにするだろう。

ただ、公衆衛生は少しばかり複雑だ。第一に、公衆衛生システムは複雑で相互に依存している。医師と看護師は備品の充実した部屋・滅菌された器具・注意深く検査された医薬品に依存している。つまり、複数の仕事場が連携しているのである。世界中で労働者が運営する協同組合や、歴史的に労働者蜂起で見られた通信・輸送システムをモデルにして、私達は、人々が入念な協調関係を維持すると想定する。実際、過剰なヒエラルキー・利潤追求動機・民間企業間の競争・請求事務は、多くの場合、有意義な協力関係の妨げになっているのではないだろうか。

現在の危機が示しているように、脅威となる病気を率先して治療してくれる人を募るという点で、モチベーションは問題となっていない。MSFのような独立したイニシアティブであれ、キューバのような国家が運営する協同組合機関であれ、Avaazが最近実施しているような採用活動であれ、緊急時の対応はボランティア型システムで充分である。機会があれば、多くの人が危険を顧みず、反復作業を行い、共通の問題に対して自分が持つスキルを活用しようとする。むしろ、課題は、必要なスキルを多くの人に教え、人を癒すシステムを維持し、最も必要とされる場所に円滑に物資が流通するようにすることである。

さらに、感染症にかかった人を治療したり、感染を予防するために必要な措置を講じたり、住民全員にワクチン注射をしたりする活動には、細々とした面倒な作業と住民全体の注意深いモニタリングが必要である。医療システムは、治療者と介護者が集まる職場・基本的物資と充分清潔な部屋を生産する工場・患者と公衆双方の健康を記録するモニタリングシステムという複数の特徴を持つ。こうした余り魅力のない、工場のようで国家のような役割をどのようにして真摯に担うのだろうか?工場型ではなく、国家型でもない社会を想定するなら、万人に対して医療のような生命維持システムを確保するために、こうした働き方をどのようにして十全に維持するのだろうか?

最重要なのに地域の中で最も欠けているのが、地元地域で医療支援を提供する継続的な活動である(これが、MSFが断固として歩みを進められる理由だ)。MSFのような救援組織・地域レベルや町内レベルの診療所・科学コミュニティは皆、私達が維持し続けるべき諸機関の例である。同様に、諸機関の調整は、強制や命令ではなく、任意で相互合意に基づいたものでなければならない。

エボラ出血熱の発生に対処するは、いくつかの行動を極めて迅速に起こさねばならない。今月中に医師を即座に動員し、治療センターを建設し、殺菌済みの器具を今月中に供給すること、これらは翌月に行う労力の数倍に匹敵する。現在の危機は、既存の社会システムではこの種の加速度的進展を全く効果的に行えないと証明している。

ロジスティカルに行動して医療スタッフを送り込む莫大な予備能力(現在、こうした能力を示しているのがインフラを構築する際の米軍や、地上のいかなる場所にも医師を送り込む能力を持つキューバの医療システムである)も活動の前提条件である。私達は、資本主義秩序や国家社会主義秩序よりも、協働運営型経済の方が柔軟にこうした能力を他の用途に転用できると考えている。仕事が自主管理型であれば、国家の一部や目的特化型NGOのみならず、労働者集団を効果的に動員して危機の際に援助できるだろう。FedExの労働者が自社の飛行機の一部を使って重要物資を送ると決められるとしたならどうだろう。ナイジェリアの建築業組合がエボラ出血熱治療センターを12カ所建設すると決めることが出来たならどうだろう。大部分の労働が常に利潤のためになされるのでなければ、人間的優先事項として何が全面に出るのだろうか?他者を助けるために個人とコミュニティはどのような妥協や苦難を進んで引き受けられるのだろうか?危機の時以外でも、人命をケアするための資源・用意・必要なツールの莫大な格差をどのように解消し、数世紀にわたりアフリカから富を搾り取ったために生じた脆弱性をどのように消し去るのだろうか?

ヴィジョンに係る論点5:資本主義が(金持ちに)私的財とサービスを過剰生産し、万人が享受できる財とサービスを過少生産していることは分かっている。だが、共有空間を奪還したり、自由財・無料サービスを提供したりする活動があるにも関わらず、米国の現代アナキストは、集団的ニーズや願望を満たす社会的活動の再分配について分析できていない。この種の公共財アナキズムを論じるにはどうすればいいのか?

ヴィジョンに係る論点6:アナキストは、どのような公共組織モデルがアナキズム社会の秩序で一般的になると考えているのか?大規模でネットワーク化されたMSFか?CDCやWHOのような諸機関を拡大したり縮小したりするのか?国民健康保健サービス制度を各国に置くのか、全く置かないのか?

ヴィジョンに係る論点7:隔離措置は、強制からの自由というアナキズム理念と両立するのか?国家なき社会では、他者に人命を守るよう強制する権限を、誰がどのような条件下で持つと見なすべきなのか?

結びとして述べておくが、エボラ出血熱の発生は困難な問題だが解決可能である。現在の急激な発生は、植民地主義・資本主義・戦争が創り出した諸条件で大きくなっている。今頃になって、政府と金持ちが、自分達がこの危機を解決するとしゃしゃり出てきた。だが、骨の折れる仕事のほとんどを行っているのは地元地域の住民と独立採算で報酬の少ないボランティアなのだ。

アナキズムに興味がある人や懐疑的な人が次のように問うのは正しい。無国家社会は今回のような課題を現行世界秩序よりもどのようにして上手く扱えるのか?別な形で機能する社会を想定している私達は、こうした疑問に真摯に答えなければならない。この小論の意図は、その答えの概略を示すことだけではない。徹底的社会変革を求めて奮闘している人々の中で議論を促し、こうした諸問題に真摯に対応すべく私達の政治運動について何を再考し、何を明確にすべきか問うているのである。

エボラ出血熱は生涯で最も困難な問題などではない。私達アナキストはこうした諸問題に今ここで立ち向かう世界コミュニティの一部である。世界を公正で自由なものにするという私達の熱意は、理想社会を想像することにだけでなく、今日の集団的決定において必要となる配慮と知恵を得る戦いにつながるはずである。自分達が真っ当な不信感を持っている諸機関が意思決定をしている時、私達は、危険にさらされている生命のためにどのように戦うべきか自問しなければならない。

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