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中央分離帯で

 その年の夏は、大人や子どもが熱中症で緊急搬送されたことが毎日のようにニュースになっていた。

 雲一つない空から容赦なく太陽が照り付ける、8月の猛暑日。私はタクシーを使わなかった事を後悔しながら、客先のオフィスから駅に向かって歩いていた。昼下がり、ちょうど太陽は真上に来ていて、中央通りのアスファルトにはゆらゆらと陽炎が立ち、車が吐き出す排気ガスと熱気がもうもうと混じり合って、まさに殺人的な暑さだった。

 四車線をまたぐ横断歩道に差し掛かると、歩行者用の信号が赤になった。
 
 日光をしのぐ日陰もなく、うんざりしながら信号が変わるのを待っている間、ふと中央分離帯に目をやると、何か違和感がある。
 よく見ると、行き交う車に挟まれたその場所には上半身裸の、老齢の男性が座り込んでいた。

 痩せてあばら骨の浮き出た体は褐色に日焼けをして、なぜだかてらてらと焼き物のように反射していた。仙人のように伸ばした髭だけがごま塩に白く、皺に埋もれた目は開けているとも閉じているともつかなかった。

 その辺りに多いホームレスの一人であることは、すぐにわかった。だからだろう、歩道には私と同じように信号待ちをしているスーツ姿のビジネスマンやOLらしき人が何人もいたけれど、誰もその老人を気にしている様子はなかった。皆暑そうに手で太陽を遮ったり、扇子で胸元を扇いだりしながら、なかなか青にならない信号機を見上げていた。

 この暑さの中、車道のど真ん中に半裸の老人が座り込んでいるという異常な光景が、誰にも見えていないかのようだった。
 ホームレスがあちらこちらに座り込んでいるのが都会では当たり前だと言われれば、それまでの話なのだけれど。

 どうしよう、と、根が田舎者の私は思った。このまま放っておいたら、このじいさん、熱中症で死んでしまうんじゃないか。

 たまたま、手には買ったばかりのスポーツドリンクがあった。まだ口も開けていないから、せめてそれを渡して行こうか。そんなことを考えている間に、信号が青になった。隣にいたサラリーマンが私を追い越してさっさと横断歩道を渡って行く。彼がすぐ脇を通り抜けても、老人は微動だにもせず、どことも知れない空中をずっと見上げていた。

 その様子は、まるで仏像か何かのようでもあったし、苛酷な炎天下でこうしていることで、何かを訴えている活動家のようですらあった。

 私はそんな老人の姿を振り返り、振り返りながらも、結局、一声もかけることなく、老人の横を通り過ぎ、向こう側の歩道へ着いた。また信号が変わり、車が砂埃を立てて車道を走り始める。こちら側にいた人は向こうへ渡り、向こう側にいた人が私が来た方へと歩いて行く中、老人だけが中央分離帯に佇み続けていた。

 その後、老人がどうなったのかはわからない。あれから間もなく熱中症で倒れたと言われても何の不思議もないが、ここまで振り返りながら書いていて、ふと思う。もしかしたら老人は、そもそもどこかへ行く途中で、あの暑さにやられて横断歩道を渡る途中で動けなくなっていただけなのかもしれない。衰弱して、立ち上がることさえできなかっただけだったんじゃないか。

 それでも私は、とっくの昔に彼を見捨てて横断歩道を渡り切ってしまったのだった。

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