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いきすぎたナショナリズムはグローバリズムを破壊する

用語

ナショナリズム
国家または民族の統一・独立・発展を推し進めることを強調する主義・運動。
グローバリズム
国を超えて地球全体を一共同体としてとらえる考え方。地球主義。
国家の三要素

領域(Staatsgebiet:領土、領水、領空)- 一定に区画されている。

人民(Staatsvolk:国民、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。

権力(Staatsgewalt)ないし主権- 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければならない、つまり、主権的(souverän)でなければならない。

引用ウィキペディア

ラグビー日本代表の快進撃を見てテレビの前で大人気なく騒いでしまった。
そして日本がラグビー旋風でわいているなか、自分はこう思った。
「純粋な日本人じゃなくても日本代表になれるんだ」
自分以外にこう思った人は結構いるはず。

というかそもそも「純粋な」日本人ってなんだ?っていう疑問と「ナショナリズム」みたいな考え方ってラグビーみたい場合って当てはまらないという考え方に至りました。

ウィキペディアによると

「日本人(にほんじん、にっぽんじん、英: Japanese)は、日本の国籍(日本国籍)を持つ日本国民。または祖先が日本列島に居住していた民族集団を指す。」

とある。

これでいくと例えばハワイやブラジルの日系の方も日本人となるしニューヨークの支店で働く人も日本人だ。

ラグビーの日本代表は国籍ではなく所属する協会代表という扱いなの出生地が当該国である等の条件を満たせば国籍は問われないそう。

じゃあ日本人じゃなくても日本代表として応援すればいいね!
という気持ちと今の日本で、世界で起こっているグローバル化とこれからのナショナリズムについても一考してみました。

というわけで題名にもある「ナショナリズム」について論じていきます。
結論からいうと、「いきすぎたナショナリズムは古いし危ないから止めよう」です。

ナショナリズムはよく愛国心とひも付けされています。ほぼ同じ意味として捉えても問題ないはずです。また、愛国心は自分の中の定義として「隣人愛の拡張」と考えることとします。
つまりナショナリズム=隣人愛の拡張
難しく考えがちですが隣人愛とは生んでくれた両親、先祖、兄弟、友達、お世話になった先生等を慈しむことです。
国は人でできている以上は国を愛することは人を愛することと同義のはずなのです。

では何故いきすぎたナショナリズムは古く危険なのかについてですが、①戦争の誘起、②グローバル化によるパラダイムシフトがあげられます。

①戦争の誘起
戦争というのはエゴとエゴのぶつかり合いです。
「我が民族が…」「我が国の領土が…」「隣国の資源が…」と人間の欲望には際限がなく、自分の又は自分の組織の主張を押し通そうとします。そこでナショナリズムを煽る訳です。
「今私たちが貧しいのはあいつらのせいだ」と。
この場合ナショナリズムは被害者とも言える訳ですが戦争を誘起するのにはもってこいです。
なんせ団結しますから。
自分が「いきすぎた」ナショナリズムと言っているのは自分の民族や国家以外を蔑ろにしてしまう恐れがあるからです。

②グローバル化によるパラダイムシフト
国家の三要素は「領域」「人民」「権力」です。
定義の上では。
ナショナリズムは「国家または民族の…」とあるように対象が国家と民族です。自分が問いたいのはこの定義は現代にそぐわないのではないか?ということです。
例えば多国籍企業は世界をまたにかけて営利活動を行っている。
SNSの普及は世界中の人々との交流を可能にし、AIにより言語の壁も消失すると思われる。ブロックチェーン技術を用いた暗号通貨は貨幣経済の常識を一新し全世界共通の通貨となるかもしれない。
つまり思っている以上に日本と外国との距離は迫っており、外国と日本の違いもなくなってきている。
となると「国家」単位で何か動くというのが古びた考えになる日もそう遠くない話ではないかと思う。
もちろん不当で国際法規に乗っ取らない政治的軍事的挑発行為は国民に被害が及ぶ可能性があるので国家としての対処は強く望みますが…

しかしスポーツにおけるナショナリズムの発揚はよく感じていて、オリンピックで日の丸を背負った日本代表選手が勝つと胸が踊るし我が事のように嬉しい。
しかしこの気持ちは日本代表が勝ったからなのか、日本人が勝ったからなのかは考えたことがなかった。
でも少なくとも日本国籍を有しない人がいるラグビー日本代表の快進撃を見て心が高まったことを踏まえると日本代表としての勝利も祝福していることは間違いない。

このモヤモヤを払拭する糸口として大坂なおみ選手が国籍に日本を選んだことを例に考えてみる。
大阪選手が日本人選手として初のグランドスラム制覇を成し遂げたのが2018年。
この時日本は大いに盛り上がった。
この時も大阪選手の国籍が話題に上がった。
大衆の意見は大きく以下の3つに集約される。

①「アメリカ国籍を有するのなら純粋な日本人ではない」
②「本人が日本人として活動してるのなら日本人だ」
と。
そして自分の意見でもある
③「もはや国籍とか関係なくテニスプレーヤーの大阪なおみを応援しよう」
だ。
個人的には日本人じゃないからとか、当事者じゃない人がどうこう言うのは選手に失礼であると思う(昔は自分もそう考えていた)。
頑張っている人がいる、成果を出した人がいる。
なら称えよう!
でいいんじゃないか?と。
そこにさらに日本人であれば誇りに思うかどうかは個人次第ということで。

更に言うといわゆるハーフの方や出身が台湾や韓国の方、もっと言えば日本人はアイヌ民族と琉球王国の方も含めるので単一民族じゃないのでもともと日本人って定義が曖昧。
なら、なおさら民族に国家に拘らずに「人」にフォーカスしていこうって話です。
今話したこれらがナショナリズムのパラダイムシフト。

ここでナショナリズムの重要性についても触れておく。現代の日本においてナショナリズムを声高に叫ぶことは慎むべきであるという暗黙の了解がある。彼らはいわゆる「右翼」と呼ばれ片寄った思想という判定を受けている。しかし考えてほしいのは自分の生まれた国を愛して何がいけないのかということだ。上述したようにナショナリズムは隣人愛の拡張であり、親兄弟を愛することである。
人間が社会性を有する生物である以上いずれかの組織集団に属する。
集団の中での関わりあいに思いを馳せることができなければ、同じく自分を愛することはできないはずである。それは幾重にも折り重なった歴史の果ての「自分」という存在を認識してアイデンティティーを確立していくものだからである。

何事もバランスが重要でナショナリズムも多分に漏れない。
他人を100%理解できないように他国をまたは他国に100%理解することは不可能である。(それができるって言うならそれはエゴであり、戦争の原因である。)
しかし理解しようと努力することはできる。
グローバル化の波はどう考えても止めることはできない。
とすると自分のナショナリズムは持ちつつ古い日本人像は捨ててグローバルな視点での地球人という考え方が今後ますます重要になってくるのではないかと考える。





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