消せないアドレス(記録より記憶)

 そういえば僕には、ちょっとした習慣がある。
 突発的にやっていることで、むしろ「つい、やってしまうこと」と言える。
 それは「携帯電話のメール画面で送信先一覧を出し、そのアドレスをひとつひとつ眺める」ことだ。

 たとえば一服するために外に出た折など、メールを送るつもりがあるわけでもなく、この操作をする。「あ」から「他」までのアドレスを、ず―――っと下にスクロールしていく。
 そうして出てくる名前に、いろいろな感慨を抱く。
「ああ、大学卒業してから一度も会ってないなぁ」
「いつのバイト仲間だったっけ?」
「ずーっと前の会社のあの人だけど……下の名前を入力してないから、おぼえてないなぁ」
「これはかかってきたら着信拒否の会社だ」
「この人、元気かなぁ。好意がなかったと言ったら嘘になるなぁ」
……などなど。
 やがて思い始めます。
「この中で、今でもやりとりができる人は、どれだけいるんだろう」と。
 そうして実感するんです。
「今すぐ連絡を取らなければいけない人は、いない。自分はいま、自分だけと、妻だけで、この街に生きている」
 ということを。

 ちょっと話に出てきた僕の妻は、ばんばんアドレスを消す人だ。
 会社を辞めたとたん、会社の連絡先も私的交流がない同僚も、すべて消す。
 だから人事部あたりから退職にかかわる電話があると「なんか知らない番号からかかってきたけど、出たほうがいいかな?」なんてことを言い出す。
 ある意味、完璧主義者なところがあるので、そうやって「完全な清算」をくりかえしてきたらしい。
 会社や恋人、そういった「何かとの関係性」が消失したあとには、その存在さえも忘れようとして。
 そうすることで、リセットをくりかえしてきた人らしい。

 一方の僕は、真逆の人間だ。
 というのも、携帯電話のアドレスを消したという記憶が、ほとんどない。辞めた会社の番号やら実家のタクシーの番号やら、会ってひと晩呑んだだけのミュージシャン志望の青年(当時)までメモリに残っている。
 それは妻に言わせれば「かけることは二度とないから、単なるメモリの無駄」となってしまうのだけど、僕としては「過去のワン・ピース」であったことは事実。その過去を消去して清算するということは、さながら前王朝を完全に抹殺してきた中国歴代王朝のように「なかったこと」にしてしまうのではないかという気がする。
 それらのヒト・コト・モノにより、現在の僕が成り立っているのは事実なのだから、身内が解約して通じなくなっていることが明らかな亡くなってしまった友人の番号さえ、それを消すとその人にかかわる記憶がひとつ、消えてしまうようで、どうしてもできないままでいる。
 言ってしまえば僕は「過去に生きる人間」だった。たとえばとても光栄に思えていた音楽業界での仕事にかかわることができ、充実していた日々をいまでも懐かしく思う。戻れれば、戻ってもいいとさえ思う。
 それは言い詰めれば「ひとりで生きてきた」からこそだ。実家暮らしでも自分の世界に没頭し、ひとり暮らしでは完全に趣味の世界。友人たちと会っても自分のことを中心に考えていたきらいがある。
 でも、現在の僕は、そうでもなくなってきている。
 結婚し、妻がいて、確実に「ふたりで」生きている。
 そのため、「まず自分のため」という思考をしなくなった。「まず妻のため」と思うことが多く、それが幸いして仕事の接客業でも「まずお客さんのため」を思い、接客に磨きがかかってきている。
 そうなることで、多くのことはよくなってきていた。
 自分の座右の銘「情けは人のためならず」を、実践できているように感じている。

 それでも、携帯のアドレスは、なかなか消せない。
 いまを生きる人間になっても、過去に生きる性分は、どうしたって残っている。
 でもいつまでも、そのままでいるわけにもいかないんじゃないかな?
 そう思って、僕はまず、一時期定期的に通っていた献血ルームの番号を消した。そんなものさえも取っておいたんだと思いつつ、同時に献血を趣味のようにくりかえしていた日々を思い出す。
 でも、メモリを消しても、足しげく通っていた想い出は、消えなかった。
 それがすべてなんじゃないかな、と思う。

 だからこの癖も、そろそろ、やめてみようかな。
 後ろ向きでも前歩きをしていきましょう。ちょっと歩きづらいけど。

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