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ヤマアラシの語り方でーーアラン・マバンクの『Memoirs of a Porcupine』

わたしたちがいま日本語で読む「文学」作品。それらは果たして世界に広がる文学界の最先端をどれだけ反映しているのだろうか? ともすれば日本語市場という特異な環境は、世界の文学的な状況とは全く異なったガラパゴスなものを普遍だと勘違いさせてはいないだろうか。

この連載では海外事情に詳しい井上二郎とともに、未邦訳の巨匠たちの作品を紹介し、世界文学にいま起きていることを探っていく。

第3回で取り上げるのは、コンゴ人民共和国に生まれ、フランス語作家として活躍するアラン・マバンク。UCLAで教授として教える傍ら、作家としてはじめてコレージュ・ド・フランスに招聘されるなどフランス語圏で最も活躍するアフリカ系の作家の一人です。今回はマジックリアリズムの雰囲気を色濃く感じさせる未邦訳の代表作『Memoirs of a Porcupine』について。
(執筆・井上二郎、バナー・小鈴キリカ)

人間がみな、動物の「ダブル(分身)」を持つというアフリカの村。

 42歳となったヤマアラシが、村で最も古いバオバブの木を前に、自分の「ダブル」だった人間の男について思いを巡らしている。なぜ彼が死ななければいけなかったのか、自らとその男の運命について、動物は語り始める。

「親愛なるバオバブよ、こうして私は今朝からあなたの足元に座って話し続けている。あなたが私に答えることがないことはわかっている、それでも、語られた言葉は、私たちを死の恐怖から救い出してくれるように思えるのだ、もし少しの間でも死の恐怖から逃れることができるなら、私は世界中で最も幸せなヤマアラシといえるのではないだろうか...」

『Memoirs of a Porcupine』

 人の心を持ったヤマアラシの語りは、英訳版で160ページ余り続いていくが、ピリオドは一度も使われない。ヤマアラシの言葉は、書き言葉としてではなく、あくまで語られる言葉として、淡々と、止めどなく続いていく。

 ヤマアラシの「ダブル」だった人間の男は、名前をキバンジといった。人間とダブルの間には共鳴性とでも言うべき不思議な結びつきがあり、彼らの感情や行動は互いに影響し合う。

 ただ、このヤマアラシは普通の「ダブル」ではなかった。彼は「有害なダブル」(Harmful Double)と呼ばれる、特殊な分身だった。少数の、運命に選ばれた人間だけが「有害なダブル」を得ることになる。

 彼らには特殊な役割がある。それは、殺人者としての運命を背負うことだーー。

『Memoirs of a Porcupine』
Soft Skull HPより

 『ヤマアラシの回想』(Memoirs of a Porcupine)は、コンゴ人民共和国(ブラザビルを首都とする)に生まれ、旧宗主国の言語であるフランス語で小説を書いてきたアラン・マバンク(Alain Mabanckou)が2006年に発表した作品だ。作家は1966年生まれ。ギニア湾に面する港湾都市ポワント=ノワールで幼少期を過ごし、20代前半からフランスにわたり文学を学んだ。

 本作の前年に発表した『Verre cassé』(割れたガラス)が高い評価を受けたマバンクは、『ヤマアラシ』でルノードー賞を受賞。ちなみに近年、同賞を受賞したアフリカ系の作家にはルワンダ出身のスクラスティック・ムカソンガ(2012年)らがいる。

2015年から翌年まで初めてコレージュ・ド・フランスで招聘教授として教鞭をとった。作家として招かれるのはマバンクが初めてだという。日本では、後述するこの授業の講義録と、2010年に発表された『もうすぐ二〇歳』(『Demain j'aurai vingt ans』)のみが翻訳されている。

 現在、マバンクはUCLA=カリフォルニア州立大学で教壇に立つ。ちなみにコンゴの男性の例に漏れずマバンクも“お洒落好き”らしく、本人のインスタグラムには、カラフルなファッションで陽気に笑う自身の写真がアップロードされている。

Instagramより

 さて、すべての人間に動物の「ダブル」がいるという『ヤマアラシの回想』で描かれる世界は、コンゴやその周辺国で伝わる民間伝承をモチーフにしたものだという。

 上述したように、ヤマアラシはキバンジの「有害なダブル」であり、その運命は主人とともに「殺人者」としての役割を担うことだ。

 動物はどのように人間の「有害なダブル」となるのか。その不思議な通過儀礼のプロセスは、人間の男が11歳になった晩に訪れる。

 その夜、父親は息子キバンジに「マヤンブンビ(Mayamvumbi)」と呼ばれる椰子酒に似た「洗礼の酒」を飲ませる。酒が回り、息子の意識が朦朧とすると、別の場所にいる「ダブル」となることを定められた動物、つまりヤマアラシの心に少年キバンジの感情が入り込む。ヤマアラシは強い衝動に襲われる。

「そのとき初めて、キバンジの飲んだ酒の影響が私の中にも入ってきた、私は吐き出した、頭はくらくらし、視界がぼやけ、毛先はこわばった、かろうじて目は前の方角を向いていた、まるでその子どもが私の助けを求めているかのようだった、彼が私を求めている、行かなければならない、(中略)私は彼であり、彼は私だった、」

『Memoirs of a Porcupine』

 こうしてヤマアラシがキバンジのもとへ駆けつけることで、両者は「有害なダブル」としての結びつきを得る。やがて彼らは、協同して村の人々を殺していくことになる。 

 殺されるのは、主人であるキバンジの気に入らなかったり、要求にこたえなかったりした村人たちだ。キバンジがヤマアラシに殺害を命じると、ヤマアラシはその人間のもとへ行き、自らの毛を突き刺して殺す。彼らはそれを「食べる」と表現する。

 徐々に殺すことそのものが目的化し、誰彼構わず殺し続ける。そして十数年がたち、ちょうど100人目の犠牲者を前に、キバンジは非業の死をとげる。

殺人者としての役割は、血縁による逃げられない運命として描かれる。キバンジの父親もまた、自身のダブルだったネズミとともに、周囲の人々を殺し続けた。息子と全く同じように、99人を殺害し100人目を前にして怒りに駆られた村人たちによって殺される。

 そしていま、キバンジを失ったヤマアラシはひとりバオバブの木に向かい、その父子と、自分の運命について語りなおすのだった。

 マバンクにとって、アフリカの民間伝承はどういう意味を持っていたのだろうか。

 前述したコレージュ・ド・フランスでの講義録『アフリカ文学講義』(※1)の中で彼は、「ネグリチュード」(Négritude)という概念について、その歴史を紐解きながら説明している。

 ネグリチュードとは、端的に言えば、アフリカやカリブ海に位置するフランスの旧植民地出身の黒人による文化を名指した言葉だ。抑圧を受けた立場でありながら、宗主国の言語であるフランス語で作品を発表しなければならなかった作家たちが、新たにアイデンティティを打ち立てる意味合いがあった。

 ネグリチュードは、マルティニーク諸島出身のエメ・セゼール(1913ー2008)や、セネガル出身で大統領にもなったレオポール・サンゴール(1906ー2001)といった詩人を中心に、1930年代のパリで花開いたという。1940年代にサンゴールが編者となった詩集に、サルトルが「黒いオルフェ」という序文を寄せたことも広く知られている。

 マバンクは講義の中で、「ネグリチュード」という概念が、ジェイムズ・ボールドウィンをはじめとする様々な作家らから批判も受けてきたことを紹介した上で、しかし「ネグリチュードの精神はいまも生きてい」るとし、「本質的には黒人の間で取り沙汰される黒人の問題というわけではなく、私たちのヒューマニズムを再考する手立てなのです」と語っている。

 マバンクが「フランコフォニー」の作家の伝統に連なる存在として自らを位置付けていることは間違いない。本作についていえば、アフリカの民間伝承を口語表現によって現代に蘇らせ、しかもそれを語っているのがヤマアラシという動物だというところにユニークさがあるだろう。動物を主役とすることについてマバンクは、2006年のアフリカメディアのインタビューで、17世紀のフランスの作家、ラ・フォンテーヌの動物寓話からの影響についても語っている。(※2)

 一方で、こうした形式上の特徴を持ちつつも、その主題は極めて普遍的なものだ。

 過去が形を変えつつ、世代を超えて繰り返されること。人は決してその影響から逃れられないこと。キバンジ父子の悲(喜)劇は、様々な物語の中で繰り返されてきた主題を改めて奏でている。

 キバンジによって殺される人々の中に、アメデ―(Amedée)という印象的な男がいる。生粋の読書好きとして知られる若者で、自らが好んでやまない海外の小説について、よく周囲の女性たちに吹聴している。

 ヤマアラシはこの男を「軽薄で、外国の影響にかぶれた若者」として、おろかな人間たちを意味する「サルのいとこたち」の典型と見ている。そしてこんなことを語る。

「多くの本を読んでいることは自慢の種となり、他人を見下す権利があるとされるから、あの読書家たちは常にしゃべり続けている、とりわけ、理解の難しい本の中身について、アメデ―は若い女たちにこんな話をするだろう、深い深い海に出かけて行って巨大な魚と格闘しなければならなかった、あのみじめな爺さん、私に言わせれば、この大きい魚はこの爺さんのことをうらやんでいた別の男の「有害なダブル」だ、
(中略)
 こんな話もあった、魔法のじゅうたんで空をとぶ男、族長であるこの男は「マコンド」と呼ばれる村を作り出した、こいつの子孫は一人残らず呪われていて、半獣半人として、動物の鼻とブタのしっぽを持った人間として生まれる、私の考えではこれもまた「有害なダブル」に違いない・・・」

『Memoirs of a Porcupine』

 「マコンド」という名前が出てきた時、ああやはり、と言う感慨を覚える。それは、ガルシア・マルケスの代表作『百年の孤独』の舞台となる村であり、呪いや血縁といった様々な主題、そしてマジック・リアリズムというスタイルの面でも『ヤマアラシ』を読みながら想起せずにはいられない小説だからだ。

 気の毒なアメデ―は小説についての知識を周囲に吹聴しているというだけで、キバンジとヤマアラシによって殺されてしまう。被抑圧ー抑圧というシンプルな対立軸から見れば、アメデーは宗主国側の文化にかぶれ、自らの伝統を忘れた唾棄すべき人間と捉えられるかもしれない。

 でもそれだけではない。ここには、マバンクが仕掛けた「読むこと」に対する深いアイロニーがある。自らの文学的教養を育んだ言語であると同時に、自分を支配し続ける存在でもあるフランス語に対するアイロニー。それが、この小説のもう一つの主題だ。

 マバンクはヤマアラシという語り手を通して、このアイロニーを、植民地と宗主国という支配関係の内側にとどまらない、人間の文化全般に対する根源的な問いに変換する。

 なぜ読むのか? 読むことは私たちに何をもたらしたのか? ヤマアラシの声はこんな問いをユーモアとともに投げかけている。

書誌情報
Alain Mabanckou
Memoirs of a Porcupine
translated by Helen Stevenson, Soft Skull Press, 2012
https://softskull.com/books/memoirs-of-a-porcupine/

(※1)『アフリカ文学講義』(中村隆之、福島亮訳 みすず書房、2022年)

(※2)https://www.afrik.com/memoires-de-porc-epic-hommage-aux-contes-africains

執筆者プロフィール
井上二郎
1990年生まれ。大学で英米文学を専攻。新型コロナを経て、海外文学への関心が戻ってきました。去年のベストは『スモモの木の啓示』(ショクーフェ・アーザル)。普段は会社員です。翻訳全般に興味あり。

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