『通史 アメリカ軍用機メーカー』青木謙知著、コーエーテクモゲームス、1998


前書き

1996年12月3日、新旅客機ボーイング777の取材でシアトルにいたときのこと。広担当者が昼前にビッグ・ニュースの記者会見がある、と知らせてくれた。もちろん会見には出席できないのだが、ボーイング社では電話回線を使って会見の模様を誰でも聞くことができるシステムを採っており、さっそく広報の事務所でその電話を聞かせてもらうことにした。

その時の会見の内容は、ボーイングとマクドネル・ダグラス社が、将来の大型旅客機の研究開発について、戦略的な同盟を結ぶことで合意した、というものだった。ボーイングとマクドネル・ダグラスが合併する、というものではなかった。もちろん、会見に出席した記者からは、合併に関する質問も出たが、「今回の発表はそうではない」と否定していた。その時の雰囲気は、合併するにしてもまだ先の話と感じられた。

そこで帰国してから、「こういう発表があって、内容を聞くことができたけど、ボーイングとマクドネル・ダグラスの合併はまだないね」などと得意になって吹聴していたのである。しかしなんとそれから2週間も経たない12月15日、今度はボーイングが、マクドネル・ダグラスと合併で合意した、と発表した。周りからは、「どういう予測だったんだ」などとも冷やかされた。弁解するわけではないが、後日12月3日の会見に出席したアメリカ人記者の話を聞くと、彼も「合併が近いのならばあんな発表はしないだろうし、合併の話はその後急展開でまとまったのだろう。自分も合併がこんなに早いとは思わなかった」と話していた。

それはいいとして、近年のアメリカ航空機メーカーの合併の連続には、驚かされるものがある。その発端は、1993年3月1日に発表された、ロッキード社によるジェネラル・ダイナミクス社のフォートワース部門(戦術軍用航空機部門)の買収完了の発表だった。以後、ロックウェル社、ノースロップ社、グラマン社、そしてマクドネル・ダグラスと、航空機を知るものにとってはお馴染みのメーカーが、次々と消えていっした。

もっとも、アメリカの航空機メーカーが合併を繰り返したり、名門が消滅したりというのは今に始まったことではない。

ライト兄弟が世界で初めて動力飛行に成功して以来、航空機の可能性が追求され、軍用と民間の双方で欠くことのできない乗り物となった。その間には、大量の旅客を運んだものや、戦争で活躍した名機などがあり、もちろんそれを生み出したメーカーが存在した。

しかし、航空機生産事業は、一つの代表機を生み出したら未来永劫それでやっていけるものではない。技術の進歩に伴い、次から次へとより良い航空機を開発しなければならないし、時代によっては急に航空機が余って事業を圧迫することもある。また経済的な問題が、新型機の登場を許さないこともある。それらを乗り越えて、メーカーは存続しなければならない。メーカーの消滅や合併の記録は、そのままアメリカの航空機メーカーの歴史でもある。

そして今日、生き残ったメーカーは極めて少数になってしまった。



第1章 軍用機のはじまり

航空機の誕生

軍の指揮官というのは常に、敵が何をやっているかを知りたがるものだ。もちろん、このような情報収集活動は、自軍の作戦を立てるのに不可欠なものであり、それだけに使用できるあらゆる装備を駆使し、考えられる限りの手だてを講じることになる。

戦いでは、常に相手よりも高い位置にいることが、優位を保つ一つの戦術である。飛び道具の能力の低い時代には、高いところにいれば敵の兵器は届かない。一方自軍の兵器は、引力に引っ張られて落下するから敵に届くことになる。さらに、高いところの方が敵軍を見渡すにも都合がよい。

18世紀末に気球ができたことで、空中から敵を偵察する手段が手に入り、その後さらに気球やカイト(凧)が空中からの観測に多用されるようになった。より高く上がれば、それだけ広い範囲を観測することも可能で、空中からの活動は、より敵に関するより多くの情報をもたらすこととなった。

しかしこれらには、問題もあった。気球やカイトは機動性に欠けるから、限られた部分の敵の活動しか見ることができない。また準備やその使用が厄介である、などの欠点が指摘できよう。

こうした任務には、機動性のある空中プラットフォームの方が当然適している。したがって、飛行船が実用化すればそれがすぐに気などに取って代わったし、航空機が完成するとそれに白羽の矢が立てられたのは、ごく当たり前の成り行きであった。


人類初の動力飛行の成功は、よく知られている通り、アメリカのライト兄弟によるものであった。1903年12月17日午前10時35分、ノースカロライナのキティホークにあるキル・デヴィル・ヒルで、ライト兄弟の弟、オーヴィル・ライトは複葉機フライヤーに寝そべって離陸し、12秒間、約36.5mの飛行を行った。フライヤーには12馬力のエンジンがついていて、また機体の姿勢を調整することもできるようになっており、これが人類初の、動力つき有人航空機による操縦可能な飛行となったのである。

ライト・フライヤーの完成に至る前に兄弟は、1.52mの翼幅を持つ複葉のカイトを製作し、1899年8月に初飛行した。この飛行で、機体の基本的な構成が正しかったことを確認した兄弟は、続いて翼幅5.18mのグライダーNo.1を作って1900年に飛行させ、さらに翼幅を6.71mにしたグライダーNo.2を製作した。このグライダーNo.2は、操縦者が体を動かすことによって機体を操縦できるようになっていた。

この時点までライト兄弟は、航空開拓の先駆者により残された技術データを基にグライダーを製作してきたが、それでは不十分と判断しさらに独自に調査を進めることを決心した。

風洞試験や自転車を使って多くの空力を調査し、その結果1902年8月から9月にかけて、グライダーNo.3の工作を行った。このグライダーNo.3は翼幅が9.78mとなり、完成後には1,000回近くの滑空飛行試験を実施している。

グライダーNo.3は、飛行試験の間にも、発見された不都合な箇所が変更された。例えば、2枚あった固定式のフィンは1組の可動式方向舵に置き換えられ、体を動かすことにより作動するようにされた。

改良が盛り込まれた最終仕様のグライダーNo.3は、満足のいくものであった。そこで兄弟は、この機体にエンジンを乗せて、ライト・フライヤーが完成したのである。

こうして初の動力飛行機となったフライヤーだが、その操縦は決して実用に耐えるものではなかった。フライヤーの操縦システムは、旋回は下翼に付けられた可動床に下半身を乗せて、旋回したい方向に下半身を動かすことで、主翼外翼部後縁に付けられたワイヤを引っ張って主翼を捻り、その結果左右の揚力がアンバランスになって機体が回るという方式だった。方向操縦は、前記したように可動床が方向舵につながれていて、舵を取るようになっていた。パイロットは、下翼の上に腹這いになって寝そべっていたのである。

ピッチ操縦は、機体先端にある複葉の前翼を使用した。この操作は、操縦者がレバーを前後に動かすことにより行われ、人間の感覚に合った、レバーを前に倒すと機首が下がり、手前に引くと機首が上がるようになっていた。

ライトフライヤーの操縦者が下翼の上に寝そべるというのは、抵抗を減らすという点では優れていた。しかし寝そべっている状態というのは、手足を含めた体の動きが制約され、手足を器用に使うことは難しい。それよりは座った方がはるかに効率的で、このためライト兄弟以降、ヨーロッパで開発された航空機では、操縦者は座るか、あるいは立つかするのがほとんどであった

ライト兄弟も当然操縦方式の見直しを行い、2作目のモデルAでは、機体の構成はフライヤーと同じだが、操縦者と同乗者用に座席が設けられるようになった。このライト・モデルAは、アメリカ陸軍と海軍にデモンストレーションを行い、その結果1908年9月に陸軍が1機を購入した。これがアメリカ軍による初めての航空機調達で、ライト・モデルAには、陸軍のシリアル・ナンバー1番が付けられた。

ちなみにシリアルの2番は1910年に初飛行したカーチス社の複葉機モデルDで、3番と4番は同じく1910年に作られたライト・モデルB、そして5番はライト・モデルBをライセンス生産したバーゲス・モデルFであった。


航空機メーカーの登場

ライト兄弟は、陸軍への販売の成功によりさらに航空機を受注することとなり、デイトン(オハイオ)の工場で量産を可能にする態勢を整えることとした。この時、量産化事業を行うには会社組織にした方がよいと考え、事務方のクリントン・R.ピーターキンが出資者を集め、株主のグループを組織してライト・アンド・カンパニーを1909年11月22日に設立した。同社は本社をニューヨーク市に置いたものの、工場はデイトンに残された。

新会社で最初に生産したのがモデルBで、基本的にはモデルAを踏襲しているが、降着装置がソリ付きの車輪となり、また昇降舵が機首部から尾部に移された。このモデルBも、陸軍が2機を訓練用に購入している。

さらに、エンジンを50馬力のものに変更したモデルCが作られ、陸軍が7機を購入した。そして海軍も、モデルCの降着装置を3ステップ型にしたモデルC-Hを1機調達している(ほかにスペア部品から組み立てた2機も装備)

ただ海軍による航空機の購入は、このライトモデルC-Hが最初ではなかった。海軍が最初に購入した航空機は、ライトのライバルでああるカーチスのA-1水上機だった。カーチスA-1は、複葉の水上機で75馬力エンジン1基を装備し、プロペラはプッシャー式であった。

さらに海軍は、カーチスから陸上機(A-2)を1機(後に水上機に改造)、水上機を2機購入しており、ライトC-Hは海軍通算5機目の航空機だった。海軍航空初期の動きは、また後述する。


アメリカ軍は、航空機の完成度が高まるにつれてその導入を進めていくことになるが、初期の航空機はこれまで記したように、ライトかカーチスのものであった。しかしカーチスの機体が特に海軍で成功を収めると、ライトよりもカーチスの機体が多く購入されるようになっていった。

その理由の一つは、カーチスの方が生産態勢が整っていたことにあるだろう。カーチス社の生みの親であるグレン・H.カーチスは、1878年生まれで、自転車や大馬力エンジンの競走用オートバイの製造に着手、その後航空機の将来性に惹かれて航空機の開発に手を染めるようになった。そして1907年10月1日に航空自作協会を設立した。それ以前にも、飛行船用エンジンの製造などで航空関連製造業を営み、また、失敗には終っているものの、航空機の試作も行っている。

カーチスの航空自作協会では、会員に航空機やエンジンを提供し、また自身でも航空機の開発を続けた。そうして作られたカーチスの自作機「ジューン・パグ」は、1908年6月20日に、初の公式に観察された1km以上の飛行に成功し、この年のアメリカ科学賞を受賞した。そして翌1909年3月30日に、航空機を製造する会社として、アウグスタス・ヘリングとともに、ヘリング・カーチス社を設立した。

ライト兄弟が航空機生産のために会社組織を作ったのが1909年11月であるから、態勢を整えたのはカーチスの方が約半年早かったことになる。こうしてヘリング・カーチスは、アメリカで初の航空機メーカーとなったのである。

ただ、こうした態勢を製造者側が整えても、軍の購入に基づく航空機生産の事業規模は簡単には拡大しなかった。航空機は1機1機が手作りで、また作られる毎に細かな改良や改修が施されて、現代のレベルでいう量産というものではなかった。

その一因には、陸軍と海軍にきちんとした航空組織がなかったことも挙げられよう。陸軍が最初に航空機を購入したのは前記したとおり1908年であったが、そこに本格的な組織としてアメリカ陸軍航空隊が設立されたのは、その10年後の1918年4月であった。

また海軍も、陸軍よりは早く組織作りが進められたが、航空分遣隊が作られたのが1914年、そして海軍省の中に海軍航空オフィスが設けられたのが1915年7月で、海軍飛行部隊に昇格したのが1916年8月だったのである。

手元の資料によれば、アメリカで初めて本格的な航空機の製造ラインを作ったのは、トーマス・ブラザーズ・エアプレーン社(後のトーマス・モーズ社)であったとされている。

トーマス・ブラザーズ・エアプレーンは、イギリス人の技術者であるウィリアム・トーマスが1912年にニューヨークに設立した会社である。ウィリアムは単身アメリカに渡り、1909年にヘリング・カーチスに入社した。そこで仕事をしているうちに、自分自身の資金と技術だけでも航空機の設計製造できると考えて、独立して会社を興した。

最初に製造したのが、1915年に完成したイギリス海軍向けの複座偵察機T-2であった。そしてこのT-2に、より大馬力のエンジンを付け、降着装置をフロート式に改めたSH-4を開発し、アメリカ海軍に偵練習機として採用された。製造機数は、T-2が24機、SH-4が15機で、一桁の製造がほとんどであった当時、同一の生産ラインで39機という初の量産が行われたのである。


大量生産への道

初期の航空機メーカーは、そのほとんどが小規模なものであった。航空機の研究を進めていた個人や、操縦を学んだもの、あるいはどこかの航空機メーカーに勤めた後独立する、などといった形で事業を興したケースが多かったから、これは当然といえば当然だ。

航空機の発注とそれに対する生産が、少数機であれば小さな事業規模でも対応はできた。しかし、航空機の有効性が次第に認められ、発注機数がまとまってくると、町工場のような規模の工場では、もはや生産が追いつかない。そして生産能力がないということは、必然的に受注がなくなり、淘汰されることになってしまう。

とはいっても、小規模の企業では、量産を可能にする工場の取得や生産工具の入手、あるいは人員の確保などの設備投資は、大きな問題であった。航空機の先駆者達は、必ずしも大金持ちではなかったから、個人あるいは小規模の事業資金には限りがある。そこで1910年代後半になると、いくつかのメーカー同士の合併が行われるようになった。

動力飛行の生みの親で、その後会社組織を作ったライト兄弟も、例外ではない。ライト社は、1915年10月13日に、まずグレン・L.マーチンのシンジケートに買収された。マーチンは、1909年に航空機の操縦を学び、飛行機の将来性を認知したことから、それまでに自動車修理業を辞めて航空機の製造を始めた。そして1911年にサンタアナに、グレン・L.マーチン社を設立している

航空の開拓者、という点からは、マーチンはライト兄弟の後輩ではあるが、事業の面では1905年に自動車修理業を始めており、ライト兄弟の先輩に当たる。またその事業は、決して失敗ではなかったから、経営者としてとしての手腕もあった。

これに対してライト兄弟は、航空機の開発から事業へと進んでいた。経営者としての能力は未知数で、結局は事業家としての先輩の軍門に下った形である。マーチンにしても、航空機事業をより発展させるには、優れたアイディアを持ち、また特許を取得しているライト兄弟の存在は貴重であった。

そして1916年8月17日、マーチンとライトの両社は、ジェネラル・エアロ社、シンプレックス・オートモービル社を加えて合併し、マーチン・ライト社が設立された。ライト兄弟の弟、オーヴィル・ライトは、マーチンに買収されてからは、コンサルタントを務めていたが、この合併以降経営陣との対立が表面化し、1917年3月に同社を辞めて、デイトン・ライト社を設立している。

マーチンライトという企業体は、結局は不成功に終わった。オーヴィルのみでなくマーチンもまたこの新しい事業形態に不満を覚え、1917年10月に会社から離れて再びグレンL.マーチン社を興してその後爆撃機の開発・生産などで成功を収めた。

残されたマーチン・ライトは、1919年末に社名をライト・エアロノーティカルに変更した。ただしこの時点で、社名の基になっているライトの係わりはなくなっている。そしてライト・エアロノーティカルでは飛行艇やレース機などを製造したが、航空機メーカーとしては生き残れなかった。

マーチン・ライトを離れたオーヴィルは、政府向けの航空機を量産するために、デイトン・ライト社を設立した。デイトン・ライトは4か所に生産工場を持ち、爆撃機などの生産を計画していたが、第一次世界大戦の終戦に伴い発注されていた生産はキャンセルされ、1920年にジェネラル・モータース社の管理下に入ることとなった。

自動車メーカーであるジェネラル・モータースはこの時期、航空機の製造に関心を示したようだが、長続きはせず、1923年に航空事業から手を引いて、デイトン・ライトの資産はリューベン・フリートに売却されている。ただジェネラル・モータースの航空事業は、第二次世界大戦時に復活し、傘下に設立したイースタン・エアクラフトとフイッシャーの両部門で、ワイルドキャットやベアキャット、アヴェンジャーの生産を行っている。その後は、再び、航空機の製造をやめた。

デイトン・ライトの資産を購入したリューベン・フリートは、1919年にコンソリデーテッド社を設立しており、そこにデイトン・ライトの事業加えた。しかしリューベンフリートは、1928年に役員会との対立からコンソリデーテッドを離れて独自に企業を設立している。

他方ライトは1929年8月8日に、グレン・カーチスが設立していたカーチス・ロバートソン・エアクラフト社と合併、カーチス・ライト社として企業名にその名を止めた。

このライト兄弟の例のように、航空機製造事業を興した各社は、事業規模の拡大と生き残りをかけて、合併や吸収を続け、その競争に勝ち残ったものが大手航空機メーカーとして名を残すこととなった。しかし、航空機事業が巨大化していく別の道もあった。

投資家にとって、成長著しい航空機事業は大きな魅力で、いくつかの会社をまとめて保有して利益を得る、いわゆるコングロマリット方式も試されたのである。その一つの例が、デトロイト・エアクラフト社であった。

デトロイト・エアクラフトは1929年に設立され、ライアン、イーストマン、ロッキード、ブラックバーン、エアクラフトデベロップメント、パーク・アンド・ウィントン・エンジンなどのメーカーを次々に買収し、傘下に収めた。デトロイト・エアクラフト自体は直接は製造に関わらず、単なる親会社組織として存在し、そこへの投資家が、傘下に収めた各航空企業の成功による速やかな利益獲得を目指した。しかし、1929年に始まった大恐慌により、1931年に会社は閉鎖され、この試みは失敗に終わった。


第二次世界大戦前の軍用機

ここから、アメリカで作られた軍用機の主要機種ごとに、第二次世界大戦前までの流れを見ていくことにする。これはまた、アメリカの航空機メーカーの興亡の流れでもある。

軍用機の主役の一つは、武装した戦闘機だ。航空機に機銃を付けるというアイディア自体は、誰でも考えつくことであろうが、アメリカでは第一次世界大戦前の1913年に、アイザック・ニュートン大佐が、アメリカ陸軍信号隊のライト複葉機に機銃を取り付けている。しかし当時アメリカの陸軍からは、このアイディアは熱心には受け入れられず、このためニュートンは自身のアイディアを完成させるために、ベルギーに移住して工場を設立した。

第一次世界大戦中にアメリカは、ヨーロッパのような航空戦とは無縁と考えてはいたが、戦闘機の必要性を無視していたのではなく、ヨーロッパから、スパッドやその他単座戦闘機を輸入していた。しかし、航空技術の発展などから、当然独自に戦闘機を開発する方向が定められ、トーマス・モーズ社が初めて、戦闘に十分使えうる戦闘機の開発に着手した。

トーマス・モーズではMB-1、MB-2として試作を行ったが、認められたのはそれらを完全に新設計に改めた複葉戦闘機、MB-3であった。MB-3は、第一次世界大戦に参戦したアメリカ軍が、ヨーロッパで戦える戦闘機を目指したものであり、アメリカにとって初の試みの一つであった。

このMB-3は1919年2月21日に初飛行し、その性能が陸軍に認められてヨーロッパ製戦闘機と置き換えるために量産発注された。MB-3は、その改良型MB-3Aと合わせて250機が発注されたが、このうちトーマス・モーズが作ったのはMB-3 50機だけで、MB-3A200機はボーイング社が製造している。ちなみにこの250機の発注というのは、その後17年間に渡って最大発注機数の記録を維持した。

MB-3Aは、エンジンをライト・イスパノH-3 300馬力エンジンとし、最大速度225km/h、離陸から3,000mまでの上昇時間5分以下という、優れた性能を有していた。機体自体は、エンジンのオーバーヒートや整備の難しさ、あるいは窮屈な操縦席と欠点はあったが、高性能はそれを補って余りあるものだった。

MB-3Aにより戦闘機の量産経験を会得したボーイングは、続いて独自設計でモデル15を開発し、1923年4月29日に試作機を初飛行させた。これが陸軍にPW-9として採用され、改良型のPW-9A/C/Dを合わせて111機が陸軍に採用されている。モデル15はまた、海軍でもFBシリーズとして採用されている。


ボーイングとカーチスの台頭

これと同時期、ボーイングのライバルであったカーチスも、戦闘機を開発・完成させた。カーチスは、1909年にアメリカ陸軍から製造を受注、これがモデルDで、アメリカ陸軍二番目の購入航空機となり、その後軍用機の大メーカーとなるカーチスの第一歩を踏み出すこととなった。

そして1924年に単座の複葉戦闘機PW-8を完成させ、ホーク・シリーズが誕生したのである。PW-8は25機が陸軍に採用され、さらに1925年以降は呼称変更によりP-1となり、発展型も含めて164機が作られた。

初期のカーチスの戦闘機の中でもよく知られているのが、P-6ホークだ。P-1の基本設計を使って、エンジンを大馬力(600~675馬力)のものに変えるとともに、機体を流線型にして、318km/hの最大速度など、飛行性能を大幅に向上させた。P-6は、海軍もF6Cとして購入している。

一方ボーイングは、海軍向けに開発し1928年に就役したF4Bシリーズを陸軍からも受注し、1929年にP-12として製造を始めた。その中でも生産機数の多かったのが、525馬力のワスプ・エンジンを搭載した出力増加型P-12Dをさらにパワーアップし、胴体をモノコック構造にして形状をより流線型にしたP-12Eで、1931年に135機が発注された。P-12は、初期のアメリカ戦闘機では最も大規模な量産が行われた機体で、陸軍と海軍を合わせた生産機数は586機に達した。

さらにボーイングでは続けてモデル266単葉戦闘機を開発し、1933年に陸軍から111機を受注してP-26"ピーシューター”として生産を開始した。P-26は、アメリカ初の単葉戦闘機であり、もちろんボーイング初の単葉戦闘機でもあるが、同時にボーイング最後の単葉戦闘機にもなった。以後ボーイングは、大型機の道を歩むことになっていた。

P-26は、600馬力のプラット&ホイットニーR-1340-27を装備し、最大速度は376km/h、0.3インチと0.5インチ機銃を備えるとともに、120ポンド爆弾2発または30ポンド爆弾5発を搭載できた。アメリカ陸軍からは第二次世界大戦前に退役し、アメリカ陸軍戦闘機としては戦争で使われることはなかったが、中古の機体がフィリピンに渡されたほか、中国にも新機が輸出され、第二次世界大戦初期には日本軍機と戦っている。


航空黎明期のアメリカ海軍

陸軍だけでなくアメリカ海軍も、航空機に関しては関心を有しており、ライト兄弟による動力飛行成功以前の1898年にはラングレー飛行場の調査を行い、初の飛行が近づいているかに見られていた。

しかし、初の動力飛行は1903年まで成功しなかったし、海軍が本格的に航空機の装備を検討するようになるのは、1908年にライト・モデルAがアメリカ陸軍に対してデモンストレーションを行った際に、2名の海軍高官が出席したときであり、かなりの時間を要した。

このライトモデルAの飛行デモで航空機の可能性を認知した海軍では、1910年にチャンバース大佐を海軍航空の責任者に任命し、大佐はすぐにグレン・カーチスに2機の航空機を発注した。こうして作られた初号機が、1911年7月に初飛行した、カーチスA-1であった。

なおこのカーチス・モデルAは、前記したように陸軍も購入しており、購入時期は海軍よりも2年早い1909年だった。このカーチスA-1はまた、カタパルトの開発試験にも用いられた。

カーチスA-1の原型となったのが、エリー試作機である。この名称は、ユージン・エリーというデモンストレーション・パイロットの名前に由来している。

ユージン・エリーは、1910年11月に、海軍の巡洋艦バーミンガムの艦首に作られた専用のプラットフォームから発進し、ヴァージニア沖に着水して航空機の艦載運用を披露した。そしてその2か月後には、今度はサンフランシスコ沖に停泊する巡洋艦ペンシルヴェニアの船尾に設けられたプラットフォームに着艦し、初の艦船への着艦に成功した。

他方グレン・カーチスも、ほぼ同時期の1911年2月に水上機を初飛行させている。この飛行は、サンディエゴ湾に停泊中のペンシルヴェニアの脇から離水して行われたもので、軍艦とともに行動できる水上機は、海軍からは通常の降着装置型の航空機よりもはるかに熱狂を持って受け入れられたのである

こうして発足した海軍航空隊は、1914年には2個の分遣隊を持つにいたり、巡洋艦ヴァーミンガムとミシシッピに搭載されて、メキシコ周辺の監視任務に就くようになった。そして1915年7月には海軍省の中に海軍航空オフィスが設けられ、それが1916年8月には海軍飛行部隊として承認された。

1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、海軍飛行部隊は54機の航空機を保有していた。それが19か月後に終戦を迎えた時点では、約2,000機までに機数を増やしたのである。しかしその時点でも車輪式の艦載機は、戦艦テキサスから発艦した、イギリス製のソッピース・キャメルだけであった。


空母の登場と艦載戦闘機

海軍の航空機装備の充実が本格化したのは、第一次世界大戦終戦以降である。特に1922年にアメリカ初の空母ラングレーが就役してから急速に発展した。ちなみにこの空母ラングレーは、11,000トンのタンカーを改造して作られたものであった。ここで陸軍同様に、二つの大戦間の艦載機の流れを簡単にまとめておく。

ラングレーの就役により空母を保有するようになったアメリカ海軍の、初の空母艦載機が、海軍製造廠(NAF)が開発したTS-1である。TS-1は複葉の戦闘機で、空母以外の軍艦からの運用向けに双フロート型も作られた。TS-1は、NAFが5機を製造した後、カーチスが44機を量産した。

カーチスはTS-1を全金属製にしたF4C-1も2機製造し、さらに続いてF6Cホーク戦闘機を開発、空母ラングレーに1個飛行隊が搭載された。ただこのF6Cの製造は75機のみに終っていて、ほかの飛行隊は編成されなかった。

このF6Cは、アメリカ陸軍向けのP-1と同様の機体で、特に1925年末に引き渡された最初の7機(F6C-1)は、全くP-1と同じ機体であった。その後の機体は、空母での運用のために降着装置を強化するとともに、アレスティングフックが付加されていて、F6C-2/-3と呼ばれている。エンジンを、プラット&ホイットニーR-1340星形に変えたのが、F6C-4.

F6Cと基本的に同じエンジンで、馬力を425馬力にパワーアップししたものを装備したのが、ボーイングF2B-1単座艦載戦闘機であった。F2B-1の引き渡しは1928年1月に開始され、空母サラトガに配備されている。

このF2B-1に若干の改修を加えたのがF3B-1で、F2B-1の配備の7か月後には海軍に引き渡しが始まり、まず空母ラングレーに、そして後には空母レキシントンサラトガにF3B-1装備飛行隊が搭載された。生産機数は、F2B-1が32機、F3B-1が74機で、1932年まで実用配備されていた。

F2B(モデル69)は、当初は空母および水上の双方で運用できるように設計されたが、知られている限りでは空母以外での運用は行われず、フロート装備型は作られなかったようだ。エンジンはプラット&ホイットニーR-1340ワスプ(425馬力)で、最大速度は254km/hであった。

発展型のF3B(モデル77)は、当初は中央胴体下と両翼端部にフロートを付け、空母以外の艦船での運用を目指したものだったが、この仕様では発注は出されず、空母用降着装置に変えてから注文を得た。F2Bからの外形上の変更点は、上翼の幅が若干大きくされ、また後退角が付けられた点である。

これに続くボーイングの海軍向け戦闘機が、F4B-1である。450馬力にパワーアップしたR-1340エンジンを使い、F3Bの254km/hに対し283km/hという高速性を誇った。最初のタイプであるF4B-1が1929年6月から配備が始まり、1931年はじめにF4B-2、1931年末にF4B-3、そして1932年7月からはF4B-4と、発展型が作られている。

このF4Bは、陸軍向けP-12の海軍型で、中でもF4B-4はF4B-3で採用した金属製セミモノコックの胴体と、大型化した垂直安定板と方向舵を備えて飛行性を向上させたタイプで、92機が海軍に引き渡されている。エンジンはプラット&ホイットニーR-1340-16(550馬力)で、303km/hの最大速度が出せた。


名門グラマン

ボーイングに海軍戦闘機の受注を独占されたカーチスも、F8C-4へルダイヴァー戦闘機を開発したが、生産は25機と余り成功せず、続くF11C単座戦闘機も27機が作られたのみで、1933年にサラトガに1個飛行隊が配備されるにとどまった。そして1934年3月には、戦闘機よりも戦闘爆撃任務に使えるとされ、機体呼称もBFC-2に変えられた。そして、1938年まで実用配備にあった

BFC-2に続いて採用されたのがBF2C(旧F11C-3)で、27機が作られてレンジャーに配備された。しかし降着装置の不具合により、配備開始からわずか数か月後の1934年10月に、退役を余儀なくされた。これが、カーチスのアメリカ海軍向け最後の実用戦闘機であった。


カーチスに代わって海軍が採用するようになったのが、グラマンの戦闘機である。1931年に初飛行した同社最初の戦闘機FF-1は、アメリカ海軍機としては初めて、引き込み式の降着装置を有するものだった。

FF-1は複座の戦闘機で、前方射撃用の0.3インチ機銃1挺を装備したほか、後席にもフレキシブルマウントに取り付けて2挺を装着することができた。このFF-1の操縦装置を二重系統とし、訓練にも使用できるようにした改良型がFF-2で、1933年から3年間使われている。

FF-1は、当時としては先進の完全密閉式コクピットを有し、エンジンは750馬力のライトR-1820-78を装備し、また1934年にはエンジンをR-1820-84とした素敵型SF-1も作られた。

FF-1/FF-2は、生産機数は少なかったが、海軍戦闘機の実績を得たグラマンは、続いてFF-1を小型化した単座のF2Fを開発した。F2Fも、完全な閉鎖式コクピットを有していた。1935年に就役を開始し、レンジャー、レキシントン、ヨークタウン、ワスプの各空母に飛行隊が配備され、1940年まで使われた。

続いて作られたF3Fは、胴体をより長くするとともに主翼を変更し機動性を高め、エンジンも650馬力という大馬力のプラット&ホイットニーR-1535を装備し、高性能を狙っていた。F3F-1は1936年から4年間使われ、その間の1938年には発展型のF3F-2が作られて、エンジンはより大馬力(950馬力)のライトR-1820に変えられた。さらにこの年の終りには、最大速度425km/hを出せるF3F-3も実用化された。F3Fは、アメリカ最後の複葉戦闘機でもあった。


艦載爆撃機の流れ

ボーイング、カーチス、グラマンが海軍向け戦闘機を開発する一方で、マーチンは艦載の爆撃機の開発を行っていた。カーチスが設計したCS-1/-2を基に、鋼管胴体やパワーアップ・エンジンを装備するなどの改良を盛り込んだのがT3M複葉雷撃/爆撃/索敵機で、1926年9月から海軍への引き渡しが始まった。初期のT3M-1に加えて、3座席としたT3M-2、エンジンを525馬力のプラット&ホイットニーR-1690ホーネットとした発展型T4M-1も作られている

このT4Mは、その後製造担当がグレート・レイクス社に移され、TG-1として18機が作られた。グレート・レイクスではさらに本機を発展させたTG-2も生産し、32機を納入している。TG-1はT4Mをそのまま製造したものだが、TG-2ではエンジンが、620馬力のライトR-1820サイクロンに変更された。

TG-2の生産により技術を認められたグレート・レイクスは、続いてBG-1複座急降下爆撃機の開発を受注した。BG-1は、750馬力のプラット&ホイットニーR-1535エンジンを搭載し、450kgの爆弾搭載量を有していた。これに続いて同社では、発展型のBG-2の開発も受注したが、制式採用にはならなかった

また、カーチスF8C-4が不首尾だったことで、それに代わる素敵爆撃機を受注したのが、ヴォート社であった。ヴォートはSBU複座索敵爆撃機を開発し、1935年に実用化されている。SBUは、700馬力のプラット&ホイットニーR-1535を使い、最大速度330km/h、225kg爆弾1発搭載という能力を有していた。

前に、海軍最後の複葉戦闘機がグラマンF3Fであったと記したが、アメリカ軍最後の複葉作戦機となったのは、カーチスのSBCヘルダイヴァー索敵爆撃機で、1940年まで生産が続けられた。SBCは、1937年7月からSBC-3の引き渡しが始められ、1938年にはSBC-4も納入、SBC-3 83機とSBC-4 174機が作られている。

SBC-4は、950馬力のライトR-1820エンジンにより、380km/hの最大速度と、450kgの爆弾搭載能力を有した。当時のこの種の機体とししては十分な性能ではあったが、より高性能の単葉機の時代に入り始めており、複葉機はもはや時代遅れであった。しかしこのヘルダイヴァーは、日本軍による真珠湾攻撃時にも、空母ホーネットに飛行隊が搭載されていた。


初期の大型爆撃機

時代をさかのぼって、大戦間のアメリカ大型爆撃機に目を向けると、まず挙げられるのがマーチンMB-1/-2である。MB-1は1918年4月15日に初飛行した複葉双発の爆撃機であったが、行動半径は当時のヨーロッパ機の半分の約280kmしかなく、また爆弾搭載量も455kgと貧弱なものであった。これでは当時保有していたハンドレページO/400の代替とはならないため、すぐに発展型のMB-2が開発されることとなった。

MB-2は、エンジンをリバティの420馬力型とし、構造を強化するとともに主翼を若干大型化した。これにより航続距離が900kmとなり、また最大爆弾搭載量も900kgになっている。このMB-2がアメリカ陸軍に制式採用された初のアメリカ製大型爆撃機となり、1919年から1927年まで使われた。

MB-2に続いて採用されたのが、ハフ・ダーランド(後のキーストコン)社製の爆撃機であった。ハフ・ダーランドでは、1923年にまずXLB-1を開発したが、この量産型LB-1は10機の採用のみに止まり、その後のLB-3/-5/-6(B-3/-5/-6)が多数装備された。

LB-3以降のモデルでの最大の違いは、LB-1が単発機であったのに対し双発となったことで、これは安全性を高めるとともに、乗員の目の前にプロペラがなくなり視界が良くなる、という利点から採用されたものであった。

LB-3は試作(XLB-3)のみに終わったが、エンジンをリバティV-1650(420馬力)としたXLB-5パイレートが陸軍に採用された。この機体ではまた、垂直安定板と方向舵による尾翼ユニットが3枚に増やされている。エンジンをライトR-1750サイクロン(525馬力)に変更したのがLB-6パンサーで、その後プラット&ホイットニーR-1690(525馬力)としたLB-7パンサーも作られた。

この当時ボーイングでは、イギリスのデハヴィランドD.H.4のライセンス生産を行っていて、DH-4Aの名称で陸軍も採用していた。このDH-4Aは、約5,000機がアメリカ国内で作られ、後に多くが発展型のDH-4B/Mに改修されている。そして1928年から1932年まで、陸軍により使用されていた。

このDH-4の導入が進められている間に、アメリカ国内では国産爆撃機の開発が大幅に加速され、より大型の重爆撃機が出現するようになった。まず1930年に、ダグラスがY1B-7(後のB-7)を開発し、これがアメリカ初の単葉爆撃機であった。B-7は、カーチス・コンクェラーV-1570(675馬力)双発で、544kgの爆弾搭載能力を有したが、7機が試作されたのみに終わった。

その1年後には、ボーイングがYB-9を誕生させた。YB-9は、全金属製片持ち翼単葉の機体で、降着装置は半引き込み式、双発のエンジンに付けられたプロペラは可変ピッチのものであった。爆弾搭載量は1,025kgで、すべて胴体内に収容できた。しかしこのYB-9も、7機が試作されただけであった。

この当時の爆撃機で特筆されるのは、やはりマーチンのB-10である。強力な775馬力のライトR-1830-2エンジンを双発装備したB-10は、高度1,980mで343km/hの速度を出すことができ、これは当時の戦闘機の最大速度を凌ぐものであった。降着装置は完全引き込み式で、コクピットも完全閉鎖式という流線型の機体が、この高速性能に大きく寄与していた。

そしてこのマーチンB-10は、発展型のB-12/-14合わせて150以上が生産されている。これは、アメリカの全金属製単葉爆撃機初の量産でもあった。

MB-10シリーズは1930年代末に、ダグラスB-18Aにその座を明け渡このB-18Aは、DC-2/3の発展型で、1,000馬力のライトR-1820-53サイクロン・エンジンを双発装備し、最大爆弾搭載量は2,950kg、最大速度は345km/hというものであった。

このB-18よりも有名になった爆撃機が、ボーイングが開発した4発この大型重爆撃機B-17フライングフォートレスである。B-17は、1934年に社内モデル229として初飛行したが、大型機であることから当然高価で、発注は1938年まで見送られていた。しかしその装備が始ままた第二次世界大戦で4発重爆の必要性が高まると、主力爆撃機となっていったのである。


軍用機の運用方針

ここで、アメリカの軍、特に陸軍における航空機に対する考え方の流れを見ておくことにしたい。

第一次世界大戦で、軍用の航空機は様々な役割を果たしたが、陸軍の中で航空部隊を独立させて広範に使用するというアイディアは、アメリカ人によってもたらされている。1918年にアメリカ遠征軍の司令官であったジョン・パーシング大将は、彼の航空部隊の指揮官に、マンソンM.パトリック少将を任命した。

この年の8月にパトリックは前線の飛行隊をすべて集約するとともにフランスからも航空機を借りて、そのセクターにアメリカ第1陸軍を編成した。この部隊は、ウィリアム・ミッチェル大佐が戦術指揮をとり、9月にアメリカ軍が攻勢を開始すると、少数機が強襲部隊の近接支援に向けられ、その他はすべて飛行場や通信施設、敵航空機などへの爆撃や掃討に使われた。

ミッチェルは1919年に、アメリカ陸軍航空軍の主任幕僚となり、後にはアメリカ空軍の独立キャンペーンを行っている。そして航空戦力をデモンストレーションするために、1921年には捕獲したドイツの飛行船3機への攻撃デモを行い、また後には廃艦にされる予定のアメリカの軍艦3隻への爆撃デモも実施した。このデモは、防御が一切ない恵まれた環境で行われたが、主力艦時代の終焉として歓声をもって迎えられた。

しかし、彼の論がすぐに認められたかというと、そうではなかった。1925年、ミッチェルは、彼の主張に固執し過ぎたことから、反抗者として軍法会議にかけられ、5年間の職務停止を言い渡された。その後、アメリカの軍事航空は、独立した航空部隊を設立しない方向に動くこととなった。

アメリカ陸軍航空軍は、陸軍航空部隊として再編成されたが、海軍も独自の航空活動を保有できるままとなった。陸軍航空部隊の活動は、1930年代に長距離爆撃機や防空戦闘機部隊が作られるようになるまでは、陸軍部隊の支援にほぼ集約されていた。ミッチェルの軍事航空に関する考え方は、彼の死後に実現している。

なおミッチェルは、第二次世界大戦で活躍した双発爆撃機、ノースアメリカンB-25の愛称に、その名前を残した。

【マーチンB-10】マーチンが満を持して開発した、全金属製引き込み脚、密閉式キャノピー胴体内に爆弾倉の設置など最新の技術を盛り込んだ機体。アメリカ以外では、オランダ、アルゼンチン、トルコ、中国などで使用された。写真はYB-10A。



第2章 大戦間の民間航空

航空郵便事業の開始

アメリカの1920~30年代における航空機メーカーの成長を見ていく上では、当時の民間航空輸送の発展も欠かすことはできない。第一次世界大戦への参戦期間が短かったこと、さらには初期の時代は航空運送事業を航空機メーカーが行えたことなどから、民間航空輸送の発達が、アメリカの航空機産業発展に大きく寄与している。

本書は、アメリカの軍用機メーカーについて記していくものではあるが、ここで少し、当時のアメリカ民間航空に目を向けることにしたい。

アメリカで全国規模の航空郵便業務が開始されたのは、陸軍内に航空部隊組織が正式に作られたのと同じ1918年で、5月15日のことであった。とはいってもパイロットは陸軍の隊員が務めており、カーチスJN-4によりワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークという東海岸の都市を結ぶものだった

この年の8月12日には、郵政省(現・郵政公社)が航空郵便業務を行うこととなり、年末までに航空郵便専用に開発されたスタンダードJR-1Bが導入されて、平均91%の定期性を記録している。1921年5月末には、近距離のワシントン~ニューヨーク間の航空郵便は廃止されたが、代わって大陸横断を含むアメリカ大陸全土に航空郵便が普及していった。

1918年末に郵政省は、大量の戦争余剰航空機を調達した。その中には、100機以上がアメリカで作られた、400馬力のリバティ・エンジンを装備したDH-4Bが含まれていた。この長距離機の導入により、東海岸と西海岸を結ぶ航空郵便業務が可能とされ、まず1915年に5月15日にシカゴ~クリーブランド間の航路が開設された。これによりシカゴとニューヨークを結ぶ飛行時間は、16時間短縮されることとなった。

7月1日には、ニューヨーク〜クリーブランド間が航空路となり、9月からニューヨーク~シカゴを通じる新しい航空便が設けられた。他方同じ7月の末には、サンフランシスコ~サクラメント間の航空路も開設された。

1920年5月15日には、アイオワシティとデスモイネス(アイオワ州)を経由しその、シカゴ~オマハ (ネブラスカ州)間の航空郵便路線が使用開始となり、9月8日にサクラメント~ソルトレイクシティ間およびソルトレイクシティーオマハ間が開通して、完全な大陸横断郵便路線ができあがっている。さらにシカゴからは、ミネアポリス/セントポールとセントルイスへの支線も設けられた

こうして主要路線が開設されると、次の段階はいくつかの区間で夜間飛行を行って、あらゆる方向へのフライトを可能にすることで、時間を短縮することであった。そして1922年2月22日、東西双方の起点から2機の航空機が離陸した。しかし、東行きの機体はネバダ州で墜落してパイロットは死亡、西行きの機体もシカゴには到着したものの、悪天候のためそこから先の飛行は中止となった。

しかし、墜落した東行きの航空機の中から、郵便物だけはフランク・イェーガーというパイロットに引き継がれ、イェーガーは夜間にシャイアンを飛び越えて、ノース・プラットでその郵便物をジャック・ナイトに渡した。ナイトはイェーガーに代わって航空機に乗り込み、オマハへと向かった。到着したオマハでは、西行きの航空機が飛行を断念していたため、給油を済ませるとそのままシカゴへ向かった。そしてシカゴで郵便と機体をアーネスト・アリソンに渡し、アリソンはニューヨークまでの最終段階を飛行した。こうして困難はあったものの、東行きの郵便物は33時間20分をかけて、サンフランシスコかニューヨークに到着したのであった。

1922年になると、航路をより明確にするために、照明設備の取り付けが行われた。飛行場にはビーコン、境界および障害物灯、着陸地帯照明が設けられ、正規の着陸飛行場には50万カンデラの回転灯が、緊急着陸場には5万カンデラのビーコンが設置された。さらに、点滅式のガス・ピーコン灯が航路全体に渡って3マイル間隔で設置されることになり、1925年末に全長3,680kmの航路に敷設された。これに要した経費は約55万ドルだったという。

1926~27年にかけてアメリカ郵政省は、こうした航空郵便事業を、民間の契約業者に任せることにした。これが、相次ぐ航空会社の設立につながって行くが、郵政省が事業を停止するまでの輸送実績は、飛行距離2,200万km、定期性93%、運んだ郵便物は3億通以上という。素晴らしいものであった。

しかし、悪い記録も多数残っている。悪天候による緊急着陸4,437回、機体のトラブルによる着陸2,095回などである。そして事故も少なくなく、200件の墜落で32人のパイロットが死亡し、その他に死者11人、重傷者37人を出した

航空機とその運航技術の発展、そして、現在から見れば簡単なものではあるが、航行援助施設の設置により、航空機による輸送は着実に進歩を続けた。ここではアメリカの事例に限定しているが、ヨーロッバでもこうした発展は時を同じくして行われていた。


航空郵便事業の民間への移管

1925年3月1日、ライアン航空が、スタンダード複葉機の改良型とダグラス・クラウドスターにより、サンフランシスコ~サンディエゴ(カリフォルニア州)間の運航を開始した。これがアメリカ本土における、初の定期航空旅客輸送であった。

アメリカの航空輸送産業が、法律面で初めて大きなステップを踏んだのは、その1か月前の1925年2月に、契約航空郵便法が施行されたときである。この法律は、郵便輸送業務を民間の会社に移譲することを定めたもので、続く1926年5月に定められた航空通商法では、商務長官が郵便および旅客輸送のための航路を設立して指定し、航空航法や航空機とパイロットのライセンスを管理することとなった。この航空通商法は、1926年12月31日をもって発効することとされた。

法律が整えられた後の数年間、アメリカの航空輸送は極めて複雑な状況を迎えた。多くの航空会社が作られ、いずれもが郵便業務契約を競ったのである。その中には、小規模な会社もあったが、他方、強力な資金組織にバックアップされ、また航空機メーカーと密接な関係を持った会社もあった。そのいくつかの例を、時代に沿って紹介しておく。

最初に郵便業務の契約が与えられたのは、1925年10月7日のことで、これに基づき12の航空会社が1926年2月から1927年4月の間、郵政省により運航されていた大陸横断便路線を使って、郵便輸送業務を行うこととなった。

フォード・モータース社は、1925年4月3日にデトロイト(ミシガン州)~シカゴ間に、独自の急行小包輸送の毎日運航を開始した。航空機は単発全金属製のフォード2-AT単葉機で、この実績により1926年2月15日に契約航空郵便路線(Contract Air Mail, CAM)6と7が与えられ、CAM6によりデトロイト〜シカゴ間を、CAM7によりデトロイト~クリーブランド間の運航を開始した。さらに同年8月からは、同じ路線での旅客輸送も始められた。

次に運航を開始したのはヴァーニー航空で、ワシントン州パスコとネバダ州エルコを、アイダホ州のボイスを経由して結ぶCAM5が与えられた。運航開始は1926年4月6日で、カーチス・エンジン装備のスワロー複葉機が使われたが、エンジンがあまり良くなく、すぐに空冷のライト・ホワールウインドに換装することとなり、その作業が終るまで一時運航は停止された。

同じ1926年4月には、セントルイス~シカゴを結ぶCAM2で、ロバートソン・エアクラフト社が航空郵便輸送を開始した。これが、今日のアメリカン航空の起源である。またロサンゼルス~ソルトレイク・シティ間のCAM4も同じ時期に、ウエスタン・エア・エクスプレスにより運航が開始され、ダグラスM-2複葉機を使用した。同社も5月23日から、旅客輸送も実施している。

ニューヨーク~ボストン間のCAM1も、同じ4月にコロニアル・エアトランスポートに契約が与えられたが、同社が実際に運航を開始したのが1926年6月であった。また、フォッカーの旅客機を使っての旅客輸送の開始は、約1年後の1927年4月であった。

1926年7月には、フィラデルフィア・ラピッドトランジット・サービス(PRT)が、フィラデルフィア(ペンシルベニア州)〜ワシントン間のCAM13を運航することとなり、1日3便のフライトを開始した。PRTは、ほかの航空会社が搭載量を満たすために旅客を乗せたり、あるいは郵便の搭載を優先していたのに対し、最初からフォッカーFⅦa-3mを使って旅客を優先的に乗せ、ペイロードを満たすために郵便物を搭載するというシステムをとった。

当時、ドル箱路線と考えられていたのが、ニューヨーク~シカゴ間CAM17と、サンフランシスコ~シカゴ間のCAM18で、1925年に設立されたナショナル・エア・トランスポート(NAT)がこの路線を獲得、1927年9月1日からカーチス・ビジョンによりCAM17の運航を始止めた。NATは、旅客輸送には余り関心を持っておらず、このため航開始に当たっては、郵政省で使用していたダグラスの郵便機を18機購入し、その後フォード・トライモーターを購入した。

https://ja.wiki5.ru/wiki/Curtiss_Carrier_Pigeon

しかし、航空機メーカーのボーイングは、特にCAM18のサンフランシスコ~シカゴ間は旅客輸送需要の方が大きいと見て、その路線用にモデル40Aを開発した。このモデル40Aは、420馬力のプラット&ホイットニー・ワスプ単発の複葉機で、パイロットと乗客2名、そして545kgの郵便物を搭載でき、当時NATが運航していた航空機よりも性能や搭載量の面で勝った。

そしてボーイングは、他社より大幅に安価な運賃を設定してCAM18の契約を落札し、この運航を行うためにボーイング・エア・トランスポート(BAT)設立している。

BATによるCAM18の運航開始は1927年7月1日で、運賃が安いために失敗するとの見方もあったが、郵便とともに旅客を運んだため、十分な利益を上げることができた。モデル40Aは続いてエンジンをラット&ホイットニー・ホーネット(525馬力)に変更したモデル40Bに発展し、さらに乗客を4人としたモデル40B-4へと進んだ。モデル40B-4は、モデル40中最多の39機が作られ、さらに40A/Bからこの仕様に改修されたものもあった。

CAM18の契約獲得には、ウエスタン・エア・エクスプレス(WAE)も名乗りを上げていたが、BATの低運賃の前に敗れた。しかしその代わりにWAEは、ロサンゼルス~サンフランシスコ路線を開発し、旅客輸送を行っている。そしてこの運航でWAEは、信頼性と安全性で高いレベルを示した。

1926年と27年には、アメリカの航空輸送の成長に大きな影響を及ぼした、二つの出来事が起きている

その一つは、フォード・トライモーターの出現であった。トライモーターは、全金属製の高翼単葉機で、最初の4AT型では200/300馬力のライド・ホワールウインド・エンジンを3基装備し、10~11人の乗客を乗せることができた。続く5-ATでは、エンジンが400/500馬力のブラット&ホイットニー・ワスプになり、客席数も13~15席に増やされている。

そしてもう一つ、航空機の可能性を大きく広げた出来事が、19275月の、チャールズ・リンドバーグが操縦するライアンNYP-1による大西洋単独横断飛行の成功である。これによって、長距離洋上飛行の可能性が実証されたのである。


旅客輸送の開始

航空会社の設立に話を戻すと、1926年1月には、パシフィック・エア・トランスポート(PAT)が設立された。そして9月15日に、シアトル~サンフランシスコ間のCAM8の運航を開始した。また1927年7月21日には、マダックス航空によりロサンゼルス~サンディエゴ間の旅客運航が始まり、同年11月28日にはロサンゼルス~フェニックス~ツーソン線がスタンダード航空によってフォッカーFⅦを使用機として、やはり旅客輸送を開始してる。

このスタンダード航空は、航空輸送と鉄道を組み合わせた大陸横断旅行ルートも設立して、1929年2月にこの業務を始めた。当初の所要時間は70時間であったが、後に航空輸送部分の拡大により、43時間30分にまで短縮できている。

1928年1月には、BATがPATを買収し、これによりBATのシカゴ~サンフランシスコ路線は、サンフランシスコ経由シアトルへと延ばされた。こうしてBATは旅客輸送ルートの拡張を行ったが、悩みは航空機の信頼性が低く、安定した定期運航が確保できない点だった。

そこでボーイングでは、3発のモデル80を開発して1928年に路線に投入し、12人の旅客を運べるようにするとともに、快適性と安全性を高めることに成功した。

またこのモデル80では、安全性を高めるためにパイロット以外の乗員を乗せることとし、男性の客室乗務員を乗せた航空会社もあったが、BATでは1930年5月から看護婦出身の搭乗員を乗せ、これが世界最初のスチュワーデスになっている。

またそれより前の1928年5月には、トランスコンチネンタル航空(Transcontinental Air Transport, TAT)が設立されて、フォード・トライモーターによる大陸横断線の運航を開始、このフライトで初めて機内食のサービスが行われている。TATも、鉄道会社との運航提携を交わして、1929年7月7日に、航空機と列車を組み合わせての東海岸~西海岸線を作った。

この路線をニューヨークから西行きで見ると、まずニューヨークのペンシルバニア駅から夜行列車でオハイオ州のポート・コロンバスに向かい、そこから航空機でオクラホマ州のウェイノカまで飛行する。ウェイノカからは再び夜行列車でニューメキシコ州クロビスまで旅行し、そこから最終段階として航空機でロサンゼルスに向かう。

またロサンゼルス到着後は、列車かマダックス航空の旅客機で、無料でサンフランシスコに旅することもできた。このニューヨークーロサンゼルス間の所要時間は48時間で、料金は337~403ドルであった。またこうした運航提携が発展して、11月にTATはマダックス航空を買収した。

東部では、1928年5月1日に、ピットカイーン航空がニューヨーク〜アトランタ間のCAM19の運航を開始し、高速道路の明かりを使って夜間飛行を行っていた。12月には、フロリダ航空が運航していたアトランタ~マイアミ線を買い取り、1930年1月にイースタン・エア・トランスポートに社名を変更している。そして路線をボストンまで延長して8月から一部で旅客輸送を開始し、12月には18席のカーチス・コンドルを導入した。

1939年、郵政長官にウォルター・フォルガー・ブラウンが就任した。彼はいかにしてアメリカの航空路を開拓するかという点について、強い意見を有していた。郵政省は、ニューヨーク~ロサンゼルス間のCAM34の運航会社の選定を行っていたが、その契約が有力会社のTATと結ばれる前にブラウンは、TATにWAEとの合併を指示し、合併させた。

こうして作られたのが、トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン航空(TWA)であった。そしてTWAは1930年10月25日に、東海岸から西海岸までの、完全な航空路線を作って、運航を始めた使用機はフォード・トライモーターで、夜間にシカゴで停泊するニューヨーク~ロサンゼルス間を、36時間で運航した。

1930年1月25日には、南部の路線を運航するアメリカン航空が設立された。アメリカン航空はその後も路線や航空会社の買収を続けて、路線網を充実させていった。

1931年には、BATやNAT、PATなどを傘下におさめる、ユナイテッド航空が誕生した。それまで参加の各社により運航されていた路線のいくつかは、ユナイテッド航空の名称による運航に変えられた。こうして、航空会社のビッグ4(イースタン、TWA、アメリカン、ユナイテッド)が、1931年中期までに形作られ、傘下に多数の航空会社や航空機メーカーを収めることとなった。


こうした時代に登場した旅客機で、特筆すべき機体が、ボーイングのモデル247とダグラスDC-1/-2である。しかし、DC-2が就役を開始する1934年7月よりも前の1934年2月9日に、ルーズベルト大統領はいくつかの航空会社が契約をきちんと果たしていないとして、民間会社によるすべての郵便航空輸送契約を破棄することを決定し、2月19日をもってこうした運航は取り止めとなった。

これと合わせて、新しい航空郵便法が定められて、航空機の運航と航空機の製造を同一の会社で行ってはならないことになり、航空会社とメーカーが分離することになった。運航会社にとっては、傘下に航空機メーカーがいることで容易に必要とする航空機を入手することができ、他方メーカーにとっても資金調達や確実な販売が可能となっていたが、逆に弊害も多いとされたのである。

1920年代中期から30年代前半当時、航空機メーカーにしても航空運航会社にしても、事業規模の拡大とそれに必要な資金を得るために、提携関係から同一の親会社の傘下に収まるコングロマリット化が進められていた。その好例がユナイテッドである。

1928年に設立されたユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社は、ボーイング、プラット&ホイットニー、ヴォート、ステアマン、ハミルトン、シコルスキーといったメーカーを傘下に収め、さらにボーイングの航空運航部門であるBAT、そしてNATとPATも傘下の企業としていた。航空会社3社は、前記したとおり1931年に一体化されてユナイテッド航空となった。しかし、1934年の航空郵便法の施行に伴い、ユナイテッド航空は独立して運航会社となり、メーカー部門はユナイテッド・エアクラフト社を新設した。

ユナイテッド・エアクラフトには、旧傘下のメーカーすべての移行がもくろまれたが、ボーイングとステアマンが脱退し、ボーイング・エアクラフトを作った。それ以外の会社はユナイテッド・エアクラフトに残り、現在でもユナイテッド・テクノロジーズの傘下企業として活動を続けている。


旅客機開発の歩み

時代は前後するが、こうした航空会社の設立と歩みを同じくして、旅客機の開発も急速に進展していた。1927年7月には、ジョン・ノースロップとジェラルド・ヴァルティが設計した4座席の高翼単葉機、ロッキード・ヴェガが初飛行している。ヴェガは、1928年9月17日に、インターナショナル航空により初就役し、当初は木製の機体だったが後には金属製に改められ、217~241km/hの巡航速度を活かして、多くの航空会社で使われた。また主翼をパラソル翼にしたエア・エクスプレスも作られ、1929年にWEA(WAE?)で使用が開始されている。

ロッキード社ではこれに続いて、6座席の低翼単葉単発機オライオンを開発、ワスプまたはサイクロン・エンジンを使用して、さらに降着装置を引き込み脚とし、289~313km/hという高速巡航性能を得ていた。オライオンの初就役は1931年5月で、ボーエン航空が最初の運航空会社だったが、後に(ウェスタン?)エア・エクスプレスが大陸横断便に使用し、16~17時間で東海岸~西海岸間を飛行した。

このオライオンよりも高速機となったのが、ヴァルティV-1Aである。全金属製で乗客8人を乗せ、850馬力のライト・ワスプ・エンジンを使用し、巡航速度は340km/hであった。機体はもちろん全金属製で、降着装置も完全引き込み式だった。

ボーイングでも単発の輸送機の開発を行い、モデル200とモデル221を完成させた。機体は、全金属製の低翼単葉機で、エンジンはプラット&ホイットニー・ホーネット(575馬力)を使用した。愛称は、どちらもモノメイルである。

1930年5月6日に初飛行したモデル200は、引き込み式の降着装置を持ち、217km/hで巡航飛行することができた。続いて1930年8月に初飛行したのがモデル221で、胴体長が延ばされて乗客6人を乗せることが可能となり、降着装置は固定脚であった。モノメイルは、まずBATで就役し、改良型のモデル221Aはシャイアン~シカゴ線に投入されている。このモノメイルの開発経験からボーイングは、新たな展開として、全金属製の爆撃機の開発へと進み、B-9として完成させた。

このB-9をベースにした民間型がモデル247で、複葉3発のモデル80に比べると客席数は大幅に少ない10席となったが、客室の快適性が大幅に高まり、また機首部にエンジンがないことから、そこに無線機材を増設したりすることが可能となった。

モデル247の最大の特徴は、低翼単葉という近代的な機体構成、そして引き込みの採用、全金属製モノコック構造、空調付きの防音など、近代旅客機の必須アイテムを備えていたことにある。本機の誕生で、それ以降の大型航空機の形状は一新され、さらなる航空機の発展がなされることとなった。


近代的な旅客機の登場

ボーイングのモデル247の初飛行(1933年2月8日)と時をほぼ同じくして、ダグラス社が開発した近代的な双発旅客機DC-1が初飛行した(1933年7月1日)。そしてほぼ半年後の1934年2月19日に、西海岸~東海岸線の飛行に成功した。この時すでにTWAが改良型のDC-2を発注しており、1934年5月14日に受領して、その4日後にコロンバスからピッツバーグへの路線実証飛行を行った。そして8月1日から、ニュアーク~シカゴ~カンザスシティ〜アルバカーキ(メキシコ州)〜ロサンゼルスという路線で定期運航を開始した。ニューアークからロサンゼルスまでの所要時間は、18時間であった。

DC-2は、720馬力のライト・サイクロン・エンジン双発で、巡航速度は315km/h航続距離1,600kmという飛行性能を有した。このDC-2の胴体幅を広げるとともに延長し、さらに主翼幅も大きくして、エエンジンを1,000馬力のサイクロンにしたのが、ダグラス・スリーパ・トランスポート(DST)である。DSTはその名称が示すように、大型化したキャビンに寝台を備えて、寝台列車の航空機版を目指したもの寝台を装備しなければ、最大で28席の客席を設けることができた。

このDSTの寝台を装備しない昼間型が、後に大ベストセラーとなるDC-3であった。ダグラスの資料によれば、航空運航の補助金や郵便輸送契約から離れて、旅客輸送だけで利益が上げられるようになった最初の航空機が、このDC-3だとしている。それを裏付けるように、DC-3に対する顧客航空会社の反応は素早く、当時業務を旅客輸送主体に切り替えて成長を続けていた航空会社に、正にうってつけの機体であった。

これもダグラスの資料だが、DC-3が就役した1936年から第二次世界大戦が勃発する前の1939年までの間に、アメリカの航空輸送産業は500%の成長率を示し、DC-2とDC-3はアメリカ国内の航空輸送の約90%を運んだという。また海外でも、30社を超す会社により運航された。

輸送機が本格的な双発機時代に入ったことで、ロッキードも双発単葉機の開発に着手した。こうして生まれたのが、旅客10人を乗せるモデル10Aエレクトラで、1934年2月に初号機が初飛行した。プラット&ホイットニー・ワスプ・ジュニア(450馬力)エンジンを双発装備したエレクトラは、322km/hの巡航速度を出せ、1934年8月11日にノースウエスト航空により路線就航した。さらにエンジンを強力にし、乗客12人を乗せ、巡航速度も64km/h引き上げたモデル14も作られ、スーパーエレクトラあるいはスカイゼファーの名称で1937年9月から運航された。

航空会社として独立し、大手エアラインの一つとなっていたユナイテッド航空は、航空輸送産業の成長に伴い、DC-3よりも大型で、かつ航続距離の長い機体を必要とするようになった。これは、ビッグ4のほかの会社、あるいは新設されたパンアメリカンなどでも同様で、この結果1936年3月に5社が開発資金を分担負担することに合意して、ダグラスに開発を依頼し、4発のDC-4が誕生することとなった。

DC-4は、1938年6月7日に初号機が初飛行したが、できあがった機体は要求に見合わず、小規模の量産にとどまった。しかし第二次世界大戦に突入したことで、作られていた24機は軍に徴用されることとなり、また量産型DC-4AはC-54/R5Dなどとして軍で使用されることとなった。ダグラスでは、発展型のDC-4Eの開発を行い、1942年2月14日に初飛行させたが、第二次世界大戦により量産はされなかった。

日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入する前のアメリカ最後大型輸送機が、ボーイング307ストラトライナーであった。モデル307は、当時開発していたモデル299(B-17)をベースにした4発旅客機で、主翼と尾翼、エンジンはB-17と同じで、胴体だけを新設計の与圧キャビンを持つものに変えた。

モデル307の初号機は、1938年12月31日に初飛行し、4基の1,100馬力のライト・サイクロン・エンジンにより345km/hの巡航速度を出せた。初引き渡しは1940年2月で、パンアメリカンが受領し、主として南米線に使用した。そして1940年7月8日には、TWAが大陸横断線に投入し、東行き路線で東西間を13時間40分で飛びきっている。

このモデル307も革新的な旅客機の仲間入りも可能であったが、やはり戦争の勃発で陸軍に徴用されることとなった。


航法術の進歩

こうした民間航空輸送の発展は、航空機やその装備品、あるいは飛行場や航行援助施設、そして航空交通ルールの設立など、「航空」全体の発展に大きく寄与した。またアメリカ企業にとっては、大型・長距離機の開発・製造力を身につけることとなった。

この時代に確立された技術と生産能力が、第二次世界大戦において発揮され、ヨーロッパ戦線における連合軍側の航空機生産で、アメリカが爆撃機などを大型機を主体とすることの一つの要素になったことは確かだ。

航空機を飛行させていく上で、初期の段階で一つの壁となったのが、夜間と悪天候であった。視界の悪い状態であっても航空機を飛ばさなければ、定期の郵便や旅客輸送は行えない。そこで必要となったのが、外の視界が悪くても航空機を飛行させ続けることができる計器の装備と、それだけを頼りに安全な飛行を継続できる計器飛行の技術であった。

世界初の本格的な計器飛行は、1929年9月24日に、アメリカ陸軍のジェームズ・ドゥリトル大尉によって成功したのである。ドゥリトル大尉は、コンソリデーテッドNY-2に乗り込み、その機体の操縦席は完全にフードで覆われていた。離陸から着陸まで、一切外の景色が見えない状態で、コクピットの計器のみを頼りに飛行を行うことにしたのである。

この時、NY-2に付けられていた計器は、エンジン回転計、油温および油圧計ジャイロ式人工水平儀および方位指示計、コンパス、旋回/傾斜計速度計、高度計(標準型と特別製のもの各一つ)などで、当時の通常の航空機に比べると、特別のものを装備していた。その中でも画期的だったのが、人工水平儀である。

人工水平儀は、計器に自機のシンボルが固定されていて、機体が傾くと計器内の人工水平線がそれにつれて傾く、というのも。これにより、地面に対する機体の姿勢を正確に把握することができるようになってい

ドゥリトルの初の計器飛行は、地上の無線誘導システムに指示に従って飛行するというもので、その点からは必ずしも完全に独立した計器飛行といえるものではなかった。しかし、計器だけを頼りに航空機を飛行させることが可能なことを実証し、またその技術には後年計器飛行として確立された多くの要素を含んでいた。

こうして二つの大戦の間、航空機はその初の動力飛行からわずか40年弱の間に、大きく進歩を遂げた。そして軍・民双方で、新しい戦力として、あるいは移動手段として、その地位を築き上げたのである。これに伴い、航空機製造も一気に巨大産業化した。



第3章 第二次世界大戦

新しい戦闘機

第一次世界大戦と第二次世界大戦の、いわゆる大戦間の時代に、アメリカの航空産業は民間航空輸送とともに、発展の道を歩んできた。もちろん、それから生み出された新しい航空機技術や必要な装備品、あるいは確立された航空力学などは、様々な機種に適用され、戦闘機をはじめとする軍用機にも、新たなスタイルなどが登場するようになった。

ボーイングのP-26ピーシューターに続く実用戦闘機で、こうした新しい概念を採り入れて開発された好例が、セヴァスキーP-35であり、カーチスP-36ホークであった。

P-35は、1935年に試作機が初飛行した単座の戦闘機で、低翼単葉の主翼と引き込み式の降着装置(後方に引き上げて中央部のフェアリング内に引き込まれた)を備え、大型のエンジン・カウリング上部に0.5インチ機銃と0.3インチ機銃各1挺が付けられていた。さらに主翼下には、爆弾類を300ポンド(136kg)搭載できた。キャノピーは胴体の上に張り出して付けられ、水滴型キャノピーの原型となった。

このP-35は、950馬力のプラット&ホイットニーR-1830-9ツインワスプ星形エンジン装備型がまず量産され、1938年から76機がアメリカ陸軍に引き渡されている。また輸出型EP-1も開発され、スウェーデンが120機を発注、このうち実際に装備したのは60機だったが、残60機はアメリカ陸軍がP-35Aとして装備した。

EP-1/P-35Aは、エンジンをより大馬力のR-1830-45(1,050馬力)に変更し、武装をコルトMG-40 0.3インチ機銃2挺とコルトMG-53 0.5イン機銃2挺に強力化していた。P-35は、第二次世界大戦開戦の当初まで配備されており、フィリピンにも送られていたが、1941年12月の日本軍によるフィリピン攻撃の際に、配備機の3分の2を戦闘で失っている

カーチスP-36ホーク(モデル75)も、試作機が1935年5月に初飛行しまた、単座単葉引き込み脚の戦闘機で、P-26に比べると大きく進歩した機体であった。カーチスの歴史の中で見れば、複葉のホーク戦闘機と、大量産が行われたP-40シリーズの中間に当たる機体で、不採用に終わったアメリカ陸軍向け攻撃機A-8の技術を大幅に流用していた。

P-36の試作機は、900馬力のライトR-1670エンジンを装備していたが、同時期のライバルとなったセヴァスキーP-35との比較では、飛行性能が大きく劣ると評価された。このためエンジンをP-35と同じ1830-13に変更するとともに、プロペラを定速の3枚ブレードにしたP-36Aが開発され、速度性能でP-35を大きく上回った。この成果を見てアメリカ陸軍は1937年に、P-36Aを178機発注している。さらにフランスやイギリスなどにも輸出された。

P-36は、性能的には優れた戦闘機ではあったが、当時航空機技術は急速に発展していて、アメリカ陸軍はすぐに、より高速で、より重武装が可能な、より優れた戦闘機を必要とするようになった。このためP-36は、アメリカ陸軍ではこれといった成果を残すことはできなかっまた。しかし本機の開発が、続くP-40シリーズの開発につながったことは確かであった。


大戦初期の陸軍戦闘機

1939年に、ドイツのポーランド侵攻を発端にヨーロッパで発生した第二次世界大戦の、初期の段階におけるアメリカ陸軍航空軍の戦闘機は、ベルP-39エアラコブラカーチスP-40ウォーホーク/キティホークの2機種が、全体の50%を占めていた。この2機種は、アリソンV-1710シリーズのエンジンを備え、その馬力は1,040馬力から1,360馬力まで各種があった。より大馬力のエンジンと、低翼単葉で流線型を目指したこれら新世代の戦闘機は、従来の戦闘機の性能を凌駕するものだった。

中でもP-39は、第二次世界大戦全期間を通じても、異色の戦闘機といえよう。1938年に完成したこの戦闘機は、いくつものユニークな特徴を備えていた。

まず、エンジンを胴体中央のコクピット後方に置き、延長シャフトを介して機首部のプロペラを回すという、推進方式が挙げられる。さらに降着装置は前脚式3脚で、このスタイルで量産された最も初期の機体の一つでもあった

こうしたP-39は、軽量・高速の戦闘機として将来が期待された。実際に飛行試験では速度628km/hという、当時のアメリカ戦闘機では群を抜く高速性能を披露した。他方、エンジンのオーバーヒートなどという深刻な問題があることも露呈した。

P-39に対する最初の量産発注は1939年8月に行われ、1940年に最初の量産型P-39Cが誕生した。しかし量産に際して、完全な戦闘機とするため、装甲板の装備、セルフシーリング式燃料タンクの装備、エンジン保護のためにスーパーチャージャーが廃止されたため、完成した機体は当初のもくろみから離れて、重重量の機体というハンデを背負うこととなった。

しかし、戦争の勃発により機数をそろえることが優先されたこと、また改良発展を行ったことなどで、アメリカ陸軍はP-39C以後も、D/F/J/K/L/M/N/Qの各型を装備した。また、輸出機はフランス空軍の発注によって量産が始められたが、フランスがドイツに侵攻されたため、1941年10月にイギリス空軍向けとすることで完成されることになった。

さらにP-39は、ソ連にも、新しい世代の国産戦闘機が登場するまでのつなぎとして、供与されている。こうしたことからP-39の生産数は9,558機に達し、このうち半分以上の約5,000機がソ連に渡された。またP-39Qは、全体の半数を上回る4,905機が作られ、最も多数が生産されたタイプであった。

このP-39Qは、1,200馬力のアリソンV-1710-85エンジンを装備し、武装は、それまでのタイプが12.7mm機銃と0.3インチ機関銃の組み合わせであったのに対し、37mm機関銃に加えて0.5インチ機関銃を4挺装備した。


カーチスP-40シリーズは、P-36ホークに続いて作られたもので、まずP-36のR-1830エンジンをアリソンV-17170-9(1,160馬力)に変更した試作機が製造され、これがXP-40となった。XP-40は、エンジンが空冷の星形から液冷のV型のものとなったことで、機首部の形状は大きく変更になったが、それ以外の機体フレームは、基本的にはP-36のものを受け継いだため、機体に起因する問題はほとんど発生せず、すぐに量産に入れることからアメリカ陸軍も本機を積極的に支援した。

P-40は、大戦初期の戦闘機の例に漏れず、様々な局面で、あらゆる敵と戦うことになった。加えてエンジンや技術の進歩から、各種の発展型が作られることとなった。このためP-40は、アメリカで初めて10,000機を超す大規模生産が行われた単座戦闘機となり、1944年11月22日にはアメリカ陸軍が、15,000機目のP-40を受領している。

こうした長期間の生産は、前記したように多くのサブタイプを生み出している。基本的には、敵にうち勝つために武装や装備品をより強力にすることで重量が増加し、飛行性能を維持するためにエンジンを大馬力化することとなり、そうなると消費燃料が増えるから燃料搭載量を増やす。しかしそうすると、また重量が増加し飛行性能が低下す機体の基本設計は変更されないから、これらは一種の悪循環となった。

それでもP-40は、アメリカ陸軍はもちろん、イギリス空軍(制式名トマホーク)、連合国、ソ連にも渡され、初期のヨーロッパ戦線で多数が使われたし、シェンノート率いる義勇軍フライング・タイガースは中国で活動し、その名を残している。


新技術を備えた陸軍戦闘機

時間を少し戻すと、1939年1月27日に、これもユニークな双胴戦闘機、ロッキードP-38ライトニングの試作機であるXP-38が初飛行した。このP-38は、1936年にアメリカ陸軍が出した要求に見合うように開発されたもので、ロッキードにとっては最初から軍向けに開発した初めての航空機でもあった。
1,150馬力のアリソンV-1710-11エンジン双発のXP-38は、すぐにアメリカ陸軍に採用され、1941年3月から引き渡しが始められた。またP-38は、イギリス空軍にも渡されているが、輸出型はターボチャージャー付きエンジンが認められず、1,040馬力のV-1710-33を装備したが、馬力不足の感は否めなかった。

P-38も各型合わせて10,000機近く(イギリスのジェーンズ調べでは9,923機)の大量産が行われ、特に太平洋においてはその他のいかなる戦闘機よりも多数の敵機を撃破した。中でも最も大量の4,000機近くが作られたP-38Lは、665km/hの高速性を有し、また戦争末期に実用化されたP-38Mでは、夜間戦闘能力が付与されていた。

ここで第二次世界大戦中の夜間戦闘機に話を移すと、夜間戦闘機としては、ダグラスA-20ハヴォックも使用されたが、こうした夜間戦闘の専用機として最初に開発されたのが、ノースロップP-61ブラックウィドウであった。

P-61は、1940年にアメリカ陸軍が出した要求に基づいて開発されたもので、試作機が1942年5月26日に初飛行した、大型の双発戦闘機である。機首にレーダーを装備し、最初から夜間戦闘用の戦闘機として作られた初の機体で、1944年夏に就役した。

レーダーの装備は、既存の戦闘機に対しても行われ、こうした機材で遅れていた日本に対し、さらに優位に立つこととなった。そして第二次世界大戦中に実用化されたレーダーは、地上配置用、航空機搭載用ともに中核的な探知手段となり、戦後はその装備が不可欠なものとなっていった。


大戦後期の陸軍戦闘機

アメリカの第二次大戦中の戦闘機に話を戻すと、敵機を攻撃するという戦闘機本来の任務に加えて、長距離爆撃機の護衛という価値ある任務も行った代表的な戦闘機として、リパブリックP-47サンダーボルトノースアメリカンP-51マスタングを挙げることができる。また両機とも、第二次世界大戦のアメリカ戦闘機を代表する存在でもある。

P-47は、本来は軽量戦闘機として開発されたが、最終的には第二次世界大戦中のアメリカ戦闘機で最も大きく、また最も重い戦闘機として完成された。試作機は1941年5月6日に初飛行し、最初の量産型P-41Bのアメリカ陸軍への引き渡しは、1942年3月に開始された。

P-47は、続くP-47Cで胴体が延長され、P-47Dではエンジンが2,535馬力と強力なプラット&ホイットニーR-2800-59ダブルワスプに変更されたほか、キャノピーが水滴型になって後方視界が改善されて、完成された戦闘機の形となった。このD型が、P-47の中では最も多く生産され、リパブリック社フレーミングデール工場で6,510機、エヴァンスヴィル工場で6,093機の計12,603機が作られた。またカーチスライトでもこのP-47DをP-47Gの名称で354機製造した。

太平洋での戦闘のために、機体を強化し、主翼を拡大したのがP-47Nで、重量が9,615kgにまでになり、双発のブリストル・ボーファイター戦闘爆撃機よりも重くなった。このP-47Nも、フレーミングデール工場で1,667機、エヴァンスヴィル工場で149機の計1,816機が製造され、最終的には15,000機を超す量産が行われた。

P-47は、記録飛行用に改造された機体が811km/hの速度記録を作り、最も軽量でまた最も多数が作られたP-47Dでも、687km/hの最高速度性能を有した
ノースアメリカンP-51マスタングは、元々はイギリス空軍の要求に基づいて開発されたもので、試作機は1940年10月26日に初飛行し、1941年10月から引き渡しが始められている。エンジンは、1,150馬力のアリソンV-1710-39であった。

マスタングを実際に飛ばしたイギリス空軍は本機を、高々度性能を除けばあらゆる点で傑出した能力を持つ、との高い評価を下している。特に低空での628km/hという高速性能は、あらゆるイギリス製戦闘機をも凌いだ。しかし、エンジン性能が低いことから高々度戦闘には適さないとされ、最初に渡された渡された620機マスタングⅠの多くは、陸軍の地上部隊支援の戦闘機として使用されている。

イギリス空軍での高い評価から、アメリカ陸軍も1942年にマスタングを装備することを決定した。エンジンについても1,380馬力のパッカードV-1650-3(マーリン)が1942年末から、マスタングの機体フレームで試験され、パワー不足という問題も解消されることになった。

アメリカ陸軍向けとしては、ノースアメリカン社イングルウッド工場でP-51Bが1,988機、ダラス工場でP-51Cが1,750機まず作られて、1943年から引き渡しが始められた。さらに1944年には、エンジンを1,490馬力のパワーアップ型V-1650-7にし、キャノピーを水滴型に変更して良好な視界を確保、武装も0.5インチ機銃6挺と強力にした、P-51Dが完成した。パワーアップ型エンジンの使用で、最大速度703km/hの速度性能を有するようになった。

このP-51Dが、マスタングシリーズ中最も多数が生産されたタイプで、イングルウッド工場で6,502機が、ダラス工場で1,454機が製造された。このほかにも、胴体を延長し尾部を大型化したP-51H(555機生産)、D型のプロペラを小型化したP-51K(1,500機生産)なども作られ、P-51も全タイプを合わせた生産機数は15,000機を超えている。

マスタングから発展したのが、P-82ツインマスタングで、P-51Hを2機横に連結させたものであった。この機体はヨーロッパでの終戦直前に実用化され、爆撃機の護衛に使用された。


艦上戦闘機

アメリカ海軍の艦載戦闘機では、第二次世界大戦開戦当初に主力となっていたのが、グラマンF4Fワイルドキャットであった。F4Fは、1935年に海軍が出した艦載戦闘機要求に基づきグラマンが設計した、同社初の単葉戦闘機であった。しかしアメリカ海軍の発注は1936年7月まで行われず、発注されてようやくXF4F-2の製造を開始した。

XF4F-2は、当時最高の艦載戦闘機を目指していたが、完成した機体は性能の低さが指摘され、グラマンはより強力なスーパーチャージ付きエンジンに変更し、また主翼を延長するとともに翼端と尾翼を設計変更するなどした改良型XF4F-3を製造、1939年2月12日に初飛行させた。そしてXF4F-3の飛行性能が海軍に認められて、F4F-3ワイルドキャットとして発注された。

F4F-3は、1,200馬力のブラット・アンド・ホイットニーR-1830-76エエンジンを使用して、523km/hの速度性能を有し、武装は0.5インチ機銃4挺であった。さらに主翼下に爆弾の搭載を可能にしたF4F-4、F4F-3のエンジンを換装したF4F-5なども開発された。

ワイルドキャットは、グラマンだけでもF4F-3を発展型を含めて464機、F4F-4を1,169機等製造したが、ジェネラル・モータース社でもF4F-4と同規格のFM-1を1,060機、エンジンを1,350馬力のライトR-1820-56にしたXF4F-8をFM-2として4,127機を生産している。従って、8,000機近く生産されたワイルドキャットの大半は、本家のグラマンではなく、ジェネラル・モータースで作られたことになる。

こうした大量生産が行われたワイルドキャットではあったが、太平洋戦では、零戦をはじめとする日本軍戦闘機に歯が立たず、より強力な後継戦闘機が必要とされた。そこでグラマンでは、発展型のF6Fへルキャットを開発し、1943年から海軍で実用化されている。ただワイルドキャットも、少数ではあるが、終戦まで第一線に残された機体があった。

F6Fは、F4Fに似た機体構成を持ち、1942年春に設計されて、量産型試作機XF6F-3が1942年6月26日に初飛行した。そしてこの年の末から量産が始められて、1943年1月から就役している。F4Fという母体があったにせよ、極めて速いテンポで開発が行われており、アメリカの航空産業の力強さの一面が表われていると言えよう。

最初の量産型であるF6F-3は、2,000馬力のプラット・アンド・ホイットニーR-2800-16ダブルワスプエンジンにより605km/hの速度性能を得、また武装もF4Fから機銃2挺を追加して0.5インチ機銃6挺となり、日本軍に恐れられる存在となった。

F6F-3の機体フレームを強化し、各部の設計を細かく変更したのがF6F-5で、最大で2,000ポンド爆弾2発、あるいはロケット弾6発の塔載も可能になった。さらにF6F-3/-5ともに、主翼にAPS-6レーダーを付けた夜間戦闘機型F6F-3N/-5Nも作られている。

ヘルキャットの量産はこのF6F-3/-5のタイプに集中しており、F6F-3が4,402機(うち205機がF6F-3N)、F6F-5が8,100機、F6F-5Nが1,529機作られ、これだけで生産機数は14,000機を超えている。

これに続くアメリカ海軍の代表的な艦載戦闘機が、チャンス・ヴォートF4Uコルセアである。F4Uは、アメリカのレシプロ戦闘機中最も強力な戦闘機ともいわれており、1943年に実用化された。

アメリカ海軍は、1938年の時点でより強力な新艦載戦闘機の設計を探していて、当時ユナイテッド・エアクラフト社(UAC)の一部門であったチャンス・ヴォートが、アメリカ海軍から要求の詳細が発表されると、V-166B案を提示した。その設計案は高く評価され、1938年6月30日に試作契約が与えられ、1940年5月29日に試作機、XF4U-1が初飛行した。

V-166Bの設計でチャンス・ヴォートが腐心したのは、要求される性能や兵装類の搭載能力を満たすため、入手可能な最も強力なエンジンを使用し、かつ機体を最小の寸法に収めることだった。また、プロベラは4枚ブレードのものとして直径を小さくするとともに、可能な限り機首を高くして、先端と甲板の十分なクリアランスを確保することとした。

しかしこれだけでは、前部胴体高が高くなってしまい、長くなる主脚に着艦に耐えられる強度を与えることができない。そこで主翼に逆ガル翼を採用し、主脚の取り付け位置が低くなるようにするとともに、全幅の最小化を実現したのである。

こうして作られた試作機XF4U-1は、飛行試験にはいると素晴らしい性能を示し、特に速度性能は当時の世界最速の戦闘機の一つとなるほどであった。そして海軍は1941年6月に、UACのヴォートシコルスキー航空機部門(会社の組織変更で部門の名称が変わっていた)に対して量産契約を与えたのである。

最初の量産型F4U-1は、P&WR-2800-8エンジン(2,000馬力)を使い、主翼に0.5インチ機銃6挺を備えた。続いてその改良型F4U-1Aが作られ、エンジンが2,250馬力のR-2800-8Wになったほか、キャノピー・フレームが一部なくされて、視界が良くなった。その武装を20mm機関砲4門にしたのがF4U-1CF4U-1Aの主翼にロケット弾、増槽、ある405kg爆弾片側1発を携行できるようにしたのが、F4U-1Dである。

また、F4U-1の左主翼にレーダー・ポッドを付け、夜間戦闘機に改修したのがF4U-2、エンジンをR-2800-18W(2,450馬力)に変更したF4U-4、2,300馬力のR-2800-32エンジンを使い武装を20mm機関砲4門としF4U-5、そのレーダー装備型F4U-5Nなども作られている。

チャンス・ヴォートが製造したF4Uは、主要なタイプだけでもF4U-1 758機F4U-1A 2,066機、F4U-1C 200機、F4U-1D 1,357機F4U-4 2,351機、F4U-5 351機、F4U-5N 45機、フランス向けF4U-7 94機があり、これだけで7,128機に達している。そしてプリュースター当社でもF4U-1をF3A-1の名で735機、グッドイヤー社でもF4U-1をFG-1として1,704機と、F4U-1DをFG-1Dとして2,302機製作しており、10,000機を超す大量産が行われた。


艦上攻撃/雷擊機

艦載の攻撃/雷撃機では、まず日本軍による真珠湾攻撃当時では、まだダグラスTBDデヴァステーターが主力であった。デヴァステーターは、1935年4月15日に試作機が初飛行し、1937年11月に海軍に引き渡しが開始されたもので、真珠湾攻撃当時には、空母レンジャーのほか5隻の空母に搭載されていた。

エンジンは、900馬力のプラット&ホイットニーR-1830-64で、機首0.3インチ機銃とドーサル部の0.5インチ機銃に加えて、544kgの魚雷または爆弾を携行できたが、最大速度はわずかに208km/hであった。生産機数は129機。

こうした低い性能は、ミッドウェー沖の海戦でアメリカは勝利したものの、デヴァステーターだけは大きな被害を受けた。航空機の発展が著しかった当時では、本機はもはや時代遅れの存在であり、急ぎ後継機が開発され、デヴァステーターは退役した。

その後継機として開発されたのが、グラマンTBFアヴェンジャーで、1940年に2機の試作機が初飛行しており、1941年に海軍による評価のため、引き渡されて、制式採用が決まった。最初の量産型がTBF-1で、3名の乗員が搭乗し、動力作動の機銃ターレットを備え、機内には22インチ魚雷を3発収容できた。

エンジンは、1,700馬力のライトR-2600-8ダブルサイクロンで、最大速度は430km/h以上、兵装満載でも1,600kmの航続性能を有し、第二次大戦中で最も成功した雷撃機としても知られている。生産機数は2,291機で、その後各種の発展型も作られたが、いずれもTBF-1からの改造機である。

また、TBFと同じ機体をイースタン(ジェネラル・モータース)社でも、TBMアヴェンジャーの名称でライセンス製造している。こちらでの製造機数は、TMF-1と同じTMB-1が550機、TBF-1Cと同じTBM-1Cが2,336機であった。

さらにイースタンでは、グラマンが試作した改良発展型TBF-3も量産している。TBF-3は、エンジンを1,900馬力のライトR-2800-20に変更するとともに、主翼下に増槽やロケット弾の搭載を可能にしたタイプで、イースタンではTBM-3の名称で4,657機を製造した。

TBM-3はその後、TBM-3D~Wまで、レーダーを装備したり、電子専用機とされたりした各種のタイプが登場しているが、これらはいずれもTBM-3空の改造機であった。またイースタンでは、その中のレーダー装備型TBM-3Eと同じ装備で機体を強化するなどしたTBM-4を別に3機試作し(XTBM-4)アメリカ海軍に提案して2,141機の注文を得たが、第二次世界大戦の終戦によりこの発注はキャンセルとなった。

アヴェンジャーは、グラマンとイースタンの両社を合わせると、10,000機近くが作られたことになる。


急降下爆擊機

ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機もまた、真珠湾攻撃時ではすでに見劣りした機体ではあったが、多数が使われていた。しかし機体は頑丈で、太平洋戦線ではアメリカ艦載機中で、最も喪失率の低い機体であった。

ドーントレスは、ノースロップが設計し1935年8月に試作機を初飛行させたBT-1から発展したもので、飛行試験の結果明らかになったBT-1の急降下時の安定性の問題を、主任設計者のエド・ハイネマンがダイブ・ブレーキに穴を開けることで解決するなどして、実用機として完成させたもの。さらにエンジンを、700馬力のプラットアンド・ホイットニーR-1535から1,000馬力のライトR-1820-32に変更するなどして、試作機XBT-2が完成した。

このXBT-2が、用途に合わせて1938年にXSBD-1に名称が変わり、1939年4月にSBDドーントレスとして、まず144機が発注された。このドーントレスは、爆弾450kgまたは225kgの機雷を搭載して、1,770kmを飛行できる能力を有していた。

最初に発注された144機のうち、57機は海兵隊向けで、残る87機は、より燃料搭載量を増やし艦載用とするSBD-2として作られて、海軍に引き渡されている。

1940年5月には、電気システムの強化、爆弾類の搭載量の増加(最大で725kg)固定武装の強化などを行った発展型SBD-3が開発され、584機が製造されて海軍に渡された。このSBD-3のプロペラをハイドロマチック型に変更するなどした小改修型がSBD-4で、こちらも海軍向けに780機が作られている。エンジンを1,200馬力のR-1820-60にししたのがSBD-5で、燃料搭載量も増加された。SBD-5は、2,965機が海軍から発注され、引き渡された。

そして、SBD-3、SBD-4、SBD-5はアメリカ陸軍にも攻撃機A-24ドーントレスとして採用されており、陸軍ではSBD-3と同じ規格の機体A-24として168機SBD-4をA-24Aとして170機、SBD-5をA-24Bとして615機装備したドーントレスの最終型はSBD-6で、エンジンを1,350馬力のR-1820-66とし、燃料タンクを非金属のセルフシーリング型とした。このSBD-6は海軍向けに、450機が作られた。

こうしてドーントレスは、旧式の機体であったにもかかわらず、発展が続いたことと頑丈なことなどで、第二次世界大戦では日本軍艦船への攻撃などで重宝し、1939年から1944年中期までの間に、6,000枚近くが作られている。
1942年には、待望のドーントレスの後継機が実用化。それがカーチスSB2Cヘルダイヴァーで、1939年5月に海軍から契約を受けて試作機の製造に入り、1940年12月18日に試作初号機が初飛行した。初飛行後の飛行試験中に、機体には、装甲、セルフシーリング式燃料タンク、燃料管と滑油管の防護、兵装搭載量の増加、胴体の延長、尾部の固定翼部と可動翼部の大型化による完全な設計変更、などといった、複座の艦載急降下爆撃機として完成させるにに必要な改良が行われ、量産型SB2Cが初飛行したのは1年半後の1942年6月であった。

最初の量産型SB2Cは、1,700馬力のライトR-2600-8エンジンを装備し、主翼に挺の0.5インチ機銃とドーサル部に1挺の0.5インチ機銃こちらは後に2連装の0.3インチ機銃に変更された)を持ち、907kgの爆弾または魚雷を胴体内およびラックに搭載できた。

このSB2Cは200機が作られて海軍に渡されたが、ヘルダイヴァーの部隊が太平洋戦線で初の実戦活動を行ったのは、実用化から1年余りが立った1943年11月であった。

実用化から実戦参加までの間にも、ヘルダイヴァーには900項目近くの改修が行われている。その中には、海軍と陸軍の仕様の共通化も含まれていて、SB2Cは陸軍でもA-25シュライクの名称で装備され、900機が作られている(うち270機は海軍にSB2C-1Aとして譲渡された)

海軍向けとしてはその後、主翼の武装を20mm機関砲4門にするとともに油圧作動フラップを装備したSB2C-1C(778機)、エンジンを1900馬力のR-2600-20とし、プロペラも4枚プレードにしたSB2C-3(1,112機)、主翼下に5インチロケット弾8発または爆弾454kgを搭載できるようにしたSB2C-4(2,045機)、その燃料搭載量を増加したSB2C-5(970機)が作られている。

またヘルダイヴァーもほかのメーカーでの生産も行われ、フェアチャイルド社ではSB2C-1をSBF-1の名称で50機、SB2C-3をSBF-3として150機、SB2C-4E(SB2C-4のレーダー装備型)をSBF-4Eとして100機製造した。さらにカナダのカナディアン・カー・アンドファウンダリー社でも、SB2C-1をSBW-1として38機(ほかにイギリス海軍向けリース用としてSBW-1BヘルダイヴァーIを28機)、SB2C-3をSBW-3として413機、SB2C-4EをSBW-4Eとして270機、SB2C-5をSBW-5として85機製造している。

乗員2名のヘルダイヴァーは、437km/hの最高速度性能と、約3,200kmの航続性能を有し、高い能力を持つ急降下爆撃機として、対戦末期に活躍した。そして生産機数も、カーチス以外で作られたものも含めると、7,000機以上が作られている。


大戦初期の爆撃機

大型の爆撃機も、アメリカを代表する機種の一つである。アメリカの航空工業力は、すでに戦争前の時点で多の国を凌ぐ規模を有しており、大型の爆撃機を大量産できる唯一の国でもあった。

このため第二次大戦中には、アメリカ軍向けのものだけではなく、同盟国の支援にも使われた。ヨーロッパでは、もちろんイギリスなどで爆撃機は作られたが、数をそろえるにはアメリカの支援が不可欠で、新たに開発するものは、基本的にはヨーロッパ諸国では戦闘機を、アメリカでは爆撃機を受け持つこととなった。

【ボーイングB-17フライングフォートレス】B-10の後継爆撃機。当時、ボーイングは生産機種がなく、社運をかけて競作に臨んだ。高価だったため選定でダグラスに敗れたが、陸軍はボーイコングの状況と将来を考慮して、追加試作機を発注、のちの制式採用につながる。

戦争初期から多数が作られたのが、ボーイングB-17フライングブォートレスである。ボーイングは、1934年8月に出されたアメリカ陸軍の新多発爆撃機提案競争に参加、当時は双発爆撃機が一般的であったが、ボーイングはすでに陸軍からの契約で4発爆撃機モデル294(XB-15)を試作しており、4発機で提案を行うこととした。当時、エンジンの数を増やすということは、エンジンのパワーが増加することで性能が向上することを意味した。

こうして設計されたのがモデル299で、寸法的には民間で成功していた双発の輸送機モデル247と、大型4発試作爆撃機XB-15との中間的な大きさであった。試作機は、750馬力のブラット・アンド・ホイットニーR1690を装備して1935年に進空したが、飛行試験がほぼ終了に近づいたときに墜落して機体を失ってしまった。

しかし、3,360kmを平均速度403km/hで飛行できる能力や、2,180kgに及ぶ爆弾搭載能力などが実証され、陸軍は1936年1月に前量産型YB-17 13機を発注、その初号機が1936年12月に初飛行した(この初飛行直前に制式名称がY1B-17に変更されている)。飛行試験の結Y1B-17は、フラップと方向舵を大型化するとともに、機首部をガラス張りとするなどの変更が加えられ、さらにエンジンを1,000馬力のライトR-1820に変更して、B-17Bとして量産されることとなった。

B-17Bは39機が作られ、さらに燃料タンクをセルフシーリング式にしたり、乗員装甲板を付けたりして防御力を高める改修が施されてB-17Cとなり38機を製造、電気システムなどを改良したB-17D 42機を経て、ヨーロッパでの実戦使用の教訓を生かし、後部胴体と垂直尾翼の設計に手直しを加えて、防御武装を機首に0.3インチ機銃1挺、3か所に0.5インチ機銃2連装のターレットを付けたB-17Eへと発展し、このB-17Eは512機が作られた。そしてこれに続くB-17FとB-17Gが大量生産されるに至った。

B-17Fは、エンジンを1,380馬力のGR-1820-97とし、機内燃料搭載量増加、胴体内爆弾倉に加えて主翼下の爆弾ラックに、計1,950kgの爆弾を搭載できるようにしたもの。B-17Gも、基本的にはB-17Fじだが、機首下面に0.5インチ機銃2挺が追加され、さらにほかの自己防御用武装の装備も可能にするようにしたものであった。

B-17Fは、ボーイングで2,300機が作られたほか、ダグラス社のロングビーチ工場で605機、バーバンクのロッキード・ヴェガで500機が製造されている。B-17Gも製造に関しては同様で、ボーイングでの4,035機に加えて、ダグラスで2,395機、ロッキード・ヴェガで2,250機が作られた。

なおダグラスおよびロッキード・ヴェガで作られたB-17F 30機と、同じく両社で作られたB-17G 17機が、哨戒機PB-1/-2に改修されており、PB-1はアメリカ海軍が、PB-2はアメリカ沿岸警備隊が使用した。さらにB-17C 20機、B-17F 19機、B-17E 46機、B-17G 112機が、イギリス空軍に渡されている。これらはいずれもアメリカ陸軍に渡された後イギリスに移されたもので、イギリス向けの新造機はなかった。

こうしてB-17は、主要な量産型だけでも8,680機も製造されている生産のピークは、ヨーロッパでドイツへの爆撃が激化していた1944年6月で、ボーイングのシアトル工場では1日に16機のB-17がロールアウトしていた。


大戦中期の爆撃機

B-17の採用が決まった後の1939年にコンソリデーテッド社は、B-17を凌ぐ4発重爆の設計を開始した。こうして完成したのがB-24リベレーターで、試作機XB-24は1939年12月29日に初飛行し、直ちに陸軍から前量産型YB-24を7機受注、ヨーロッパで実戦評価に使用されることとなり、合わせてイギリスとフランスからも量産発注が行われた。

これらの機体は、XB-24と同じプラット・アンド・ホイットニーR-1830-33(1,200馬力)エンジン4発で、アメリカ陸軍向け最初の量産型となったB-24A(38機発注のうち9機)は、0.5インチ機銃6挺を自己防御用に装備していた。残る29機のうち9機はB-24C(0.5インチ機銃を8挺に増加)として完成され、残りはB-24Dとして作られた。

B-24Dは、B-24シリーズ中で最初に大量産が行われたタイプで、エンジンを、同じ1,200馬力であるが性能を向上させたR-1830-43に変更されるとともに、各部に小改修が加えられていた。そしてコンソリデーテッドのサンディエゴ工場で2,381機を作ったほか、同社フォートワース工場で305機、ダグラス社タルサ工場で10機が作られている。さらにノースアメリカン社ダラス工場で430機が製造されており、この機体はB-24Gと呼ばれた。

続いて量産されたのがB-24Hで、機首に機銃ターレットを付けたほか、各部の機銃取り付け部が改善された。このタイプは、フォートワース工場(738機)、ダグラス社タルサ工場(582機)、そしてウィロウランのフォード社で1,780機が生産されている。

B-24HのエンジンをR-1830-65(1,200馬力)とし、ミッション用装備品を新しいものにしたのがB-24Jで、B-24シリーズ中で最も多数が生産された。生産は5か所の工場で行われており、フォートワース工場で1,558機、サンディエゴ工場で2,792機、ダグラス社タルサ工場で205機、フォード社で1,587機、ノースアメリカン社ダラス工場で536機の、計6,678機作られている。

B-24Jの尾部射撃位置を改めて手持ちの0.5インチ機銃2挺としたのがB-24Lで、サンディエゴ工場(417機)とフォード(1,250機)で製造、さらに尾部銃座を軽量ターレットにするなどしたB-24Mも、サンディエゴ工場(916機)とフォード(1,677機)でも作られた。

さらにイギリス空軍にもリベレーターとして382機が引き渡されており、これによりB-24は、各型合わせると18,000機近くという、当時のアメリカ機では最も多数が製造され、戦争中に投下した爆弾は635,000トンにも及んだ。さらに爆撃機としてのみだけでなく、輸送機や偵察機としても使われた。

中型爆撃機で最も有名なのは、1942年4月の、ドゥリットルが率いた空母から発進しての東京爆撃にも使われた、ノースアメリカンB-25ミッチェルである。B-25の試作機NA-40は、1939年1月に初飛行し、その後アメリカ陸軍の中爆撃要求に見合うように、爆弾搭載量を1,089kgに増加するように改修された以外は、手直しは加えられず、そのまま量産に移行した。

最初の量産型B-25Aは、1,350馬力のライトR-2600-9双発で、1940年8月19日に初飛行している。また爆弾搭載量は、1,360kgになっており、防御用に前方および側方射撃用の0.3インチ機銃3挺と、後方射撃用の0.5インチ機銃2挺を備えた。

B-25Aは40機が作られ、続いて胴体背部の機銃をターレット式にするなどしたB-25Bが120機、そのエンジンを1,700馬力のR-2600-13とし、機外にも907kgの魚雷を携行できるようにしたB-24Cが1,625機作られている。このB-25A~Cはノースアメリカンのイングルウッド工場で製造されたが、B-24CはB-24Dの名称でカンザスシティ工場でも2,290機が作られた。

B-25シリーズで最も多くが作られたのがB-25Jで、ガラス張りの機首に0.5インチ機銃2挺を備え、エンジンを1,700馬力のR-2600-29としたもの。生産はすべてカンザスシティ工場で行われ、4,381機が作られている。

B-25ほどではないにしろ、マーチンB-26マローダーも有名な中爆撃機である。生産機数でいえば、B-25よりも多い5,000機近くが作られている。

ダグラスA-20ハヴォックも、胴体内と機外に合わせて爆弾1,180kgを搭載できた中爆撃機である。イギリス空軍がボストンの名称で採用したほか、ソ連でも雷撃機として使用され、1944年9月の生産終了までに7,000機以上が製造された。


大戦後期の爆撃機

第二次世界大戦時のアメリカにおける重爆撃機の雄は、なんといってもボーイングB-29スーパーフォートレスである。日本では、エノラ・ゲイによる広島、ボックスカーによる長崎への原爆投下で良く知られている。

B-29の初期の研究は、1938年にB-17の発展型研究でスタートし、機内を与圧キャビンとして高々度ミッションでの乗員の快適性と作業効率の向上を目指していた。したがって、スタートは軍からの要求に基づいて開発されたものではなく、ボーイングの社内研究であった。

しかし1940年2月に、アメリカ陸軍は高々度長距離爆撃機の要求を出し、ボーイングでは自社研究案に改良を加えたモデル345を提案し、試作機XB-29として製造契約を得た。XB-29は、1942年9月に初飛行しており、社内で研究を進めていたおかげで、他社のどの案よりも早く機体を完成させることができたのである。

B-29は、自己防御用に10の機銃/機関砲を装備することとし、その内の4か所を遠隔操作式として、尾部の0.5インチ機銃2挺と20mm機関砲1門のターレットのみが直接操作式となった。胴体は3区画の与圧キャビンに仕切られ、機首部区画が操縦者と爆撃手、中央区画が航空機関士、尾部が射撃手区画とされた。前部および中央区画は、爆弾倉を乗り越える形で設けられたトンネルでつながれ、尾部区画だけが独立した区画となっていた。

量産型B-29は、エンジンは、2,200馬力のライトR-3350-23エンジンを4基備え、最大離陸重量は47,630kgに達した。通常の爆弾搭載量は5,400kgで、6,600kmの航続性能を有している。また最大速度は580km/hと爆撃機としては高速で、飛行高度も高かったため、地上の対空火器や迎撃戦闘機でも対処は困難であった。

続いて、翼幅を延長し、エンジンをR-3350-57(または-592,200馬力)とした改良型B-29Aも作られた。生産機数はB-29が2,181機、B-29Aが1,119機で、B-29はボーイング社のウィチタ工場で1,620機、ベル社のアトランタ工場で357機、マーチン社のオマハ工場で204機が製造された。B-29Aは、全機ベル社アトランタ工場で作られている。またアトランタ工場ではB-29A規格の機体を310機製造しており、このタイプはB-29Bと呼ばれている。

【ボーイングB-29スーパーフォートレス】超長距離爆撃機計画により開発された機体。もとはヨーロッパ戦線への投入を考えていたが、ヨーロッパ戦線の先が見えてきたため、対日戦線のみで使用された。ボーイングはB-29生産のため、政府資金で工場を拡充している。

B-29が最初に実戦投入されたのは1944年6月で、以後広島、長崎への原爆投下とその後の終戦まで、1年余りが第二次世界大戦中の活動期間であった。従って、終戦までの製造機数は3,610機と、B-17やB-24に比べると少なくなっている。ただ、もし戦争がもっと長引いていた場合には生産機数は当然増えており、現にウィチタ工場ではさら5,029機の製造発注を受けていたが、終戦によりキャンセルされている。

B-29は、戦後も重要な戦略爆撃機として残され、アメリカ空軍ではエンジンをプラット・アンド・ホイットニーR-4360-35(3,500馬力)とし、各部に改良を加えたB-50を追加装備している。イギリス空軍は、アメリカ空軍の余剰化したB-29を、ワシントンの名称で88機を装備した。またB-29/B-50ともに、一部は空中給油機KB-29/KB-50に改修されている。


戦時下の航空機生産

これまで、第二次世界大戦時のアメリカの主力軍用機を、極めて著名な機体だけに限って、その概要を見てきたが、戦闘機にしろ爆撃機にしろ、驚かされるのはその生産機数の多さである。戦争が始まれば、当然航空機は多数を必要とし、また戦闘で多くを消耗するからその補充を作り、生産数は増える。ただ、それを可能にする航空工業力がなければ、実現はできない。

アメリカは、第二次世界大戦が勃発するまでに、航空に関する先端技術を確立し、また輸送をはじめとする航空事業の発展が、その巨大な製造力を得る原動力となった。アメリカでは、第二次世界大戦が始まると、すべての航空機製造会社が「民主主義の兵器を作る」ことに集中し、民間機の製造を停止して、防衛を支える軍用機の生産に転換したのである。

また、これまでに記した機種でもわかるように、他社が設計・開発した機体であっても、それが軍に採用され大規模な量産が必要な場合は、分担してその航空機を製造した。

戦争中は、若い男性が兵士として戦線に送り込まれたため、工場の労働力が減少した。このことは、アメリカも日本も同じであった。そして労働力を補うため、これも洋の東西を問わず、女性が貴重な労働力として航空機の生産に従事した。

こうした第二次世界大戦時下の、アメリカ航空機メーカーの態勢を、ダグラス社を例にとって以下に紹介しておく。ダグラス社の態勢は、ほかのメーカーにとっても、例外ではなかった。

アメリカでは、あらゆる航空機メーカーが、同盟諸国で使うための新型機の開発や製造を行うこととなった。そして各社が開発した機体は、入手可能な資源から最大限の生産性が発揮できるよう、幅広く生産されることとなった。各社の役割は、大手企業では、年間50,000機とされ、ダグラスもそれは可能という回答を出した。

こうした生産活動が開始されると、ダグラスは、サンタモニカとエルセグンド(カリフォルニア州)の2か所の工場で、8,000人を雇用した。あらゆる種類の戦闘用航空機の要求に応えるためには、会社の規模をきわめて拡大する必要があった。

サンタモニカの生産ライン場にあったDC-3は、軍用に徴用された。新型の4発大型輸送機DC-4は、ちょうど量産に入ったところで、最初の引き渡しの前に、C-54として軍用輸送機に「ドラフト」された。このC-54は、海軍ではR5Dとして使われた。C-54/R5Dは、大搭載量と長距離貨物空輸任務で陸海軍の中核となり、戦後永遠に航空界を変えることとなった大洋横断飛行の教訓をもたらした。

1938年にサンタモニカでは、大型の長距離爆撃機XB-19を開発した。XB-19は、今日のボーイング747に匹敵する212フィート(64.62m)の翼幅を持ち、その時点までに作られた最大の航空機であった。戦時の優先順位によりXB-19は量産には至らなかったものの、技術試験機としてB-19は、その他の長距離爆撃機の設計のためにうってつけの寸法を有していたのは事実である。


ダグラスの量産体制

ダグラスは、最初の第二次世界大戦「国防工場」として新しい工場を開設することにした。1940年11月に、カリフォルニア州ロングビーチのドガティ・フィールドで建設作業が着手され、この時点で、ここがダグラス航空機部門の本社とされることとなった。

ロングビーチでの生産は1941年秋に開始され、アメリカが世界大戦に正式に参戦した数週間後の1942年1月に最初の機体が組み立てラインから出た。その機体はC-47であった。ロングビーチ工場が稼働を開始したものの、ダグラスはC-54用にイリノイ州シカゴへ、C-47用にオクラホマシティへ、A-24、B-24、A-26用にオクラホマ州タルサへ、各生産工場を追加開設した。

ダグラスはまた、北アフリカで戦う同盟国軍向け用として、エチオピアの高地の砂漠に、極秘の航空機修理およびオーバーホール基地を建てて運用した『プロジェクト19』と呼ばれたこの施設では、アフリカでの勝利に航空機が不可欠とされた時に、すべての航空機を扱い、戦闘で損傷を受けた数百機の航空機を戦場に戻した。

戦時中の大規模な量産努力は高く評価され、航空界においてダグラスはリーダーとなった。工場を稼働させるために、ダグラスは、ほとんどが初めて労働に就く、数万人の未経験者の従業員を雇い、教育した。戦争にかり出された男性に代わり、製造技術を習得し戦争を支えた若い女性たち『リベット打ちのロージィ』も、この時初めて登場した。

彼女たちが成し遂げた仕事は、アメリカのビジネスと産業の本質を変えた。1943年のピーク時には、ダグラスは各地で合わせて160,000人の従業員を抱えていた。そのうち数百人は、ダグラス製航空機を運使用している軍の部隊の、技術連絡専門員として、多くの戦闘地域にいた。

技術者、機械工、組立て作業員、検査官、製造計画社、管理者、カフェテリアの従業員、工場整備員などすべての分野で、「飛ばし続ける」を合い言葉に、戦時中は週7日働いた。初めは、女性従業員が現場に入ったことは、旧態依然とした文化への挑戦が大きな課題となった。しかし、環境は刻々と変化し、「リベット打ちのロージィ」たちはその変化を速やかに、かつうまく捉らえ、困難への愛国的対応がそそれを解決し、航空機の製造に従事した。

1944年、量産の頂点では、純売上高はこれまでに達したことのない数10億ドルになった(ちなみに1922年は従業員68人で130,840ドルだった)。ダグラスは、アメリカで4番目に大きな企業にランクされた。1942年から1945年にかけて、ダグラスは床屋の裏で生産を始めてから*、29,385機をアメリカおよび同盟国向けに製造した。この機体フレームを重量にすると、4億3,200万ポンドになる。こうした努力の最高点として、ロングビーチでは1時間に1機の割合で、新型機の引き渡しを行った。

(ダグラスによる最初の航空機製造会社、デイヴィス・ダグラス社は、社屋と工場をサンタモニカのピコ大通りにある床屋の裏に構えていた)

この製造には、ロングビーチ工場でのボーイングB-17の3,000機タルサ工場でのコンベアB-24の962機も含まれていた。全体では、ダグラスは戦争中に全アメリカ製航空機の、16%を製造している

【ダグラスSBDドーントレス】SBD-6の生産風景。手前の主翼の上にいるのは女性工員である。戦時下の量産体制を影で支えたのは、彼女ら「リベット打ちのロージィ」たちであった。印では見えないが、工場のいたるところに女性の姿が見られる。


大戰終結

戦争が終わると、不必要となった発注はすべてキャンセルされ、また軍でも装備航空機が余剰化し始めることとなる。発注のキャンセルや余剰機の再活用は、新造機が不要になることを意味する。従って、アメリカの航空機産業は、戦時中の大量生産態勢から、一挙に仕事を失うこととなった。

この時の事情もダグラスを例にとって、同社の社史で記されていることを紹介しておく。

1945年、戦争での勝利が確実になると、戦争のための生産は落ち込み始めた。5月にヨーロッパに、8月にはアジアに平和が訪れると、大量の生産契約をキャンセルした。ダグラスでも、規模縮小は、5年前の隆盛と同じような早さで行われた。シカゴ、タルサ(オクラホマ州)、オクラホマシティの各工場は閉鎖された。『リベット打ちのロージィ』も、多数の男性が軍務を去って家に戻り、仕事を手にする優先権を主張したため、解雇を通知された。

それでも最初は、仕事はあまりなかった。民間航空では、戦後の成長は1930年代末と同じペースであった。

ヨーロッパでは、戦争により飛行を停止していた航空会社が運航を再開し始めた。新しい民間会社(その多くは軍の任務を解かれた輸送機パイロットが興こした)が商用運航を開始するようになった。

ここでダグラスは、C-47,C-54といった軍用に納めた製品の数百機が航空会社用に変換されているという、自社の製品が自社の競争相上手になっていることに気が付いた。この陰鬱な時期にダグラスは、「将来はブーツの中のように暗い」と考えていた。

1946年には、従業員数は26,000人にまで減り、引き渡した航空機はわずかに127機であった。しかしこれらのうちの6機は、新しい民間輸送機DC-6で、このDC-6は最新技術と、世界的に航空界を変えたC-54の戦争経験に基づいて、終戦直前の時期に設計されていた。サンタモニカは、ダグラスの民間輸送機部門となり、ロングビーチエ場はアメリカ空軍のプログラム向けに、そしてエルセグンドはアメリカ海軍の供給所となった。

与圧キャピンを有したダグラス最初の旅客機であるDC-6は、より高くより速く飛行し、20,000フィート以上の成層圏で「大洋横断」旅客輸送を行えるように設計されていた。これは、DC-4試験機により、終戦前にダグラスが確立していた技術である。そして、外形的には似ている非与圧のDC-4/C-54からの大きなステップとして民間航空の新しい時代を築くものとなった。

軍用輸送機が民間用に容易に転用されたこともあって、DC-6のセールスはスロー・スタートだったが、1940年代後半から50年代初期にかけて、受注を延ばしていった。高々度能力高速、長距離飛行といった能力により、DC-6は新しい路線と国際線サービスの新基準を作りだした。

DC-6フリートによりスカンジナヴィア航空は、北極経由のヨーロツパ〜アメリカ間という極点ルート飛行の先駆者となった。DC-6と、その後継でやはり長距離高速性能を持つのDC-7によりダグラスは再び1950年代に民間航空産業をリードする存在になった。しかし、時と技術の進歩により、DC-7はダグラス最後のプロペラ旅客機となったのである。


第4章 冷戦時代

東西対立の幕開け

第二次世界大戦は日本の無条件降伏により終戦を迎え、戦火は一収まった。各国で大量に作られた軍用の航空機は、もはやそれだけの数は必要とされず、その転用が行われることとなった。例えば余剰化した戦闘機や爆撃機は、それを必要としている国に売却されたり供与されたりした。また輸送機は、民間の航空会社に払い下げられるなどした。

これは、既存の航空機の有効利用となるが、逆に新規の製造を抑えることになる。さらに、戦争がより長引いたときのために発注されていた軍用機は、ほとんどがキャンセルされ、アメリカの航空機メーカーは大きな打撃を受けることとなった。ワコー社やセントルイス社などこの時期に倒産したり航空機事業から撤退したメーカーは多く、カーチス社といった名門ですらこの影響から脱し得ないまま会社を閉じている


しかしその一方で、第二次世界大戦の終結後、新たに大きな対立が生まれた。自由主義対社会主義という構図でそれぞれの雄であるアメリカとソ連を中心とする、冷戦構造の確立である。

第二次世界大戦時は手を結んだアメリカとソ連であったが、戦後はそれぞれの影響下に置くテリトリーをめぐって対立を始めた。その代表例が、戦後まもなく行われたベルリン封鎖である。ソ連により陸上の交通網が完全に遮断されたベルリンに対して、イギリスとアメリカの大型輸送機が1948年6月から1949年9月までの間に、合計232万5,000トンの物資を空輸により運び込み、ベルリン市民の生活を維持した。

その結果ソ連は、ベルリンの完全封鎖を解き、ベルリンは東西に分けられて、西ベルリンは東ドイツ内に特別の区域として存在することになった。もちろん、ドイツの東西分離も、戦後のイデオロギー対立の産物である。

アジアでも、同様の国家の分断は起きた。朝鮮半島やインドシナ半島は、支援国の違いにより一つの国が南北に分けられた。朝鮮半島では戦争により朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国の二つの国ができ、統一を目的に戦争が起きた。これが朝鮮戦争で、現在でも休戦状態にある。インドシナ半島では、北ベトナムと南ベトナムの二つの国家ができ、アメリカが南ベトナムを支援してベトナム戦争を戦ったが、北ベトナムによる統一で戦闘は終結した。

中東では、戦後のシオニズムの高揚によりイスラエルが建国された。しかし、イスラエルに入植したユダヤ人と、周辺アラブ諸国に対立があって、四次に渡る戦争(中東戦争)が繰り広げられた。アフリカでも、エチオピア・ソマリア紛争があった。第二次世界大戦は終っても、戦争による混乱や、冷戦構造を背景にした対立、あるいは宗教やイデオロギーによる対立は各地で起き、世界から諍いごとが消えたわけではなかった。

こうした情勢は、当然各国に軍備を必要とさせ、軍用航空機の需要は減りはしなかった。加えて、航空機にはジェットエンジンの実用化という大きな技術革新があり、戦略面では第二次世界大戦で核兵器の威力が実証され、新たな強力な兵器として存在することとなった。これらは、必然的に新しい軍用機を必要とすることを意味し、戦後もアメリカの航空機メーカーは、軍の要求に応えるべく新しい技術を取り込んだ軍用機の開発に拍車をかけることとなった。


ジェット・エンジンの登場

戦後の航空機の性能を大きく変えたのは、なんといってもジェット・エンジンの実用化であった。こうした推進装置が考案されたのは決して新しいことではなく、イギリスでは1928年に、フランク・ホイットルが、圧縮空気を燃焼室に送り込んで燃料とともに燃やし、一定の熱い空気流を送り出して圧縮器につながれたタービンを回して、タービンに使われる以外のすべてのエネルギーを推進力にあてるという、ガスタービン・エンジンを考案していた。

ただこうしたエンジンが実際に試験されるまでには、さらに10年以上の期間を要した。記録されている、世界初の航空機用ターボジェット・エンジンのベンチテストは、1937年4月12日に行われている。これはホイットルが設計し、ブリティッシュ・トムソン・ヒューストン社が製造したエンジンによるものであった。そして1938年3月に航空省からエンジン量産の契約を得て、1941年5月15日にグロスターE.28/39が量産エンジンW1を装備して17分間の初飛行をした。イギリス初の航空機のターボジェット動力による航空機となる。

しかし、世界初のジェット機の開発でよく知られているのは、ドイツである。ドイツでも航空機用ターボジェット・エンジンの研究は1930年代に行われており、1936年4月には、最初の航空機用ターポジエット・エンジンの開発が始められている。これは、ハンス・ヨヒアム・パプスト・フォン・オハイン博士とマクス・ハーン工学士が行ったもので、ハインケル社のエルンスト・ハインケルの教唆により始められた。そして、ハインケルのマリエネへ工場で作業が行われた。

このエンジンが、いつ試験を開始したのかは明らかでなく、ギネスブックによれば前記したホイットル設計のエンジンが世界初のベンチテストとされているから、初運転はその後だったのであろう。ただ飛行試験は、ハインケルのエンジン(HeS3b)の方が早く、1938年6月に、He118に装備されて進空している。イギリスでの初飛行よりも2年余り早かったのである。

また1939年8月27日には、HeS3Bエンジンのみで、He178が初飛行した。これが、世界で初めて、ターボジェットのみで飛行した航空機である。

そして1941年4月18日には、メッサーシュミットMe262が初飛行しした。この初飛行は、ユンカース社のユモ・ピストン・エンジン(1,200馬力)によるものだったが、翌1942年7月18日にはユンカース109-2004-0ターボジェット(840kg)2基で飛行した。Me262量産型は、エンジンを900kgの109-004B-1ターボジェットに変更され、高度23,000フイートで868km/hの速度を記録した。Me262は1944年7月から空軍に引き渡され、7月10日にフランスで活動を開始して、ドイツ空軍初の実用ターボジェット航空機となった。

さらにドイツでは、ジェットエンジンと並行して、ロケット動力の研究も行われていた。ロケット動力用の航空機としては1937年7月にアレクサンダー・リピッシュ博士が、ドイツ滑空研究機関(DFS)でプロジェクトXを開始、試作ではあったが完成した航空機DFS194は、メッサーシュミットMe163コメートの前身となった。

他方、1939年7月20日には、ワルターHWK R.I-203ロケット・モーターを装備したハインケルHe176がペーネミュンデで初飛行した。こHe176は、ロケット動力用有人機として設計された初の航空機として記録されている。また、DFS194から発展して作られたMe163は、1941年8月13日に同じくベーネミュンデで初飛行し、1944年7月にブランディスのJG400部隊に配備され、世界初のロケット動力による実戦闘機となっている。

第二次大戦中のドイツでは、こうしたジェットやロケット動力のほかにも、様々な航空技術の研究が行われていた。後退翼やデルタ翼など、今日一般化している多くの技術の基礎は、ドイツで研究されていたのである。

そして第二次世界大戦でドイツが連合軍に敗れると、アメリカやソ連はその研究資料を自国に持ち帰った。そしてジェット機の研究・開発を本格化させて、実用化させるに至った。そしてジェット機の登場は、軍用機の存在意義も大きく変えることとなった。


ジェット戦闘機黎明期

アメリカ初のジェット戦闘機は、ベルP-59エアラコメットである。1941年9月に、機体担当として、当時大量産機を社内の生産ラインに抱えていなかったことと過去の実績からベル社に、エンジン担当としタービン技術で他社より抜きんでていたジェネラル・エレクトリック社に発注内示が行われた。双発車座の迎撃戦闘機で37mm砲を装備する、という以外には軍からは何の要求もなく、原型機となったXP-59Aは1942年10月1日に初飛行した。エンジンは、イギリスのホイットルW.2Bをジェネラル・エレクトリックが組み立てた、推力680kgのタイプⅠAであった。

続いて前量産型YP-59Aが13機作られ、エンジンは推力748kgのジエネラル・エレクトリックⅠ.16(後にJ31に改称)となり、1943年から引き渡しが始められた。さらに量産型P-59Aが20機製造され、初期の機体は推力がYP-59Aと同じJ31-GE-3エンジンであったが、後期の製造分は推力907kgのJ31-GE-5を装備している。また量産型では胴体が延長され、垂直尾翼と方向舵が切りつめられた。また、燃料搭載量を増加したP-59Bも、30機が作られている。

P-59は、アメリカ空軍初の実用制式ジェット戦闘機ではあったが、最大水平速度は665km/hと高速のレシプロ戦闘機と対して変わらず、また旋回半径はP-38よりも小さかったものの、全般的な性能や運動性ではP-38やP-47に劣り、これらの戦闘機にダイブに入られると容易に振り切られてしまった。ジェット戦闘機として実用化された意義は大きいものの、戦闘機として見たときには平凡な機体であり、第一線部隊への配備をされずに終っている。

またベルでは、長距離護衛戦闘機要求に対して、P-59を大幅に発展させたXP-83を開発して提示した。XP-83は、1945年2月25日に初飛行ターボジェットとターボプロップを組み合わせたコンソリデーテレッドXP-81、P-51マスタングを2機連結したノースアメリカンP-82ツインマスタングと採用を競ったが、性能、操縦性ともに悪く、2機の試作のみに終っている。そしてベルはこれ以降、研究機を除いて固定翼機の開発を行わなくなった。


アメリカの初期のジェット戦闘機で、傑作機となったのが、ロッキードP-80シューティングスターである。ロッキード社は、1943年6月に、イギリスのデハヴィランドH-1ターボジェット・エンジンを使った新しい単座戦闘機の開発を指示された。開発にあたってロッキードが陸軍から選ばれたのは、ベルのXP-59の場合と同じく、過去に実績があり、かつ当時社内に大量産機を抱えていなかったためである。

ロッキードがP-80の開発指示を受けたのはベルXP-59の初飛行後わずか9か月のことで、ジェット時代の幕開けで意気の上がっていたアメリカの航空産業界にあって、この開発指示はロッキードにとって極めて興奮させるものであった。

ロッキードでは、クラレンス“ケリー”・ジョンソンが率いるチームにより作業が始められ、彼自身の才能と、初のジェット機を作るというチームの高い志気が作業を急テンボで進めさせることとなり、1週間以内に機体の基本案を完成させた。この設計が車に受け入れられ、すぐに試作作業に入り、1943年8月の試作機製造着手からわずか143日後の1944年1月9日に初号機を初飛行させた。

試作機XP-80は、推力1,360kgのイギリスのデハヴィランドH-1ターボジェット単発を採用して完成させ、量産する際にはアメリカのアリス・チャーマーズ社がこのエンジンを生産することになっていた。しかしこの計画は、アリス・チャーマーズがエンジンの量産に移行できず取り止めとなり、このため試作2号機(XP-80A)は、推力1,746kgのジエネラル・エレクトリック1-40(後のJ33)を装備することになった。そしてP-80が量産に移行しても、このJ33がP-80のエンジンとして使用された。

量産型P-80のアメリカ陸軍部隊への初引き渡しは1944年10月で、第二次世界大戦には間に合わなかったが、このP-80の開発の成功とジェットエンジンの量産により、アメリカはジェット戦闘機の製造技術でイギリスを抜き去ることとなった。最初の量産型P-80Aは、推力1,746kgのJ33-GE-11または-17を装備し、武装は機首に0.5インチ機銃を持っていた。このP-80Aは、563機が作られた。

戦後になってもP-80の量産は続けられ、まずエンジンを推力1,814kgのJ33-A-21(アリソン社製J33。水噴射時での推力は2,359kg)とし、機首の武装を0.5インチ機銃4挺とし、また翼厚を薄くして他装甲を強化したP-80Bが、240機製造された。エンジンを推力1,085kgのJ-A-23または-35とし、武装を0.5インチ機銃6挺に戻したのがP-80Cで、798機が作られている。

またP-80はアメリカ海軍でもジェット練習機として採用され、TO-1(後にTV-1)としてアメリカ空軍から50機を受領した。またP-80を複座化した練習型TF-80Cも開発され、1948年3月22日に初飛行している。TF-80Cは、1949年5月にT-33Aと改称されたが、それ以前に128機が作られており、またT-33Aとなった後も5,743機が製造された。さらにカナダと日本でもライセンス生産され、6,700機以上が作られて西側を代表する最初のジェット練習機となった。


音速への挑戦

ジェットエンジンの魅力の一つは、航空機の高速化が可能になることであった。P-80では、最大巡航速度が707km/hになり、1946年2月に初飛行したリパブリックF-84では、最大速度が1,001km/hにまで達していた。重量を維持しつつエンジンの推力を大きくすれば、それだけ速度は速くなり、ジェットエンジンの進化により、航空機の速度は限りなく音速に近づいていった。しかし、音速に近づくと、空気の圧縮による、音速の壁ができ、その突破は容易ではなかった。

イギリスやフランスなどとともに、もちろんアメリカでも音速突破への挑戦飛行が行われることとなった。全米航空査問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics, NACA)は各航空機メーカーに超音速飛行研究機の予算を提示し、主要メーカも初の超音速機の栄冠を手に入れるべく設計に入った。

そして、世界で初めての有人飛行による音速突破は、アメリカにより成し遂げられた。

1947年10月14日、チャック・イェーガーの操縦するベルX-1研究機が、初めて音の壁を破って、マッハ1以上の飛行を記録したのである。航空機が高速化すると、遷音速領域における空気の圧縮性に起因する衝撃波の発生を遅らせて臨界マッハ数を高めるために、気流の方向と主翼前縁の間で相対的な角度を減らす必要がある。このために考え出されたのが、主翼を機体中心線に対して角度を付けて配置する方式で、斜め後方に向ける、後退翼が誕生した

理屈でいえば、これは主翼を前方に向ける前進翼であっても、多くのジェット機が採用している後退角であっても、同じである。実際に前進翼という形状は、第二次世界大戦中のドイツ軍により研究が行われていて、ユンカースJu287ジェット爆撃機に採用されている。

むしろ前進翼の方が、主翼の取り付け部が後方になり、機体の空力中心よりも後ろを主翼の主桁が通るから、胴体の重心位置付近のスペソースをより確保できることになる。また、後退翼では後退角を大きくすればするほど、外側の主翼上面の圧力分布で負圧の差が生じ、上面の境界層が外側ほど厚くなって、翼端失速を生じるという欠点がある。

翼端失速に伴って、ピッチアップを起こしたり、大迎え角ではダッチロールを起こす傾向も強まる。さらに翼端付近の補助翼の効きが悪くなって、エルロン・リバーサルも生じやすい。

翼端失速に関していえば、前進翼は空気流が翼端から付け根に向かうため翼端失速を起こさない。発生揚力を最大限利用でき、エルロン(補助翼)の効きも悪くならない。

さらに後退翼では、誘導抵抗によって長円形の揚力ローディングを持つように設計して、巡航時の誘導抵抗を最小限にするようにしている。しかし、迎え角を大きくすると外翼部のローディングが急速に増し、大きな誘導抵抗を生じる結果となる。前進翼ではこれも発生しないので、大迎え角飛行時の揚抗比に大きな差をもたらす。実際に1980年代に開発された研究機、グラマンX-29は飛行試験で、45度の迎え角でも敏捷性を維持し、60度でも操縦が可能であったことを実証している。

他方、前進翼の問題点は、高速飛行時にかかる荷重により、主翼端の前縁から翼を上に捻り上げる力がかかることである。これにより結局は翼端失速を起こしてしまい、「ストラクチャル・ダイバージェンス」と呼ばれる問題を発生してしまう。従来の技術では、これを防ぐには主翼構造を強化し、剛性を増すしかなかった。その結果は、構造が複雑になり、重量が増加する。これは、実用機にとっては全くありがたくないことだ。

また後退翼には、上反角を増したのと同じような、方向安定性と横安定性を高める効果がある。前進翼はそれと逆の影響を及ぼし、ロールに対する静安定はマイナスになり、機体がロールを始めてしまうとそれを助長し、また方向安定性が悪くなる。これを解決するには、主翼に上反角を付けることと、垂直安定板を高くするという方法がある。

前進翼と後退翼には、上記の通り一長一短があるが、結局は適用しやすいのは後退翼であるということになって、後退翼機が各種作られることになった。しかし、近年では上記した前進翼の欠点を補う手法に、新たな技術の適用が可能になった。複合材料と、フライ・バイ・ワイヤ操縦装置である。これらの使用で前進翼の欠点を補った、前進翼機も誕生している。


初期の傑作機F-86

話を歴史に戻そう。アメリカで初めて作られ、実用化した後退翼ジエット戦闘機はF-86セイバーであった。F-86は、傑作戦闘機P-51マスタング送り出したノースアメリカン社によって、元々は直線翼を持つ戦闘機として計画されていたのだが、ドイツによる後退翼研究の資料からその利点を採り入れることとし、設計をし直すため完成を約1年遅らせたのである。

F-86セイバーは、試作機NA-140(XP-86)が1947年10月1日に初飛行した。エンジンは、ジェネラル・エレクトリック社が開発した、推力1,700kgのTG-180軸流ターボジェットで、十分に開発されていたものではないが、それでも従来の戦闘機を上回る速度性能を発揮し、後退翼の威力を見せつけた。また、操縦性も極めてよく、さらにはパイロットの全周視界も良好と、戦闘機に必要な要素の多くを備えていた。

最初の量産型P-86A(後のF-86A)は、エンジンが推力2,268kgのTG-190(後のJ47)に変更され、1948年5月20日に初飛行し、同年9月には1,080km/hの世界速度記録を樹立している。アメリカ空軍での第一線部隊配備は1949年に開始され、1950年6月に勃発した朝鮮戦争にも投入されている。

朝鮮戦争では、当初アメリカ空軍がF-80を使用して、北朝鮮のレシプロ機を撃墜し、ジェット戦闘機とレシプロ戦闘機の能力差を見せつけた。しかし11月に、ソ連が開発した後退翼ジェット戦闘機MiG-15が出現し、これに対抗できる戦闘機はF-86しかないとされたのである。

F-86では、各種の発展型も作られ、中でも日本で一番馴染みのあるのが、航空自衛隊が装備したF-86Fであろう。三菱重工でもライセンス生産が行われたF-86Fは、エンジンに推力2,708kgのJ47-GE-27を装備し、主翼の前縁を付け根部で6インチ(15.2cm)、翼端部で3インチ(7.6cm)延長した、6-3ウイングと呼ばれる主翼を使い運動性を向上させたタイプである。生産機数も、シリーズ中最多であった。

しかしF-86シリーズの中で特筆すべきタイプは、F-86Dである。F-86Dは、元々はF-94Aとして計画されていたもので、F-86の機体フレームを活用し、機首にレーダーを装備、さらにエンジンにはアフターバーナーを付けて、本格的な全天候戦闘機を目指したもの。エンジンの最大推力は、3,405kgになった。

搭載したレーダーはヒューズAN/APG-37で、合わせてヒューズE-4見越し命中経路火器管制システムを装備した。このシステムは目標をレーダーで捉えた後、それをスコープの中央に維持するように飛行して、機首下面に引き込み式で搭載しているロケット弾を発射すると、火器管制システムの見越し計算により目標に命中する、というものであった。この新装備は、特にE-4に不具合が多く発生したが、それを乗り越えて実用化され、F-86Dはジェット戦闘機時代初期の貴重な全天候迎撃機となった。

こうしたF-86シリーズは、アメリカ海軍も、FJ-2~4フュリーとしって、海軍仕様機を装備した。日本やカナダでもライセンス生産されて、各型合わせて8,000機以上が生産されている。


第二次世界大戦中に実用化されたレーダーは、ジェットの時代に入っても当然有効な索敵・探知機材と位置づけられ、ジェット戦闘機への装備の研究が、高速化などと並行して進められていた。そしてアメリカ空軍にとって最初のレーダー付きジェット戦闘機の原型となったのは、カーチスXP-87ブラックホークだった。

カーチス社がジェット攻撃機として設計したA-43の機体フレームを使って、機首にレーダーを装備して複座の夜間戦闘機としたもので、1948年3月5日に原型機が初飛行、この機体は4発機であったが、量産機は双発機になる計画とされた。一時は量産型88機が発注されたが、その後完成したF-89やF-94の方が有望と判定されて量産発注はキャンセルとなり、試作のみに終っている。このキャンセルは、当時すでに下降気味であったカーチスの航空機生産に決定的な打撃を与え、結局はこの機体が陸上型戦闘機となった。

XF-87を退けて空軍に制式採用されたのが、ノースロップF-89スコーピオンと、ロッキードF-94スターファイアであった。F-89は複座機で、1948年8月16日に初号機が初飛行し、1950年7月から生産型の納入が始まっている。これにより本機は、アメリカ空軍初のレーダー装備の実用ジェット戦闘機となった。

もう一方のF-94は、T-33をベースにしてレーダーを搭載し、エンジンにアフターバーナーを付けたもの。原型機はT-33を改造して作られ、1949年4月16日に初飛行した。アメリカ空軍は、当初は全天候迎撃機の装備をF-89だけとしていたが、朝鮮戦争や、冷戦の本格化による東西関係の悪化から至急こうした機体をそろえる必要を感じ、急きょF-94が開発されたのである。


初期の海軍ジェット戦闘機

この時期海軍の艦載戦闘機でも、当然空軍の戦闘機と同様、レーダーの装備、高速化と後退翼化、といった発展が行われている。アメリカ海軍初の制式純ジェット戦闘機は、マクドネルFD(FH)ファントムで、1946年1月26日に原型機が初飛行し、1947年に海軍で実用就役した。空軍のXP-59よりは遅いが、最初から機体もエンジンもアメリカ製という、純アメリカ製ジェット戦闘機を海軍、業界ともに誇りにした。

その後、アフターバーナーを装備したチャンス・ヴォートF6Uパイレート(原型初飛行1946年10月2日)レーダーを装備したマクドネルF2Hバンシー(原型初飛行1947年1月11日)とグラマンF9Fパンサー(原型初飛行1947年11月24日)、初の艦載夜間ジェット戦闘機として開発されたダグラスF3Dスカイナイト(原型初飛行1948年3月23日)、などと続き、ジェット戦闘機は当然のごとく主力機となっていった。これらの機体はいずれも直線翼機であったが、1946年の海軍昼間戦闘機提案で契約を獲得したチャンス・ヴォート社案がアメリカ海軍にも後退翼機をもたらした。

このチャンス・ヴォートが設計したのがF7Uカットラスで、1948年9月29日に原型機が初飛行した。そしてこのF7Uは、海軍初の後退戦闘機というだけでなく、初の無尾翼機(水平尾翼)であり、双垂直尾翼ジェット戦闘機でもあった。それだけに機体形状もユニークであったが、操縦性が悪いという欠点も有していた。このため、3機の試作機XF7U-1と最初の量産型F7U-1 20機が作られたが、続く発展型F7U-2の88機の発注はキャンセルとなった。そして前部胴体の見直しを含む大幅な設計変更を行い、エンジンをウエスチングハウスJ46-WE-8(2,087kg)としたF7U-3へと進むこととなった。

F7U-3は、機首に測距用のAN/APG-30ROレーダーを装備し、さらに続いてレーダーをAN/APQ-51とし、本格的な全天候戦闘機としたF7U-3Mが開発された。この-3Mは、サイドワインダーと、レーダー誘導のスパロー両空対空ミサイルを携行できたが、結局は悪い特性は改善できず、1954年にF7U-3による部隊が編成されたものの、事故率がほかの機種に比べて極めて高かったため、1957年には全機が退役した。


海軍初の実用的な後退翼戦闘機となったのが、グラマンF9F-6~8クーガーである。クーガーは、前作のF9F-5の胴体を使い、主翼を後退翼に手直ししたもの。ほかにもスラットやフラップも改良して、着艦操縦を容易にしたり、操縦性の向上が実現した。原型機は、1951年9月20日に初飛行した。

既存の胴体に新しい主翼を付けるというのは、いかにも急造であるが、これも、朝鮮戦争でより高性能の戦闘機が必要とされ、短期間に後退翼戦闘機を作り上げるためにはやむを得ないことであった。そしてF9Fは、エンジンの異なるF9F-6(J48)とF9F-7(J33)が作られた後、主翼と胴体を大きく設計変更し、本格的な遷音速戦闘機としたF9F-8へと発展した。

ダグラスF4Dスカイレイも、特徴のある海軍戦闘機であった。艦載戦闘機としては初めて無尾翼デルタの構成を採り、1951年1月23日に原型初号機が初飛行した。この機体は、推力2,500kgのアリソンJ35-A-17エンジンを装備したが、2号機では3,175kgのウエスチングハウスJ40-WE-6に変更され、さらに後にはアフターバーナー付きで最大推力6,262kgのJ40-WE-8を装備した。

これが量産型のF4D-1になると、J40が不調だったため、ブラット・アンド・ホイットニー社製のエンジンに変更されて、初期の機体以外はJ57-P-2 (6,350kg)、それはJ57-P-8 (6,577kg)となった。こうした大推力エンジンを使用したことなどから、1953年には3kmの周回コレースで1,212.2km/hの世界速度記録を樹立し、海軍戦闘機が初めて空軍戦闘機の性能を凌駕した。

エアロ13火器管制システムを装備したスカイレイは、1956年4月に部隊配備が開始され、艦載の全天候迎撃機として使われ始めたが、大パワーのエンジンによる優れた上昇性能が評価されて、北米大陸防空軍団(North American Aerospace Defense Command, NORAD)の迎撃機としても使用されることとなった。海軍戦闘機でNORADに配備されたのは、本機が最初であった。1958年末までに量産機419機が引き渡され、1964年に退役している。


センチュリー・シリーズ

アメリカのジェット戦闘機は、最初のベルXP-59が初飛行してから10年余りの間に、高速化と装備の充実が急テンポで進められ、高い能力を持つ兵器システムとして確立されていった。そして速度の面でいえば、当然のことながら、超音速の時代へと入っていくこととなった。

世界初の有人超音速飛行は、前記したように1947年10月14日に、ベルX-1により記録されていた。さらに1948年11月20日には、ダグラスD-558-2スカイロケットがマッハ2.005を記録(高度35,000フィートの空中からの発進で)し、音速の2倍を突破している。また実用機でも、ノースアメリカンF-86セイバーは、降下時に音速を超えられるように設計され、実際に開発中の飛行試験でXP-86がマッハ1を超えている。

こうした流れは、当然実用超音速戦闘機を生み出すことになる。アメリカ空軍向けの戦闘機としては、「センチュリー・シリーズ」と名付けられたF-100以降の一連の戦闘機で、超音速実用戦闘機が誕生しした。

そのトップバッターであり、世界初の実用戦闘機の座に就いたのが、ノースアメリカンF-100スーパーセイバーであった。F-100は、高速度性能を得るために、F-86セイバーの主翼後退角を45度とすることで計画がスタートしたもので、機体形状もそれに合わせて変更された。試作機YF-100Aの初号機は1953年5月25日に初飛行し、2機のうち1機のYF-100Aは試験飛行段階で高度11,600mでマッハ1.38の最高速度を記録した。

量産型F-100Aは、1954年から空軍の部隊配備が始められたが、その初期には事故が連続して起こり、飛行停止に追い込まれている。こそれは、高速での横転中に垂直安定板による回復力が失われたため起きたもので、このため垂直安定板を大型化する手直しが行われた。また、F-100Aは昼間迎撃機として配備が始められたが、F-100C以降では兵装搭載箇所を増やした戦闘爆撃機となっている。


超音速能力と高級な電子装備を最初に組み合わせたのは、コンヴェアF-102デルタダガーで、機体は無尾翼デルタの構成を採り、試作機1953年10月24日に初飛行した。しかし初期の飛行試験では、重量と空気抵抗が大きすぎ、音速を超えることができなかった。このためNACAが研究を進め、効果が確認されていたエリアルールを適用した。これは胴体にくびれを持たせて空気抵抗を減らすもので、これによりF-102も音速を超えることができた。

F-102は、ヒューズ製のMG-10火器管制装置を備え、ファルコン空対空ミサイルとの組み合わせにより、全天候の迎撃戦闘機となった。1956年に就役した後も、レーダーの改良やデータリンクの装備などが行われて、より完成された機体となっていった。

このF-102をさらに発展させたのがF-106デルタダートで、当初はF-102Bの名称で開発された。1956年12月26日に初号機が初飛行し、1959年6月から部隊配備が始まっている。機体構成はF-102によく似ているがエリアルールを大きくしたこと、垂直尾翼の上端を切りつめたこと、空気取入れ口を後方に移動させたことなどが、外形上の違いとなっている。またエンジンが、推力37,920kgのブラット・アンド・ホイットニーJ57-P-17に変更され、速度性能はマッハ2級となった。

それ以上にF-106の大きな特徴となったのは、ヒューズMA-1電子誘導・火器管制システムを装備したことで、地上の半自動式防空組織(Semi-Automatic Ground Environment, SAGE)と高度に連携することが可能となった。このシステムは、地上の迎撃管制指令所からの指令電波を機上で翻訳し、情報を自動管制装置、自動飛行操縦装置に伝えて、自動的に迎撃戦闘を可能にすると
いうもの。これにより、F-106が事前に割り当てられた担当迎撃地域内にいれば、指示された目標を自動的にレーダーで発見・追跡・照準を行って、最適の位置でミサイルを発射して、その後離脱ができるようになる。この間パイロットは、機体の各システムを監視しているだけでよい、というものであった。F-106によるこのシステムの実用化は、その後の戦闘機の、より高度な電子機器を駆使した戦闘能力に、大きな影響を与えることとなった。


P-80で優れたジェット戦闘機を開発する技術があることを示し、F-94で全天候機の開発に成功した、ケリー・ジョンソン率いるロッキードの超音速戦闘機が、F-104スターファイターである。大推力のエンジンに細長い胴体、そして翼幅を極端に切りつめた主翼を持つF-104は、出現当時には「最後の有人戦闘機」とまでいわれた。実際に、極力軽量化が図られた機体により、抜群の上昇性能と速度性能を持ち、世界初の実用マッハ2級戦闘機となったのである。

F-104は、1954年2月28日に試作機XF-104の初号機が飛行したが、開発試験に比較的時間を要し、アメリカ空軍で就役を開始したのは1958年2月であった。アメリカ空軍では、本土防空用と戦術制空戦闘用にF-104を装備する計画であったが、本土防空用としては機体が小型過ぎ、他方戦術空軍向けとしては実用性に欠けると判断され、アメリカ空軍での装備は250機程度の少数機で終っている。

しかしF-104は、日本やヨーロッパ諸国で採用され、航空自衛隊では初の超音速戦闘機となり、三菱重工でライセンス生産も行われた。日本では、単座のF-104Jを210機、複座のF-104DJを20機装備した。


センチュリーシリーズでF-104と対照的な機体が、リパブリックF-105サンダーチーフだ。F-105は、超音速戦闘機と爆撃能力を組み合わせた、最初から超音速戦闘爆撃機として開発された最初の機体である。胴体には爆弾倉を有して機外搭載分と合わせて5.9トンの爆弾を携行でき、その中には核爆弾も含まれるというものだった。

開発作業は1951年に開始され、試作機YF-105は1955年10月22日に初飛行した。アメリカ空軍への配備は1958年5月に開始され、ヴェトナム戦争にも多数が投入された。

海軍の艦載戦闘機でも、グラマンF9F-6クーガーがダイヴで音速を超すことができるなど、すでに超音速の時代には入っていたが、本格的な艦載超音速戦闘機の時代は、グラマンF11Fタイガーチャンス・ヴォートF8Uクルーセイダーによって幕を開けた。またグラマンでは、F11Fの前にXF10F-1ジャギュアを開発している。このジャギュアの最大の特徴は、世界で初めて可変後退翼を使用したことにある。

可変後退翼は、低速飛行時と高速飛行時に、それぞれ最適の主翼後退角を生み出すものであるが、空力的にも機構的にも難しい面を持っている。そしてジャギュアでは、その野心的な試みが裏目に出て、また装備したJ40エンジンも不調であったため、海軍では使いものにならないと判断し、試作のみに止まっている。しかしここでの可変翼の経験が、後にF-14トムキャットで生かされることとなった。

F11Fは、クーガーでの高速機初の経験を活用し、軽量小型の艦載昼間戦闘機を目指したもので、試作機は1954年7月30日に初飛行した。1957年には量産型F11F-1が海軍部隊に就役したが、計画された性能は出せず、また小型な機体構成のため多用途性にも乏しかった。このためライバルのF8Uの方がはるかに評価が高く、第一線での就役期間は1961年までとごく短期間に終っている。


チャンス・ヴォートのF8Uクルーセイダーは、試作機XF8U-1が1955年3月25日に初飛行した。初飛行はF11Fよりも遅かったものの、F11Fが開発試験に手間取ったため、海軍での就役はF11Fと同じ、1957年3月であった。

F8Uの特徴は、主翼取り付け部をジャッキにより上げ下げできるようにした主翼取り付け角変更機構を採用したことで、より大きな迎え角が求められる離着艦時などには、主翼前部を上げることで迎え角を変えられるようにした。このため、前作F7Uでは酷評された離着艦性能は極めて良好なものとなり、また飛行性能も優れていたため、F11Fを凌いで主力戦闘機として認められ、大量発注が行われた。

F8Uはまた、当初はF11Fと同様の艦載昼間戦闘機であったが、そこの後機首にAN/APS-67レーダーを付けた制限全天候戦闘機F8U-1Eが作られた。さらにエンジンを、推力7,665kgのプラット・アンド・ホイットニーJ57-P-16に強化し、レーダーもAN/APQ-83に変更したF8U-2Nへと発展し、より全天候能力を高めた。こうしてFSUは、輪出機も含めて、1,261機が生産される、成功作となった。


第二次世界大戦後の爆撃機

戦後のアメリカジェット戦闘機について、時代を追って超音速時代に入るまでを記してきたが、ここで時代をもう一度終戦時に戻して、爆撃機の流れをまとめることにする。第二次世界大戦では、敵の継戦能力を失わせる戦略攻撃に、爆撃機が極めて大きな役割を果たし、その存在価値を改めて認識させた。敵のあらゆる機会を喪失させるという、直接的な勝利につなががる作戦には、大きな爆撃機戦力が不可欠となった。

さらに日本との戦いでは、2発の核爆弾が使用され、核兵器が強力な戦略兵器として実用できることが証明された。そしてその核兵器を運ぶ手段も、爆撃機が頼りであった。核兵器自体も、広島で使われた「リトルボーイ」、長崎で使われた「ファットマン」から発展し小型化され、他方爆撃機のジェット化の時代を迎えて、中型爆撃機でも第二次大戦中の重爆撃機以上の戦力となる時代に入ったのである。

第二次世界大戦で使われた最後の爆撃機は、ボーイングB-29であった。これが大戦時の最新爆撃機である。そして1954年8月5日には、ボーイングB-52ストラトフォートレスの量産型初号機が初飛行した。アメリカの軍用機の呼称は、役割を示す記号(爆撃機はB)と、開発順に与えられる一連番号の組み合わせで付けられ、原則として欠番はない。従って、戦後わずか10年という短期間に29から52まで、23もの番号が埋められたということは、それだけの機種が爆撃機として開発されていたことを意味する。

もちろん、戦時中に研究が始まっていたものもあるが、それだけ爆撃機という機種が重視され、また存在意義が大きかったとも言えるだろう。もちろんこれは、実際の必要性だとか、戦力としてどう効果があったかなどとは別の話だが、戦後10年間アメリカでは、爆撃機開発熱が高かったことは確かである。

ここで、B-30からB-52までの爆撃機にどのようなものがあったのか、メーカー別にリストアップしてみよう。

[ボーイング]

  • B-38フォートレス:B-17EのエンジンをアリソンV-1710に換装したたもので、1943年5月にXB-38が初飛行した。量産発注には至らなかった。

  • B-39スーパーフォートレス:YB-29のエンジンをアリソンV-3420に変更したもの。量産には至らなかった。

  • B-40フォートレス:B-17の長距離護衛型B-17Fが1機、試作機のXB-40に改修され、その後さらに20機が前量産型YB-40に、4機が訓練型TB-40に改修されたが、実用配備はされなかった。

  • B-44:B-29のエンジンをプラット・アンド・ホイットニーR-4360に変更したもので、1機が改造され1945年5月に初飛行した。B-44としては制式採用はされなかったが、B-50の量産へとつなががった。

  • B-47ストラトジェット:大型の長距離ジェット戦略爆撃機で、爆撃機としては初めて後退翼を採用した。エンジンはジェネラル・エレクトリックJ47 6発で、試作初号機は1947年12月17日に初飛行した。最大爆弾搭載量は20,000ポンドで、その状態で2,560kmを飛行でき最大速度はマッハ0.65を出すことができた。B-36に続いて、大量配備が行われた。

  • B-50スーパーフォートレス:XB-44の量産型。

  • B-52ストラトフォートレス:試作機YB-52が1952年4月15日に初飛行した、プラット・アンド・ホイットニーJ57 8発の大型長距離戦略爆撃機。長期に渡ってアメリカ戦略爆撃機の主力の座を占め、実用配備からから30年以上を経過した現在でも、少数機であるがまだ残っている

[コンソリデーテッド]

  • B-32ドミネーター:ライトR-3350エンジン4発の重爆撃機。1942年9月7日に初飛行。対日戦に投入される予定だったが、実用化前に日本が降伏した。量産爆撃型B-32 74機と、訓練型TB-32 40機が作られている。機内には、最大20,000ポンドの爆弾を携行できた。

  • B41リベレーター:B-24の長距離護衛型。B-24 1機がXB-41に改修されてわずかの飛行試験を行ったが、その後プログラムは中止された。

[コンヴェア]

  • B-36ピースメーカー:1946年8月8日に試作機XB-36が初飛行した、ブラット・アンド・ホイットニーR-4360 6発の大型6発長距離爆撃機。B-36Dからはさらに、J47ジェットエンジン4基が加えられた。最大72,000ポンドの爆弾を搭載でき、382機の大量産が行われた。

  • B-46:ジェネラル・エレクトリックJ45エンジン4発の中爆撃機で、試作機XB-46が1947年4月2日に初飛行した。B-45との比較審査に敗れ、試作機1機が作られたのみに終った。

[ダグラス]

  • B-31: ライトR-3350またはプラット・アンド・ホイットニーR4360エンジン4発の長距離重爆撃機計画。XB-31としていくつかの設計案が研究されたが、試作発注は行われず製造されなかった。

  • B-42ミックスマスター: プッシャー式双発の中爆撃機で、試作機XB-40 2機が作られた。エンジンは、アリソンV-1710で、1944年5月6日に初飛行した。量産発注には至らなかった。

  • B43ジェットマスター: B-42の設計を流用し、エンジンをジェネラルエレクトリックJ35(推力1,814kg)双発にしたもの。試作機XB-43は1946年5月17日に初飛行した。アメリカ空軍向け初のジェット爆撃機であったが、量産はされなかった。

[ロッキード]

  • B-30: ライトR-3350エンジン4発の重爆撃機計画。XB-30が計画されたが、試作機製造発注はなされず、機体は作られなかった。

  • B-34レキシントン: イギリス空軍が1940年にヴェガ・エアクラフト社に与えた契約に基づき、その引き渡し調達のためアメリカ陸軍が付けた制式呼称。イギリス空軍にはベンチュラⅡとして200機が、アメリカ陸軍経由で引き渡された。

  • B-37: B-34のエンジンをブラット・アンド・ホイットニーR-2600双発に変更したもの。武装観測機として550機が発注されたが、18機が製造されたのみで残りの発注はキャンセルとなった。

[マーチン]

  • B-33スーパー・マローダー: B-26マローダーに続いて設計された。爆撃機計画。ライトR-3350双発で計画されたXB-33は、試作機自体の発注がキャンセルされ、プラット・アンド・ホイットニーR-26004発としたXB-33Aに計画を変更、試作機2機と量産機40機が発注されたものの、やはり後にキャンセルとなり機体は作られなかった。

  • B-48: ジェネラル・エレクトリックJ35エンジン6発の中爆撃機で、1947年6月22日に初飛行した。試作機2機が作られたが、性能的に量産するほどのメリットがないとされ、試作のみに終った。

  • B-51: 近接支援機XA-45として開発されたもので、1949年10月28日に初飛行した。ジェネラル・エレクトリックJ47双発で、エンジンは胴体にパイロンを介したポッド式で装着された。量産発注は行われず、2機の試作のみに終っている。

[ノースアメリカン]

B-45トーネード: 1947年3月17日に試作機XB-45が初飛行したジット4発爆撃機。試作機はアリソンJ35(推力1,814kg)エンジンであったが、量産型ではジェネラル・エレクトリックJ49(推力2,360kg)になった。量産型B-45A97機と発展型B-45C10機が作られ、アメリカ初の実用ジェット爆撃機となった。

[ノースロップ]

  • B35: プラット・アンド・ホイットニーR-43604基をプッシャー式で配置した、全翼のプロペラ爆撃機。試作機XB-35は1946年6月25日に初飛行した。200機の量産機発注も検討されたが、キャンセルされ試作のみに終った。

  • B-49: XB-35の流れを受け継ぐ、全翼のジェット爆撃機。エンジンはアリソンJ35を8基装備し、1947年10月21日に試作機が初飛行した。全翼機は、航空機としての可能性は秘めていたものの、操縦が難しく、量産化はされなかった。


ボマー・ギャップ論争

多数の爆撃機を紹介したが、爆撃機が新しい戦略兵器である核兵器の運搬手段となり、抑止力として認識されたことが、爆撃機の存在意義を高めた。またメーカー側にしても、大型の爆撃機の開発に成功して制式採用されれば、作業量の多い仕事と大きな見返りが期待できたという、経済的な魅力があったことは事実である。

ただその反面で、採用を逃すとその被害は大きい。ハイリスク/ハイリターンといえよう。上記したメーカーの中でも、コンソリデーテッドやダグラスといった爆撃機が採用されなかった企業は、より業績の良かった企業に後に吸収合併されている。また、マーチンは、次第に航空機の開発からは手を引くようになった。

戦闘機の分野では、ジェット化~超音速化といった流れと、本格的な電子機器の装備などは、開発経験や企業規模が大きくものをいうようになり、どこの企業でも簡単に開発できるというものではなくなってきた。従って、戦闘機の開発・製造担当企業が自然に絞られることとなったのである。

こうして、終戦直後には軍用機が余剰化し、他方冷戦と技術進歩でより新しい航空機が短期間で多数必要となったものの、航空機産業は繁栄する企業と衰退する企業に大きく二分化されていく形となった。合併や淘汰により、一挙にアメリカの航空機メーカーは数を減らしたのである。


話を爆撃機に戻すと、B-52まで多数の爆撃機が開発されたのだが、採用されたものの多くは大型の爆撃機であった。その理由の一つは、ジェット機の初期の時代であったため、十分な能力を持つ中型爆撃機がまだ開発できなかったことにある。しかしそれ以上に、東西対立の激化により、相手(ソ連)の中枢に核爆弾を見舞う能力を有する爆撃機の開発が優先されたことも、大きな理由として存在する。

核兵器が戦略兵器として有効であると第二次世界大戦で実証され、アメリカは当時唯一の実用核兵器保有国としてその立場を確固たるものにはしたが、終戦からわずか4年後の1949年8月20日にソ連が初の核実験に成功し、核兵器のアメリカ独占体制は崩れた。さらにソ連は、1953年8月12日には乾式水爆の実験にも成功して、この分野ではアメリカを追い越した。

東西の両大国が核兵器を実用化させ、それを戦略兵器の中核に据えることとなると、その運搬手段としての爆撃機も開発にも拍車がかかり、特にアメリカからソ連を直接爆撃できる大型戦略爆撃機の必要性が高まった。それが、コンヴェアB-36の大量産につながったのである。

B-36の最初の量産型B-36Aは22機しか作られず、主として慣熟や訓練に使われた。1951年12月に戦闘用装備を完全装備したB-36Bがアメリカ空軍に引き渡されて、B-36の戦力化が開始された。そして382機のB-36が生産され、1958年5月に退役が完了するまで、戦略航空軍団の主力爆撃機の座に就いていた。

1950年代前半当時は、まだミサイル技術が確立されておらず、大陸間弾道弾(ICBM)の実用化まではもう少し待たねばならなかった。従って、戦略核攻撃力は爆撃機に依存する割合が高く、爆撃機の装備に大きな関心が払われていた。そうした中、まず1954年のメイディにソ連は4発と双発のジェット爆撃機を、翌1955年の航空ショーでさらに別の4発ターボプロップ爆撃機を登場させた。これらは後に、M-4“バイソン”、Tu-16“パジャー”、Tu-95“ベア”と呼ばれることになる機体であった。

登場の仕方も、数機の編隊がいくつも表われるという方法で、すでに多数が製造され配備が進んでいる印象を与えるものであった。後でわかったことだが、実際には同じ編隊が何度も繰り返し飛行したりしていて、実際にはまだ本格的な実用配備に至っていたのではなかった。しかし、戦略爆撃機での優位を確信していたアメリカ軍や議会にショックを与えることになった。

あるいは、国防総省や関係筋は、ソ連の手の内まで見越していたかも知れないが、多額の予算を獲得する宣伝材料には使うことはできた。そしてアメリカ国防総省は1955年5月に「ソ連の現在の航空兵力は、数的にアメリカを上回っているかも知れない」と発表、アメリカ議会や軍関係者の間で「ボマー・ギャップ」論争が巻き起こった。

ギャップは埋めて拮抗する勢力を持たなければならない、というのが当時の考え方の主流だったから、これはすぐに新たな大型ジェット戦略爆撃機の開発へとつながり、B-47の採用量産に至ったのである。B-47は、2,020機が装備された。第二次大戦中の爆撃機の生産機数に比べれば大した数には見えないかも知れないが、戦争を行っていない損失のない時期に、大型戦略爆撃機2,000機以上というのは、かなりの数だ。

空軍ではさらに戦略爆撃機の近代化を進め、この時期(1955年)にB-36の老朽化というキャンペーンも行った。確かにレシプロとジェット・エンジンの組み合わせという機体構成は、ジェット時代に入ったことを考えれば旧式に見えたかも知れないが、B-36の最終機は前年の1954年8月に引き渡されたばかりであった。しかし、後継となるB-52の開発も終了しており、B-36は退役を開始、B-52の装備が進められたのである。B-52は、774機が量産された。


巨人族のたそがれ

空軍では、さらにより新型の爆撃機の装備が計画され、多くの機体が開発され続けた。その中で特筆すべきものは、まずコンウェアB-58ハスラーである。無尾翼デルタの機体に、強力なジェネラル・エレクトリックJ79-GE-5(推力7,080kg)を4基装備したハスラーは、最大速度マッハ2.1という、史上初の超音速爆撃機であった。試作機は1956年11月11日に初飛行し、1959年12月に就役を始めた。

B-58は、いくつもの速度記録を樹立し、その高性能ぶりを示した。また航法爆撃装置も最新のものを使い、電子装備のコストは機体価格の40%を占めていたといわれる。しかし、高速性を追求したことで機体が小さく、燃料搭載量が少なかったので、航続性能が貧弱であった。また、電子機器も、高級なだけに整備が難しかった。さらに兵装を機外に搭載するというシステムで、こうした点は実用機としては大きなマイナスであった。このため生産機数は試作機を含めて99機で終り、1970年までに全機退役した。

もう一つ、実用化はされなかったが、ノースアメリカンXB-70ヴァルキリーも忘れてはならない。ヴァルキリーは、ソ連の上空を、極めて高い高度をマッハ3で飛行して、迎撃機を振り切って爆撃を行うという運用構想から開発されたものである。1964年9月21日に試作初号機が初飛行し、エンジンは推力14,060kgのジェネラル・エレクトリックYJ93-GE-3を6基装備した。


しかし、戦略核攻撃力の中核が爆撃機とされ、「ボマー・ギャップ」論争を起こしてまでその戦力の強化に力を入れていたアメリカ軍であったが、このころになると論争の焦点は全く変わっていた。

今度は、「ミサイル・ギャップ」が大問題になっていたのである。

1958年8月に、ソ連はICBMの実験に成功したと発表し、10月には初の人工衛星スプートニクを打ち上げた。正確に飛翔する弾道ミサイル技術は、新たな核兵器の運搬手段となる。もはや時代は、有人爆撃機から弾道ミサイルに変わったとされ、今度はアメリカ軍は、弾道ミサイルの開発に大きな力を入れるようになった。そしてICBM、中距離弾道弾(IRBM)、潜水艦発射弾道弾(SLBM)が開発されていくが、その影で有人爆撃機無用論が叫ばれるようになった。

戦略爆撃機に対する熱は急速に冷め、画期的な機体であったXB-70ヴァルキリーも、早々に時代に合わないとされて、試作機のみが作られて高速機研究の試験に使われるだけとなっていったのである。もちろん、有人爆撃機の研究も続けられはしたが、支援が少ないからそのテンポはなかなか上がらない

結局、紆余曲折があってB-1が開発されることになったのだが、ロックウェル社がその担当メーカーに決定したのは1970年6月で、B-52の就役開始から15年余り後のことだった。「ミサイル・ギャップ」論争が起きる以前では考えられない、時間の開きである。

このB-1にしても、超低空を高速で飛行して防空網をかいくぐって敵地を攻撃するという運用構想から開発されたのだが、戦略弾道弾と比べた時にその効果に疑問を持つ声も多かった。1974年12月23日に初号機が初飛行したものの、一時は計画がキャンセルされている。その後、巡航ミサイル母機を主体とするB-1Bランサーとして復活したが、装備機数はわずか100機とされた。
アメリカではさらに、ノースロップ社に研究契約が与えられてステルス爆撃機B-2スピリットが開発された。B-2は1989年7月17日に初号機が初飛行し、1993年12月に実用配備が開始されている。当初は133機の調達が計画されたが、その後削減が続き、現在では実働機数20機で計画が進められている。

第二次世界大戦でその地位を築き上げ、戦後は有効な核抑止力として注目された爆撃機は、もはやその影を薄くしている。戦後も一定の爆撃機戦力を有していたイギリスとフランスからも、ほとんど退役した。現在、きちんとした爆撃機戦力を備えているのは、アメリカ、ロシア、中国の3国だけになった。これは爆撃機の有効性への評価が低くなったことに加えて、戦闘攻撃機の能力が高まり、核兵器を含めて以前のジェット中型爆撃機並みの攻撃力を持つようになったことも一因している。

いずれにしても、爆撃機の衰退で、アメリカの軍用機産業は大きなビジネスチャンスを失ったことになる。巨額な開発費と、1機当たりの単価が高くなる大型爆撃機は、開発・製造する側にとっては失いしたくない機種であったはずだ。しかしそれも、昔日の夢となった。

第二次世界大戦が終った後もアメリカは、朝鮮戦争と爆撃機の装備軍用航空機の整備が続いたから、軍用機メーカーもその恩恵を受けた。しかし爆撃機を製造した企業で一番得をしたのは、結局は「ボマー・ギャップ」論争時に量産採用されたB-47とB-52を製造した、ボーイングだけだったといえよう。


'60年代の傑作機F-4

戦闘機に話を戻すと、1953年にマクドネル社が海軍のF3Hの後継となる艦載戦闘機の研究を始めた。F3Hは決して評判が良くなく、マクドネルの設計陣は、空軍向けに開発したF-101の機体仕様を使った設計を海軍に提案し、これが承認されて1954年にAH-1の名称で開発契約を得た。

AH-1は設計作業の段階で、空力的な研究から外形に変化も出たが、海軍の用兵思想の変更により、長距離高々度迎撃戦闘機として作られることとなった。このためレーダー火器管制システムには最新のウエスチングハウスAN/APQ-72を装備し、武装は機関砲をなくして空対空ミサイルに一本化された。さらに、半自動式の航法装置も備えることになり、エンジンも最新のジェネラル・エレクトリックJ79を装備することとなった。こうして完成したのがF4H-1で、後にF-4ファントムⅡとなった。

試作初号機は1958年5月28日に初飛行し、1961年2月に海軍部隊へ配備が開始された。1961年には空軍も本機をF-110として採用することを決め、1963年に初引き渡しを受けている(F-4C)。F-4ファントムⅡは、海軍海兵隊と空軍で採用されたこと、発展型や偵察型が作られたことまたイギリスやドイツ、日本などでも採用されたことなどから、5,195機という大量産が行われ、アメリカジェット戦闘機中最高の生産数を記録した。

ただこの背景には、ヴェトナム戦争があったことも事実である。ヴェトナム戦争時にファントムIIは、海軍空軍双方で最新鋭の主力戦闘機として投入され、生産に拍車がかかった。その任務は、制空戦闘や対地攻撃など、本機の多用途性を活かし多方面に渡った。空中戦では機関砲を固定装備していないことが格闘戦闘における一つの欠点とされた。

この時代には、ミサイル技術が進んだことで、空対空ミサイル万能神話が生まれており、ジェット戦闘機が従来のような格闘戦闘に入ることはないとされて、機関砲の装備が外されていた。しかし、実際にヴェトナム戦争で戦ってみると、ミサイルは百発百中ではなく、外れてしまえば互いに接近して格闘戦闘に入る。この現実が、ミサイル万能神話に幕を下ろした。空軍が採用したE型では20mmヴァルカン砲が固定装備されるようになった。

戦闘機には、以前と変わらず格闘戦闘における高い運動能力は必要だったし、パイロットもその技術を有していなければならない。ヴェトナム戦争がアメリカにもたらした、戦訓の一つである。

F-4ファントムIIの大成功により、マクドネルは戦闘機メーカーとして確固たる地位を築いた。その他の事業の成功もあって会社は成長1967年4月28日にはダグラスを合併の形で吸収し、マクドネル・ダグラス社となって大企業の仲間入りを果たした。


F-4ファントムⅡに続いて計画された艦隊防空戦闘機が、ダグラスF6D-1ミサイリアーだった。ミサイルが万能と信じられていた時代を反映するこの機体構想は、長射程のイーグルAAM(air-to-air missile)を6発装備して、艦隊周辺を長時間巡回しつつ、来襲する敵航空機を遠くで撃ち落とす、という構想から生まれた。機首は丸く、超音速飛行などはできないが、その分滞空時間を可能な限り長くすることが目的とされた。

このF6D-1には、1960年に試作機2機と生産機120機の発注も行われていたのだが、1961年に空軍との機種統一を図る方針が決定され、日の目を見なかった。そしてこの機種統一で指定されたのが、アメリカ空軍の次期戦術戦闘機(TFX)として開発された、可変後退翼を持つ戦闘爆撃機F-111であった。

F-111は、空軍のセンチュリー・シリーズで開発された、全戦闘爆撃機を置き換えることを目的としたTFX計画で採用されたもので、ジネラルダイナミクス社が開発、1964年12月21日に初号機が初飛行した。この可変翼戦闘爆撃機を、海軍の艦載戦闘機としても使用しようというのが、国防総省による機種統一計画で、海軍型F-111Bが開発された。

このF-111Bでは、艦載機の経験が豊富なグラマンが共同で作業に当たり、F6D-1と同様に長射程のAAMを装備するとともに、新開発の高性能レーダー火器管制システムを使って、複数目標を同時に処理することが考えられた。しかし、海軍は最初から機種統一には反対であり、しかも試験の結果F-111Bでは空母運用には重すぎるなどの不適正も明らかになり、この計画は中止された。


'70年代のスーパーファイター

F-111B計画が中止となったことから、海軍は独自の新戦闘機計画、VFXをスタートさせ、戦闘機メーカー5社の提案の中からグラマン社の案が選定されて、F-14トムキャットとして採用された。F-14は、可変後退式の主翼を持つ大型の双発機で、失敗作となったXF10F、ジェネラルダイナミクスと共同作業をしたF-111両機種の経験を生かして、このシステムを実用化した。

またレーダー火器管制システムにはヒューズ製のAN/AWG-9、そして長射程の空対空ミサイルAIM-54フェニックスを装備し、長距離での多目標同時処理能力を有した。こうした装備は、F6D-1ミサイリアー、F-111Bといったプログラムで開発が進められており、F-14に続合化するときにはすでにほとんどの問題がクリアとなっていた。

F-14の初号機は1970年12月21日に初飛行したが、このとき事故で失われ、1971年5月24日に試作2号機が初飛行して試験プログラムを開始した。アメリカ海軍へは1972年10月から引き渡しが始められ、F-4ファントムIIの後継として各戦闘飛行隊に配備された。そして現在も、海軍の主力艦隊防空戦闘機として使われている。

他方アメリカ空軍も、F-4ファントムⅡの後継戦闘機(FX)計画を1960年代後半に立てて、1969年にマクドネル・ダグラス社を開発担当者に選定した。こうして作られたのがF-15イーグルで、1972年7月12日に初号機が初飛行し、1976年1月から実働部隊への引き渡しが始められた。

F-15は、F-86以来の本格的な制空戦闘機であり、またF-4ファントムⅡの後継ということで、かなりの数の生産が期待された。実際にF-15は、当時のソ連の主力戦闘機を圧倒する能力を有していた。全天候の戦闘能力、強力な兵装、第一級の速度性能と旋回性能を兼ね備えたスーパー・ファイターであった。

しかし、こうした戦闘機は必然的に大型高級化し、機体価格も高くなる。さらに当時は世界的にインフレ傾向にあって、そのコストは年々上昇していく。そうなると、いかに能力が優れたものでもそれを多数装備することに対し、疑問の声が上がるのも必然といえよう。軍事費の増大傾向に対し、より安上がりで、しかもソ連に対抗できる能力を持つことが求められるようになっていった。

そこで出てきた考え方が、「ハイ・ローミックス」というもので、高級・高価な機体と、より安価で特徴のある機体を組み合わせよう、ということだ。その方が、数も多くそろえられて費用対効果に優れ、所要の防衛体制も維持できる。

この考え方は、現在まで通用する一つの見識であることは確かだが、その背景にはVFXやFX計画で敗れた戦闘機メーカーの危機感もあった。この両計画での敗北は、しばらくの間戦闘機の開発ができなくなることを意味し、生産の仕事もなくなる。そこで、何とか巻き返しを考え各方面に働きかけ、その活動が議会を動かすこととなった。そうした活動を熱心に繰り広げたのが、ジェネラル・ダイナミクスだった。

その結果、空軍は1972年1月に軽量戦闘機(LWF)の設計提案要求を出し、この計画は後に空戦戦闘機(Air Combat Fighter, ACF)へと変わって、ジェネラル・ダイナミクスがYF-16、ノースロップがYF-17で採用を競い、1975年1月にYF-16が勝利を収めた。

YF-16は、1974年2月2日に初号機が初飛行した単座・単発の軽戦闘機で、空気取入れ口を胴体下に配置するというユニークな形状や、ブレンデッドウイング・ボディの滑らかな機体、フライ・バイ・ワイヤ操縦装置をはじめとする最新の技術を駆使し、極めて高い運動性を有した。

量産型F-16のアメリカ空軍の部隊配備は1979年1月に開始され、実用化してみるとパワーの大きなエンジンと小型軽量の機体の組み合わせにより、対地攻撃機としても高い潜在能力があることが認知された。その結果、当初はF-15を補佐する空中戦専用の小型戦闘機と位置づけられていたF-16は、F-4に変わる戦闘爆撃機としても装備されることとなり、F-15との立場を逆転した。さらにその後、レーダーのアップグレードによる中射程空対空ミサイルの携行能力や、防空専用型なども開発され、現在ではアメリカ空軍での装備計画機数は2,000機を超えている。

またその多用途性と優れた戦闘能力、そして小型機のため比較的安価な価格により、世界16か国で採用され、総受注機数は4,000機近くに達している。F-4ファントムIIが作った、5,195機の生産記録を追い抜くことも夢ではない。

ただ、アメリカ空軍がF-111の後継機として計画した複合任務戦闘機(Dual Roll Fighter, DRF)では、主翼をクランクドアロー翼と呼ぶ大型のものにするなどしたF-16XLが提案されたが、F-15の発達型F-15Eストライク・イーグルに敗れている。

空軍のACF計画に敗れたノースロップも、1975年5月には、海軍の攻撃戦闘機(naval strike fighter, NSF)計画YF-17が採用された。ただ1974年6月9日に初飛行したYF-17は、空軍向けの設計となっていたため、降着装置をはじめとして、各所を艦載運用に適した設計に変更する必要があった。

ノースロップはこれまで、艦載機の開発・製造経験がなかったため、その作業は艦載機の経験豊かなマクドネル・ダグラスが協力することとなった。しかし、両社の生産能力や納入実績などの点から、海軍向けF/A-18はマクドネル・ダグラスが主契約社となり、ノースロップは陸上発進型の注文があった場合にF-18Lの主契約社となる取り決めが交わされた。

その後F/A-18は諸外国の空軍などへも販売されたが、いずれもアメリカ海軍仕様のものが売り込まれ、F-18Lは実機が作られることなく終っている。従ってYF-17は、F/A-18として生まれ変わり、その生産もマクドネル・ダグラスに移行し、ノースロップは原型の開発だけで生み出した戦闘機を手放すこととなった。

もっともノースロップが、戦闘機計画で全く仕事がなかったかというと、そうではない。超音速ジェット戦闘機の時代に入ると、そうしまた戦闘機を独力で開発できる国は、世界中でもごくわずかに限られるようになった。従ってアメリカは、世界各地の同盟国に戦闘機を供給する役割も担うようになり、安価で使いやすく高性能な機体を作り出さなければならなかった。

こうして開発された輸出用戦闘機のトップバッターが、ノースロップF-5Aフリーダムファイターであった。F-5Aは軽量・双発の小型戦闘機で、その試作機は1959年7月30日に初飛行し、生産型F-5A~Dは15か国以上に引き渡され、1,000機以上が作られている。

さらに、能力を高めるソ連製戦闘機に対抗するために、F-5も能力向上が必要となり、発展型のF-5E/FタイガーIIが開発され、1972年8月11日に初号機が初飛行している。F-5E/Fも前作機同様、主として同盟国への引き渡しに使われ、20か国以上の空軍で1,300機以上が使用された。フリーダムファイターおよびタイガーIIのアメリカ空軍でこの使用は、ごくわずかのものであったが、ノースロップにとっては、戦闘機のビッグビジネスであった。

また1970年代末には、台湾がF-16の販売を要求したものの、中国との関係を考慮してアメリカはこれを拒否、代わりに新しい輸出用戦闘機、中間国際戦闘機(IIF)計画を立てて、ジェネラルダイナミックスF-16のエンジンをJ79にするF-16/79と、ノースロップF-20タイガシャークの2機種をIIF用戦闘機とすることとした。F-20は、F-5Eの機体をさらに洗練させ、エンジンをF/A-18が使用しているF404単発とする機体で、1982年8月30日に初号機が初飛行した。

しかし、IIF誕生のきっかけとなった台湾がいずれの機体案も拒否し、その他の国も、通常型F-16の購入に進んだため、F-20は採用のないままプログラムに幕を閉じた。F/A-18を失い、F-20で注文を得られなかったノースロップは、これで戦闘機の開発も終りとなり、その後は爆撃機B-2の開発を行っただけで、あとはF/A-18やボーイング747この機体パーツの製作、電子システムの機体への統合化(J-STARSなど)が主たる仕事となっていった。


ロッキードの台頭

第二次世界大戦からジェットの黎明期にかけて主力企業の一つだったロッキードは、このころ戦闘機の開発からは外れていた。F-104を生み出して以降、戦闘機からしばらく離れている。しかし、軍用機の受注・開発が全くなかったのではなく、むしろ他機種で重要なプログラムを相次いで受注し、繁栄を続けていた。

その一つは、アメリカ軍の極秘プログラムの類で、そうした機体を開発するためのチーム、ケリー・ジョンソン率いる『スカンク・ワークス』はつとに有名である。ここではチームが生み出した機体を挙げるだけに止めるが、スパイ機として悪名の高い高々度偵察機U-2、超高々度をマッハ3で飛行する戦略偵察機SR-71の2機種は、ミステリアレスな存在であるとともに、常に関心を集めていた。

またスカンク・ワークスでは、レーダーで捉えられにくいステルス技術の研究も進められ、『ハブ・ブルー』の名称で研究を開始し、F-117ステルス戦闘機として完成させている。F-117は、生産機数がわずか59機と少ないが、ステルス性を追求した最初の完成作であり、湾岸戦争では重要目標攻撃にその威力を発揮した。

F-117は、1981年6月18日に全規模開発機が初飛行し、1982年6月にはアメリカ空軍で配備が始められている。しかしその存在は、様々に噂はされていたものの、1988年11月に公表されるまで、公には隠し続けられていた。アメリカ空軍と、メーカーであるロッキードの秘密保持態勢がいかにしっかりしているかを証明するエピソードである。

また輸送機の分野では、C-130ハーキュリーズを生み出して、軍事輸送の基礎システムを作り上げた。C-130は、1954年8月23日の初飛行以来、改良を続けて長期に渡って生産が続けられ、今日でも大幅に改良を盛り込んだC-130J/J-30の生産が行われているという、息の長い機体である。

1963年12月17日には、ジェット4発の戦略輸送機C-141スターリフターを初飛行させ、さらに1965年10月には大型輸送機(CX-HSL)計画でボーイングを破って勝利し、巨人輸送機C-5ギャラクシーを開発・実用化させた。C-5は1968年6月30日に初号機が初飛行し、1973年5月に発注された81機の納入を完了した。これにより、アメリカ空軍の主力輸送機は、すべてロッキード製で占められたことになった。なお敗れたボーイングは、その機体案をいかして民間旅客機747を開発、世界唯一の大型旅客機としてベストセラーになっているのは、よく知られている通りである。

対潜哨戒機の分野でも、P2Vネプチューン、それに続くP-3Cオライオンの2機種で、海軍の固定翼対潜哨戒機で主力の座を保っている。さらにはジェット双発の艦載用小型対潜哨戒機、S-3ヴァイキングを生み出し、この分野でもほぼ独占状態にある。主力の戦闘用航空機ではないが、ロッキードは着実に軍用機の採用で勝利を獲得し、巨大軍用航空機メーカーにのし上がっていったのである。



第5章 ヘリコプター

もう一つの航空機

第二次世界大戦以降、新しいタイプの航空機として本格的に実用化され、今日では欠くことのできない存在となったヘリコプター。この章では、アメリカの航空産業におけるヘリコプターの流れを、やはり代表的な機種を取り上げつつ、見ていくことにする。

このヘリコプターの起源は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1942~1915)が考案した空気ネジ(ヘリックス)にさかのぼる。この空気ネジは、螺旋状の帆を支柱に付けて高速で回転させれば空中を上っていくだろう、という発想のものだった。これをより具体化して、回転翼によってものを空中に持ち上げるという発想は、ロシア人のミハイル・ロモノーソフ(1711~1765)が初めて実験した。

そして、回転翼を使った乗り物が初めて人を乗せて飛んだのは意外に早く、ライト兄弟の飛行からわずかに4年後の1907年8月24日のとであった。フランス人のルイ・プレゲーが作った『ジャイロプレーン1号』が地面を離れ、地上約60cmで2分間滞空したと記録されてる。ただ、そこからヘリコプターが実用化するまでにはまだ時間がかかった。

ヘリコプターは、ローターと呼ぶ回転翼により揚力を得て、ものを浮き上がらせる。理屈でいうと、プロペラで得られる推進力効果を、回転面を水平にすることで下向きの力とし、それで浮き上がらせるということである。しかし、ローターで得られる力だけでものを持ち上広げるというのは、プロペラの推進力の何倍ものパワーが必要となる。さらにその力(トルク力)は、回転の反作用でローターの下の機体を、ローターと反対方向に回してしまう。機体が回らないように、これをうち消す機構も必要となる。

ローターのトルクをうち消すには、機体にそのための回転翼を別途に付ければよい。そのために考案されたのが、一つはテイル・ローターをつけて機体の回転モーメントを押しやる(あるいは押し込む)もので、多くのヘリコプターがこの方式を採っている。もう一つは、ローターを二つにする方法で、これには双ローター方式と同軸反転方式がある。

テイル・ローター方式は、機構が簡単で、また機体をコンパクトにすることが可能である。ただテイル・ローターはパイロットから見えないところで回転し、また地上でも回転しているローターは見えにくいことから、地上近くで障害物にぶつけてしまったり、人に当たったりという危険性を多くはらんでいる。これを解消するために、フェネストロンと呼ばれる、垂直安定板に内蔵させたテイルローターや、エンジンの排気噴流を利用するノーター方式などが近年開発された。

ティル・ローター方式以外に、二つ目の回転翼を付けてトルクをうち消す双ローター方式がある。この双ローター方式のうちの一つは同軸反転方式で、ローターの回転軸を二重にして、ローターを上下に配置し、それぞれの回転方向を反対にするというもの。二つの回転翼を備えた機体としては大型化を避けられるが、機構が複雑になり整備性が悪くなることと、全高が高くなってしまうという欠点を持っている。

もう一つの双ローター方式は、ローターを2か所(前後または左右)に分けるため、機体が大型化する。機体が大きくなれば必要とするエンジン・パワーも大きくなるし、十分な揚力が得られなければ、図体だけでかくて何も積めない機体ができてしまう。また機体が大きいということは、それだけ運用面でも制約が出る。

これをアレンジして、二つのローターを接近させ、回転中にうまく互いのローターがぶつからないようにしたのが、インターメッシュ方式と呼ばれるものだ。インターメッシュ方式ならば、機体の大型化は避けられる。しかし、互いのローターがぶつからないようにするために、ローター・ブレードの枚数を多くすることができず、逆に機体規模に制約が出てしまうという問題がある。

今日では、上記した各方式のいずれもが実用化され、各種のヘリコプターに使われている。それぞれに長所と短所があるが、ヘリコプターの用途に応じて使い分けることで、良い面をできるだけ引きだそうとしている。


先行したヨーロッパ

ヘリコプターに関する研究は、ヨーロッパを中心に続けられた。各国でいくつかの研究機が作られたが、ヘリコプターを一気に実用化に近づけたのは、ドイツであった。ドイツ人のハインリッヒ・カール・フォッケ博士は1932年に、シエルバ・オートジャイロをライセンス生産した経験を活かすことを出発点として、ヘリコプターの試作や試験を行うことを目的に、フォッケ・アクゲリス社を設立、最初の設計機、Fa61を開発した。

Fa61は、シエルバC.19オートジャイロの影響を強く残していたが、並列に配置された双ローターをもつヘリコプターであった。Fa61は、1936年6月28日に28秒間の初飛行を行った。そして翌年5月には、初のオートーローテーション着陸に成功している。開発を終えたFa61は回転翼機による各種のFAI(Federation Aeronautique Internationale)世界記録を樹立した。この記録は戦争勃発まで破られず、機体が極めて成功作であったことを実証した。

フォッケ・アクゲリスでは、続いて旅客輸送用の6人乗りヘリコプターFa226をルフトハンザ向けに開発し、1939年末に試作初号機を完成させたが、第二次世界大戦の勃発により軍用用途向けヘリコプターの開発が指示され、民間機としては実用化されなかった。このFa226を、軍の輸送や救難、偵察、潜水艦索敵など、様々な用途に使うこととしたのがFa223で、試験の後100機の量産発注がなされたが、工場が連合軍により爆撃され、実際に飛行できた機体は10機程度といわれている。ただ、ドイツが敗れた後にアメリカなどが機体を捕獲して飛行試験を行い、試作機も含めてこれらの機体の実用性が高かったことが証明されている。さらにその後開発された小型のFa330は、潜水艦Uボートに搭載する観測任務用ヘリコプターで、この機は1942年中期に実戦配備されている


アメリカでは、ロシア革命後ソ連から亡命したイゴール・シコルスキーがヘリコプターの開発に情熱を注ぎ、VS-300と呼ぶ自作ヘリコプターを1939年に完成させ、9月14日に初飛行(といっても地面に係留してだが)させた。そして1940年5月13日には、15分の自由飛行にも成功している。このVS-300がアメリカ最初の実用ヘリコプターの原型であり、アメリカ陸軍もヘリコプターに注目するようになって、1941年に実験用としてXR-4を発注した。

XR-4は、初号機が1942年1月14日に初飛行した。機体は、VS-300よりも2倍の出力を持つ、175馬力のウォーナーR-500-3エンジンを装備し、大きさもVS-300の2倍となっていた。続いて前量産型YR-4Bが27機、量産型R-4Bが100機発注され、主として訓練や運用試験に使われた。1943年には、艦船からの運用トライアルが行われ、その適性を実証したのだが、その後は訓練や観測および救難の運用試験以外にはほとんど使われなかった。

R4をさらに発展させたのがR-6である。エンジンがさらに強力なフランクリン(245馬力)となり、1943年10月15日に初飛行し、アメリカ陸軍が観測用として220機を発注している。このR-4とR-6により、アメリカでも第二次大戦中にヘリコプターを実用化させはしたが、まだ機体の能力は低く、その用途に限りがあったため、本格的な実用段階にあったとはいえなかった。

ただ、ヘリコプターが有している可能性は十分に証明され、戦後にさらに発展していくこととなった。その端緒となったのが、ベルが開発した小型ヘリコプター、ベル47の民間型式証明の取得である。1946年3月8日にアメリカ民間航空局はこのベル社のヘリコプターに、NC-1H型式証明を交付し、ヘリコプターの商業飛行での使用が認められた。

ベル社は、第二次世界大戦において連合国で多数使われたP-39エアラコプラ戦闘機や、アメリカ初のジェット戦闘機P-59を製造した会社であり、またX-1などの研究機で有名なメーカーである。そのベルは1940年代初めには、ヘリコプターの研究も開始していた。

この研究は、ベルの技術者、アーサー・ヤングが主体となって行っていたもので、彼は2枚のプレードに安定棒を付けた、シーソー・ローターと呼ぶシステムを発明し、以後これがベル・ヘリコプターの基本にもなった。最初に完成させたのがモデル30で、1940年中期に初飛行した。このモデル30は、3機が作られてその後2年余りに渡って開発試験を続行、その発展型としてモデル47を作り、戦後の1945年12月8日に初飛行させた。

ベルの実用ヘリコプターの完成は、シコルスキー社のものよりは遅かったが、モデル47が民間型式証明を取得したことで大規模な量産が開始され、その後も発展型が作られて、生産は1973年まで続いた。総生産機数は約5,000機に達し、民間だけでなく軍でも多くの国で多数が使用される成功作となった。


ヘリコプターの形式

シコルスキー、ベルともに、ヘリコプターの形式としては、ティルローターを持つ一般的なトルク打ち消し方式を採用していた。これに対して、ローターを二つつけて、それぞれが相反するトルク力をうち消す方式に挑戦したのが、パイアセッキ社とカマン社であった。

パイアセッキは、1941年4月11日に、アメリカ製としては2機種目となるヘリコプター、PV-2を初飛行させた。しかしこの機体は小型でテイルローターを使った通常形式のものであった。

PV-2の飛行に成功するとパイアセッキでは、双ローター方式のち、ローターを前後に並べたタンデム・ローター方式の研究を本格化させた。その最大の利点は、機体の大型化が可能となることで、その潜在性からアメリカ海軍は、1944年2月1日に、開発および試作契約をパイアセッキに与えた。こうして作られたのがPV-3『フライング・バナナ』で、1945年4月に初飛行し、まず輸送試験用にXHRP-1として10機が発注された。1947年8月15日には、量産型HRP-1が完成し、海軍海兵隊で使用が始められている。

HRP-1は、600馬力のプラット・アンド・ホイットニーR-1340-1単発で、細長い胴体には乗客8名または担架6床などを収容できた。このHRP-1の設計をさらに洗練させ、エンジンを1,150馬力のライトR1820-3単発としたのがPV-17で、1952年4月11日に初飛行し、海軍でHRP-2、空軍でH-21ワークホースとして採用されている

H-21は、さらにエンジンを同じタイプで1,425馬力のパワーアップ型へと変更した発展型H-21Bが作られた。このH-21Bは、機内に兵員20名を乗せることができ、またその陸軍型H-21Cショウニーは、1,814kgの重量物を機外に吊り下げて飛行することを可能にした。こうしてパイアセッキが開発したタンデム・ローター方式は、本格的な大型輸送ヘリコプターとして完成され、その伝統は、オーナーのパイアセッキがパイアセッキ・ヘリコプター社を手放した後も、ヴァートル社、ボーイング社へと受け継がれている。


戦後の1945年12月に設立されたカマンは、最初からインターメッシュ方式による双ローター・ヘリコプターを開発するために作られた会社である。胴体の左右に支柱を介して二つのローターを装備する双ローター方式は、フォッケ・アクゲリスですでに開発されていたがカマンの方式は相互に反転する二つのローターの回転面の一部を重ねある方式を採った。これがインターメッシュ方式で、一部でローターが重なっているため、ローターを含めた全幅を小さくできる。もちろん双ローター方式は、タンデム・ローター方式と同様に、テイル・ローターは要らない。

このカマンの最初の作品がK125で、1947年1月15日に初飛行し、1952年に試験用としてアメリカ海軍に引き渡されている。ただこの機体は試験のみに終り、インターメッシュ方式を採用したカマンのヘリコプターで本格的な量産機となったのは、1956年に初飛行したモデルK600であった。このK600は、空軍にH-43ハスキー救難ヘリコプターとして、海軍ではHUK-1(後にUH-43C)汎用機として、さらに海兵隊でHOK-1(後にOH-43D)観測ヘリコプターとして、計400機近くが生産された。


朝鮮戦争で活躍

こうして、軍用機としても次第に実用性を増していったヘリコプターは、朝鮮戦争で初めて本格的な戦争を体験することとなった。当初は、観測などの任務だけに使われていたヘリコプターだったが、次第にどこにでも着陸でき、飛行場も必要とせず、戦場の目的地に直接飛行できるという能力が評価されるようになり、より多くの任務に使われることとなった。

例えばベル47の軍用型OH-13は、戦場からの兵隊の撤退に使われ、多くの機体がピストン輸送で兵隊の戦場からの離脱を可能にした。また1951年には、シコルスキーH-19チックソー*は、海兵隊員を険しい山岳地の戦場に送り込んだ。H-19には10名の武装兵員が搭乗し、このほかに水や糧食、その他補給物資も空輸している。指揮官の戦場視察でも、それまでは軽飛行機で行われていたが、ヘリコプターの方がより有効とされ、多用されるようになっていった。

(1949年11月7日に初飛行した単発の輸送ヘリコプターS-55が原型)

さらに、特に兵士達の間で最も感銘を深めたのが、負傷兵の後送であった。ヘリコプターの柔軟な運用特性により、直接戦場から負傷兵を後方に、しかも迅速に送ることが可能となり、戦死者の数を大きく減らしたといわれている。また撃墜された航空機パイロットの救出などにも、ヘリコプターがその特徴を活かして活躍した。

こうしてヘリコプターは、戦争でも有効性が証明されたが、さらに性能向上させる必要があった。それを実現したのが、タービン・ヘリコプターの誕生である。ガスタービンエンジンを利用して軸を回す、ターボシャフトエンジンの実用化によって、ヘリコプターもタービン化(ジェットヘリ化)の時代を迎えた。

こうしたエンジンの研究は、フランスで進められていて、1955年3月12日に、世界初の実用タービン・ヘリコプターとなったシュド・アルーエトⅡが初飛行している。量産化されなかった機体では、1953年1月2日に、シュド・ジンも初飛行している。

この頃アメリカでもシコルスキー社が、アメリカ陸軍との契約に基づいて、タービン・ヘリコプターの研究を開始している。そしてS-52小型機にフランス製のチュルボメカ・アルツースト(400shp)を付けたYH-18Bが1953年7月24日に初飛行した。さらにエンジンをコンチネンタルT51(400shp)としたXH-39へと発展し、1954年6月1日に初飛行して、8月26日には251.067km/hという速度記録を10月17日には7,474mという高度記録を、それぞれ樹立している。しかしこのXH-39までは、量産装備は行われなかった。

アメリカ初の実用タービンヘリコプターとなったのがベルXH-40であった。モデル47/H-13で大成功を収めたベル社の次のチャレンジがタービン機であり、1955年に陸軍主催の開発競争で開発者に選定され、その初号機は1956年10月20日に初飛行した。試作機に続き、6機の評価用YH-40、さらに9機の前量産型UH-1が作られた後、最初量産型UH-1Aの生産が始まった。

UH-1Aは、770shpのライカミングT53-L-1Aエンジンを装備し、広いキャビンとフェアリングで覆われたテイルブームといった、以後のヘリコプターの標準を作り上げた機体といえる。このUH-1シリーズは、その後も大型化や双発化で発展を続け、様々なバリエーションを生み出し、現在でも生産が続けられている。

ヘリコプターの大型・大量輸送化の動きでは、1952年10月23日にヒューズ社が、XH-17巨人ヘリコプターを初飛行させた。胴体左右にジェネラル・エレクトリックJ35ターボジェットを装備し、そこで作った圧縮空気をブレード先端から噴出させてローターを回転させる方式を採用、吊り下げ方式で最大12トンを持ち上げられるという機体だったが、実用化はされなかった。

同じ頃、シコルスキーではレシプロの侵攻輸送ヘリコプターS-56を開発し、1953年12月18日に試作機を初飛行させた。S-56は海兵隊向けの大型機で、HR2S-1(後にCH-37C)として実用化され、陸軍でもCH-37A/Bを装備した。直径22mもある大型の主ローターを持ち、機内には36名の兵員を搭載できた。

このS-56の駆動系統を利用し、胴体は前部のコクピットだけを残して中央部を細い骨組みだけにして、そこに貨物類を吊り下げられるようにしたのがS-60で初のクレーン・ヘリコプターとなった。S-60は、1959年3月25日に初飛行し、クレーン方式の試験やデモンストレーションに使われて、この概念を実証した。このS-60のエンジンをタービンにしたのがS-64/H-54で、プラット・アンド・ホイットニーT73-P-1(4,000shp)を双発装備して、1962年5月9日に初飛行した。S-60で開発されたクレーン・ヘリコプター技術はこのH-54で開花し、最大トンのペイロードを有した。またくりぬかれた胴体中央に専用のコンテナを取り付ければ、最大で90名の兵員の輸送も行えた。


転機になったヴェトナム戦争

アメリカのヘリコプターが、再び戦争を経験することになったのが、ヴェトナム戦争であった。アメリカがヴェトナムに軍事介入を始めて間もない1961年12月には、初の「ヘリボーン」作戦が行われている。「ヘリボーン」とは、ヘリコプターと空挺(エアボーン)の合成語で、前線への兵隊の展開を、パラシュート降下ではなく、ヘリコプターによる空輸で行うというものだ。こうした用法は、ベトナム戦争以前から考えられていたし、使用もされてはいたが、ベトナム戦争で多用され、またその用法を確立したのである。

UH-1クラスのヘリコプターならば、1個分隊の歩兵を搭載できるか分隊単位での充足や展開が可能になった。また前線の陣地に設営するヘリコプター発着場の面積も大きくなくて済むので、それを作り上げることも容易だ。ヘリコプターの垂直離着陸能力を活用することで、必要なところに正確に運び込むということができるようになったのである。

ベトナム戦争では、ヘリボーン作戦が多用されたが、喪失機数も多く、1961年から1971年の間に、4,500機以上を失っている。これは、敵この待ち伏せなどによるものが多いが、ヘリボーンは地上戦闘で雌雄が決していないところに増援部隊を送り込むことなどが主目的だから、こうした危険は常につきまとう。またヘリボーンで展開した歩兵部隊も降機するとただの歩兵となるから、ゲリラの待ち伏せなどには弱いという問題点もある。

こうしたヘリボーン作戦の欠点を補うためには、事前に作戦地域を掃討して歩兵の展開場所を確保しておく必要があった。しかし、ジャングルなどでのごく限定された地域の攻撃には、固定翼機は向かない。そこで考案されたのが、ヘリコプターに地上制圧用の武装を装備し、航空火力として活用することである。今日では確固たる地位を築いた武装ヘリコプターもまた、ベトナム戦争で誕生したのであった。

こうした用途に最初に使われたのはベルUH-1で擲弾筒を装備するなどして使用していたが、性能面なども含めて十分な効果を上げることはできなかった。もちろんアメリカでは、後述するように航空火力専用のヘリコプターの研究・開発に着手していたが、その実用化までのつなぎとなる機体が早急に必要となり、既存機を改修して武装へリコプターを作ることを、ヘリコプター・メーカー各社に求めた。その結果、ベルが示した、UH-1B/Cの胴体を完全に再設計してタンデム複座とする、モデル209案が採用された。この最初の量産型がAH-1Gで、1967年6月に陸軍への引き渡しが始められ、直ちにベトナム戦争に投入されている。またAH-1は、海兵隊でも採用され、海兵隊は洋上飛行時などでエンジンが停止した場合を考え、安全性の面から双発型とした。

アメリカ陸軍では、専用の武装ヘリコプターの開発を、発達型空中火力システム(Advanced Aerial Fire Support System, AAFS)計画とし、1964年8月に各社に提案要綱を出した。そして1965年11月1日にロッキードAH-56シャイアンが選ばれて、10機の試作契約が与えられた。AH-56は、1967年9月に初号機が初飛行し、375機の調達が計画された。強力なジェネラル・エレクトリックT64-GE-16(3,465shp)単発による400km/hを超す高速性能と、優れまた低空飛行能力で敵の防御を突破し、近接航空支援を行うという構想であった。

しかし、ソ連がSA-7携帯式地対空ミサイルを開発・実用化したことから、高速で低空を突っ切るという飛行の危険度が増し、さらには飛行中に事故も起こしたこと、費用対効果で疑問が出たことなどから、AH-56の装備計画はキャンセルされた。そしてアメリカ陸軍は、AAFSに代わる新しい発達型攻撃ヘリコプター(AAH)計画へと方針を変えた。シャイアンは、ロッキード社が開発した唯一のヘリコプターであったが、そのキャンセルにより、ロッキードは再びヘリコプターに手を染めることはなかった。

AAFSのキャンセルにより、武装ヘリコプターは、しばらくはベルAH-1一本で装備が進められることになった。UH-1/AH-1シリーズによりベルは、アメリカのヘリコプター・メーカーの王者となった。UH-1/AH-1シリーズが大量に生産されたのは、その高い実用性が西側各国にも認められて、多くの国が標準輸送ヘリコプターとして装備したことによるが、もう一つ、ベトナム戦争の影響もある。特に、ベトナム戦争当時に主力の座についていたUH-1は、その多くが戦争に投入され、輸送や火力支援に活躍したが、その一方で損失も多かった。その補充分の生産が行われたことも、本機の量産機数を増やした一因となった。

ベルは、ベトナム戦争にアメリカが介入した当時、ヘリコプターでは成功を収めていたものの、以前からの固定翼機の契約はなくなり、必ずしも経営状態が安定した状態にあったとは言えなかった。オリバ・ストーン監督の映画「JFK」では、ケネディ大統領暗殺の背景には、産軍複合体の陰謀があり、その一つとしてベル・ヘリコプターも取り上げられていた。映画の内容の真偽は別にしても、ベトナム戦争によってUH-1が大きな注文を集め、ベルが危機を乗り切ったことは確かだ。


海軍のヘリコプター

海軍でも、ヘリコプターの用途は広がった。元々ヘリコプターが最初に軍で実用化されたとき、その一つの用途は艦船から発進しての潜水艦探知(目での発見)であったから、この用途でのヘリコプターの歴史は長いのである。

ヘリコプターによる近代的な対潜作戦(ASW)を確立したのは、シコルスキーのS-58であった。1954年3月8日に試作機が初飛行したS-58は、アメリカ海軍初の対潜ヘリコプターHSS-1として実用化された。HSS-1には、ディッピングソナーや魚雷、さらには核爆雷などが搭載でき、一通りの対潜作戦機材が搭載されていた。

これに続いたのがS-61で、水密艇体型の胴体を持ち、またキャビンが大型化したことでより多くの対潜作戦機材を搭載できた。S-61はHSS-2シーキングとして実用化されて、後にSH-3に名称が変更、西側の多くに国で対潜ヘリコプターとして装備された。日本でもHSS-2/-2A/-2Bを装備し、三菱重工でライセンス生産している。そして本機によりシコルスキーは、対潜ヘリコプターの中核メーカーとなり、唯一カマンSH-2シースプライト軽空中多目的システム(Light Airborne Multi-Purpose System, LAMPS)として採用された以外は、この分野を独占している。

話は前後してしまうが、先に対潜ヘリコプターの流れを今日まで配してしまうと、シーキングの後継にはH-60ブラックホークから派生した、シコルスキーSH-60Fオーシャンホークの装備が現在進められている。シーキングは、1機でASWと艦載救難ヘリコプターの役割を果たしていたが、H-60の装備に伴い、ASWはSH-60Fが、救難はHH-60Hレスキューホークが行うこととなり、同系列ではあるが2機種が配備されている。

またLAMPSの機種更新計画であったLAMPSMkⅢでは、SH-60Bシーホークが採用され、シースプライトに代わって配備が行なわれている。LAMPSは、駆逐艦やフリゲート艦などに配備され、艦隊の外側周辺の対潜哨戒を行うためのヘリコプターである。

なお最初のLAMPSの開発契約者となったカマンが作ったH-2は、1959年7月2日に初飛行しているが、同社独自のインターメッシュ方式ではなく、テイル・ローターを持つ通常形式のヘリコプターであった。これは、フリゲート艦などの格納庫に収容することを考えると、インターメッシュ方式は不向きだったためだ。ここでカマンは、一時インターメッシュ方式を廃棄したが、その後民間向けの物資輸送用へリコプターK-Maxで復活され、現在量産に着手している。

ヘリコプターの難点の一つは、航続時間が短いことだが、艦載の対潜ヘリコプターの場合は常に艦隊と行動をともにしているので、艦隊周辺海域の監視では問題とはならない。さらにASW機材の軽量・小型化で、その能力は近年ますます向上している。

海洋を活動範囲とするヘリコプターのもう一つの用途に、機雷掃海がある。機雷掃海には、艦船を使う方法とヘリコプターによる方法があり、実際にはヘリコプターで掃海作業を実施している国は少数である。アメリカはもちろんだが、日本もその数少ない国の一つだ。ヘリコプターによる機雷掃海の最大の利点は、掃海具を空中から曳航して活動するため、仮に機雷が掃海具に反応して爆発しても、機体には被害が及ばない点にある。また艦船に比べれば速度が速く行動範囲が広いので、短時間で広い海域での活動も可能である

機雷掃海には、アメリカではH-3の派生型RH-3が、日本ではヴァートル社のV-107(川崎重工製)が使われていたが、今日ではシコルスキーが開発した大型3発機、MH-53Eが使われている。H-53Eは、双発の大型輸送ヘリコプターH-53スタリオンから発展したもので、1974年3月1日に試作機が初飛行した。エンジンをH-53の双発から3発にしたことで、輸送型CH-53Eは機内ならば13,607kg、機外つり下げならば14,515kgの最大ペイロード能力を有する。こうした大搭載量を活用して、機雷掃海型も開発されたのである。


現在の制式ヘリコプター

ヴェトナム戦争以降、アメリカのヘリコプターで充実化が図られたのは、武装ヘリコプターの分野と汎用ヘリコプターの分野であった。武装ヘリコプターについては、前記したようにAAFSに代わってAAH計画が立てられた。そして汎用機については、UH-1シリーズの後継機を目指す多用途戦術輸送機(UTTAS)計画が進められることとなった。

AAHは、より強力な武装と最新のセンサー類を備えた攻撃ヘリコプターを目指したもので、1973年6月22日にベル(YAH-63)とヒューズ(YAH-64)に試作開発契約が与えられ、2機による飛行審査が行われた。その結果1976年12月にヒューズ案の採用が決まり、AH-64アパッチとして量産装備がされることとなった。

YAH-64の初号機は1975年9月30日に初飛行し、量産型の引き渡しは1984年1月26日に始められた。アメリカ陸軍の調達機数は821機で、1996年4月30日に最終機が納入されているが、現在は発展型のAH-64Dロングボウ・アパッチへの改修作業が進められている。AH-64Dは、主ローター・マスト上にロングボウ火器管制レーダーを装備することで、全天候での対戦車/対地攻撃能力を獲得し、またスティンガーなどのAAMを使っての高い空中戦能力も得るというもの。1998年中に初度運用能力を獲得する計画で、現在開発作業が進められている。

武装ヘリコプターの活用範囲が広がったことと、地上脅威の能力が高まったことで、武装ヘリコプターと共同で作戦を行う素敵ヘリコプターも、今日では重要な機種となっている。元々はこうした用途には、ヒューズOH-6などの小型機が使われていたが、今日では素敵ヘリコプターも高度なセンサーや、ある程度の自己防御能力を備える必要があるとされるようになった。

アメリカ陸軍ではこのため、陸軍ヘリコプター改善計画(AHIP)を立て、ベル206ジェットレンジャーの軍用型OH-58カイオワの近代化を開始し、OH-58Dカイオワ・ウォリアが作られた。OH-58Dの最大の特徴は、主ローター・マスト頂部にセンサーシステムを収容した、球形のハウジングがあることだ。これはマスト装着照準装置(Mast Mounted Sight, MMS)と呼ばれるもので、中には低光量テレビカメラ、前方監視赤外線(FLIR)、レーザー測距兼目標指示装置などが収められており、全天候での運用能力もある。MMSは潜水艦の潜望鏡と同じような考えのもので、このように、観測センサーを極力高いところに配置すれば、機体自体は木陰などに隠すことも可能となり、被発見率の低下や生存率の向上をもたらしている。

汎用ヘリコプターの新計画UTTASは、1972年に発表されたもので、ボーイング・ヴァートル案(YUH-61)とシコルスキー案(YUH-60)に試作契約が与えられ、AAHと同様に2機による飛行比較審査が実施されその結果シコルスキー案が1976年12月23日に選定され、UH-60ブラックホークとして量産契約を獲得した。


YUH-60の初号機は1974年10月17日に初飛行し、1978年から量産機の引き渡しに入った。初期のUH-1が単発であったのに対し、AH-64Aと同じジェネラル・エレクトリックT700(1,560shp)の双発としたことで、安全性が高まるとともに、高温・高地性能も強化された。キャビンには11名の完全武装兵員を乗せることができる。

H-60のもう一つの特徴は、多用途性を考えた機体設計が採られたことだ。このため前記した対潜作戦型SH-60B/Fをはじめ、救難や特殊戦などの様々な用途向けの機体も開発・実用化されている。


次世代軍用ヘリコプター

アメリカで最も新しい二つのヘリコプター計画が、多用途軽ヘリコプター(light helicopter experimental, LHX)と、共同先進垂直空輸機(Joint-service Vertical take-off/landing eXperimental, JVX)である。LHXは、AH-64とOH-58などが行っている武装軽攻撃と観測・偵察、さらには空対空戦闘も行える多機能戦闘ヘリコプター計画である。AH-64とOH-58Dが強力な火力制圧用の組み合わせとすれば、LHXはそれらの役割を、同等ではないにしろ、1機種で行うというもの。

このLHXは、1981年に開始され、1990年に計画名を軽ヘリコプター(LH)に変更1991年4月5日にベル/マクドネル・ダグラス組を抑えして、ボーイング/シコルスキー案が選定された。ボーイング/シコルスキーでは直ちに試作機の製作に入り、RAH-66コマンチの初号機を1996年1月4日に初飛行させた。陸軍の当初計画ではLHは5,000機以上の生産が見込まれていたのだが、現在では調達計画機数が1,292機にまで削減されている。

このRAH-66は、機体サイズはAH-64より一回り小型で、複合材料の多用により軽量化が図られている。降着装置は引き込み式で武装類は基本的に主脚扉内側に取り付けられるため、使用時以外は外に露出していない。加えて形状と素材に最新技術を用いたことで、高いステルス性を備えることに成功している。ミッション機材には、空軍F-22と可能な限りの共通性を持たせている。

尾部ローターは、垂直安定板の中にファンを埋め込んだ、フランスで開発されたフェネストロンと同様の方式を採っている。これは、デイル・ローターの危険性を排除するとともに、低騒音化を実現し、音による発見を低下している。また、全高を低くするのにも一役買っている。実用化開始は1998年1月が予定されているが、遅れる可能性も指摘されている。


もう一つのJVXは、陸・海・空軍と海兵隊が共通して装備する垂直離着陸機計画で、1980年代初めに計画が開始された。ヘリコプターの持つ垂直離着陸能力を活かし、かつ大きな搭載能力と高速性、長航続性を兼ね備えさせて、各軍が必要とする様々な用途を1機種の原型でまかなおうというものであった。ヘリコプターは、ある意味で、垂直離着陸とホバリングを可能にするために、搭載量や速度・航続性能を犠牲にしたといえるものだ。

その欠点を補う技術として開発されたのが、ローターと固定主翼を併用し、ローターを飛行状態に合わせて傾けるという方式。ベルは、主翼端にエンジンとプロペラをつけ、その部分だけ回転させるティルト・ローター方式を開発、他方ヴァートルは主翼全体を動かすティルトウイング方式の研究を行った。

結果は、ティルトローター方式の実用性に軍配が上がり、ベルでは1951年にXV-3試作機を作って試験を行った。それをさらに発展させたXV-15を1973年に開発、NASAも研究に加わって、長年の試験の未実用化のめどがついた。そしてJVXにも、この方式を提示したのである。

ベルによるJVXへの開発には、後にライバルであったヴァートル(この時点でボーイングの傘下)が加わり、ベルとボーイングの共同作業となった。こうして作られたのが、V-22オスプレイである。またJVX計画では、途中で陸軍が抜けたため、現在では海軍海兵隊と空軍のプログラムになっている。

V-22の初号機は、1989年3月19日に初飛行した。そして9月14日には、ヘリコプター・モードから固定翼機モードへの飛行中の変換にも成功した。このV-22計画はその後、開発に時間がかかりすぎ、経費が増大化していることなどから、何度か計画中止の憂き目にあった。しかし、議会からの強力な支持があって、何とか作業が継続され、1999年からの軍への引き渡しが計画されている。

V-22では、三つのタイプが作られる予定。

  1. 海兵隊向けMV-22A: CH-46およびCH-53に代わる侵攻輸送型。1999年6月に引き渡しを開始し、2001年に初度運用能力獲得の計画。装備予定機数は425機

  2. 海軍向けHV-22A: 戦闘捜索救難型。2010年に引き渡しを開始し、48機を装備する計画。

  3. 空軍向けCV-22A: 長距離特殊戦型。

2003年に引き渡しを開始し、2005年に初度運用能力を獲得、50機を装備予定。

V-22のティルトローター方式は、ヘリコプターの特徴を残しつつ、ターボプロップ機なみの速度・航続距離搭載能力を実現するものとして期待されている。そしてベルでは、この技術を民間機にも転用しって、乗客8人乗りのモデル609双発ビジネス機の開発を始め、1998年型式証明を取得する。コストなどの問題は指摘されているが、新しい航空機の形として注目されている。


ヘリコプター・メーカーの統合

ヘリコプターのメーカーも、時代とともに固定翼メーカー同様、統合化の傾向にある。パイアセッキ社はヴァートル社になり、さらにボーイング社に吸収された。ヒューズ社は、マクドネル・ダグラス社にヘリコプター事業を売却し、マクドネル・ダグラス・ヘリコプター社となったが、本体のマクドネル・ダグラス社がボーイングと合併したことによって、こちらもボーイングの傘下に収まった。

ボーイングではまず、旧マクドネル・ダグラス・ヘリコプターの製を軍民に2分化し、軍用ヘリコプターについてはマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ部門で事業を継続している。そして民間部門は、ベル・ヘリコプターに売却することで合意した。

早い時期にヘリコプターの王者となったベル・ヘリコプター社は、現在も各種軍民向けヘリコプターを生産しているが、近年のプロジェクトではAAHや、マクドネル・ダグラスと共同で提案したLHで、大きなビジネスチャンスを逃している。進行中の新軍用ヘリコプタ計画は、ボーイングと共同のV-22しかない。今後近い将来の軍用へリコプター計画もないことから、必然的に民需中心への転換が迫られている

前記のようにベルは、旧マクドネル・ダグラス・ヘリコプター(MDH)の民間部門をボーイングから買い取った。これにより製品数は、増加したが、MD530, MD600N, MD902といった旧MHDの製品群は、従来からのベルの製品とカテゴリー面で重複する。同数機で複数機種を製品として有することは決して得策ではないから、将来的には製造機種の再検討が行われることになるだろう。

それに対してシコルスキー社は、H-60シリーズの大成功で、完全ベルの地位を奪った。今後も、計画中のS-92大型ヘリコプターが軍用の重輸送機として採用される可能性を秘めており、アメリカのヘリコプターのトップメーカーとして走り続けるであろう。



第6章 統廃合の進む軍用機メーカー

冷戦の終焉

1980年代後半、世界は大きく変わり始めた。ヨーロッパでは第二次世界大戦終戦以降、アメリカとカナダそして西側ヨーロッパ諸国による軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO。1949年4月4日発足)と、それに対抗するソ連を中心にした東欧諸国によるワルシャワ条約機構(WTO。1955年5月14日発足)が対峙し、冷戦構造を築いていたが、国境を閉ざしていた東欧諸国の間で国境開放が始まり、その後民主化の波が押し寄せた。そしてチェコスロバキア(当時)に代表されるように、軍事力の公表も行われるようになり、実体が不明であったが故に脅威であったWTOの戦力が、次第に明らかになっていった。さらには、ソ連も含めて軍拡競争で疲弊した経済情勢から、軍事力の一方的削減を打ち出し、NATOに対応を迫ることとなった。

相手が弱みをさらけ出したときの対応には、それに関係なく計画を進める、相手が弱まっているときにさらに力を強固なものにして支配体制を作る、相手に合わせて力を削減する、の三つの選択肢がある。そしてNATO諸国、特にアメリカも経済事情が深刻化していたこともあり、三番目の道を選び、軍事力の大幅削減に乗り出した。

東欧諸国の間では、1989年11月にベルリンの壁が崩壊して、1990年10月3日に東西ドイツは統合された。ソ連はでは、内部の共和国に独立が相次いで1991年12月に連邦を解体した。そしてこの間の1991年4月には、WTOも解消され、東西ヨーロッパの力の対決の時代に幕を下ろした。いわゆる冷戦時代の終焉である。

世界が平和に向かうことは、もちろん好ましいことだが、軍需産業にとっては大きな打撃となる。ヨーロッパの大きな変化は、全世界にも影響を及ぼし、航空産業では軍需依存の体質から民間重視への変更方針がとられるようになった。

ここでは、アメリカ以外の国は省略するが、こうした流れは直接の当事国であるアメリカの軍事産業にとっては、諸外国以上の影響があった。冷戦の終焉により、アメリカの国防支出は大幅に削減されることになるため、国防総省は軍の規模を縮小することとした。これは必然的に、新規装備の調達は減らされ、また新規開発品目の凍結や遅延策が打ち出されることにつながる。


アメリカの軍備削減計画

そのことが具体的に発表されたのは1990年4月26日で、当時のディック・チェイニー国防長官が、現在開発中の航空機計画6つについて行った見直しを議会に対して報告した。この見直しの対象となった計画は、

  1. B-2戦略爆撃機、

  2. C-17新輸送機、

  3. A-12海軍攻撃機、

  4. 次期戦術航空機(ATA)、

  5. 次期戦術戦闘機(ATF)、

  6. 海軍ATF(NATF)

で、現在では計画がなくなってしまったものもある。ただ当時は、計画をキャンセルするのではなく、調達機数の削減や調達開始を遅らせることで、1991~94年度の5年間で168億ドル、1995~97年度の3年間で180億ドルの国防支出削減を達成する、とされていた。

この見直し計画は、アメリカの国家安全保障、アメリカに対する世界的な脅威、脅威に対する最高の戦略を踏まえて、特別に編成された作業チームにより行われた。そして、国際的な情勢の変化と、予算の限度にも対応できるよう検討が行われた。それらについてチームは、次のように分析した。

  1. ソ連とワルシャワ諸国の変化: ソ連が発表している兵力削減が完了したときNATOはより少ない敵の航空機と削減された地上軍に対することとなる

  2. ソ連の経済問題: ソ連経済は縮小はしているものの、優先計画をサポートするには十分なものを持っている。ソ連は、航空機を含む戦略核戦力については、近代化を続けると見られる。

  3. 他の地域での大きな紛争の潜在性: 敵に対する抑止、あるいは必要ならばそれに対抗するため、アメリカは地上および海上発進の長距離輸送力と戦術航空戦力を必要とする。

前記した6つの計画については、次のように具体的な計画が示された。またカッコ内にその後の変化も加えて記しておく。

【ノースロップB-2スピリット】全翼機にこだわったノースロップが送り出したステルス爆撃機。国防費削減のため21機に発注数が減らされている。高価かつ貴重な機体であり、湾岸戦争では派遣されすらしなかった。そのため実用性を疑問視する声が出てしまった。

・ノースロップB-2スピリット戦略爆撃機

調達機数を、当初計画の132機から75機に削減する。これにより計画の全期間で144億ドルの経費節減となる。1991年度の調達機数を、当初案の5機から2機に減らす。また、1994年度に始まるピーク時の年間最高生産機数も、これまでの24機から12機に削減する。

チェイニー国防長官は、戦略爆撃機に対しては強く支持する考えを示し、計画の発表時に

「現在の爆撃機が彼らの任務を完遂する能力は、今世紀末に向かって著しく減少しており、ソ連の戦闘機およびミサイルによる防空は、アメリカのスタンドオフおよび侵攻爆撃機への対処を増強するであろう。相対的に遅い飛行速度と人間による操縦によって、爆撃機は安定した要素となっている。アメリカの軍備管理の立場では、この基本的な信念を反映している」

と述べた。(さらに機数削減が計画され、これまでの発注21機で製造中止の予定)

・マクドネル・ダグラスC-17グローブマスターⅢ新輸送機

調達機数を、当初計画の210機から120機に減らす。生産のピークは、1994年度からの年間29機だったが、1995年度からさらに1年遅らせ、また機数も年間24機とする。これによって全計画の経費は、126億ドル削減される。1991年度の調達機数は、計画の6機を2機に減らし、調経費が減少した分、実用前の飛行試験の回数を増やすことに使う。

C-17に対するコメントは、次の通り。

「C-17は、C-141の2倍の搭載量を有し、かつ第三世界の短い滑走路を使用することができる。また、C-5が搭載する大型貨物も運ぶことができる。輸送機は、ある機体の所要が減少されれば、アメリカ軍をヨーロッパに速やかに展開させる等のために、他の機体の所要が高まるものである。いくつかの海外基地が拒否にあっているため、アメリカ国内の基地から世界中のトラブル地点への輸送力の必要性は高まるであろう。アメリカの輸送機は国家財産であり、例えばカリブ海のハリケーンやアメリカの地震といっあらゆる危機に反応するためにも使われる」

(1996年5月31日に、最終120号機までの期間7年間の固定価格契約が、アメリカ空軍と結ばれた)

・ジェネラル・ダイナミクス/マクドネル・ダグラスA-12アヴェンジャーII海軍攻撃機

調達機数を、計画の858機から620機に減らす。量産開始は当初計画通り1990年度からで、生産のピークは1995年度からの年間48機だったものを、期間は1年度早めて1994年度からとし、機数は年間36機に減らす。

「A-12は、機体寿命が近づいているA-6イントルーダーに代わるもので、ステルス性のある長航続距離の、空母発進全天候攻撃機である。旧式化し、速度が低く、機動性に欠けるA-6は、攻撃作戦を行うに当たって、敵防空網を侵攻する能力が不足している。攻撃機が相手の最新鋭戦闘機や地対空ミサイルに面することを考えると、ステルス技術は必要であり、アメリカは海軍攻撃力の使用によって能力を維持する必要がある」

(この直後に再び計画について検討され、A-12は試作機からキャンセルされた。現在は統合攻撃戦闘機=JSF計画の機体をこれにあてるこ
とされている)

・次期戦術航空機(ATA)

アメリカ空軍のATAは、深部攻撃任務を受け持っているF-111、F-15Eストライクイーグルに代わるもので、ステルス性のある長航続、地上発進全天候攻撃機とするもの。現在の脅威の状況や航空機の能力から見て、計画を遅延させても安全である。このことから、当初予定1993年度から量産を開始し、1995年度に年間24機の生産ピークが始まり400機を調達するという計画は、1997年度まで量産を開始しないことに改める。

(ATA計画自体はキャンセル。現在はJSF計画の機体をこれにあてることとされており、旧式化するF-16もリプレイスの対象に含む)

・次期戦術戦闘機(ATF)

ATFは1994年度から量産を開始し、1999年度に生産のピークに達して年間72機を作り、750機を調達する計画であった。これを、調達機数は変えないものの、量産開始を2年遅らせて1996年度からとし、ピーク到達も2年遅れの2001年度に変更、年産機数も48機に削減する。

「ATFは、F-15の後継機となるもので、ステルス性のある空対空戦闘機F-15は、今後10年の間に退役を開始するが、機体フレームの試験も行われていて、その結果によっては運用寿命が延びる可能性もある」

(1991年4月23日に、ロッキード・チームのF-22を選定。その後の数度の見直しで、調達機数は438機にまで削減され、さらに所要機数は339機との報告も出された)

・海軍ATF(NATF)

NATFは、F-14の後継となる戦闘機で、空軍のATFを2年遅らせるため、NATFも2年遅れとなり、さらに調達機数も削減する。当初計画では1998年度に量産を開始し、2002年度に年間48機で生産のピークに達し、全部で618機を調達することとされていた。それを、2000年度から量産開始、ピークは2004年度からで、年産機数は48機のまま。総調達機数は546機とする。

(現段階でも機種は未定。JSF計画の機体をあてることも考えられている)


打ち出された統廃合

こうした、近い将来の計画の見直しは、それぞれの製造担当メーカー、あるいは機種選定の候補に名乗りを上げていた企業にとっては、深刻な問題となった。それに加えて、早い時期からアメリカ国防総省は、航空機とそのエンジンの納入ソースを減らしたいという意向を公にしている。

従来、アメリカ国防総省が採ってきた航空機プログラムの基本的な進め方は、まず各軍が必要な航空機の機種とその能力などを定めて、それを提案要求書(Request for Proposal, RFP)の形にして全航空機メーカーに提示する。各社はそれに見合う航空機を開発できるかを独自に検討し、可能であれぱどのような航空機になるかなどを示した解答を、RFPの提出期限までに提出する。その後複数の会社に試作契約が与えられ、各社の試作機を飛行試験して比較審査し、最終的に1機種を制式採用機に選定する、という手順であった

このシステムは、全メーカーにプログラムに参加するチャンスを与えることができ、また紙上の計画案でわかりにくい点は実際の航空機で比較して調査されるから、公平でありかつ正確な審査が可能となる。ただ、採用決定まで時間がかかることと、複数社に試作契約を与えるから、その段階でのコストが増加するという欠点もある。さらに、多くの数の航空機メーカーを、産業維持の立場から残そうとすると、メモーカー間にバランスの取れた契約を与えるという配慮も必要になるってくる。

軍用機の納入ソースを減らすということは、これらの手間を大幅に省くことが可能となる。航空産業界にとっては厳しい環境になるが、コスト面での合理性は高まるのだ。後述するが、近年のプログラムでは、RFPは多くの会社に出されるものの、試作(全規模開発)の段階で担当会社を1社に絞る例が増えている。

最近で複数の試作機により飛行審査が行われたのは、アメリカ空軍の次期戦術戦闘機(ATF)だけだ。近い将来の計画としては、統合攻撃戦闘機(JSF)もロッキード・マーチンとボーイングの2社が、概念実証契約を受けて試作機を作り、比較審査が実施される予定になっている。さすがに重要な第一線戦術機では慎重な手順が採られるが、それ以外については極力合理化しようという意図が、納入ソースの削減にある。

ヘリコプターを除いた、1980年代末のアメリカの軍用機メーカーをジェーン年鑑から拾ってみると、次の各社があった。

  1. ◇ビーチクラフト、

  2. ◇ボーイング、

  3. ◇セスナ、

  4. ◇フェアチャイルド、

  5. ◇ゲイツリアジェット、

  6. ◇ジェネラル・ダイナミクス、

  7. ◇グラマン、

  8. ◇ガルフストリーム、

  9. ◇ロッキード、

  10. ◇LTV、

  11. ◇マクドネル・ダグラス、

  12. ◇ロックウェル。

全部で12社あり、一部はごく限られた用途の機体を作っていたメーカーもあるが、軍用機メーカーとしてなじみ深い企業だけをピックアップしても、8社となる。

伝えられたアメリカ国防総省の意向は、ヘリコプターを除いた機体の納入元を3社に、エンジンは2社にしたいというものであった。これを聞いた当時、それはいくら何でも不可能だろうと思えたものである。その後の経緯はこれから記していくが、結果は、ほぼその意向通りとなったのだから、10年未満の期間でアメリカの軍用機産業が、いかに大きく様変わりしたかがわかるというものである。


特需はなかった湾岸戦争

そうした近年の流れに移る前に、触れておかなければならないのが湾岸戦争であろう。東西冷戦構造が終焉を迎えると、一部では世界平和が訪れるといった、楽観的な観測があった。確かに、東西の両大国が核兵器を撃ち合ったり、あるいは世界的規模の戦争が遠のいたという見方は正しい。ただその一方で、各地でくすぶっていた潜在的な紛争や戦闘に対し、米ソの二大国の抑えが効かなくなったという側面も、冷戦の終焉は有していた。

湾岸戦争はそれを如実に示したと言えるし、ボスニア・ヘルツェゴビナのような新たな民族紛争も起きている。米ソの軍備削減は、大きく見れば世界的な規模での軍縮ではあるが、それが衛星諸国や同盟国への影響力の低下にもつながったのである。

湾岸戦争は、1990年8月の、イラクによるクウェート侵攻に端を発した。イラクは圧倒的な力と電光石火の侵攻で、クウェートを完全に支配した。これに対して国連の安全保障理事会は、イラクのクウェコートからの完全な撤退を決議したものの、イラクはそれに従わず、そ1991年1月15日に定めて、それまでに撤退が行われない場合には武力の行使を承認することとなった。そして撤退は行われず..湾岸戦争が勃発した。

クウェートを解放する勢力は、多国籍軍を構成し、その中心はアメリカであった。クウェート侵攻から戦争開始までの、いわゆる湾岸機の期間に、多国籍軍は強大な戦力を湾岸地帯に集結させ、武力行使に備えていた。この戦力差は当初から明らかで、実際に戦争が起きると多国籍軍の圧倒的な攻撃力により、開戦からわずか2か月弱の2月27日にクウェートは解放された。

よく言われるのは、戦争があると軍需産業が繁栄する、という構図だ。確かにこれまでは、戦争になれば航空機の生産は増えたし、戦後もその損失の補充や新たな備えなどで発注もあった。もちろん、大量発注のキャンセルという事態もあったが、総じて戦争は長期化すればそれだけ、軍需産業は仕事が確保できた。

しかし、湾岸戦争はそうではなかった。短期間の戦闘と、圧倒的な強さのため、アメリカを中心とする多国籍軍の損失は、最小限に抑えられた。これは、もちろん喜ばしいことであるが、軍用機メーカーにとってはこの戦争は、何ももたらさなかったことになる。

戦争があったとはいっても、軍の航空機装備の削減や計画の見直しには何の影響も与えず、それはそれとして相変わらず粛々と進められることとなったのである。メーカーにとっての湾岸戦争特需というのは、あり得なかった。


チームアップ方式

航空機の装備計画の変更(スケジュールの遅延や機数の削減、あるいは計画のキャンセル)は、航空機産業にとっては死活問題である。特に、第一線用作戦機の機種の減少と使用期間の長期化は、一つのブログラムを逃したらしばらくの間は仕事がなくなることを意味する。そこで各メーカーは、一か八かのハイリスク/ハイリターンを避けて、仕事を獲得できるチャンスを増やすことを考えた。それが、チームを組むという方式であった。

このチームアップ方式は新しいものではないが、本格的に行われた最初の例は、アメリカ空軍の次期戦術戦闘機(ATF)計画であったといってよいだろう。前記したようにATFは、21世紀にF-15に代わって主力となる制空戦闘機を目的としたプログラムで、仕事の面でも最新技術の取得の上でも、戦闘機メーカーとしては絶対に獲得したい計画であった。

このATF計画は1981年に空軍から情報要求書が提示され、それに応じたメーカーの中から5社が1983年9月に選定されて概念確定研究解約が与えられた。その5社は、ボーイング、ジェネラル・ダイナミクス、グラマン、マクドネル・ダグラス、ノースロップ、ロックウェルで、1985年9月に機体の提案要求書が出された時点では、ロックウェルが辞退し、代わりにロッキードが加わった。

そしてこれ以後の計画の進め方は、まず2社を試作機の製造会社として選定し、2機ずつを製作し比較飛行審査を実施して、最終的に1機種に決定するとされた。5社は、それぞれが独自の機対案を提出したが、比較審査に残る確率は5分の2、採用される確率は5分の1と、決して高くはない。自社案が排除されたら、このATF計画には何も関われなくなる。これは、直接仕事が得られないことを意味し、最新の戦闘技術の会得も採用メーカーと大きな差ができてしまう。そこで、チームアップをすることで各社が合意したのである。

チームは、二つ作られた。一つはボーイング、ジェネラルダイナミクス、ロッキードの3社によるもので、もう一つは残るマクドネル・ダグラスとノースロップによるものであった。両チームとも、基本的な合意内容は同じだった。提案要求に対しては各社が独自案を提出し、チームメンバーの案が選ばれたらそれの開発・製造作業に協力するというもの。作業シェアは、基本的にメンバー間で等分される。仮に同じチームから2社が選ばれた場合は、マクドネル・ダグラスとノースロップのチームの場合はチームを解消し、3社によるチームの方は選ばれなかった1社がいずれかを選択してチームを組むということとされた。

結果は、ロッキード案とノースロップ案が選ばれ、それぞれYF-22YF-23の制式番号が与えられた。そしてボーイングとジェネラル・ダイナミクスは各社約33%のシェアでYF-22プログラムに参加し、マクドネル・ダグラスは50%のシェアでノースロップ案に参加した。

このATFは最終的に、1991年4月23日にロッキード・チームが勝利してF-22としての量産化が決定した。ボーイングとジェネラル・ダイナミクスは、ゼロになるところを約33%の獲得で防いだことになる。ロッキードは、100%が約33%にはなったが、リスク回避ができたことは大きかった。敗れたノースロップとマクドネル・ダグラスは、打撃は大きかったが、次期プログラムを目指すこととなった。

F-22は、試作機YF-22から各部に手直しが加えられて、1997年9月27日に初飛行した。ATFは、そもそもはF-15C/Dの後継機となるものであったから、求められた搭載兵器も種類は少なく、AIM-9MサイドワインダーとAIM-120 AMRAAMのみであった。このためF-22では、空気取入れ口側面の兵器倉にはサイドワインダーのみを、胴体内兵器倉にはAIM-120とサイドワインダーの双方を収容できるようにされた。

しかし、1993年初めにF-22の戦闘任務の再評価が行われ、精密誘導兵器(PGM)を使用しての空対地攻撃能力を加えることとなった。このため1993年5月25日に650万ドルの追加契約が与えられて、兵器倉と電子機器をAIM-9ミサイルと454kgの統合直接攻撃弾薬(JDAM)の組み合わせで作戦できるように変更することとなった。JDAMは2発が、AIM-120 2発の代わりに胴体下兵器倉に搭載される。また、主翼下にAGM-137A 3軍協同スタンドオフ攻撃ミサイル(Tri-Service Stando-off Attack Missile, TSSAM)を2発装備する提案も出されたが、TSSAM自体が後にキャンセルとなったため、こちらの計画はなくなった。

生産機数を決定する装備計画は、前記したように何度かの見直しが行われて、次第に減少している。アメリカ空軍のATFに対する当初の装備計画機数は、F-15に置き換えることなどから750機とされていた。さらに海軍も一時は海軍型ATFに興味を示し、550機の装備を検討したこともある。これらがすべて現実のものとなれば、アメリカ軍向けだけでもF-15生産機数を超える1,300機が量産されると考えられた。しかし現段階で海軍は、F-22あるいはその派生型を装備するつもりは全くなくなっている。

空軍向けにしても、最初の750機の計画はまず648機に減らされ、次には438機になった。さらに低率初期量産(Low rate initial production, LRIP)の期間を4年から5年へと1年間延長し、この5年間での量産機数を70機に定めた。しかこの計画も、4年ごとの国防装備の見直しであるQDR (Quadrennial Defense Review)によって、さらに変更された。QDRで定められたF-22の所要機数は、339機になっている。当初計画の750機から見ると、半分以下に減らされることとなる。


統合、始まる

・ロッキードがジェネラルダイナミクスを買収

F-22のプログラムが進展している中、1993年3月1日にロッキードがジェネラル・ダイナミクスの戦術軍用航空機部門(フォートワース)の買収を完了した。これにより現在では、同部門はロッキード・マーチン戦術航空機システムズ(LMTAS)となり、旧ジェネラルダイナミクスによるF-22の作業分担をそのまま受け継ぐことになった。従って会社別の作業シェアでは、ロッキード・マーチンが67.5%、ボーイングが32.5%になった。

ジェネラルダイナミクスの戦術軍用機部門は、F-16ファイティング・ファルコンを生産中で、現時点での生産数だけで見れば、アメリカーの戦闘機メーカーである。それが、他社を吸収するのではなく、ロッキードに買収されるというのは不思議にも思えるだろう。

しかし、ジェネラルダイナミクスは、F-16プログラムが終ると、その後の戦闘機計画の展望はない。後述するJSF計画はあるにはあるが、これも正式に採用される保証は全くない。早い時点で、他の企業と合併してでも事業を残す、いってみれば名を捨てて実を取る方が得策とされたのである。このロッキードによるジェネラル・ダイナミクスの戦術軍用機部門の買収が、近年のアメリカの航空機産業統合のスタートとなった。

・ノースロップがグラマンを買収

ATFで敗れたノースロップも、1994年5月1日にグラマンを買収してノースロップグラマンとなった。これも、軍用機メーカーとして争力を付けることが一つの目的であった。このため新会社には、軍事の生き残りをかけたもので、経験豊富な両社が一体化することで、競航空関連では、先進技術および開発センター、軍用機システムズ部門電子およびシステム統合部門の3部門が設立されたのである。

ノースロップは、B-2の開発担当者に選ばれて、ステルス爆撃機を完成させた。ステルス技術についてはまだ詳しいことは公表されていないが、少なくともロッキードとともに、ノースロップはこの分野のリーダーとなったはずだ。実際にATFの試作機YF-23でもそれは存分に表われていて、空軍もステルス性だけで捉えればYF-23の方が上だったという評価を下している。しかし結果としてはATFで敗れ、まB-2計画も大幅に規模縮小となったので、ノースロップでは将来の航空機生産には危機感を抱いていた。

もう一方のグラマンは、第二次世界大戦前から艦載の戦闘機や攻撃機のトップメーカーであり、ジェットの時代に入っても海軍艦載機では主力メーカーであった。現在の海軍空母航空団の構成を見ても、通常は7機種で構成されているが、そのうち戦闘機のF-14トムキャット、全天候攻撃機のA-6イントルーダー、早期警戒機のE-2Cホークアイ、電子戦機のEA-6Bプラウラーの4機種がグラマンの航空機である。

しかし、F-14やA-6に後継機が必要となった今、グラマンは新しい機体を開発する技術力を失いつつある。特に、アメリカの作戦機の必須条件となったステルス性の研究に関しては、ロッキードやノースロトップの後塵を拝した。その結果、将来プロジェクトでの契約獲得が困難となり、これまでの経験を無にしないためにも、ノースロップの傘下に収まることとなった。

前記したノースロップグラマンの新しい組織のうち、新たな軍用航空機の研究開発は、先進技術および開発センターの受け持ちで、アメリカ空軍および海軍をしてイギリス海軍が共同で装備する統合攻撃戦闘機(JSF)計画に機体案を提示することとなった。ノースロップの先端戦術機開発能力と、艦載機で多くのノウハウを持っているグラマンが一体となった、最初の開発提案である。

・ロッキードと、電子機器を中心とする進大企業マーチン・マリエッタとの合併

JSFについては後述することとして、航空機産業の統合化で話をめると、1994年8月30日には、ロッキードと、電子機器を中心とする進大企業マーチン・マリエッタとの合併が発表された。この作業は1995年3月15日をもって完了し、機体メーカー同士の合併ではなかったためそれほど大きなインパクトはなかったが、年間320億ドルの防衛関連売り上げを持つ、巨大な軍事産業企業ができあがったのである。この力は強力なもので、後にウエスチングハウス、ノースロップ・グラマンも傘下に収めることになった。


ボーイングは、1996年8月1日に、ロックウェルとの間で同社の航空宇宙・防衛事業部門をボーイングが買収することで合意した。これにより、ノースアメリカンからの伝統を受け継ぐ同部門は、ボーイングの100%子会社、ボーイング・ノースアメリカンとして再スタートを切ることとなった。ただ、ロックウェルの航空機部門は、B-1以降量産した軍用機はなく、ドイツと共同でX-31強化戦闘機動(EFM)研究機による、航空機の新しい運動性の研究を行っていただけである。ただこのX-31での成果、あるいはそれに使用した技術のノウハウなどは貴重で、ボーイングはそれらを手中に収めたことになる。


統合攻撃戦闘機(JSF)計画

アメリカ空・海軍では、21世紀初頭の新戦術作戦機も一つの大きなプログラムとして有している。海軍は、まず次期攻撃機(AX)計画を立て、マクドネル・ダグラス/ジェネラル・ダイナミクスA-12アヴェンジャーIIの採用をいったんは決めたが、計画を見直し、超音速攻撃戦闘機(SSF)へと駒を進めたがこれもキャンセルした。空軍の次期戦術航空機(ATA)も計画が見直され、最終的にこれらを統合し、さらにAV-8BやF-16の後継、加えてイギリス海軍のシーハリアーの後継をひとまとめにした、統合攻撃戦闘機(JSF)計画が今日では立てられている。

これについても、軍用機メーカー各社が機体案を提示した。ボーイング、ロッキード・マーチン、マクドネル・ダグラス、ノースロップの4社で、このうちマクドネル・ダグラスとノースロップグラマンは、これにブリティッシュエアロスペースを加えて、チームを組んだ。ロッキード・マーチンは、旧ジェネラルダイナミクスのLMTASが作業の主体となった。

各社の機体案は、ボーイングが全くのオリジナルである他は、LMTASの案はF-22の、マクドネル・ダグラス・チームの案はYF-23の機体形状をどこか彷彿とさせるものであった。このJSFについては、アメリカ国防総省が概念実証計画に対する提案要求を各メーカーに発出し、その提案期限である1996年6月14日までにボーイング、ロッキード・マーチン・チーム、マクドネル・ダグラス・チームの3者が回を寄せた。

そして1996年11月16日に、アメリカ国防総省は、3者の案のうち2案を、概念実証計画(Conceptual Development Plans, CDP)に進むように指命した。脱落したのは、マクドネル・ダグラス・チームであった。マクドネル・ダグラスとノースロップグラマンは、ATFに次いで、将来計画に敗北したのである

JSF計画は、アメリカ空・海軍/海兵隊とイギリス海軍の2国4軍による共同プログラムであり、アメリカのF-16、A-10、F/A-18、AV-8B、そしてイギリス海軍のシーハリアーFRS.1/FA.2の代替機となるもの。この2か国4年だけで3,038機の装備が見込まれており、さらにF-16やF/A-18、その他20世紀の戦闘機を欧米から導入している国への輸出潜在性を含めると、4,000機に達する生産が行われる可能性もあるとされている。

2社が選定されたCDPでは、ロッキード・マーチン・チームが11億ドル、ボーイングが6億6,000万ドルの契約を受けた。そして2機の実物大実証機の設計、開発、製造、飛行試験を行い、最終的に量産に移行する1社が、2001年に決定されることになっている。

CDPで行われる作業を要約すると、

  1. アフォーダブル(安価で取得が容易)なJSFを2国4軍向けに製造するための、最先端の技術、処置、特性計画を実証する

  2. JSFの次の段階である技術および製造実証(Engineering and Manufacturing Development , EMD)のための多軍向けシステム概念の確定、

  3. JSFの価格をより「抑えるための、監督および管理手順の開発と合理化、

ということになる。

ロッキード・マーチンでは、LMTASがリーダーとなって、「ファイター・エンタープライズ」チームを構成する。また2機の実証機は「スカンク・ワークス」が製造することになっていて、1機は空軍/海軍型仕様、もう1機がSTOVL仕様になる

ボーイングでは、2機の実証機は、まずSTOVL型と海軍型にするとを実証し、他方海軍仕様機で空母運用や通常仕様機での性能、空中でしている。STOVL仕様機でホバリングや水平飛行への転換能力などの取り扱い性などを評価する。そこから先はまだ発表されていないが、海軍仕様機を空軍仕様機に変更して、空軍関連で必要な追加項目を実証することになる。

こうした作業によって生産性のほか、各種の作戦遂行能力や飛行特性も比較審査され、2001年にEMD契約が1社に与えられる。そして実用型JSFの開発作業に入って、2008年初めに実用配備を開始するという計画が立てられている。アメリカ国防総省では、アメリカ軍の調計画の総額を2,190億ドル程度と見積もっており、イギリスを含めまた諸外国からの発注を合わせて約4,000機のプロジェクトとなれば、1機あたりの生産コストが6,300万~8,100万ドル程度に抑えられると見ている(将来の貨幣価値を見込んだ価格と思われる)。

こうしたビッグプロジェクトに敗れたマクドネル・ダグラスとノベースロップ・グラマンは、これで2010年代まで戦闘機や攻撃機の仕事がなくなった。その結果、ノースロップグラマンは、ロッキード・マーチンの軍門に下ることとなったのである。


マクドネル・ダグラス消える

マクドネル・ダグラスも、F/A-18E/Fスーパーホーネットの開発と生産の仕事はあるものの、将来の展望が開けない。そこで、セントルイスのマクドネル・エアクラフト社の軍用機に関する知識と経験、「ファントム・ワークス」と呼ばれる先進技術開発部門を活かすために、新たな道を選択することとなった。それが、ボーイングとの合併であった。

それでも、マクドネル・ダグラスのような歴史、実績、知名度のある企業が他の航空機メーカーに吸収されるというのは、吸収先ががいかに巨大企業であるボーイングであっても、にわかには信じがたいというのが、合併発表当初の大方の感想であろう。ただ逆に言うと、マクドネル・ダグラスのような大規模なメーカーを吸収できるのは、ホーイングくらいしかなかったとも言える。

マクドネル・ダグラスは、民間機や大型機を担当するロングピーチ、軍用機やミサイル、電子機器などを担当するセントルイス、ヘリコプターを担当するメサの3か所に拠点を置いていた。

メサのマクドネル・ダグラス・ヘリコプターは、軍用の大規模プロジェクトでは、攻撃ヘリコプターAH-64アパッチを生産した。アパッチは、アメリカ陸軍から821機を受注するという成功したプログラムであったが、その生産は1996年に終了している。その後、レーダーを装備するAH-64Dロングボウ・アパッチ計画へと進展したが、同社が見込んでいた新規発注は行われず、既存のAH-64AをAH-64Dに改修するだけとなり、アメリカ陸軍向けの追加生産は実現しなかった。

他方、軽ヘリコプター(LH)計画では、ベルと共同で「スーパー・チーム」を作って提案を行ったものの、ボーイングとシコルスキーの「ファースト・チーム」に敗れた。LH計画は、規模は次第に縮小されているとはいえ、近い将来の軍用ヘリコプター最後の大プログラムであり、これを獲得できなかったということは、しばらくの間軍用ヘリコプターの開発・生産の仕事がなくなったことを意味した。

マクドネル・ダグラス・ヘリコプターは、民間ヘリコプターの分野では、一定の継続した仕事が見通せたものの、軍用の分野では先がなくなってしまったのである。

民間旅客機の分野でも、1990年代に入ると、ボーイングとヨーロッパのエアバス・インダストリー社に挟まれて、マクドネル・ダグラスの凋落傾向にさらに拍車がかかった。中型のMD-80/-90シリーズはまだ健闘したものの、それでもエアバスA320ファミリーにかなり市場シェアを奪われた。さらに大型のMD-11は悲惨で、ボーイングの767や777エアバスのA330/A340に完全に圧倒され、全く受注が伸びず、生産ラインががらがらという状態にあった。

セントルイスの軍用機にしても、現在は前記したように生産する機本があるものの、ATFJSFで連敗した結果、2015年頃までは全く新プロジェクトが入ってこないことになった。セントルイスのマクドネル・エアクラフト社には、『ファントム・ワークス』と呼ぶ先進技術開発部門も設けられていたが、今後これがほとんど活用できないことになる。そうした軍用機に関する知識と経験、技術開発力を活かすためには、新たな道を選択するのが最善と判断されたようだ。

マクドネル・ダグラスがJSFを逃した理由の一つとして伝えられるのが、会社の保守性である。これまでマクドネル・ダグラスは、積極先取の姿勢で新しい航空機、特に戦闘攻撃機を開発し、それが成功につながっていた。それが近年では、新規プログラムに対しても保守的で安全第一となり冒険を冒さなくなった、というのがアメリカの航空ジャーナリストの共通した評であった。そしてそれが、軍からの評を低くしたともいわれている。


メーカー二極体制へ

ボーイングとマクドネル・ダグラスの合併が発表されたのは、1996年12月15日のことであった。ボーイングのフィル・コンディット社長兼最高経営責任者と、マクドネル・ダグラスのハリー・ストーンサイファー社長兼最高経営責任者は15日共同記者会見を行い、両社は株式交換の形で合併する旨の最終協定に調印した、と発表したのである。

この時ボーイングのコンディット社長は、新会社は大幅なコスト節減をもたらすだけでなく、三つの事業分野における成長の機会もきわめて大きいと述べ、さらに

「合併は、JSFに向けての当社の競争上の地歩を強化し、宇宙輸送分野での当社の地位を改善し、また顧客航空会社に最良の製品とサービスを提供する能力を高める。これは航空業界にとって、アメリカの防衛計画、世界の宇宙計画にとって、一大ニュースである。当社の人的資源、当社のインフラストラクチャーおよび財務能力の強化は顧客と株主に利益をもたらし、21世紀に向けてこの世界の航空宇宙業界のニーズを満たす能力を強化するものだ」

と語っている。

ボーイングとマクドネル・ダグラスの合併に関する作業は、1997年7月末までに基本的な部分を完了し、8月4日付で新生ボーイングが誕生した。マクドネルとダグラスの名前は、部門としては残ったが、社名からは姿を消し、名門航空機メーカー、マクドネルとダグラスは、会社としては幕を閉じたのである。

新生ボーイングの、防衛関連の事業をまとめておく。

防衛関連については新会社発足に合わせて組織が大きく変わり、「情報・宇宙・防衛システムズ(ISDS)グループ」が新設された。この新グループの社長にはアラン・ムラリー氏が就任し、三つの事業部門と一つの先進研究・開発組織で構成されている。それらは次のものである。

  • マクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ: 本社はセントルイス。主要製品は、固定翼機および回転翼機の各種軍用機システムと、戦術ミサイルなど。発足時の社長は、前マクドネル・ダグラス・エアロスペースのマイク・シアーズ氏。

  • スペース・システムズ: 本社はカリフォルニア州シールビーチ。主要製品は、国際宇宙ステーション、ロケット・エンジン、シーローンチ、デルタ・ロケット、スペースシャトルプログラムなど。発足時の社長は、前ボーイング北アメリカ社長のジョン・マクラッキー氏。

  • 情報・コミュニケーション・システムズ: 本社はシアトル。主要製品は、人工衛星AWACS、空中レーザー(ABL)テレデシック、航空機情報システム、戦略ミサイルなど。発足時の社長は前ボーイング防衛宇宙グループ執行副社長のジム・エバレット氏。

  • ファントム・ワークス: 先進研究・開発を行なう組織で、マクドネルダグラス時代のファントム・ワークスの責任者であった、デビッド・スワイン氏がそのまま責任者を努める(発足時)。スワイン氏はままた、ISDSの執行副社長に任命された。

新生ボーイングの製品群の中で、航空機関連について見ると、旧ボーイングおよび旧マクドネル・ダグラスで生産中および開発中だった製品は、すべてそのまま残されていて(後に一部旅客機が生産を近く中止することが発表された)、合併に際して製造中止や計画取り止めとなった機体はない。軍用機やヘリコプターについても同様である。

軍用機については、前記したようにISDSが新設され、航空機やミサイルに関してはマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズに製品が統合される。このグループの本拠はセントルイスに置かれるが、これはすべての軍用機の活動がセントルイスに統合化されるということを意味しているのではない。

例えば、ロングビーチで行われているC-17の生産、シアトルで進められているJSFの研究・開発、メサで行われているロングボウ・アパッチの生産など、その活動拠点は各地に設けられている。こうした作業が、すべてセントルイスに移動するのではない。あくまでも、ここれらの活動のリーダーシップをとるヘッドクォーターが、セントルイスに位置するということである。またヘリコプターに関しては、軍用ヘリコプターはすべて、ISDSのマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズに統合化される。

この新生ボーイングの誕生で、アメリカの航空機産業の統合化の嵐は、一段落したと考えられている。そして1980年代末に12社あった固定翼軍用機メーカーは、1997~98年版のジェーン年鑑で拾うと主なものは、◇ボーイング、◇ロッキード・マーチン、◇レイセオンの3社になった。なおレイセオンについてはこれまでに全く記していないが、現在は傘下にビーチクラフトとホーカーシドレーを収め、軽輪送機や練習機、特殊作戦機を開発・製造している。中でも空・海軍共通の合同基本航空機訓練システム(Joint Primary Aircraft Training System, JPATS)で、スイスのピラタスPC-9改を提案し、T-6テキサンIIとして採用されている。

結果として、1980年代末にアメリカ国防総省が掲げた、固定翼機の納入元を3社にしたいという考えは、当時では予想もされなかった大企業同士の合併の結果、達成されたのである。




メーカー名鑑

A

エアロ(Aero)

1944年12月にカリフォルニア州カルヴァーシティに設立されたメーカーで、エアロコマンダーなどの設計製造を行った。1950年10月にエアロ・デザイン・アンド・エンジニアリングに社名を変更。
⇒エアロ・デザイン・アンド・エンジニアリング


エアロ・デザイン・アンド・エンジニアリング
(Aero Design And Engineering)

1950年10月に、エアロ社を継ぐ会社として社名が変更された。また本拠地も、オクラホマ州に移された。1948年にエアロが試作したL.3805双発機が、L-26/U-4/U-9としてアメリカ陸軍に採用されている。
⇒エアロ、エアロコマンダー


エアロコマンダー(Aero Commander)

エアロ・デザイン・アンド・エンジニアリング(旧エアロ)社を受け継いだ会社で、1960年に、ロックウェル社の一部門として設立された。この時点で同社はロックウェルの汎用航空機部門となり、民間向けの単発低翼機と双発高翼機を製造することとな1980年には単発機の製造を中止した。そしてターボプロップ機ジェットブロップ・コマンダーの製造権も、ガルフストリーム・アメリカン社に売却された。
⇒エアロ、エアロ・デザイン・アンド・エンジニアリング


エアロンカ(Aeronca)

1928年11月に、アメリカ初の軽飛行機製造会社エアロノーティカル・オブ・アメリカとして設立され、1941年にエアロンカに社名を変更した。最初の大規模な量産機は高翼単葉のC-2で、その後O-58Aディフェンダー、L-3グラスホッパーなどの成功作当ある。中でも、戦後の1946~50年にかけて作られたチャンピオン高翼複座機は、軍に採用されたL16/-16A約600機を含めて、10,000機を超える大量生産が行われた1950年以降は、副契約による各種航空機のコンポーネント製造などが主体となっている。


アメリカン・ジェット・インダストリーズ
(American Jet Industries)

1951年に、航空機の修理や改修のために設立された会社で、1978年にグラマン・アメリカン社を買収し、子会社としてガルフストリーム・アメリカンを設立した。その独自にモデル500ハスラー・ターボプロップ/ターボファン併用ビジネス機(1978年1月11日初飛行)、モデル600ペリグリン複座ジェット練習機(1981年5月22日初飛行)、その発展型であるペリグリンⅡビジネス機を発表するが、いずれも失敗に終わる。
⇒ガルフストリーム


アトランティック(Atlantic)

オランダのフォッカー社の北アメリカ地区子会社で、1924年5月にニュージャージー州テターボロで活動を開始した。1925年には独自の新型機、ユニバーサル単発輸送機を開発している。フォッカーFVA/3mを基にしたC-2やその発展型C-7などを製造。1929年にジェネラル・モータース社に買収され、民間機の製造を主体とするようになって、1933年にノースアメリカン社に吸収された。
⇒ノースアメリカン



B

ビーチクラフト(Beechcraft)

トラヴェル・エア社の社長であったウォルター・H.ピーチは1930年に、同社の製品を完全に設計変更した新しいモデル17を設計し、1932年4月に、妻のオリーブ・アピーチとともにカンザス州ウィチタに新会社、ピーチ・エアクラフトを設立した。モデル17は1932年11月4日に初飛行し748機が作られ、続いて1937年1月15日には初の双発機モデル18が進空した。このモデル18は大ベストセラーとなり、以後32年間に渡って7,091機が作られている。モデル18は軍用機としても、C-45/AT-7/AT-10/AT-11/JRB/SNBなどの名称で、多数が使用された。

1946年には単発機ボナンザが初飛行し、ピーチ社は以後、多くの単発および双発軽飛行機を生み出している。軍向け専用に開発した代表機としては、単発の練習機T-34メンター・シリーズがある。またミサイルや標的の製造も行なった。1980年2月8日にレイセオン社の100%子会社となったが、レイセオン・ピーチとして社名にピーチの名前は残っている。近年の大きなビジネスでは、スイスのピラタスと提携してPC-9の改造型ビーチMkIIをアメリカ空海軍のJPATS(合同基本航空機訓練システム)に提案し、T-6テキサンⅡとして採用されている。

⇒トラヴェル・エア、レイセオン


ベル(Bell)

コンソリデーテッド社がバッファローからサンディエゴに本拠を移した際に、同社の中核であったローレンスD.ベルらがバッファロー工場を購入し、1935年10月にベルエアクラフト社を設立した。1937年にはFM-1エアラクーダの製造を開始し、1938年4月にはP-39エアラコブラを初飛行させた。エアラクーダは試作機のみに終わったが、P-39はアメリカ陸軍に制式採用されて大規模量産に入り、1944年までにP-39 9,558機と発展型のP-63キングコブラ3,302機を製造した。同社初のジェット戦闘機原型XP-59は、その後発展してXP-83、さらにXS-1(後のX-1)となり、1947年10月14日に世界で初めて超音速飛行を行った。

他方、1943年中期には、モデル30軽ヘリコプターを初飛行させ、後にモデル47となって世界各国で6,000機以上が作られている。1956年10月にはさらにXH-40ヘリコプターがアメリカ陸軍からの契約を受け、UH-1ヒューイ・ファミリーとして世界の多くの国で使われる、軍用ヘリコプターの代表機となった。さらにUH-1は、武装へリコプターAH-1シリーズに発展した。他に単発の206ジェットレンジャー・シリーズ、双発のモデル212シリーズも、民間のみならず軍用ヘリコプターとして多数採用されている。

1960年7月5日にテキストロン社がベルの防衛事業を吸収し、バッファローにベル・エアロシステムズ社を、テキサス州フォートワースにベル・ヘリコプター社をそれぞれ設立し、1982年1月3日にはヘリコプター部門の社名がベル・ヘリコプタ・テキストロンとなり、また同時にベル・エアロシステムズでの航空機事業の活動を停止した。さらにフォートワース工場での活動を防衛および宇宙に集約するた1983年10月7日に民間およびその派生型軍用ヘリコプター(アメリカ軍向けを除く)の製造を担当するベル・ヘリコプター・カナダを設立した。現在フォートワースではAH-1およびOH-58そしてボーイングと共同のV-22オスプレイのプログラムが行われている。

⇒コンソリデーテッド


ベランカ(Bellanca)

1911年にイタリアのシシリーからニューヨークに移住したイタリア人、ジゼッペマリオ・ペランカは、1919年にライトエアロノーティカル社に入社、1922年にはCF単葉機の設計に携わった。1927年には、ライト・ベランカWB.2コロンビアが滞名時間および飛行距離の世界記録を設立し、その結果1927年12月31日付でベランカ・エアクラフト社が設立された。その後6人乗りのCH-200、CH-300を発表した後1930年には15人乗りのEAクルーザーを開発、アメリカ陸軍にもC-27エアバスとして採用されている。

1955年に製造権や工作工具類すべてがノーザン・エアクラフト社に売却され、さらに1967年にはミラー・フライング・サービス社に子会社として売却され、1970年に社名がペランカ・エアクラフトに変更された。新生ベランカは、シタブリアデカスロン、スカウトなどを製造したが、1980年に活動を停止し、1982年に資産はバイキング・エアクラフト社に売却された。

⇒ノーザン・エアクラフト、ダウナー、インターエア


ボーイング(Boeing)

イェール大学を卒業し、シアトルで建材商を営んでいたウィリアム・E.ボーイングが1914年に、カーチス水上機で飛行した後、アメリカ海軍のウェスターヴェルト中佐に「我々ならば、もっと良い飛行機が作れる」と言って、飛行機の製作に着手した。こうしてB&W水上機が作られて、1916年6月29日に初飛行した。ボーイングは、航空機製造のために1916年7月15日に、パシフィック・エアロ・プロダクツ社を設立、すぐに海軍と民間から航空機の注文を受け、仕事が急増したことから1917年4月に社名をボーイング・エアプレーンに変更した。

1923年には、戦闘機を試作し、陸軍でPW-9として、海軍でFB-1として採用され、その後の派生型も含めて1928~33年にかけてF3B/F4B/P-12ファミリー計600機以上を製造した。民間でも、郵便輸送用の機体を中心に各種の航空機を製造したが、それはここでは省略する。

1933年8月5日にボーイング・エアプレーンは、航空機製造の100%子会社として、ボーイング・エアクラフトを設立した。まずモデル294試作機を製造し、さらに続くモデル299はB-17爆撃機として陸軍に採用され、12,731機が製造された。さらに1942年9月21日にモデル345が進空し、B-29として制式採用された。ボーイングは、海軍の予算でレントンに工場を造りそこでB-29を1,122機を製造した。B-29は他にも、ウィチタ工場で1,644機が製造されたほか、ベル、マーチンの両社でも作られた。戦後に開発された旅客機、モデル377ストラトクルーザーは、輸送/空中給油機C/KC-97としてアメリカ空軍で使用された。

ジェット機の時代になると、B-47ストラトジェット(1947年12月17日初飛行)、B52ストラトフォートレス(1952年4月15日初飛行)と、アメリカ空軍の主力戦略爆撃機の量産契約を得ている。

旅客機の分野では、プロペラ機でダグラス社に大きく水をあけられていたボーイングは、将来の高速化時代を見込んで、1952年に当時の2,000万ドルの自社資金をつぎ込み、モデル367-80 4発ジェット輸送機を開発した。本機は、初めは民間機としては注文が得られなかったものの、アメリカ空軍が空中給油機KC-135として採用その後改良型が707民間ジェット旅客機として注文を集め、ジェット旅客機時代の墓を開けた。

1961年5月には、社名をボーイングに変更し、短距離路線向けジェット旅客機727を開発、さらに737超大型機747と旅客機ファミリーを広げ、世界最大手の航空機メーカーとしての地歩を築き上げた。こうしたことからボーイングは、航空機では大型機の製造を中心とするようになったが、他方1960年3月31日にはヴァートル社の株全株を購入し、ボーイング・ヴァートル社として傘下に入れた。

以後ボーイングは、757/767747-400新世代/次世代737そして最新鋭の777と旅客機ファミリーを拡大させた。軍用機では、E-3AWACS、E-6TACAMO、E-8J-STARS、さらに767改造AWACSなどといった大型機を中心に受注をしているが、いずれも旅客機をベースにした改造機である。アメリカ空軍の次期戦術戦闘機(ATF)計画にも、独自に戦闘機案を提示したが選定に敗れた。しかしチーム合意ができていたロッキード案がF-22として採用されたことから、全体の約1/3の作業量を確保している。アメリカ空軍および海軍/海兵隊とイギリス空軍の共同プログラム、共同攻撃戦闘機(JSF)計画では、ロッキード社と採用の座を競っている。

ヘリコプター分野では、ベル社と共同開発したV-22オスプレイが空・海・海兵隊の3年に、シコルスキー社と共同開発したRAH-66コマンチが陸軍にそれぞれ採用されている。

1996年8月1日には、ロックウェル社との間で、ロックウェルの航空宇宙・防衛事菜をボーイングが買収することで合意した。この部門は、ボーイングの100%子会社の、オーイング・ノースアメリカンとなっている。ただしこの点で、ロックウェルは独自の航空機の開発・製造は行っていない。

さらに1996年12月5日には、マクドネル・ダグラス社との合併に関する最終協定が調印され、ボーイングはマクドネル・ダグラスの旧事業をすべて吸収することとなった。新会社は、新生ボーイングとして1997年8月4日付で発足し、旧マクドネル・ダグラスの軍用固定費および回転翼軍用機(F/A-18、AV-8B、T-45、C-17AH-64など)は、ボーイングのマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ社(本社セントルイス)が統括することとなった

またAWACSなどの軍用機およびシステムはインフォメーション・アンド・コミュニケーション・システムズが、旧ボーイングの民間機はボーイング・コマーシャル・エアプレーン・グループが、そして旧マクドネル・ダグラスの民間機はダグラス・プロダクツ・ディビジョンが、それぞれ受け持っている。なお、防衛関係のマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ、インフォメーション・アンド・コミュニケーション・システムズ、宇宙分野のスペース・システムズ、防衛先端技術開発のファントム・ワークスの4部門を統轄する組織として、インフォメーション・スペース・アンド・ディフェンス・システムグループが設けられている。

⇒パシフィック・エアロ・プロダクツ、ボーイング・ヴァートル、ヴァートル、ロックウェル、マクドネル・ダグラス


ボーイング・ヴァートル(Boeing-Vertol)

1960年3月に、ヴァートル社の株式を、ボーイング社が全株取得したことで作られたボーイングの子会社。旧ヴァートルの事業・製品をすべて受け継いでいる。その後、ボーイング・ヘリコプターに社名を変え、マクドネル・ダグラス社との合併後はマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ社の傘下に組み入れられた。
⇒ボーイング、ヴァートル


ブリーズ(Breese)

1917年に、アメリカ陸軍向けにペンギン単葉機を開発した会社。初号機は高速地上走行とホップを行ったものの、飛行には失敗した。試作機を含めて301機が製造されているが、試作機が飛行できなかったことで、1機も使われなかった。


ブリュースター(Brewster)

1810年にジェームス・ブリュースターが設立した自動車会社が起源で、1932年にはブリュースター・エアロノーティカル社が作られて、航空機のフロートや機体部品の製造を始めた。1934年には独自設計機の開発に着手し、1936年4月15日には載索敵爆撃機XSBA-1を初飛行させた。この機体は、海軍航空機製造廠でSBN-1として30機が製造されている。

続いて1937年12月には、海軍向けの戦闘機原型B-139を初飛行させ、アメリカ海軍ではF2Aの名称で採用された。しかし本機は、輸出向けがほとんどで、その中でも有名となったのはイギリス空軍向けに製造されたバッファローである。507機が製造されたが、第二次世界大戦緒戦時にすでに敵戦闘機に対抗できるものではなくなっていた。続いてイギリス空軍向けにバッカニア(イギリス空軍名称バミューダ)を作ったが完全に失敗、大戦中にはF3Aコルセアを開発したものの、性能が悪くて1944年にアメリカ海軍から発注をキャンセルされ、これに伴い同社の歴史も幕を閉じた。


バッド(Budd)

エドワード・G.パッド・マニュファクチャリング社は、鉄道用貨車をはじめとするステンレス製品で有名であった。1943年には初めての航空機事業として、ステンレス・スチール製のコネストが貨物機を開発したが、注文はキャンセルとなった。それ以外には、アメリカ海軍向けにピーチJRB-3を17機ライセンス生産している。

バーゲス(Burgess)

1911年2月1日に設立された会社で、正式な社名はW.スターリン・バーゲス・アンド・カーチスである。なおこのカーチスは、カーチス社を興したグレン・カーチスとは何の関係もない。

バーゲスの最初の事業は、ファルマン社やライト社、カーチスなどの航空機のライセンス生産で、ライトモデルBをライセンス生産したバーゲス・モデルFがまずアメリカ陸軍に採用された。その後各種のライセンス生産機が、少数機ずつではあるが、陸軍と海軍に購入されている。初のオリジナル設計がモデル水上機で、陸軍が1913年に購入した。さらに続くモデルH練習機も陸軍が購入、6機を採用し操縦訓練に当時としては素晴らしい成果を収めている。またモデルS練習機は、海軍が7機を採用した。1917年にカーチスの一部門として吸収されている。

⇒カーチス


C

セスナ(Cessna)

日本では軽飛行機の代名詞として使われるほど、小型機のトップメーカーとして君隠している。おそらくはアメリカでどのメーカーよりも多くの航空機を製造しているセスナ社の起源は、1911年にカンザス州で農家を営んでいたクライド・V.セスナが、ブレリオ単葉機で墜落を繰り返したことにさかのぼる。墜落の結果、機体は改造され、これが最初のセスナ製の航空機となった。1916~17年にかけては、さらに2機をウィチタのジョーンズ自動車工場で製作している。その後セスナは本業の農業に戻ったものの、1925年にトラヴェル・エア社にヘッドハンティングされた。

1927年9月8日には同社を辞め、セスナ・ロース・エアクラフト社を設立、12月18日にはロースが抜けたため、社名をセスナ・エアクラフトに変えた。セスナによる最初の製品は、高翼の単葉機モデルAで、71機が作られている。その後も単発に軽飛行機やグライダーを数機種製造したが、1931年に不景気のため会社を閉鎖、新たにクライド・V.セスナ・エアクラフト社を興すが、航空機の製造は行わず、工場のスペースをステアマン社に貸していた。

1934年1月、セスナ・エアクラフトはウィチタに工場を建設して事業を再開、1935年に新型機C-34を初飛行させた。また1929年に開発したDC-6 4座席軽飛行機の発展型も作り、これらの機体はC-77としてアメリカ陸軍に採用された。1939年3月26日には、双発の5座席機T-50が初飛行し、この機体もAT-8/-17/C-78ボブキャットの名称で陸軍でも使用した。この双発軽輸送機は、大戦中に計5,399機も作られている。また戦争中にセスナは、B-29やA-26の主要部の製造も請け負った。

戦後は、再び軽飛行機メーカーに戻り、多くの傑作機を出している。中でも4座席のモデル170/172/175シリーズは、アメリカ空軍向けのT-41を含めて、1987年に製造中止になるまでに35,773機を製造した。セスナ172は近年、生産が再開されている。また1950年には、モデル305が陸軍の観測機として選定され、L-19バード・ドッグの名前で製造された。

この年には、ヘリコプターとジェット機の開発にも手を染め、このうちジェット機はT-37/A-37としてアメリカ空軍が選定、T-37練習機は1,268機が、A-37ドラゴンフライは577機が作られている。しかしこれらの機種は、セスナにあってはあくまでも、傍系で、製造主体は単発と双発の軽飛行機であった

1960年代半ばになるとセスナはビジネスジェット機の開発に乗り出し、サイテーションを完成させている。そして単発軽飛行機の販売が伸び悩むようになったことから、1977年にまずモデル150/152に生産を停止、1987年までに全単発機の製造が取り止めとなった。このためセスナの製造の主体はビジネス・ジェット機に移行し、このうちサイテーションⅡIは練習機T-47Aとしてアメリカ機軍に採用されている。

セスナは、1985年にジェネラルダイナミクス(GD)社の100%子会社となったが、1992年はGDがセスナの事業をテキストロン社に売却、現在セスナは、テキストロンの子会社となっている。

⇒ジェネラルダイナミクス


チャンス・ヴォート(ChanceVought)

⇒ヴォート


チェイス(Chase)

チェイス・エアクラフト社は、1943年にニュージャージー州で、グライダー・メーカーとして設立された。1946年に最初の製品であるXGC-18A全金属製グライダーの製造を開始し、その後5機のGC-18Aを製造している。この内の1機は後にエンジン2基が取り付けられ、YC-122輸送機に改造された。GC-18、C-122アヴィトラックともに、少数ではあるが、アメリカ陸軍で使用された実績を持つ。C-122に次いで、大型グライダーXG-20にエンジンを付けたXC-123も試作し、その2号機はジェット・エンジンを装備してアメリカ初のジェット輸送機として1951年4月21日に初飛行したが、C-123の選定ではフェアチャイルド社に敗れ、実用化はされなかった。1953年に、チフェイスの資産の大部分がカイザー・フレイザー(KF)社に売却されたが、その後KF社も営業不振に陥り、チェイスの活動は停止となった。


コンソリデーテッド(Consolidated)

1918年に、リューペン・H.フリートにより設立され、当初は郵便航空事業を行っていた。1922年には水上機メーカーであったガロウデッド社を買収することになり、1923年に同社の工場を取得した。その後、ジェネラル・モータース社が所有していしたデイトン・ライト社も加え、これらの事業がコンソリデーテッド社に一本化された。 

ガロウデッドの工場で最初に行われたのは、デイトン・ライト社が設計したTW-3練習機の製造で、さらにTW-3をタンデム座席に改良することとし、1925年にPT-1を完成させた。PT-1は成功作となり、アメリカ陸軍向けPT-3ハスキー、海軍向けNY-2輸出型へと発展し、合わせて800機以上を生産した。さらにPT-3を小型化したハスキ・ジュニアが計画されたが、ほとんど注文がなかったため、コンソリデーテッドの役員会は本機を生産しないことを提案した。このためリューベン・フリートは1928年にフリート・エアクラフト社を設立し、単独でハスキー・ジュニアの製造に乗り出した。フリート・エアクラフトは約半年後にコンソリデーテッドに吸収された。

1929年中期にコンソリデーテッドは、バッファローにある、カーチス社が所有していた戦時用大規模工場に移り、事業を拡大した。1931年にはYP-24複座戦闘機を完成させ、その後期型のP-30Aがアメリカ陸軍に採用されている。さらに1932年には海軍向けのP2Y-1/-3飛行艇を製造、1935年3月23日に初飛行したモデル28(XP3Y)は後にPBYカタリナ・シリーズとなり、アメリカのみならず旧ソ連でも生産され、著名な飛行艇の一つとなった。そして1939年12月29日にはモデル32爆撃機を初飛行させ、B-24リベレーターとして量産に入り、1945年までに各型合わせて19,203機もの大量生産が行われた。

コンソリデーテッドは1935年にバッファローからサンディエゴに移っており、さらに第二次世界大戦中にはテキサス州フォートワースに大規模な生産工場を設立した。この間の1940年にはホール・アルミニウム・エアクラフト社を買収したが、1941年12月にフリートはコンソリデーテッド株の34%を子会社のヴァルティを通じてアヴコ社に売却、1943年3月に完全合併を果たして、後にコンヴェア社が設立された(合併当時の旧社名はコンソリデーテッド・ヴァルティエアクラフト)

⇒ヴァルティ、コンヴェア


コンヴェア(Convair)

1943年3月に、アヴコ社の子会社であるヴァルティと、コンソリデーテッド社が合併して設立された、コンソリデーテッド・ヴァルティ・エアクラフト社がその前身。合併により同社は、従業員102,000人で13の部門を持つ大手航空機メーカーとなった。コンソリデーテッドは、第二次世界大戦中の大量産もあって、21機の試作機、リベレーターやカタリナなどの量産機計30,000機以上を生産したが、戦後は大幅に落ち込ん13,700機に減少、このため製造品目を、サンディエゴ工場のコンヴェア旅客機とフォートワース工場のB-36ピースメーカー爆撃機に集約し、社名もコンヴェアに変更した。また1948年には、ヴァルティの一部門であったスチンソン社をパイパー社に売却している。

ジェット時代に入ると、F-102デルタダガーおよびF-106デルタダート戦闘機、B-58ハスラー爆撃機を生産し、他方CV-880およびCV-990ジェット旅客機も開発・販売し軍用機は一応の生産機数を確保したが、旅客機についてはマーケティング能力の不足と資金難で、生産は少数にとどまっている。

1947年にコンウェアは、アトラス社に買収され、フロイド・B.オドラムが会長となったが、朝鮮戦争による特需で1953年に、同社の管理はジョン・ジェイ・ホプキンスに移された。ジョン・ジェイ・ホプキンスは、1947年にジェネラルダイナミクス社を興した起業家で、これによりコンヴェアはジェネラル・ダイナミクスの部門として吸収されることとなった。

⇒ヴァルティ、コンソリデーテッド、ジェネラル・ダイナミクス


コックス・クレミン(Cox-Klemin)

ロングアイランドのカレッジポイントに設立された小規模の航空機メーカーで、航空機のライセンス生産や輸入業を主体にしていたが、1922年にはアメリカ陸軍向けの空冷エンジン練習機TW-2(A-1)を開発・製造している。さらにアメリカ海軍との契約で、潜水艦搭載用のフロート式複葉素敵機XS-1を6機試作した。これ以降、同社は航空機開発を行ってい


カルヴァー(Culver)

1933年に設立され、複座単葉機を製作したダート・エアクラフト社が1939年に社名を変更したもので、モデルLが練習機カデットとして1939年に採用された。しかし第二次世界大戦が近づく中、生産はキャンセルされた。その後開発したPQ-8無線操縦標的とその発達型PQ-14は、戦争中に多数採用されている。戦後は、1946年にモデVを開発、機体自体は優れた設計だったが、会社が事業に失敗し、資産と製造権はスーペリアエアクラフト社に売却された。スーペリアではモデルVをスーペリアサテライトとして1957年12月20日に初飛行させたものの、量産・販売には至らなかった。


カーチス(Curtiss)

グレン・ハモンド・カーチスは、自転車や、大馬力エンジンの競走用オートバイなどの製造を手がけた後、1907年10月1日に航空自作協会(Aerial Experiment Association, AEA)を設立するが、それ以前にすでに飛行船用のエンジンの製作や、失敗には終わっているものの、航空機の試「ジューン・バグ」は、1908年6月20日に1kmの飛行を記録して、アメリカ科学賞を作を行っていた。AEAでは、会員用に航空機やエンジンを提供し、カーチスの自作機受賞している。

1909年3月30日カーチスはアウグスタス・ヘリングとともに、アメリカ初の航空機製造会社、ヘリング・カーチスを設立した。これが、世界最大の航空機メーカーへのスタートで、事実第二次世界大戦中までは、カーチスはアメリカを代表する航空機メーカーであった。しかし戦後は失敗が相次ぎ、会社そのものが消失してしまっている。


カーチスの初期の航空機は、いくつもの賞を受賞した。他方1908年には、ライト兄弟との間で不必要な論争を起こし、これは1913年まで続いた。その間の1910年12月1日には、ニューヨーク州ハモンズボートにカーチス・エアロプレーン社を作り、タイプCおよびタイプF飛行艇を手がけている。1911年12月19日には、カーチス・モータ一社も設立して、さらに1916年1月13日に両社を併合して、カーチス・エアロブレーン・アンド・モーター社とした。

カーチスは、アメリカ海軍にパイロットの訓練や航空機を提供し、アメリカ海軍航空の創設に大きく寄与した。また、大西洋横断が可能なH-4大型飛行艇も手がけ、イギリス海軍将校にそれが認められて、イギリス海軍の標準飛行艇として輸出されている。これが引き金となって、H-12とH-16飛行艇の大量産へと続き、さらにイギリスのポルテ社と共同でF-2A、F-5Lを製造した。

1914年にカーチスは、モデルJ練習機設計のためソッピース社からB.ダグラス・トーマスを呼んだ。この機体はその後JN-4練習機となって、戦時中のアメリカおよび連合軍パイロットの95%の訓練に使われ、6,000機を超す大量産が行われた。当時のその他の主要機種としては、MF訓練飛行艇、R-2およびR-6偵察機、R-6雷撃機、N-9練習機HS-1/-1LおよびHS-2沿岸飛行艇などがある。

1920年にカーチスでは、42種もの飛行機を飛行させている。第一次世界大戦が終わると、オリオール3座機や、3発のモデル19旅客機を製造、他方大馬力化したエンジンも開発して、それを搭載したレース機も作られ、アメリカ陸軍のR-6やアメリカ海軍のCR-3やR2C、R3Cはレースで勝利を飾っている。この時期のカーチスの成功作としては、D-12エンジンを装備した陸軍のPW-8戦闘機と、初期の海軍のF6Cホーク戦闘機が挙げられる。

もう一つの主力ファミリーが、ファルコン観測・攻撃機で、コロンビア向け100を含めて1925~32年の間に550機以上が製造された。カーチスは、ホークの名を用いて別のシリーズの戦闘機も開発・製造し、またアメリカ陸軍向けB-2コンドル爆撃機は、民間型も作られている。

1918年以降、カーチス自身は、設計コンサルタントの立場は続けたが、航空機以外への興味が高まり、航空機の作業の多くは、ジョージ・Aペイジの率いるチームが行うこととなった。そのため作業の主体は、旧エンジン工場であったニューヨーク州のガーデンシティで進められていた。

1928年には、セントルイスに新工場を開設し、これにより民間向けのロビンやコンドルを製造するカーチス・ロバートソン・エアクラフト社が作られた。また1929年8月8日には、古くからのライバルであったライト社と合併し、大規模な航空機メカーとなって社名もカーチス・ライトになった。新会社では、陸軍初の単葉機であるシュライク攻撃爆撃機(1931年)、海軍最後の複葉機の一つであるSOCシーガル(1934年)等を作った。また1930年にはロバートソン社がトラヴェル・エア社と合併し、カーチス・ライトを離れている

カーチス・ライトでは、航空機に"CW"を冠するようになり、CW-1ジュニア、CW-12スポーツ・トレイナー、CW-14、CW-19練習・戦闘機、CW-21戦闘機、CW-22(SNCファルコン)高等練習機などを製造している。当時の中で、同社最大のファミリーとなったのが、モデル75単葉戦闘機で、1935年5月15日に初飛行した。

モデル75は、ホーク75固定脚戦闘機、より大型のホーク75Aおよび引き込み式降着装置を持つP-36(イギリス空軍名称モホーク)、さらに大型化したホーク81シリーズのP-40(トマホーク、キティホーク、ウォーホーク)へと発展し、1944年12月までに合計13,738機もの機体が作られている。また第二次世界大戦中に活躍したその他の機体では、SBCヘルダイヴァー複葉機、SO3Cシーガル/シーミュー、SB2Cヘルダイヴァー、艦載爆撃機SCシーホーク、C-46コマンドー輸送機等があった。

戦後は、多くの航空機案を提案したものの、いずれもキャンセルとなっている。カーチスの名前が付けられた最後の機体は、XF-87大型4発ジェット戦闘機であった。

カーチスライト(Curtiss-Wright)

1929年8月8日に、カーチス社とライト社が合併して設立した。大規模な航空機製造会社。
⇒カーチス



D

デイヴィス・ダグラス(DavisDouglas)

マーチン社の主任設計者であったドナルド・ウィリス・ダグラスと、スポーツ選手のデイビッドR.デイヴィスが1920年7月22日にサンタモニカに設立した会社で、後ダグラス・エアクラフト社となる。事務所は、ピコ大通りの床屋の裏に設けられ、そこでまずデイヴィスのための競技機、クラウドスターを製造した。クラウドスターは1921年2月に初飛行している。そして1921年4月に、海軍から3機のDT雷撃機を受注し、最終的に46機を生産した。1921年7月に、ダグラス社として再編された。
⇒ダグラス、マクドネル・ダグラス、ボーイング


デイトン・ライト(Dayton-Wright)

ライト兄弟の弟オーヴィル・ライトが、政府向けの航空機を量産するために技術コンサルタントとなって、1917年3月に設立された。母体は1909年に設立されたライド社である。デイトンに2か所、モラインシティとマイアミスバーグの間に1か所の工場を持ち、DH-4とJ-1の量産を計画したが、契約は停戦でうち切られた。

1920年には管理がジェネラル・モータース社に移り、ブリストル戦闘機の派生型であるXB-1A 40機や、多くの試作機を作ったが、大規模な量産に至った航空機はなかった。親会社であるジェネラル・モータースは1923年に航空事業から手を引き、資産はリューベンフリート社に売却された。

⇒ライト、コンソリデーテッド


デトロイト(Detroit)

デトロイト・エアクラフト社は、1929年に設立された大規模な親会社組織で、航空機産業からの速やかな利益達成を目指したもの。設立後、ライアン社、イーストマン社、ロッキード社、ブラックバーン社、エアクラフト・デベロップメント社、パース・アンド・ウィントンエンジン社等を買収したが、1931年にその事業は失敗に終わっている。


ダグラス(Douglas)

ドナルドダグラスは、1915年にマーチン社の主任設計技術者として雇用された。やがて自分で独立した航空機メーカーを設立する意志を固め、1920年7月22日に、スポーツ選手のデイビッドR.デイヴィスとロサンゼルスに、デイヴィス・ダグラス社を設立した。最初に作った機体はクラウドスターで、1921年2月に初飛行している。そして1921年4月に、海軍から3機のDT雷撃機を受注し、これが初の軍用機となった。

同社は1921年7月5日にダグラス社となり、1922年夏には、拠点をサンタモニカに移し、DT雷撃機のほか、DTを基にしてワールド・クルーザーを製造、1924年3月17日から9月23日にかけて、ワールド・クルーザーは西回り世界一周を達成した。さらM-2およびM-4郵便機、C-1陸軍輸送機、T2D双発雷撃機、O-2観測機などを製造している

1928年11月30日には会社を再編成して、ダグラス・エアクラフト社となってさらに民間機・軍用機の双方の製造力を拡大した。1932年には、同社の技術者であったジョン・K.ノースロップが独立して、ノースロップ社を設立している。1930年代前半の大恐慌は、ダグラスにも若干の影響を及ぼしはしたが、航空の成長の波に乗って航空機への注文は順調に集まり、1933年にTWAの要求に基づいてDC-1を開発した。DC-1は、さらにDC-2DC-3へと発展し中でもDC-3は民間と軍用を合わせると10,000を超える大量産を行っている。

また、エド・ハイネマンをリーダーとする海軍部門では、戦前にはガンマ、デルタ、8A/A-17BT/SBDドーントレスを開発、第二次世界大戦中には6,000近くにするSBDドーントレスを製造している。他方陸軍向けとしては、DB-7/ボストン/ハヴォック/A-20高速攻撃機やA-26/B-26インヴェーダー、XB-194発爆撃機B-23双発爆撃機などを開発した。

第二次世界大戦が終戦を迎えると、軍用向けの大量産計画はそのほとんどがキャンセルされた。特に大量に作られた軍用輸送機は、民間の貨物輸送機や旅客機に転用され、新規製造の民間輸送機と競争関係になって、ダグラスの自社製品が自社の競争相手となる時代を迎えた。この時期にダグラスは「将来はブーツの中のように「暗い」と考えていた。このため1943年のピーク時には16万人いた従業員も、1946年には26,000人にまで減らし、新規製造機の引き渡しも年間127機にまで減少した。しかしこの中には、新しいDC-6があり、与圧キャビンを持ち高々度を高速で飛行できDC-6、さらにその後継のDC-7よって、ダグラスは息を吹き返した。

軍用機では、C-74グロープマスター、その搭載能力を大幅に高めたC-124グローブマスターII、C-133カーゴマスターを開発量産した。他方、超音速研究として空軍向けのX-3、海軍向けのD558スカイストリーク/D558-Ⅱスカイロケットを開発している。また、海軍の空母搭載用作戦機でも、ADスカイレーダー、F3Dスカイナイト、F4Dスカイレイ、F5Dスカイランサー、A3D/B-66スカイウォリア、A4Dスカイ・ホークと、続々と成功作を生み出している。

民間輸送機は、プロペラからジェットの時代へと移行し、長距離用のDC-8、そして短距離用のDC-9を製造、事業は順調かに見えたが、1960年代中期に深刻な資金難に陥り、1967年4月28日にマクドネル社と合併し、マクドネル・ダグラス社が設立されることとなった。マクドネルとの合併後は、ダグラスでは戦闘機や攻撃機の開発は停止され、大型機の開発のみを行うようになった。それも民間機が中心でDC-103発機をはじめとしてMD-80、MD-11、MD-90などを製造している。軍用機ではDC-10を給油機に転用したKC-10以外に、新規開発機としてはYC-15(装備計画はキャンセル)、そしてC-17グローブマスターⅢを輩出している。

1997年8月のマクドネル・ダグラスとボーイング社の合併により、ダグラス部門は、ダグラスプロダクツ部門となって、民間輸送機の製造のみを受け持つことになった。

⇒デイヴィス・ダグラス、マクドネル・ダグラス、ボーイング


ダウナー(Downer)

旧ノーザン・エアクラフト社。後にインターエア社。
⇒ベランカ、ノーザン・エアクラフト、インターエア



E

エド(Edo)

エド・エアクラフト社は1925年にロングアイランドに設立され、水上機の製作を行った。1946年に単座のフロートつき戦闘機試作機XOSE-1を2機、アメリカ海軍向けに製作、その後8機の量産を提示したが量産機は採用されなかった。



F

フェアチャイルド(Fairchild)

1924年に、写真撮影や観測に適した航空機を探していたシャーマンM.フェアチャイルドは、自分自身でそうした航空機を製造することを決め、ニューヨークのロングアイランドのファーミングデールに、フェアチャイルド・エビエーション社を設立した。そこで1926年にFC-1高翼2/3座機を開発し、さらにそのエンジンを220馬力のホワールウインドまたは450馬力のワスプに換装し、座席数も最大5座席とし、降着装置を車輪/スキッド/フロートのいずれも使えるようにしたFC-2を開発、量産に至っている。この機体は、カナディアン・ヴィッカース社でも作られた。

1929年には、クライダー・ライスナー社を買収し、1935年には社名をフェアチャイルド・エアクラフトとした。1936年には親会社としてフェアチャイルド・エンジ・アンド・エアプレーン社が作られたが、1939年にはフェアチャイルド・エアクラフトと、レンジャー・エンジン部門となっている。1930年代の代表的な製品は、まずC-8高翼単葉機で、1932年からはフェアチャイルド24(後のC-61フォワーダー/JK/アーガス)が作られ、この機は1,665機が製造されている。最も多数作られたのが、1939年に初飛行したM-62で、PT-19/-23/-26/カーネル練習機として、カナダでの製造やライセンスを合わせて、9,260機が生産された。

軍用輸送機としては、C-82パケット、C-119ボックスカー等を戦後に生み出し、小型輸送機C-123プロヴァイダーも製造した。1966年には、スイスのピラタス社からボピーターのライセンス権を買い取って、アメリカ海軍向けAU-23Aとして製造している。

1964年にはヒラー社を、1965年にはリパブリック社をそれぞれ買収し、社名をフフェアチャイルド・ヒラーとしたが、1966年にはフェアチャイルド・インダストリーに社名を変更した。フェアチャイルド最後の成功作は、アメリカ空軍の次期攻撃機(A-X)計画で採用されたA-10サンダーボルトであった。その後、空軍の次期練習機T-46Aも受注したが、フェアチャイルドの管理の悪さが指摘されて計画が見直され、キャンセルとなった。また、スウェーデンのサーブ社と共同で開発した小型旅客機SF340計画からも、1988年に最終的に手を引いている。

そして子会社であったメトロ・エビエーション社も売却し破産手続きをとり、1990年9月29日に裁判所により破産が認められた。

⇒ヒラー、リパブリック


フェアチャイルド・ヒラー(Fairchild-Hiller)

1964年にフェアチャイルド社がヒラー社を買収し、社名をフェアチャイルドからフェアチャイルド・ヒラーに変更した。アメリカ陸軍向け観測ヘリコプターYOH-5を開発したが、採用はされなかった。
フェアチャイルド、ヒラー


フェデラル(Federal)

1928年サンベルナルディノに、フェデラル・エアクラフト社として設立された会社で、旧称はライアン・マシーンズ・モノプレーン。会社はライアンNYPの作業に係わった技術者により作られ、NYPと同様の5座席機CM-1ローン・イーグルと、3座席このCM-3を製造した。またアヴロアンソンをカナダ向けに1,832機を製造し、さらにアメリカ陸軍向けにもAT-20として50機を作っている。
⇒ライアン


フォード(Ford)

1925年8月に、2-ATブルマンなどを作ったスタウトメタル・エアクラフト社をへンリー・フォードが買収し、3発8席機の3-ATを開発した。この発展型が4-ATで、傑作機フォード・トライモーターとして知られている。このトライモーターは、アメリカ陸軍にC-3として採用され、海軍でもJRとして購入した。C-3のパワーアップ型がC-9、5-ATをトライモーターをベースにしたのがC-5/RRである。

フォードによる航空機の開発・製造はトライモーターがよく知られているだけだが、1941年にはフォード・モータース社がコンソリデーテッドB-24リベレーター爆撃機の製造の一部を受け持ち、1945年8月1日に作業が停止されるまでに6,915機を製造し、さらに1,894分のコンポーネントなどを製造した。また、ワコーGC-4Aグライダーも4,190機を作っている。

⇒スタウト



G

ゲイツ・デイ(Gates-Day)

-ゲイツ・ディ・エアクラフト社は1927年に、チャールズ・H.ディが設計した航空機を作るために設立されたもので、まずスタンダードJ-1の製造に着手、その後G-D245座席複葉機を開発した。1928年にニュー・スタンダード社となる。
⇒スタンダード、ニュー・スタンダード


ジェネラル(General)

1930年5月に設立されたジェネラル・エピエーション社は、フォッカーの設計した航空機を製造するための会社であった。アメリカ陸軍では、フォッカーFXIV単発高翼機をC-14としてその医療型をC-15として、FXIをC-16としてF324発機をC-20として、同社から購入している。1933年にはノースアメリカン・エビエーション社と合併した。1934年の航空郵便法で航空機の生産および運航を一つの会社で行うことが禁止されたため、ノースアメリカンは製造会社として事業を続けることを決定し、ジェネラル側の資産を買い取ってカリフォルニアに移動、製造業のための新組織を作った。
⇒ノースアメリカン


ジェネラル・ダイナミクス(General Dynamics)

1947年に設立された会社で、1954年4月29日にコンヴェア社の株式の過半数を保有し、コンヴェアを同社の傘下におさめた。コンヴェアは、コンヴェア(航空機)、アストロノーティクス(アトラスICBMと宇宙機)、フォートワース(航空機)、ポモナ(地対空ミサイル)、エレクトロニクスの5部門に分けられ、航空機としては、F-102および、F-106戦闘機、CV-880およびCV-990ジェット旅客機等を開発した。

1954年8月には、フォートワースにおけるB-36爆撃機の生産が終了したが、さらにその後8年に渡って改修作業契約が与えられ、また並行してB-58プログラムが進められた。1960年からは、F-111可変翼戦闘爆撃機プログラムが始められた。

1961年には、各部門が完全に分離されて、社名はジェネラル・ダイナミクスに統一された。航空機の開発・製造活動はテキサス州フォートワースに集められ、アメリカ空軍の空戦戦闘機計画にF-16を提案して勝利し、F-16はその後も諸外国からの注目を集め、フォートワースの大成功作となっている。

1985年3月にジェネラル・ダイナミクスはセスナ社を買収したが、1992年にこれをテキストロン社に売却した。

F-16以降の軍用機プログラムでは、マクドネル・ダグラス社と共同でA-12アヴェンジャーIIを提案し、いったんは採用されたが後に計画がキャンセルとなった。またアメリカ空軍の次期戦術戦闘機(ATF)でも、独自案は敗れ、ロッキード社とチームを組んでF-22計画に参加することとなった。

しかし1993年3月1日に、フォートワースの戦術軍用機部門はロッキードに売却され、現在ではロッキード・マーチン戦術航空機システムズ(LMTAS)に名称を変えて、F-16プログラムと、統合攻撃戦闘機(JSF)計画を推進している。旧ジェネラル・ダイナミクスのフォートワース部門が分担していたF-22の作業シェアは、そのままLMTASに受け継がれている。

⇒コンヴェア、ロッキード・マーチン


ジェネラル・モータース(GeneralMotors)

自動車会社で、傘下のイースタン・エアクラフト部門は1942年3月に設立されて戦時中にFM-1/-2ワイルドキャット、F3Mペアキャット、TBM-1/-3アヴェンジャーを製造した。また、もとはジェネラル・モータースのフィッシャー車体部門であったフィッシャー社は、アメリカ空軍向けに既存の航空機部品を使った長距離護衛戦闘機XP-75を提案したが、試作のみに終わった。同社の航空機製造活動は、この第二次大戦中のみであった。


グッドイヤー(Goodyear)

タイヤメーカーとして有名なグッドイヤー社は、第一次世界大戦時にアメリカ海軍向けの飛行船を製造し、さらに戦後により大型の飛行船を開発するため、グッドイヤー・ツェッペリン社を設立した。1939年12月5日には、その親会社としてグッドイヤ・エアクラフト社が作られ、FG-1コルセア、F2G両飛行船を開発・製造している。


グレート・レイクス(Great Lakes)

グレート・レイクス・エアクラフト社は、1928年末にクリーブランドに設立された会社で、マーチンT4M雷撃機をベースに、8座席のミス・グレート・レイクスを作ることを目的とした。他方、マーチンT4MをTG-1の制式名称で製造したほか、それを発展させたTM-2も含めて合わせて50機を生産した。この実績により海軍から複座急降下爆撃機BGの製造契約を受注し、1933年から量産型BG-1を66機引き渡している。これに続いて発展型のB2G飛行艇XSGも発注されて開発したが、これらは実用には至らず、同社の航空機製造活動も1930年代に終わった。


グローヴァー・レーニン(Grover Loening)

1928年の買収によりレーニン・エアロノーティカル社を辞したグローヴァー・レーンが興したのが、グローバヴァー・レーニン・エアクラフト社である。1936年まで小型の飛行艇の開発・製造を行い、海軍にも採用されている。
⇒レーニン


グラマン(Grumman)

アメリカ海軍で飛行教官やテスト・パイロットに従事していたリロイ・ランドル・グラマンは、技術者としてレーニン社に雇われた。1928年にレーニンがキーストン社と合併すると、グラマンと中核技術者は独自の会社を作ることを計画、レーニンの従業員と資金を集めて、1929年12月6日にニューヨーク州ロングアイランドのバルドウィンに、グラマン・エアクラフト・エンジニアリング社を設立した。当初の事業は、レーニンの飛行艇の支援および修理であったが、グラマンは中央フロートに取り付ける、カタパルト発進や着艦に十分耐える強度を持った引き込み式の脚を設計し、その販売活動も行なった。

これが基になって、引き込み脚を持ち、海軍の最新単座機よりも時速11マイル高速の、グラマン最初の航空機XFF-1複座戦闘機が誕生した。その後もF2F、F3F単座戦闘機を開発し、製品にJ2F般用飛行艇、グース、ウィジョンなどを加え、グラマンは倍々ゲームで成長を続けた。1936年には、複葉戦闘機を急遽手直しして単葉のF4Fを開発し、これはワイルドキャットとして7,839機が生産されている。

その一方で、ボブ・ホールが傑出した雷撃機TBFアヴェンジャーを開発し、1941年8月7日に自らの手で初飛行に成功した。TBFはその後の発展型も合わせて9,939機が作られた。さらに戦闘機では太平洋戦線で日本機に十分対抗できるF6Fヘルキャットを生み出している。F6Fも大量生産が行われ、ペスページ工場だけで30か月で12,275機が作られた。

戦争末期には、大馬力エンジンを使ったF7F、F8Fベアキャットを開発したが、後はジェット時代に突入し、最初のジェット戦闘機F9Fでは、直線翼のパンサーと後退翼のクーガーがアメリカ海軍艦載戦闘機として成功を収めている。超音速戦闘機ではF11Fタイガーが開発されたが、こちらは失敗に終わった。また可変翼を用いたXF10Fジャギュアも試作されたが、成功しなかった。

大型機では、まずアルバトロス大型多用途飛行艇を開発、さらに対潜哨戒機S-2トラッカーが作られ、AEW型トレイサー、輸送型トレイダーも含めて多数が生産された。また陸軍向け観測機、OV-1モホークも製造している。

1958年8月14日には、本格的な輸送機としてGⅠを初飛行させ、それがさらに発展して双発のビジネスジェット機GIIとなった。GI、GIともに成功作ではあったが、グラマンの事業の主体は海軍/海兵隊向けに置かれており、A-6イントルーダー攻撃機、その派生型EA-6Bプラウラー電子戦機、E-2ホークアイ早期警戒機が開発・量産されて、アメリカ海軍海兵隊でそれぞれの役割において主力の座に就いた。

1968年にF-111のアメリカ海軍向けF-111B計画が頓挫すると、それに代わる戦闘機計画が出され、グラマンがF-14トムキャットの生産契約を得た。F-14は712機が引き渡され、傑作戦闘機として高い評価を得たが、その一方でグラマンによる新型機の開発はこれ以降うまくいかなくなった。1978年には民間機を担当するグラマン・アメリカ部門をアメリカン・ジェット・インダストリーズ(AJI)社に売却し、1994年5月1日には残る全体がノースロップ社に買収され、5月18日付で新会社ノースロップ・グラマン社となった。ノースロップ・グラマンは1997年に、ロッキード・マーチン社と合併している。

⇒レーニン、ガルフストリーム、ノースロップ、ノースロップ・グラマン、ロッキード・マーチン


ガルフストリーム(Gulfstream)

1978年9月1日に、グラマン社は民間機事業部門であるグラマン・アメリカンをアメリカン・ジェット・インダストリーズ(AJI)社に売却し、グラマン・アメリカンの事業はサバンナで継続された。1979年にガルフストリーム・アメリカンに名称が変更された。グラマンは、ガルフストリームとの契約のもとで、ガルフストリームⅡの発展型ガルフストリームⅢの設計作業を行った。こうしたビジネス・ジェット機のシリーズは、現在ではガルフストリームⅣ、長距離向けのガルフストリームVへと発展している。このうちガルフストリームⅡがC-11として、ガルフストリームⅢ/IVがC-20として、アメリカ空・海軍に採用されている。

ガルフストリーム・アメリカンは、親会社であるAJIの指示で、モデル500ハスラ・ターボプロップ/ターボファン併用ビジネス機、モデル600ベリグリン複座ジェット練習機を開発、さらにロックウェル・コマンダーの生産販売権も買い取って、ガルフストリーム・エアロスペース社となったが、1985年3月にハスラーとペリグリレンの開発計画を中止した。またこの年に、株式がクライスラー社に購入された。しかし1990年3月19日には、事業をグラマンから買収したアレン・ポールソンとフォーツマン・リトル社が株式を再引き取りし、1992年9月にはフォーツマン・リトルがポールソンの株式を買い取っている。

⇒アメリカン・ジェット・インダストリーズ、グラマン



H

ヘリオ(Helio)

1948年に、LLボリンジャー博士とO.C.コッペン博士により、STOL機の製造のために設立された会社。最初の機体であるクーリエは、1949年4月8日に初飛行して500機が生産され、アメリカ軍でもパワーアップ型がU-10/L-24およびL-28スーパー・クーリエとして装備された。また、クーリエを双発化して6座席としたツイン・クーリエもU-5として2機を空軍が評価用に購入したが、こちらは制式採用には至らなかった。

ヘリオは、1969年にジェネラル・エアクラフト社の一部門となり社名をヘリオ・エアクラフトに変更、その後もこの部門の売却が続き、そのつど社名をヘリオ・クーリエ、ヘリオ・プレシジョン・プロダクツと変えたが、1976年にはヘリオ・エアクラフトに戻っている。1984年にはエアロスペース・テクノロジー・インダストリアーズ社に買収され、さらに1989年11月にはエアクラフト・アクイジション社に売却されている。現在は、航空機の生産を行っていない。


ヘリパーツ(Heliparts)

1971年に、ヒラー社のモデル12を生産するためにカリフォルニアに作られた会社で、後にFH-1100も製品群に加えた。1973年にヒラー・エビエーションに社名を変更し、1984年にロジャーソン社の子会社となったことで、1985年にはロジャーソン・ヒラー社となった。
⇒ヒラー、ロジャーソン


ヒラー(Hiller)

1942年に、フランク・ヒラーにより、小型の同軸ヘリコプターを開発するために、ヒラー・インダストリー社に航空機部門が作られた。1944年に、Hx-44ヒラーコプタ試作機を披露している。1946年6月にはUH-4コミューターを開発したが、その後の機体は同軸方式をやめて、通常型ヘリコプターとなった。その最初の機体がモデル360で、1948年10月に型式証明を取得した。

この1948年にヒラー・インダストリーは再編成を行い、航空機部門を中心としてヒラー・ヘリコプター社となった。そこで手がけたモデル12ファミリーは、アメリカ陸軍にH-23レイブンとして採用され、1965年までに2,000機以上が引き渡された。X-18(YC-122)は、ティルト・ウィングを用いたVTOL試作機であったが、量産には至らず、陸軍向け観測ヘリコプターとして開発されたOH-5も競争に敗れ、民間のFH-1100としてのみ量産された。1964年5月にはフェアチャイルド社の傘下に入って、フェアチャイルド・ヒラーとして社名は残ったが、1966年に社名がフェアチャイルド・インダストリーとなったことで、ヒラーの名前は消えた。

1971年には、モデル12(UH-12)ヘリコプターを作るために、カリフォルニアにヘリパーツ社が作られ、1973年1月に同社は社名をヒラー・エビエーションに変更し、ヒラーの名前が復活した。同社ではUH-12、UH-12ET/E4T、そしてFH-1100を生産した1984年4月にはロジャーソン・エビエーション社の子会社として吸収され、1985年にロジャーソン・ヒラーに社名を変えた。

⇒フェアチャイルド、ヘリパーツ、ロジャーソン


ハワード(Howard)

カーチス社に勤めていたベン・ハワードは、1923年に独自にダム・グッド・エアプレーン(DGA)-1を製作した。その発展型として1930年には、レース用のDGA-2を作り、その後も一連のレース機を製造し、DGA-6は、4座席機でありながら、1935年のアメリカの主要三レースで勝利している。こうした成果から、1937年にイリノイ州でハワード・エアクラフト社を興した。

ハワード・エアクラフトの主力製品であったDGA-15 4/5座席機は、アメリカ海車でもGH-1輸送機、GH-2医療機、GH-3輸送機、NH-1計器訓練機として採用された。また陸軍も、UC-70として調達している。また民間の訓練用としてDGA-18も製造したが、こうした活動は第二次世界大戦前に終了し、歴史に幕を閉じた。


ハフ・ダーランド(Huff-Daland)

ハフダーランド・エアクラフト社は1920年にブリストルで設立され、単発の複葉機の製造に着手した。そして同社の航空機を農業に使用するための会社、ハダーランド・ダスターズ社が作られ、独自に開発した単発機パファーを使用した。このパファーは、少数機ではあるが、アメリカ陸軍(TW-5、AT-1/-2)と海軍(HN-1/-2)に練習機として採用されている。

1923年5月に作られたXLB-1試作爆撃機は、LB-1ペガサスとして1925~34年のアメリカ陸軍の貴重な爆撃機となり、生産はさらにLB-3、LB-5パイレートへと続いた。1927年3月8日に、キーストン社に買収された。

⇒キーストン


ヒューズ(Hughes)

ハワード・ロバート・ヒューズは、レーサーに資金を拠出するとともに機体の設計を行い、1935年9月13日にはレーサーが、陸上機の世界記録を樹立した。1943年7月に完成したD-2は、アメリカ陸軍航空軍のXF-11写真撮影機として採用され、また1947年には世界最大の飛行艇H4を完成させた。

こうしたヒューズの航空活動は、1936年に、油田掘削機メーカーであったヒューズ・ツール社の子会社として設立された、ヒューズ・エアクラフト社が管理することとなった。ヒューズエアクラフトでは、航空機の開発は手がけずに、電子機器やレーダー、空対空ミサイルを開発・製造するようになった

他方、1970年にヒューズ・ツールは組織変更を行って、新たな子会社、ヒューズ・ヘリコプターを設立した。同社ではモデル269/300/TH-55レシプロヘリコプター、モデル369/500/OH-6タービン単発ヘリコプターを開発、さらにアメリカ陸軍の発達型攻撃ヘリコプター(AAH)計画でYAH-64が勝利し、AH-64アパッチとして採用されている。1984年1月6日にヒューズ・ヘリコプターはマクドネル・ダグラス社の子会社となり、後に社名をマクドネル・ダグラス・ヘリコプターに変更、さらに1997年8月のマクドネル・ダグラスとボーイング社の合併により、ボーイングのマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ社の傘下に入った。

⇒マクドネル・ダグラス・ヘリコプター、ボーイング



I

インターエア(Inter-Air)

ダウナー社の新社名。
⇒ベランカ、ノーザン・エアクラフト、ダウナー


インターステート(Interstate)

1937年4月、カリフォルニア州ロサンゼルスのエルセグンドに設立されたインターステート・エアクラフト・アンド・エンジニアリング社は、航空機用のコンポーネントや装備品を各種製作していた。そして1940年にタンデム複座単葉のカデット練習機を初飛行させ、これはアメリカ陸軍でXL-6観測機として評価試験が行なわれ、L6(旧称0-6)グラスホッパーとして250機が採用されている。



K

カマン(Kamman)

1945年12月に、チャールズ・H.カマンが、サーボ・フラップ制御付きのインターメッシュ・ローターを持つヘリコプターを開発するために設立した会社で、1947年にKA-125Aを製作した。続いて1948年にはK-190、1949年にはK-225(YH-22)を製造してる。K-225は、ボーイングの協力を得て開発された初のタービン機で、発展型がHOK1/HTK-1として陸軍に採用されている。

1959年7月2日に初飛行したHU2K(H-2)シースプライトでは、通常型のヘリコプターに切り替えた。このH-2は、小型の対潜ヘリコプターとして、アメリカ海軍で採用されたのを始め、多くの国に輸出されている。

現在生産しているのは、ユニークな民間用の単座輸送ヘリコプターK-MAXで、その他にはローターやヘリコプター・コンポーネントの副契約社としての作業が多い。設立当初の社名はカマン・エアクラフトであったが、1995年にカマン・エアロスペースになっている。


キーストン(Keysotne)

1927年3月8日にハフ・ダーランド社の事業を受け継いだ会社で、B-1スーパー・サイクロップス、LB-3リバティ、LB-5パイレート、XLB-6パンサーのアメリカ陸軍向け製造を続けた。このほかにも海軍に、XNK-1バップ武装練習機を製造したほか、プロト3座席機、パスファインダー10座席複葉旅客機、パトリシアン19/20席単葉旅客機などを製造している。1933年はじめにカーチス・ライト社に併合されて、社名は消えた。
⇒ハフ・ダーランド、カーチスライト



L

リアジェット(Learjet)

1962年にカンザス州ウィチタに設立された、ビジネス機の製造メーカーで、当時その社名はリア・ジェット(LearJet)であった。1967年にゲイツ・ラバー社により買収され社名をゲイツ・リアジェットに変更、さらに1987年に株式の多くをインテグレーテッド・アクイジション社に買収されたことで、現在のリアジェットに社名が変わった。さらに1990年7月22日には、カナダのボンバルディエ社の傘下に入ってい

軍用機としては、モデル35を連絡/輸送用などとしたC-21が、空軍により使われている。

ロッキード(Lockheed)

1904年、当時15歳だったアラン・ハインズ・ロッキード(綴りはLougheadだが、発音はLockheedと同じ)は、サンホセでレース機を自作した。またこの年に彼は飛行機の操縦を学び、航空の世界に入った。1910年に、シカゴで「航空機の設計」と「空の乗り物」という本を見つけ、さらにシカゴの自動車レース場で飛行士のジム・ブリューと出会っている。そしてある日、ジムが雪降る中彼のカーチスプッシャーで離陸に失敗した後、アランは何の指導も受けずに飛行に成功した。

その後サンフランシスコに戻ると、モデルGと呼ぶ3座の水上機を製作し、1913年6月15日に初飛行させた。そして1915年には、モデルGがパナマ~太平洋博覧会に際して600人の乗客を運び、4,000ドルを稼ぎ出している。そして1916年3月、サンダバーバラにロッキード(Loughead)エアクラフト・マニュファクチャリング社を設立大型のF-1飛行艇の開発に着手した。このF-1の船体や主翼のレイアウトは、若手技術者のK.ノースロップが行った。F-1は、1918年3月28日に初飛行し、時には12人を乗せるなど成功を収めたが、第一次世界大戦が終わったことから海軍は本機の採用を取りやめた。

第一次世界大戦後は、航空機の注文もなく、不振の日々が続いた。この間の1918年に、アランは社名をもっと一般の人が発音しやすいようにと、綴りをLockheedと変え、さらに1926年にはハリウッドの小さな作業場にロッキード・エアクラフト社を設立した。同社最初の製品が、1927年7月4日に飛行したヴェガで、この機体は144機が生産された。

1929年7月には、ロッキードはデトロイト・エアクラフト社傘下の11社の内の1社となり、エア・エクスプレス、シリウス、オライオンといった高速旅客機の開発を提案した。しかしデトロイトは、あらゆる投資や研究を禁じ、航空活動を妨害して1932年4月に没落した。ロッキードは、ヴァイキング社を設立したが、ステアマン社を援助したロバート・E.グロスに買い取られた。ロッキードの全金属製オライオンの提案は却下されたものの、双発のモデル10エレクトラを開発、1934年2月23日に初飛行してその後に成功作となった。

このエレクトラの風洞試験はミシガン大学で行われ、そこにいた若き技術者、クラレンス(ケリー)・L.ジョンソンは尾部の改修を提案した。その後彼はロッキードに入社し、設計者として大きな役割を果たすことになる。エレクトラはさらに高速型のモデル12、14、18へと発展し、モデル14はイギリス航空省にハドソンとして採用されたほか、各種の型がアメリカ陸軍で使われた。またモデル18は、ヴェンチュラ/PBO/ハープーンとして、軍で使用されている。

1939年1月27日に初飛行した斬新なXP-38は、P-38ライトニング戦闘機として完成され、第二次世界大戦の名戦闘機の一つとなった。第二次世界大戦終戦前の1944年1月8日には初のジェット戦闘機、XP-80シューティングスターが完成し、P/F-80が試作機と量産型などを含めて1,618機、発展型の夜間戦闘型F-94 854機、練習機型のT-33が6,700機以上(ライセンス生産を含む)作られている。大型軍用機ではP2Vネプチものとした。ューン対潜哨戒機、C-130ハーキュリーズ輸送機も1940年代後半から1950年代前半に開発され、航空機メーカーとしてのロッキードの地位を確固たるものとした。

その後もC-141スターリフターおよびC-5ギャラクシージェット輸送機、エレクトラから発展させたP-3オライオン対潜哨戒機を生み出している。他方、1954年3月4日には、超音速ジェット戦闘機試作機XF-104が初飛行し、F-104としてアメリカ空軍やNATO諸国あるいは日本などで採用された。

設計者としての力量が認められたケリー・ジョンソンは、秘密プロジェクトのチームである『スカンク・ワークス』を率いて、1955年8月1日に高々度偵察機U-2を完成させている。さらに1962年には、高度80,000フィート以上をマッハ3で飛ぶ研究機A-12を開発、迎撃戦闘機YF-12としては成功しなかったものの、高々度高速戦略偵察機SR-71として実用化され、その存在は常に注目を集めていた。

『スカンク・ワークス』では、1970年代に入るとステルス技術の研究を本格化させ、ハブ・ブルー研究機を製作、その成果を生かしてF-117ステルス戦闘機が誕生した。またアメリカ空軍の次期戦術戦闘機(ATF)計画で、YF-22が1991年4月23日に勝利し、F-22としての量産が始まっている。

ロッキード・エアクラフトは、1977年9月に社名をロッキードに変更し、1993年31日にはジェネラルダイナミクス社の戦術航空機部門を買収した。さらに1994年月8月30日には、マーチン・マリエッタ社との合併を発表、1995年3月15日に作業を完了して、新社名をロッキード・マーチンとした。そして1997年にはノースロップ・グラマン社も吸収し、巨大航空軍事企業となっている。

⇒ロッキード・マーチン


ロッキード・マーチン(Lockheed-Martin)

1995年3月15日に、ロッキード社とマーチン・マリエッタ社が合併して誕生した、大規模な航空軍事企業。アメリカ最大の国防総省契約企業であり、また最大のNASA契約企業でもある。社内は五つの組織に大きく分かれていて、そのうち航空機の開発生産を担当しているのは、ロッキード・マーチン・エアロノーティカル・セクターである。

エアロノーティカル・セクターは、さらに五つの会社組織に分かれていて、ジョージア州マリエッタに本拠を置くロッキード・マーチン・エアロノーティカル・システムズ社(LMAS。F-22、P-3C-130など)、カリフォルニア州パームデールに本拠を置くロッキード・マーチン・スカンク・ワークス社(先端技術開発など)、テキサス州フォートワースに本拠を置くロッキード・マーチン戦術航空機システムズ社(LMTAS,F-16,JSFなど)が主体の三つである。ほかの二つは、ロッキード・マー「チン・ロジスティックス・マネージメント社と、ロッキード・マーチン・エアロアンド・ネイバル・システムズ社である。

また1997年には、ノースロップ・グラマン社を吸収した。

⇒ロッキード、マーチン、ジェネラルダイナミクス、ノースロップグラマン


レーニン(Loening)

1911年にグローヴァー・C.レーニンは、大学卒業後すぐに単葉飛行艇を開発した。その後レーニンは、オーヴィル・ライトとともに働き、さらにアメリカ陸軍信号隊に勤務して、1917年12月にレーニン・エアロノーティカル・エンジニアリング社を設立した。最初の作品がM-8複座単葉戦闘機で、その高性能が陸軍の目に止まって5,000機が発注されたが、第一次世界大戦の終結に伴いすべてキャンセルとなった。

その後は、海軍向けにM-8-0およびM-8-1水陸両用機、陸軍向けにPA-1戦闘機を少数機製造、1923年に開発した複葉の複座観測飛行艇OLは、旧式な設計にもかかわらまず、陸軍と海軍から計160機受注している。さらにこれに続いてJ2Fダックの製造も約束されたが、1928年にキーストン社との合併により航空事業を停止J2Fの製造はレーニンから独立して作られた新会社、グラマンに移った。

グローヴァー・レーニンは、キーストンとの合併に伴い新会社からは離れて、グローヴァー・レーニン・エアクラフト社を設立した。そこで1936年まで、少数の飛行艇を民間および海軍向けに製造した。

⇒グローヴァー・レーニン、グラマン


LTV(LTV)

チャンス・ヴォート社が1961年8月31日にリングテムコ・エレクトロニクス社と合併したことにより、社名がリング・テムコ・ヴォート(LTV)となり、ダラスでチャンス・ヴォートの航空機生産事業を継続した。その後会社の組織改編による名称の変更が続き、1976年に一度ヴォート社となった後、1986年にLTVエアクラフト・ブログクツ・グループ、1990年にLTVエアロスペース・アンド・ディフェンス社となった。

1992年8月31日に同事業はカーライル・グループとノースロップ社に売却され、社名をヴォートに戻し、ヴォート・エアクラフトになっている。航空機事業についてはヴォートを参照。

⇒ヴォート


ラスコム(luscombe)

モノクーペの設計者であったドン・A.ラスコムが、1933年にカンザスシティに設立したのが、ラスコム・エアクラフト・エンジニアリング社で、1934年には4座席のモデル90(ラスコム4)を開発した。続いて1938年には発達型のモデル8aを完成させ1,100機を生産している。これとほぼ同じで複座としたのがシルヴァイルで、軍でも使用された。

戦後同社は、ラスコム・エアプレーンに社名を変更したが、1949年に事業に失敗し、テムコ社に買収されて1955年に航空機の生産を終了した。なおシルヴァイルは、農業機等として戦後も売れ続けたため、シルヴァイル・エアクラフト社が1954年に設立され、1955年1月に製造権を買い取って、1961年までシルヴァイルの生産を続けた。


LWF(LWF: Lowe-Willard-Fowler)

LWFエンジニアリング社は1915年に、ジョセフ・ローウェ、チャールズ・F.ウィラード、ロバート・G.ファウラーの3人により、ロングアイランドのカレッジポイントに設立された。このうちウィラードは1914年に、木製合板(モノコック)胴体で特許を取得している。そして1916年に設立者3人が会社を去ると、本来は3名のイニシャルを組み合わせたLWFは、積層木製胴体(Laminated Wooden Fuselarge)に意味を変えている。

1915年に開発したV-1複葉練習機は、その発展型V-2/-3が1916年から1918年にかけて、201機が生産され、うち135機がアメリカ陸軍で使われている。また、8座席の単発輸送機T-3を開発し、1923年に1機を陸軍に納入、引き続き8機の量産契約を得たが、後にキャンセルされている。



M

マーチン(Martin)

1905年に自動車修理業を始めたグレン・Lマーチンは、その2年後に自作グライダーで滑空飛行を行うようになった。1909年には航空機の操縦を独学で学び、自動車修理業をやめて、1911年にサンタアナにグレン・Lマーチン社を作って航空機製造業に着手した。1912年には各種のモデルT複座複葉機を作り、陸軍が購入した3座のTTは、パイロットと乗客2名を乗せて7時間4分の飛行を行っている。

1916年になると、ライト社を初めとする複数の航空機メーカーが合併し、マーチンとライトはマーチン・ライト社を設立したが、マーチンはこれに不満を憶え、1917年10月に合併を解消してクリーブランドに元の社名に戻した大規模な工場を建てた。そこで製作したのがグレンマーチン爆撃機(GMBあるいはMB-1)で、海軍にMBTの名で採用されている。さらに海軍は、SC素敵爆撃機や、T3MおよびT4M雷撃機も採用した。

1928年には、より生産規模を大きくするためバルチモアにも大型の工場を建設し、陸上機、水上機、飛行艇などを作り、1932年に爆撃機を完成させた。この機体は、片持ち式単葉で、引き込み式降着装置、フラップ、機銃を備え、性能は当時の陸軍のどその戦闘機よりも優れていた。この機体がB-10で、輸出も行われている。飛行艇の分野でも、タイプ162マリナーがTBMの名で海軍が購入したのを皮切りに、JRMマース、P5Mマーリン、XP6Mシーマスターなどが配備された。

爆撃機は、B-10以降マーチンの製品群の中核となり、タイプ167メリーランドタイプ197バルチモア、タイプ179(B-26)マローダーなどを生み出し、また第二次世界大戦中にはB-29を204機製造している。戦後になるとジェット爆撃機を手がけ、XB-48 6発爆撃機XB-51 3発爆撃機を開発したが、いずれも制式採用には至らなかった。その一方で、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック・キャンベラをライセンス生産し、B-57として408機をアメリカ空軍向けに製造した。

1960年12月20日、P5Mの最終機が完成すると、社長のジョージB.バンカーが航空機製造から撤退することを明らかにし、社名もマーチンに変更し、タイタンICBMや宇宙発射機の開発・製造などを行うようになった。1965年には合併によりマーチン・マリエッタ社となり、さらに1994年8月30日には、ロッキード社との合併が発表され、1995年3月15日にロッキード・マーチン社となっている。

⇒ロッキード、ロッキード・マーチン


マクドネル(McDonnell)

1921年にプリンストン大学を卒業したジェームズ・S.マクドネルは、アメリカ陸軍のパイロットとなり、さらにマサチューセッツ工科大学で学位を取った後、フォード社やハミルトン社、マーチン社で設計作業に従事、1999年7月6日にセントルイスの小さなビルの2階に、マクドネル・エアクラフト社(MAC)を設立した。そこでXP-67戦闘機試作機を設計する傍ら、メンフィスではフェアチャイルドAT-21ガナーの組み立ても請け負っていた。

1945年1月26日に初飛行したXFD-1ファントム双発ジェット機がアメリカ海軍からの量産契約を得、さらにF2Hバンシーと続いて、海軍のジェット戦闘機時代突入に合わせて確固たる地位を築いた。続くXF3Hデモンは、エンジンの問題から計画は遅れたものの、F3H-2/-2M/-2Nとして量産された。

他方、強力なエンジンを装備したF-101ヴードゥも空軍向けの攻撃/偵察/全天候迎撃機として一応の成功を収めている。そして1958年5月27日に初飛行した海軍向けの戦闘機試作機XF4H-1ファントムⅡは、海軍のみならず空軍、そして諸外国でも採用されて、5,000機を超す大量産が行われた。

1967年にダグラス社との合併が行われ、MACはマクドネル・ダグラス社傘下のマクドネル・エアクラフト社(MACAIR)となった。

⇒マクドネル・エアクラフト、マクドネル・ダグラス


マクドネル・エアクラフト(McDonnellAircraft)

1967年4月28日のマクドネル社とダグラス社の合併に伴い、マクドネル(MAC)から社名が変更され、マクドネル・エアクラフト(MACAIR)となった。事業はMACのものをそのまま引き継ぎ、1969年12月にはF-15がアメリカ空軍の新戦闘機として選定され、複合任務戦闘機(DRF)型F-15Eストライクイーグルなど、日本での生産も含めて1,250機近くの量産が行われている。またノースロップ社と共同で海軍の次期戦闘攻撃機(VFAX)に提案したYF-17が選定され、F/A-18ホーネットとしてマクドネル・ダグラスを主契約社として装備されることが決まり、こちらも発展型のF/A-18E/Fスーパーホーネットや輸出型を合わせて2,000機を超す生産が見込まれている。

アメリカ海兵隊が採用したハリアー(AV-8A/C)の発展型もMACAIRで開発され、AV-8BハリアーIIとして完成した。さらにアメリカ海軍向け練習機、T-45ゴスホークのプログラムも、MACAIRでの管理となった。

その一方で、海軍のA-12アヴェンジャーII計画がキャンセルされ、さらに空軍のATFにノースロップとともに提案していたYF-23も敗れたこと、そして統合攻撃戦闘(JSF)でも選定から外れ、近い将来の独自開発軍用機計画の獲得にことごとく失敗した。こうしたこともあって、マクドネル・ダグラスはボーイング社と合併、MACAIRは現在は、ボーイングのマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ社となっている。この部門では、すべての軍用固定翼および回転翼機と戦術ミサイルを受け持っている。

⇒マクドネル、マクドネル・ダグラス、ボーイング


マクドネル・ダグラス(McDonnell Douglas)

1967年4月28日に、マクドネル社とダグラス社が合併してできた新会社。マクドネルとダグラス両社の事業をそのまま受け継ぎ、また新たに戦闘機や旅客機などの開発を行った。1984年1月には、ヒューズ・ヘリコプター社を買収し、ヘリコプター事業を引き継いだ。

1996年12月5日にマクドネル・ダグラスとボーイング社は合併に関する最終協定に調印し、ボーイングがマクドネル・ダグラスの旧事業を総て吸収することとなった。新会社は、ボーイングとして1997年8月4日付で発足している。

⇒マクドネルダグラス、マクドネル・ダグラス・ヘリコプター、ボーイング


マクドネル・ダグラス・ヘリコプター
(McDonnell Douglas Helicopter)

1984年1月6日に、マクドネル・ダグラス社はヒューズ・ヘリコプター社を買収し、同社傘下の子会社とした。事業の拠点は、カルバーシティからメサに移され、軍用機としてはOH-6、AH-64を製造している。1985年8月27日には、マクドネル・ダグラス・ヘリコプター社となったが、マクドネル・ダグラスとボーイング社の合併後は、軍用ヘリコプター事業はマクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ社が受け継いでいる。

⇒ヒューズ、マクドネル・ダグラス、ボーイング



N

ニュー・スタンダード(New Standard)

1928年にゲイツ・デイ・エアクラフト社が社名を変更して、ニュー・スタンダード・エアクラフト社となったもので、G-D-24複葉機の製造を続けたほか、D-25 4座席機、D-26複座機、D-27単座郵便機、D-28水上機、D-29練習機などを開発・製造した。このうちD-29は、アメリカ海軍によりNT-1として採用されている。
⇒ゲイツ・デイ


ノースアメリカン(North American)

ノースアメリカン・エビエーション社は、ウォールストリート・ジャーナルの元編集者であったクレメント・M.キーズが、増殖する航空企業買収を管理するために作ったペーパー・カンパニーで、設立当時はカーチス社、ライト社、カーチス・カプロニ社、カーチス・ロバートソン社、トラヴェル・エア社、キーストン社、モス社を所有し、さらに1929年にはフォード・インスツルメンツ社、スペリー社、ベルライナー・ジョイス社などの企業や航空会社も加えていった。しかし大恐慌により、資産価値は1933年には29%にまで下がり、ノースアメリカンはジェネラル・モータリース社に売却され、さらにその後はベルライナー・ジョイスへと譲渡された。

1934年に航空郵便法ができ、航空機製造者が旅客機を運航すること、あるいはその逆が禁じられ、ノースアメリカンは航空機の製造に進むこととなった。まずGA-43輸送機と43J水上機の製造を継続し、ついで陸軍で0-47として採用されたGA-15観測機を開発、その後すぐに単葉の基本練習機GA-16(NA-16)も開発して、エンジンをホワールウインドからワスプに変えてアメリカ陸軍の採用を得、BT-9として42機を生した。

BT-9は、その後多数の派生型が作られ、中でもAT-6/SNJ、テキサン、ハーヴァード、イェールは好評で、全タイプ合わせて87の顧客に91,000機以上が購入された。第二次世界大戦時には、B-25ミッチェル爆撃機、P-51マスタングといった名機を生み出し、B-25は9,817機を、P-51は15,586機を生産している

戦後は、航空産業は不況に見舞われ、ナヴィオン小型機の製造などに乗り出した。が、機体は良かったものの損失を増すだけであった。また軍用機では、FJフュリーやAJサヴェージ、B-45トーネード爆撃機、T-28トロージャンなどを開発し、それらがノースアメリカンの中心プログラムとなっていたが、1947年に開発されたXP-86が大成功作となった。この戦闘機試作機は、F-86セイバーとなって、発展型も含めて外国でライセンス生産も行われ,8,000機以上が作られている。1953年4月24日には、超音速戦闘機F-100スーパーセイバーが初飛行して2,384機が作られ、また当時の最新技術を駆使したXA3JビジランティはA-5として海軍に採用され、量産化された。

その後も、T-2バックアイ・ジェット練習機やOV-10プロンコを開発・生産しているが、他方、F-107、F-108、XB-70といった大プロジェクトはいずれも試作に終わった。航空機活動と合わせて、ノースアメリカンはロケットとミサイルの分野でも当時のリーダーで、その技術を活かした研究機X-15超高速機は特筆に値する。

1967年9月22日にノースアメリカンはロックウェル・スタンダード社と合併してノアメリカン・ロックウェル社となり、1973年2月16日には同社がロックウェル・インターナショナルに社名を変更したことで、ノースアメリカンの名前は消えることとなった。

なお、1996年8月1日にロックウェルが、航空宇宙・防衛事業をボーイング社に売却することで合意し、この部門は、ボーイングの100%子会社の、ボーイング・ノースアメリカンとなって名前が復活した。

⇒ジェネラル、ロックウェル、ボーイング


ノースロップ(Northrop)

ロッキードF-1の主翼を設計し、またその他のロッキード機の設計も手がけたジョツ(ジャック)・ヌードセンノースロップは、1923年にデイビス・ダグラス社に入社し、1926年にはロッキード社に移ってヴェガの設計を行った。しかしその後、ロッキードでは全翼機などの自分のアイディアが受け入れられないことから、1928年に自身でエビエーション社を設立、全翼機を試作してマロク湖で試験を行っていた。しかしこの斬新な機体を受け入れる市場はなく、ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート(UAT)社の傘下に入ってノースロップ・エアクラフト社を設立することにした。

UATとしては、ノースロップの金属構造に関する知識を必要としており、ノースロップはすぐにアルファ(1930年5月)を開発した。さらに1931年には、300馬力のエンジアンで時速200マイルの速度性能を有するベータも開発している。この当時、UATはノースロップ・エアクラフトをステアマン社と合併させようとしたがノースロップはこれに反発し、UATを離れてノースロップ社を興した。このノースロップの株式の51%はドナルド・ダグラスが保有し、新しい工場はエルセグンドに置かれた。この時ノースロップは、ガンマ(1933年)、XFT-1戦闘機(1934年)デルタおよびA-3戦闘機(1935年)、BT-1急降下爆撃機(1936年)、A-17A(ダグラス8A。1937年)等を開発している。

ダグラスは、ノースロップをダグラス社と完全に合併したがったが、ジャック・ノースロップは設計における自由を求め、1937年4月5日に友好的な分離が決まった。この結果、ノースロップ社はダグラス社のエルセグンド部門となり、DB-7爆撃機の初期設計でエド・ハイネマンを手伝うこととなった。そして1939年春にTWAのラ・モッテT.チョウとの会談で、1939年8月に独立して新たにノースロップ社を設立することとなり、1940年2月に新工場が完成した。

新会社では、N-3PB水上機の製造と、PBYの尾翼やB-17のナセルなどの組み立てに着手し、その傍らで戦闘機P-61ブラックウィドウの設計を進めた。P-61は1942年5月21に初飛行し、アメリカ陸軍に制式採用された。また、全翼機の研究作業も復活し、N-1M、N-9M、XP-56、MX-324、XB-35、XP-79等の研究・試作も戦争中そして戦後を通じて行われた。このうちXB-35は、ジェット8発のXB-49や6発のYRB-49へと発展している。

ノースロップでは、研究事業のみでなく、アメリカ空軍からの制式採用に基づく航空機の量産も行われている。代表的な機種としては、C-125レイダーSTOL輸送機23機、F-89スコーピオン迎撃機(1,050機)等がある。そして輸出用戦闘機としてF-5A~D/F-5E/Fの採用も決まり、同じ基本設計を用いたT-38Aタロン高等練習機は空軍にも採用されている。

1974年6月9日に、アメリカ空軍の軽量戦闘機(LWF)用に設計試作したYF-17が初飛行した。YF-17は空軍では採用されなかったが、海軍の戦闘攻撃機(VFAX)にマクドネル・ダグラス社と共同で提案してF/A-18として採用されることとなった。しかし、艦載機の経験のないノースロップに代わって、海軍からの主契約社はマクドネル・ダグラスとなり、ノースロップは陸上発進型F-18Lを受け持つこととなったが、F-18Lに対する発注がなかったため、このプログラムはマクドネル・ダグラスに移行した。

また、F-5E/Fの後継となる中型輸出戦闘機(IIF)計画で、ジェネラル・ダイナミクス社のF-16/79とともにF-20タイガーシャークの開発が認められ、3機の試作機を作って販売活動を繰り広げたが、これも採用がなく量産には至らなかった。戦闘機としてはその後、ATFの競争試作でYF-23が選定されて、ロッキードYF-22と比較審査されたが、これも敗れている。

他方、高度技術爆撃機(ステルス爆撃機)の開発担当者に1981年に選ばれ、開発機はB-2スピリットとして完成し、1989年7月17日に初号機が初飛行した。B-2は、当初は133機の装備が計画されていたが、高コスト問題と冷戦の終結とともに21機(ノースロップではさらに20機の追加を提案)に削減されている。

1994年5月1日にはグラマン社の買収が決まり、5月18日付で新会社ノースロップ・グラマン社となった。また1997年には、ロッキード・マーチン社と合併している。

⇒デイビス・ダグラス、グラマン、ノースロップ・グラマン、ロッキード、ロッキード・マーチン


ノースロップ・グラマン(Northrop Grumman)

1994年5月1日に、ノースロップ社がグラマン社を買収して設立された会社。この時点で残っていた新規製造機はB-2のみで、ほかにはE-8Cジョイント・スターズの組み立てを行っている。また戦闘機や電子戦機、E-2などのアップグレードも実施中。1997年にロッキード・マーチン社と合併して同社の傘下に入った。
⇒グラマン、ノースロップ、ロッキード・マーチン


ノーザン・エアクラフト(Nothern Aircraft)

1956年にベランカ社のクルーズマスター14-19の製造権を購入し、航空機を生産。後に社名をダウナー、インターエアに変更。
⇒ベランカ、ダウナー、インターエア



O

オレンコ(Orenco)

正式社名はオードナンスエンジニアリング社(ORdnance ENgineering Corp)で、1916年にニューヨークシティに設立され、アメリカ陸軍など向けの航空機を開発した。1917年2月に初飛行したタイプA複座機は顧客がなかったが、1917年6月または7月に、イギリスのスパッド社で設計を行っていたエチエンヌ・ドーモイとアメリカ人スタッフにより設計されたタイプB戦闘機は、1機がアメリカ陸軍に引き渡されている。続いてタイプC1機が作られた後、1919年1月に初飛行したタイプDは、300馬力のイスパノ・エンジンを装備し、優れた飛行性能を示し、まず4機が陸軍に採用された。しかし本機の量産契約はカーチス社に移され、カーチスが50機を製造した。それ以降、同社による航空機開発の記録はない。



P

パシフィック・エアロ・プロダクツ(Pacific Aero Products)

ウィリアム・E.ボーイングが、1916年に航空機会社を設立した際の最初の社名。1917年4月にボーイング・エアプレーンに社名を変更。
⇒ボーイング


パッカード・ルペール(Packard Lepére)

デトロイトのパッカード・モータース社は1918年に、フランス人のジョルジュ・ルベール大佐が設計したLUSAC-11戦闘機30機の生産契約を得た。これらはアメリカ陸軍に採用され、さらにエンジンをパワーアップするなどしたLUSAC-21/-25も計画されたが、こちらは採用されなかった。


パイアセッキ(Piasecki)

1941年にフランクE.パイアセッキが設立した航空機メーカーで、当初はPBYの部品製造などを行っていたが、次第に独自のヘリコプター開発に力を入れるようになり、1943年4月11日に単座の試作ヘリコプターPV2を完成させた。その後NACAかヘリコプター研究に関する各種の契約を受けるようになり、1945年3月8日にはパナナ状の胴体を持つ双ローター輸送ヘリコプターPV-3を初飛行させた。

長い胴体とその両端に回転翼を置くという、独特の双ローター形状はこの機体で生まれ、HRPとして量産が行われた。これに伴い1946年9月には大規模な工場を造るなどして組織変更を行い、社名もパイアセッキ・ヘリコプターに変更した。HRPとその発展型、さらにはHUPリトリーヴァー/H-25ミュールなどを生み出したが、1955年5月にパイアセッキが社長の座を明け渡して新会社を作り、パイアセッキ・ヘリコプターも経営者が代わることとなり、1956年3月にヴァートル社となった。

⇒ヴァートル


パイアセッキ(Piasecki)

パイアセッキ・ヘリコプター社の経営者を退いたフランク・パイアセッキは、1955年6月に新会社、バイアセッキ・エアクラフト社を設立した。同社は、再突入弾頭の設計、海軍向けの無人機(remotely piloted vehicle, RPV)の研究、VZ-8Pフライング・ジープVTOL機の開発(1958年10月12日に初飛行)などを行い、1962年2月21日の16Hパスファインダー高ヘリコプターも初飛行させた。さらに1970年代には、飛行船と回転翼リフト・システムの研究に着手したが、1989年に作業は中止となった。16Hパスファインダーの開発は1992年まで続いたが、資金難で実用化には至らなかった。
⇒パイアセッキ


パイパー(Piper)

テイラー・エアクラフト社の秘書/財務担当であったW.T."ビル”パイパーは、同社が1936年にテイラーが自己破産から会社を去ると、その株式を買い取って会社の組織変更を行い、パイパー・エアクラフト社とした。パイパー最初の製品がJ-3カプで、製造を続けるに従って品質も向上、1946年に生産を終えるまでに20,000機近くが作られ、うち約5,700機が軍用として陸軍などで使われた。

パイパーではその後、PA-18スーパー・カブ、PA-22トライベーサー、PA-23アバッチ/アズテック、PA-24コマンチ、PA-25ポウニー、PA-36ボウニー・ブレイヴ、PA-28チェロキー、PA-30ツイン・コマンチ、PA-31ナバホ、PA-32チェロキー・シックス/ランス/サラトガ、PA-34セネカ、PA-38トマホーク、PA-42シャイアン、PA-44セミノ、PA-46マリブーと、単発および双発の軽飛行機を次々と作り出している。このうち、スーパーカブ、アズテック、セミノールなどはアメリカ軍で正式に採用されており、またそれ以外の各機も諸外国の軍で連絡や、時には軽武装を施したCOIN機等として使われている。

1970年にビルパイパーが死去すると、パイパーはバンガープンタ社の子会社となり、さらに1984年3月1日にはリア・ジーグラー社が経営権を握ることになった。1987年にはロメオ・チャーリ社がパイバー部門を買収し、シャイアンとマリブー・ミコラージュを除く製品の生産をすべて停止、業績不振から破産裁判所は1991~93年の間にすべての工場を閉鎖する判決を下したが、1995年7月には破産法第11条の適用を受けて、ニューコ・パック社がパイパーの資産を買い取る新組織計画が承認され、新生パイパー社として活動を再開している。1996年の年産機数は186機であったが、20世紀の終わりには500~600機に引き上げたい意向。

⇒テイラー



R

リパブリック(Republic)

1939年10月に、セヴァスキーから社名変更してリパブリック・エビエーションとなったもので、当時のセヴァスキーの従業員や工場などをすべてそのまま受け継いだ。スウェーデン向けにEP-1戦闘機120機をまず製造し、その最後の60機はアメリカ陸軍向けP-35Aとなっている。さらにP-43ランサーを272機製造し、続くP-44はキャンセルとなったものの、その発展型で大型化したP-47サンダーボルトが成功作となり、15,677機が生産されている。

戦争末期には、P-72、XF-12レインボーといった優れた戦闘機を開発しているが、時代に合わず試作のみに終わった。しかし、RC-3シービー4座飛行艇は、極めて安価だったこともあって、終戦直後の1945~47年にかけて、1,000機以上が民間向けに販売されている。

ジェット時代に入ると、まずP47のジェット化を検討したが、すぐにそのアイディアを取りやめ、全くの新設計機としてXP-84サンダージェットを開発した。この機体1946年2月28日に初飛行し、直線翼のF-84サンダージェット戦闘爆撃機が3,368機、後退のF-84F/RF-84サンダーストリークが2,713機作られている。

続いてジェット/ロケット混合動力のXF-91サンダーセプター、マッハ3.7を目指しXF-103ターボ・ラムジェット戦闘機が設計されたが、いずれの計画も中止となった。続いて設計したAP-63は、アメリカ空軍の戦闘爆撃機として採用され、F-105サンダーチーフとして830機が量産されている。

1965年にリパブリックは、フェアチャイルド・ヒラー社に買収され、同社のリバブリック航空部門となった。1971年には、同部門がフェアチャイルド・リパブリック社となり、A-10サンダーボルトII攻撃機を生み出している。

⇒セヴァスキー、フェアチャイルド


ロックウェル(Rockwell)

1973年2月16日に、ノースアメリカン・ロックウェル社がロックウェル・マニュフファクチャリング社に併合され、ロックウェル・インターナショナル社が設立された。そのちょうど1年後に、旧ノースアメリカン・エアロスペース・グループがノースアメリカン・エアクラフト・オペレーションズと、ノースアメリカン・スペース・オペレーションに分割された。このうちエアクラフト・オペレーションズには、B-1部門、ロサンゼルス航空機部門、コロンバス航空機部門(T-2パックアイ、XFV-12A、OV-10プロンコ)、セイバーライナー部門、汎用機部門、タルサ部門などが含まれた。

1978年9月には組織の改編が行われて、航空機グループは、ノースアメリカン・エアクラフト部門、汎用機部門、タルサ部門、セイバーライナー部門となっている。また1977年には農業機の製造権がアイレス社に売却されており、1981年にはコマンダーもガルフストリーム社に売却された。さらに1983年には、セイバーライナー部門がNYバンカース・ワルゼイ社に売却され、同社傘下のセイバーライナー社として独立している。

こうした変更によりノースアメリカン航空機部門は、パームデールとタルサの2場のみとなり、B-1BおよびX-31の製造のほか、OV-10、AC-130、F-111の改修作業を行った。そして1996年8月1日にロックウェルが、航空宇宙・防衛事業をボーイング社に売却することで合意し、この部門は、ボーイングの100%子会社の、ボーイング・ノースアメリカンとなっている。

⇒ノースアメリカン、ボーイング


ロジャーソン(Rogerson)

航空機部品や操縦システム、燃料タンクなどを製造する供給会社であったが、1984年4月にヒラー・エビエーション社を買収し、1985年にロジャーソン・ヒラーに社名を変更し、ワシントン州ポートエンジェルでUH-12およびRH-1100(旧称FH-1100)を製造している。
ヒラー


ライアン(Ryan)

陸軍の戦闘機パイロットであったチュバル・クロード・ライアンは、1922年に退官したものの職が見つからず、サンディエゴにライアン航空を設立した。当初は、軍から払い下げを受けたJ-1 1機を民間輸送機に改造し、キャビンに乗客4人を乗せるという小規模なものであったが、事業は成功し、ライアンは航空機の改造を続けるととも1925年には独自の航空機設計を始めた。こうして作られたのがM-1高翼単葉機で、1926年2月14日に初飛行した。乗客2名または郵便を搭載できる機体で、これに続くほぼ同様のM-2ブルーバードは21機が製造されている。

航空輸送事業は成功したものの、事業方針が合わなかったためライアンは会社を抜けた。そこに、ニューヨーク~パリ間を飛ぶ飛行機を作れないか? との電話を受け、その製作に乗り出した。こうして作られたのが、チャールズ・リンドバーグの横断飛行でお馴染みの、ライアンNYPであった。それ以後ライアンはしばらく、ジーメンス・エンジンの輸入業などに携わったが、1934年5月に航空機製造の世界に戻ることにして、ライアン・エアロノーティカル社を設立した。

新生ライアンでの最初の航空機は、低翼単葉でタンデム視座のオープンコクピットを持つS-Tであった。この練習機は、軍民双方に好評で軍ではPT-16、さらにコクピットを大型化し機体強度を増した発達型PT-20等として、3,000機以上が使われた。また1941年には、PT-22練習機も採用されて、こちらも1,000機以上が陸軍により簡入されている。

1943年には、海軍から出された機首にピストンエンジン、尾部にジェットエンジンを装備した戦闘機の開発に対し、FR-1ファイアーボールを試作した。しかし第二次世界大戦の終戦により66機の生産に止まっている。このファイアボールはその後改良・発展が行われ、ファイアピー標的機として生まれ変わっている。また戦後には、VTOL試験機の開発も手がけたが、実用化にはいたらず、1969年にライアンは資産をテレダイン社に売却し、テレダイン・ライアン社となって、主として遠隔操作機(RPV)を製造するようになった。



S

セヴァスキー(Seversky)

元ロシア軍爆撃機のパイロットであったセヴァスキーは、1917年にアメリカに航空武官として赴任し、そのままアメリカに移住、1927年にアメリカの市民権を獲得した。それよりも前の1922年に、セヴァスキーは、航空器材の製造と管理コンサルタント業を始めセヴァスキー・エアロ社を設立、1931年1月にはアレクサンダー・カルトヴェリの設計した航空機を現実のものとするために、同社を航空機製造会社、セヴァスキー・エアクラフト社にした。

そこで作られたのがSEV-3高速飛行艇(陸上型も製作された)で、この機体が軍用のBT-8へと発展した。このほかにも同社では、P-35戦闘機を1936~40年にかけて197機製造し、続いて2PA複座戦闘機も74機生産した。またAT-12およびXP-41戦闘機試作一機も開発している。1939年10月に、会社規模の拡大とともに社名を、リパブリックエビエーションに変更した。

⇒リパブリック


シコルスキー(Sikorsky)

ヘリコプターの生みの親とも呼ばれるロシア人、イゴール・シコルスキーは、1917年のロシア革命の後アメリカに渡り、1923年3月5日にニューヨーク州ロングアイランドにシコルスキー・エアロ・エンジニアリング社を興した。そこでは、まず大型のS-29飛行艇を開発したが、同機はエンジンの馬力が不足し、より大出力の400馬力エンジンを双発としたリバティが、1924年9月に初飛行している。この飛行艇はさらに発展してS-38となり、民間ではパンナムなどが採用、陸軍と海軍も購入したことで、114機が製造された。

1925年に社名をシコルスキー・マニュファクチャリングに変えたが、飛行艇メーカである認知度を高めるために、1928年10月3日にさらにシコルスキー・エビエーションに変更した。同社は、1929年には、大企業であるユナイテッド・エアクラフト社にメンバーとして加盟し、S-40 44人乗り飛行艇、S-42長距離飛行艇などを開発した。1937年8月に初飛行したXPBS-1長距離飛行艇は、尾部機銃ターレットを装備した初のアメリカ製航空機であった。

1939年4月1日にシコルスキー・エピエーションはヴォート社と合併し、ユナイテッド・エアクラフト社のヴォート・シコルスキー部門になった。この頃からシコルスキーはヘリコプターに対する興味を増し、独自の研究で自作ヘリコプターの開発に着手した。こうして作られた初のヘリコプターがVS-300で、1939年9月14日に試験を開始した。このVS-300を実用機にしたのがVS-316で、アメリカ陸軍にR-4として採用され、海軍のHNSや、ホヴァーフライ合わせて233機が作られている。さらにその駆動系を利用して機体をさらに洗練させたのがR-6で、S-51としても各種のタイプが作られた。

S-51の成功により、ヴォートとシコルスキーは1943年1月に分離することとなり、以後シコルスキーは各種のヘリコプターを開発することとなった。代表的なものには、

  • S55(1949年11月10日初飛行)

  • S-56双発ヘリコプター(1953年12月18日)

  • HSS-2シーキング/S-61(1959年3月11日)

  • S-64スカイクレーン(1962年5月)

  • S-65/H-53(1964年10月14日)

  • H-53の3発型H-53E(1974年3月1日)

  • H-60/S-70(1974年10月17日)

  • S76(1977年3月13日)

等があり、軍・民双方で多数が使われている。また現在は、アメリカ空軍の次期軽量ヘリコプター(LHX)計画でボーイングと社の共同開発案が選定され、RAH-66コマンチの開発を行っている。

⇒ヴォート


スパルタン(Spartan)

1927年、ミッド・コンチネンタル・エアクラフト社が投資グループに買収されて、1928年1月17日にスパルタン・エアクラフト社が作られた。まず

  • 小型の3C-1を開発製造し、その後

  • 4座席のC4-225、

  • 5座席のC5、

  • 複座練習機C2-60

等を開発している。このうち3Cは、アメリカ海軍でNP-1練習機として使用された。また1936年に作られた7Wエグゼクティブ5座席輸送機は、アメリカ陸軍がC-71として民間から16機を購入して装備した。同社の航空機製造活動は、第二次世界大戦中に終了している。


スペリー(Sperry)

1919年6月に、エルマー・スペリーの息子であるロウレンス・スペリーが、ロウレランス・スペリー・エアクラフト社をロングアイランドに設立、まず複葉のスポーツ機を製造した。続いて3葉の爆撃飛行艇を製造、さらにアメリカ陸軍技術部が設計しまた複葉小型の前線連絡機メッセンジャーを作った。このメッセンジャーは、M-1あるいはM-1Aの名称で42機が作られている。またうち8機は、無線操縦飛行魚雷(MAT)に改造された。ロウレンス・スペリーは1923年に、メッセンジャーを操縦中に海に不時着水し、溺死している。


スタンダード(Standard)

スタンダード・エアクラフト社は、1916年9月にニュージャージー州で設立され、1916年11月にはスローン社を吸収し、スローンH-2はアメリカ陸軍向けスタンダードH-2として販売された。その後海軍向けのH-4水上機を製造し、さらにSJおよびJ-1練習機を約800機、E-1戦闘機用単座練習機を93機、軍に納入している。1917年に開発されたJ-1の製造は、その後ゲイツ・デイ・エアクラフト社に移され、以後スタンダードはカーチスHS-1飛行艇や、デハビランドDH-4カプロニおよびハンドレページO/400など他社の機体の製造を行うようになり、これらの事業を終了して会社を閉じている

⇒ゲイツ・デイ


ステアマン(Stearman)

アメリカ海軍の学生パイロットで、また技術者としても活動をしていたロイド・カールトン・ステアマンは、レイド社の主任技術者として招かれ、1926年にトラヴェル・エア社への参加を断わって、カリフォルニア州にステアマン・エアクラフト社を設立した。そして3座のオープンコクピットを持つC-1、その派生型のC-2を開発した。ステアマンは、複葉機のみの開発・製造に集中したことなどから、不況下にあっても好調な販売を続けていた。しかし、航空産業のコングロマリット化が続く中、ステアマンもユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社の傘下に収まっている。

1934年9月、ユナイテッドの解体によりステアマンは、ボーイング社の一部門となった。その前年に開発していたモデル70は、X75に発展し、1934年10月にアメリカ陸軍の基本練習機として選定された。以後、派生型も含めて、PT-13、PT-17、N2Sとし1945年2月に生産を終了するまでに10,346機が作られている。

⇒ボーイング


スチンソン(Stinson)

若くしてパイロットとなったスチンソン兄弟姉妹4人の長兄、エディ・スチンソンは、1922年にデトロイトで製造資金を集めて4座席の複葉機を製作した。このスチンソン・デトロイターが12,500ドルで売れたことが引き金となって、1926年2月にスチシソン・エアプレーンシンジケート社を設立した。この会社はその年の終わりには、スチンソンエアクラフトに名称を変更した。デトロイターの販売は好調で、1927年4月には設計を変更して6座席の高翼機SM-1を製造、この機体も120機以上が売れた。1928年には3~4座席のジュニアも製品ラインに加え、全部で380機以上を生産している。

1927年には、ウェイン工場を設立したが、大恐慌の4日前に資産を自動車の大コングロマリット、アヴコ社の社長であるエレット・コードに売却し、アヴコの傘下に入っている。1930年には、スチンソン初の3発機で10席のSM-6000エアライナーを開発し、この機体の販売も順調であった。しかし1932年1月に、新型の高翼4座席機モデルR25を操縦していたエディスチンソンは墜落事故を起こし、翌日に死亡した。このモデルRは、その後モデルSRへと発展し、AT-19練習機およびイギリス海軍向けリライアントⅠ航法練習機として、多数が採用された。さらにモデル105が開発され、アメリカ陸軍のL-9ヴォイジャーなど三つの基本型合わせて1,285機を販売した。

1940年にアヴコは、スチンソンをヴァルティ社の管理下に入れることを決定し、さらにコンソリデーテッド社の買収へと進めた。この間もスチンソンの事業はウェインで続けられ、ヴォイジャーを観測/救急機としたL-5センチネルを開発、3,590機の大量産を行っている。1943年3月にヴァルティとコンソリデーテッドが合併したことで、スチンソンは新会社のヴァルティ・スチンソン部門となった。しかし1948年12月1日付でコンヴェア社がスチンソン部門の廃止を決定し、スチンソン部門は500機の売れ残ったヴォイジャーとともにパイパー社に売却された。パイパーがスチンソン部門を買収したのは、その資産に魅力があったからというよりは、競争相手を一つ減らすことが主な目的であった。

⇒ヴァルティコンヴェア、バイバー


セントルイス(St.Loius)

セントルイス・エアクラフト社は1928年に、ミズーリ州セントルイスに路面電車製造会社であるセントルイス・カー社の子会社として設立され、まず並列複座の複葉機カーディナルC2-60を開発・製造した。その後不況に見舞われたことで、航空機の製造は停止され、陸軍向けに航空機用スキーなどの部品を製作、しかし1936年には再び独自開発機PT-1W複葉練習機を製造し、初飛行させた。このPT-1Wは陸軍がXPT-15として運用評価を行い、その後計器類を変更したYPT-15を13機構入、後にPT-15に名称変更されている。戦争中にはフェアチャイルドPT-23を200機製造し、合わせてXCG-5グライダーを開発、その大型判XCG-6の採用がいったんは決定したが、終戦に伴い発注がキャンセルされ、同社の航空機事業も幕を閉じた。


スタウト(Stout)

1919年にウィリアム・B.スタウトが、3座単葉機を作るためにデトロイトに設立したのがスタウト・エンジニアリング・ラボラトリーズ社で、海軍向けにST-1雷撃機も開発、製造した。1922年には企業力を強化するとともに社名をル・エアプレーンとし、1-ASエアセダン高翼輸送機をまず開発した。さらに改良型の2-ATプルマン8座席機を、1924年12月3日に初飛行させている。

しかし1925年8月にすべての資産がヘンリー・フォードに買収され、3-AT以降の機体はフォード社により製造された。1929年にはスタウト・エンジニアリング・ラボラトリーズが復活し、複座のスカイカーを開発した。1930年代は、スカイカーの開発に費やされたが、成功には至らなかった。

⇒フォード


スターテヴァント(Sturtevant)

油圧ポンプなどの製造メーカーであったB.F.スターテヴァント社は1910年に、ガソリン・エンジンを開発・製造するために子会社、スターテヴァント・マニュファクチャリングを設立し、航空機用V8エンジンの開発を最大のプロジェクトとした。そしてこのエンジン市場を開拓するため、まず独自に航空機を作ることとし、1915年にボストンにスターテヴァント・エアクラフト社を興した。

同社が自力で開発した航空機としては、モデルS複座複葉水上機があり、アメリカ海軍が7機を購入している。また陸軍もその陸上型を11機購入することとしたが、後に4機はキャンセルされ、単座のS4に発注が変更された。このほかに、カーチスJNやDH-4を一部量産した記録が残っている。



T

テイラー(Taylor)

1929年にテイラー兄弟が、複座単葉機チュミーを製造・販売するために、ニューヨーク州ロチェスターにテイラー・ブラザーズ・エアクラフト社を設立した。他方、新しい投資の機会を探していた、ウィリアム・パイパーはこの兄弟の事業を選び、ゴードン・テイラーの死去後は同社の財務担当に収まった。そして1931年にいったん会社を閉じるが、すぐにC.ギルバート・テイラーから同社の資産を買い取り、テイラー・エアクラフト社を設立している。

C.G.テイラーは新会社でも社長兼主任技術者として残り、バイパーは財務担当の立場のままであった。これは、パイパーの販売知識と、テイラーの技術力を活かすためで、テイラーはチュミーよりも大型の新型機の開発に乗り出し、タンデム複座のカブ(1930年9月10日初飛行)をはじめ、プロウンバック・キッチン、サルムソンなどを開発、中でもカブは、パイバーの販売力により不況下でも300機を販売した。

1936年、テイラーが自己破産したことから会社を去ることとなり、パイパーがテイラーの株式を引き継いだ。そしてパイパーが完全な経営者となり、社名もパイパー・エアクラフトに変更した。また会社を去ったテイラーは、テイラークラフト社を設立している。

⇒バイバー、テイラークラフト


テイラークラフト(Taylorcraft)

1936年にテイラー・エアクラフト社を去ったC.ギルバート・テイラーは、すぐにテイラークラフト・エビエーション社を設立し、その年の末には社名をテイラー・ヤングエアプレーンとして、1937年に並列複座のモデルを完成させた。さらにそれを発展させたモデルB/C/Dは大成功作となり、特にモデルDは陸軍にL-2/C-95/O-57グラスホッパーとして2,000機近くが採用されたほか、無動力としたものがTG-6訓練グライダーとして250機調達されている。

こうした好調な実績にもかかわらず、第二次世界大戦が終わると注文は全くこなくなり、1947年に会社は倒産した。

⇒テイラー


トーマス(Thomas)

イギリス人技術者ウィリアム・トーマスは、1909年にベリング・カーチス社に入り、自分自身の資金でも航空機を設計・製造できると考え、1912年5月にニューヨーク州バスにトーマス・ブラザーズエアプレーン社を設立した。そこでT-2練習機とそのアメリカ海軍向けSH-4、陸軍信号軍向けD-5を製造、これがアメリカにおける初めての本格的な航空機の製造ラインとなった。そしてさらなる事業の拡張が必要となり、トーマス・モーズ社を設立することとなった。

⇒トーマス・モーズ


トーマス・モーズ(Thomas-Morse)

航空機事業に成功したトーマス兄弟は、会社の管理を知人のモーズ・チェインに依頼することとして、トーマス・ブラザーズ・エアプレーン社を1917年1月にトーマス・モーズ・エアクラフト社とした。モーズが社長に納まり、直ちに生産規模を2倍に拡張し、S-4戦闘機を生産するとともに、S-4A高等練習機100機、S-4C練習機1,050機(作られたのは498機)の注文を軍から受けた。また、MB-1/-2試作戦闘機は量産に至らなかったが、選りすぐれたM-3を開発した。このM-3は、第一次世界大戦後のアメリカ陸軍の主力戦闘機になるかに見えたが、より安価なボーイング案に敗れてしまった。これ以降、同社の製品は大規模な量産には至らず、唯一1928年に開発されまたXO-19が観測機O-19として180機、陸軍により制式採用されている。

このように業績は不振だったが、コンソリデーテッド社にとっては同社の力は魅力的に映り、1929年に同社を買収している。

⇒トーマス


ティム(Timm)

1926年、オットー・W.ティムはカリフォルニア州グレンデールにO.W.ティム・エアクラフト社を設立し、1927年7月に最初の製品であるティム複葉機を初飛行させた。この飛行機は、操縦士2人と乗客5人を乗せる旅客機で、数機が販売されている。続いてパラソル翼を持つカレッジ練習機を開発、少なくとも4機が売れたが、事業を繊続することはできず、1930年に会社を閉じた。

しかし1935年に、再びグレンデールにティム・エアクラフト社を再編した。新会社ではまず、最大10名の旅客を乗せられるT-800高翼双発輸送機を開発し、発展型T-840の販売に乗り出したものの、この機体は1機も量産されなかった。1938年に会社をバシナイスに移して、そこでS-160低翼タンデム複座練習機を製造し、1940年5月22日に初飛行させた。こちらはその発展型PT-220Cがアメリカ海軍に、N2Tチューターとして262機調達されているが、これが同社最後の量産機となった。


トラヴェル・エア(TravelAir)

1924年10月にウィチタに設立された会社で、正式社名はトラヴェル・エア・マニュファクチャリング。メンバーにはウォルター・H.ビーチ、クライド・セスナ、ロイド・ステアマンらが加わっていた。1925年8月に3座のトラヴェル・エア1000を初飛行させ、ライバル機よりも性能に優れたため、各種のエンジンを搭載した多くのタイプが作られた。その後も輸送機の開発を続け、1927年1月に初飛行した6座席のトラヴェル・エア5000とその派生型の6000、4座席の10-D/10-B(1929)年などが製造されている。

しかし、1930年に不況のため業績が悪化し、カーチスライト社に買収された。

⇒ピーチ、カーチス・ライト



U

ユナイテッド(United)

1928年にボーイング、ブラット・アンド・ホイットニー、ヴォートの3社は、ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社(UATC)を設立した。1929年にはハミルトン(後のハミルトン・スタンダード)シコルスキー、ステアマン、スタンダード・スチール・プロペラの各社と航空会社3社もメンバーに加えて、一大コングロマリットとなった。航空会社3社とボーイングの輸送部門であるボーイング・エア・トランスポートの4社は、1930年に合併して、ユナイテッド航空を作った。

1934年に航空郵便法ができて、航空機の製造と運航を1社で行うことが禁じられたため、ユナイテッド航空が分離・独立し、航空機製造会社だけが残ったUATCは、ユナイテッド・エアクラフト社(UAC)となったが、ボーイングとステアマンはこれに加盟せずやはり独立している。

UACは1935年6月に、製造部門のユナイテッド・エアクラフト・マニュファクチャリング社と、国際販売/マーケティング組織のユナイテッド・エアクラフト・エクスポート社に分けられている。そして1975年5月1日にUACはユナイテッド・テクノロジーズに社名を変更、現在航空機製造会社としてはシコルスキーを傘下に収めている。ほかにはエンジンメーカーのプラット・アンド・ホイットニーが、航空関連企業では傘下に入っている



V

ヴァートル(Vertol)

1956年3月にパイアセッキ・ヘリコプター社を受け継いで設立された会社で、経営者がフランク・パイアセッキから、ノースロップ社やマクドネル社で主任技術者を務めたロン・D.ベーリンに代わった以外には大きな変更はなかった。当時はH-21ワークホースが全規模量産中で、その後1958年4月22日にモデル107が初飛行し、後にHRB-1/CH-46シーナイトとして軍に制式採用された。1961年4月28日には、後にCH-47チヌークになる原型ヘリコプターYCH-1Bも初飛行している。

1960年3月31日にヴァートル社の全株式がボーイング社に買収され、ボーイングの傘下に収まって社名をボーイングヴァートルに変更した。

⇒パイアセッキ、ボーイング


ヴィクター(Victor)

ヴィクター・エアクラフト社は1916年にロングアイランドに設立され、単座複葉の索敵機スカウト3機と、その複座型高等練習機2機がアメリカ陸軍により購入されている。しかしこれ以降は、戦争による大量発注があったにもかかわらず同社に対する注文は全くなく、事業を終えた。


ヴォート(Vought)

1890年に生まれたチャンス・ミルトン・ヴォートは、1910年に飛行機の操縦を学び、さらに技術者としての勉強をした後、ライト・マーチン社などで主任技術者として設計に携わった。そして1917年6月に、義理の父親のバーダイズL.ルイスとともに、ルイス・アンド・ヴォート社を設立、ロングアイランドの倉庫の3階でVE-7練習機の製造を開始した。このVE-7は、当時の余りよくない作業環境にもかかわらずが製造され、一部は海軍でも使用された。

1922年にルイスが引退すると、社名をチャンス・ヴォートに改め、成功作VE-7の戦闘機型VE-7SF(64機)、UO-1観測機(141機)、FU-1戦闘機(20機)などを生み出している。さらにヴォートは、ヒット作コルセアシリーズを生み出し、02U型291機と03U型289を製造した。こうした業績は、コングロマリット化を進めていく上では貴重な存在であり、ヴォートも1929年にユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社に加盟した。しかし翌1930年7月26日に過労のためヴォートが死去し、レック・スビーゼルが主任設計者となった。ピーゼルは新タイプのコルセアとしてSBUと、SB2Uヴィンディケーター/チェサピーク急降下爆撃機、OS2Ukングフィッシャーを作り上げた。SBUは140機、SB2Uは245機、OS2Uは1,628機が作られている。

1939年4月1日ヴォートはシコルスキー社と合併し、ユナイテッドエアクラフトのヴォート・シコルスキー部門となって、ストラトフォードに新工場を建設した。新会社でビーゼルは、V-166Bの設計作業を行い、これがF4Uコルセア艦戦闘機とな1940年5月29日に初飛行し、第二次世界大戦で活躍生産は戦後の1952年末まで続けられ、12,571機が製造された。この間の1942年に、シコルスキーとの合併は解消され、ヴォートに社名を戻してる。

1948年にアメリカ海軍は、それまでノースアメリカン社が使用していたテキサス州ダラスの海軍所有の工場を使用するようヴォートに求め、レギュラス・ミサイル、F7Uカットラス、そしてF8Uクルセイダーの開発・製造に着手した。この事業のた社名も、チャンス・ヴォート・エアクラフトに変更された。クルーセイダーは、1955年3月25日の初飛行の際に音速を突破し、1965年までに1,259が作られている。これら新機種の成功により会社は大きくなり、1960年12月30日に社名をチャンスヴォートに変更、しかし翌1961年8月31日にリングテムコ・エレクトロニクス社との合併により、リング・テムコ・ヴォート(LTV)に変わり、ダラス工場はLTVエアロスペース部門となった

1964年には、アメリカ海軍の次期攻撃機(VAX)競争でF-8の設計を活かしたA-7が採使用され、A-7コルセアⅡとして海軍のみならず空軍や諸外国で採用された。LTVエアロスペース部門は、1976年1月1日までLTV社の子会社であったが、その後ダラス工場はヴォート社となった。これは1986年9月まで続き、その後はLTVエアロスペース・アンド・ディフェンス社となり、ヴォート・エアロ・プロダクツと、ヴォート・ミサイル・アンド・アドバンスド・プログラムの二つの部門で構成されるようになった。

1990年には、これらの部門はヴォートの名称に変えてLTVの名称が使われるようになり、さらに1992年8月31日には同部門がカーライル・グループとノースロップ社に買収され、ヴォート・エアクラフト社になっている。この新生ヴォート・エアクラフトでは、パンサー800を開発、さらにアメリカ空・海軍向け合同初等航空機訓練システム(JPATS)で、アルゼンチンのFAMAとともにパンパ2000を提案したが、いずれも採用には至らず、航空機の開発活動を停止した。

⇒LTV、シコルスキー


ヴァルティ(Vultee)

1932年にジェリー・ヴァルティが興したメーカーで、アメリカン航空のスポンサであるコードから資金提供を受けて、全金属製片持ち翼の開発を開始、1933年2月19日に8席の高速旅客機V-1として完成させた。1935年6月には、それを攻撃・爆撃機化させたV-11を作り、事業が軌道に乗ったことで1936年にロサンゼルスのダウニーに新工場を設立した。そこで生産したのがV-48(P-66)ヴァンガード戦闘機であったが、本機は戦闘機としては少数機しか作られず、複座機本練習機型のBT-13/-15ヴァリアントは11,000機を超える成功作となった。

ダウニーに移るのに合わせてヴァルティ社は、アヴコ社の一部門となり、さらに1938年にヴァルティがスチンソン機による墜落事故で死去すると、アウゴの独立子会社、ヴァルティ・エアクラフトとなった。1940年にはスチンソン社を吸収し、同社のナッシュビル工場を拡張してA-31/-35ヴェンジェンス急降下爆撃機の大量生産体制に入った。1941年12月の真珠湾攻撃の直後には、コンソリデーテッド社の資産の34%を購入し、1943年3月にコンソリデーテッドと合併し、コンソリデーテッド・ヴアルティ・エアクラフト(後のコンヴェア)社となっている。

⇒スチンソン、コンソリデーテッドコンヴェア



W

ワコー(Waco)

1910年10月、ジョージ・“バック"・ウィーバーとほかの6人が、オハイオ州にウイーバー・エアクラフト社を設立した。同社は、パラソル翼のコーティ複座機を開発したが、その間に社名を頭文字をとったワコーに切り替えている。1923年には組織を改めて、アドバンス・エアクラフト社を設立し、ワコーとは別の組織管理でワコーの機体であるモデル7、9、10を製造した。

1929年に社名を、再びワコーを使ったワコー・エアクラフトに改め、複座から5座席の複葉機の開発を開始、1940年までに110種の機体を開発している。ワコーは、当初からアメリカ最大の航空機メーカーを自負し、実際に1935年当時でもアメリカ最大のメーカーとして、55のディストリビューターと175のディーラーを配下に持ち、アメリカ国内のみならず26か国に航空機を輸出、生産機数の40%以上が海外販売であった。

1941年には、キャビン式複葉機を16種開発して、軍でもUC-72として採用されている。またCG-4A、CG-15Aといった訓練用グライダーの製造も受け持ち、1,075機を作った。1946年にはキャビン式単葉機アリスとクラフトを開発したが不調で、1947年に会社を清算した。


ワコー(Waco)

第二次世界大戦当時まで繁栄していたメーカーのワコー社とは全く関係ないが、アライド・シグナル社が航空機部門を子会社として設立する際にその名称を買い取ったもの。このワコー・エアクラフト社は1966年にテキサス州サンアントニオに設立され、ヨーロッパ機のライセンス生産を事業の基本とした。生産機の中には、イタリアの軍用練習/連絡機SIAI-マルケッティSF260(同社での名称はミーティア)も含まれていたが、その他の製品同様に注文は得られず、1971年に会社を閉鎖した。


ウィンデッカー(Windecker)

ダウ・ケミカル社の所有するウィンデッカー・リサーチ社が後にウィンデッカー・インダストリーズ社となったもので、1967年に全グラスファイバー製軽飛行機を開発し、AC-7イーグル(1969年1月26日初飛行)として量産化した。この機体はアメリカ空軍もYE-5として1機を購入し、ステルス技術の研究に用いた。


ライト(Wright)

世界初の動力飛行を行なった、ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟による会社で、ライト兄弟は1900年10月に滑空飛行を、そして1903年12月17日にライト・フライヤーによる人類初の動力飛行を成功させている。1908年9月には、タイプAを陸軍に販売し、デイトンでこのモデルを量産することとなった。1909年11月22日には、事業を行なうためには会社組織にした方がよいとされて、ライト社をニューヨークに設立、工場はデイトンに置いたままとした。

ライト兄弟は、特許を所有し、また全体の技術管理を行っていた。しかしすぐにライバルが生まれ、その中の一人であったグレンLマーチンのシンジケートに買収(1915年10月13日)された。弟のオーヴィルはコンサルタントとして残った。1916年8月17日にはマーチン社、ジェネラル・エアロ社、シンプレックスオートモービル社とライトが合併し、ライト・マーチン社を設立した。この合併は決してうまくいかず、オーヴィル・ライトはデイトン・ライト社を1917年3月に設立、他方ライト・マーチンは同年12月に会社組織を変更し、その2年後に社名をライト・エアロノーティカルに変更した。同社では、旅客飛行艇や各種レース機、そしてXF3W海軍戦闘機などを製造した。

⇒デイトン・ライト



軍用固定翼機メーカーの現在 (1998年2月)

ボーイング

(The Boeing Company)

本社ワシントン州シアトル

[軍用機部門の統括組織]
インフォメーション・スペース・アンド・システム・グループ (Information, Space and System Group)

本部 ワシントン州シアトル

[軍用機の製造・開発部門]
マクドネル・エアクラフト・アンド・ミサイル・システムズ (MacDonnell Aiecraft and Missile Systems)

本部ミズーリ州セントルイス

◎主な工場と製造機種

セントルイス工場 (ミズーリ州): F-15E、F/A- 18C/D、F/A-18E/F、AV-8B、T-45

ロングビーチ工場 (カリフォルニア州): C-17

メサ工場(アリゾナ州): AH-64A/D、MH/AH-6

フィラデルフィア工場 (ペンシルヴェニア州):H-47

アーリントン(ヴァージニア州): V-22 (ベルとの 共同作業本部)

トランブル (ユネチカット州): RAH-66 (シコルスキーとの共同作業本部)

インフォメーション・アンド・コミュニケーションズ・ システムズ
(Information and Communiations Systems)

本部 ワシントン州シアトル

◎主な工場と製造機種

エヴァレット工場 (ワシントン州):767AWACS (機体フレーム)、767TT(計画中)

レントン工場(ワシントン州) : C-32

ウィチタ工場(カンザス州): 767AWACS(機体改 修)

シアトル工場(ワシントン州): JSF (計画本部)

ファントム・ワークス (Phnatom Works)

本部 ミズーリ州セントルイス



ロッキード・マーチン

(Lockheed Martin Corporation)

本社メリーランド州ベセスダ

[軍用機部門の統括組織]
ロッキード・マーチン・エアロノーティクス・セクター
(Lockheed Martin Aeronautics Sector)

本部 ジョージア州マリエッタ

ロッキード・マーチン・エアロノーティカル・システムズ
(lockheed Martin Aeronautical Systems)

本部 ジョージア州マリエッタ

◎主な工場と製造機種

マリエッタ工場 (ジョージア州) : F-22、P-3、C- 130

ロッキード・マーチン・スカンク・ワークス
(Lockheed Martin Skunk Works)

※LMASの傘下組織

本部 カリフォルニア州バームデール

ロッキード・マーチン戦術航空機システムズ
(Lockheed Martin Tactical Aircraft Systems)

本部テキサス州フォートワース ◎主な工場と製造機種

フォートワース工場 (テキサス州): F-16C/D、JSF

ノースロップ・グラマン
(Northrop Grumman)

本社カルフォニア州ロサンジェルス ※ノースロップ・グラマンにおける事業の新形態は、 合併事業の政府認可取得(1998年3月予定)の後、 検討されるが、製造工場等が移転される予定は今の ところない。ここでは、ノースロップ・グラマン当 時の事業を記す。

[軍用機の開発・製造部門]
ミリタリー・エアクラフト・アンド・システムズ部門
(Military Aircraft and Systems Division)

本部 カリフォルニア州エルゼグンド

◎主な工場と製造機種

エルセグンド工場 (カリフォルニア州): B-2A

セント・オーガスチン工場 (フロリダ州) : E-2C レイクチャールズ工場 (カリフォルニア州) : E-8C



レイセオン

(Rayteon Aircraft Company)

本社マサチューセッツ州レキシントン

[軍用機の開発・製造部門】
レイセオン・エアクラフト
(Raytheon Aircraft)

本部 カンザス州ウィチタ ◎主な工場と製造機種 ウィチタ工場(カンザス州): T-1, C-12. T-6. U 125A

レイセオン・エアロスペース
(Raytheon Aerospace)

本部 ミシシッピ州マディソン

◎主な工場と製造機種

マディソン工場 (ミシシッピ州): C/R-12. UR-21



後書き

人間の空を飛びたいという夢は、太古の昔から続いてきました。鳥になろうとした多くの試みは、大空を自由に飛び回る機械の発明へと進み、動力を備えていて、かつ飛行を操縦できるという本来の意味での飛行機は、1903年末のライト兄弟による飛行でついに実現されたのです。

飛行機は、20世紀に生まれ、またその世紀を通じて急速に発展した乗り物です。名だった乗員は、大型旅客機では500人を超えるようになりました。36.5mしか飛べなかったものが、旅客機では14,000km以上を、軍用機では空中給油という手段が開発されて理論的には無限の距離を飛べるようにもまりました。スピードも、戦闘機ならば音速の2倍や2.5倍は当たり前です。

1世紀弱の間に遂げたこの進化を、常にリードしてきたのがアメリカでした。その創造性はもちろん、技術力、資金力、物質面と人的な面双方における豊富な資源などが、これを可能にしてきたのです。また、二度の世界大戦やその後の冷戦は、軍用空機の発展に拍車をかけ、さらにそこで生まれた新技術などは民間へとフィードされ、航空以外の各種分野へも波及しました。

もちろんアメリカは、現在でも世界の航空技術と航空産業のトップを走っています。しかしその走路は、決して平坦ではなかったですし、近年はより一層、急な山坂や急カーブが現れ、さらには落とし穴なども見え隠れしているようです。そうしたアメリカの航空産業史の一面でも、お伝えできていればと思っています。

アメリカの航空産業は、間違いなく20世紀を代表するものの一つです。それをまとある場を与えてくださった、株式会社光栄の出版部に感謝致します。記述や内容が断片的あるいは一面的になったのは、すべて著者の責任です。また、ともすれば怠けることしか考えていない著者をいくどとなく励ましてくださいました担当編集者の坂本さんにもこの場を借りてお礼申し上げます。最後に、ここまで読んでくださった読者のみなさま、ありがとうございました。

1998年3月

青木謙知


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