『インテリジェンスなき国家は滅ぶ:世界の情報コミュニティ』落合浩太郎著、亜紀書房、2011

国際政治の欠かせないファクター―まえがき(中西輝政)

現代の世界を理解するうえで、インテリジェンスに関する知識は必要不可欠なものです。

たとえば、経済というファクターを考慮に入れずに世界情勢を語ることはできないことは誰しも理解しうるところだろうと思います。実はインテリジェンスについても同じことがいえるのです。国際政治ということに限定すれば、恐らく「インテリジェンス」というファクターは経済以上に重要な位置を占める、といってもよいでしょう。

もちろん、両者は本来、レベルや範疇の異なるもので、またさまざまなケースによって事情は異なってくるでしょう。しかし少なくとも、それほどまでに重要なインテリジェンスというものについての関心と理解が、従来、日本では驚くほど低いままであり続けたことは特筆されてしかるべきです。私は、たまたま1970年代のイギリスに留学し国際政治を学びましたが、日本に帰国してしばらく経ったとき、あることを発見して驚愕したことを覚えています。

西欧諸国では――恐らくは他の多くの国々でも――国際政治や政治、安全保障に関心を持つ人なら誰でも、たとえ口に出して言及することはなくても、個々の問題を論じる際、その背後にはインテリジェンスにかかわる動きがあって当然と考えつつ、議論をしたり話を聞くわけです。ところが日本では、学者やジャーナリストさらには政治家や官僚でさえ、どんな問題を論じても多くの場合、そうしたインテリジェンスに関する「暗黙の前提」をまったく欠いたまま、逆に「そんなものは存在しない」という発想で研究をしたり議論したりしているのです。

端的にいえば、日本の知識人が世界を見る際、その認識空間において「インテリジェンス」というファクターは多くの場合、完全に欠落しているということです。もっと分かりやすくいえば、日本以外の多くの国では、人々は世界で何が起こっても、あるいはどんなニュースを聞いても、まずはそこに「インテリジェンス」というファクターがどうかかわっているのか、あるいはいないのか、ということをほとんど反射的に考えるのが普通だということです。

この違いは一体どこから来るのか、そのことを考えるのは大変重要なことなのですが、本格的に論じようとすれば、何冊もの本が書かれなければなりません。ただ、ここではっきりといえることは、現代日本の場合、国民の各層それこそ上から下まで、インテリジェンスに関する知識が余りにも不足しているという事実です。しかも、これからの時代、その欠如によって国民が蒙る国益上の被害はますます大きなものになろうということです。

「9・11」とイラク戦争によって幕を開けた21世紀という時代には、テロの脅威とともにITの普及に伴う国際金融の激変や「サイバー戦争」の現実が我々の周囲に及んできています。また、東日本大震災や地球環境問題の切迫は資源エネルギー問題への鋭い関心を呼び起こしています。

さらに北朝鮮の核開発や中国の軍備拡張などによって日本人の多くが、ようやく安全保障の危機に目覚めつつあります。しかし、こうした問題について考えるとき、まず何よりも大切なことは、正確な情報を得る努力と各国がその背後で活発に行っているインテリジェンス活動についての知識です。

もちろん、各国とも秘密を原則としている「インテリジェンス」という事の性質上、完全な情報や知識を得ることは不可欠でしょう。しかし、インテリジェンスにかかわる話として「この世界は普通こうなっているのだから、恐らくこの場合はこうなっているのではないか」という大まかな検討や目安を得ることが可能です。そして、その認識があるのとないのとでは、結果は天と地ほど変わってくることがあるのです。私はこうした感覚や知識を身につけることを「インテリジェンス・リテラシー」と呼んでいます。

そして、この「インテリジェンス・リテラシー」を広く国民の各層に普及さえ高めていくことこそ、民主主義の社会を維持することを国是としている日本にとって、国益上、大変重要な課題なのです。またそれは、国際社会のあり方やその歴史を学んだり研究したりしている人々にとって、あるいは国民一般にとって、「世界を見る眼」や「歴史を考える視点」をより豊かなものにしてくれます。

それでは具体的に、この「インテリジェンス・リテラシー」を身につけていくにはどうしたらよいのでしょうか。長年この分野について研究をしてきた1人の学者として私は、次の3つの点に着目してアドバイスしてみたいと思います。別の言い方をすれば、インテリジェンスの学び方として3つのアプローチがある、ということです。

その1つは、各国のインテリジェンスを扱う組織つまり情報機関について学んでいくというアプローチです。
2つめは、歴史上の、あるいは現代の世界において各国が行ってきた個々の情報活動についての知識を深めていくという学び方です。ただ、このアプローチは、本格的にやろうとすれば長い時間と経験が求められ、また悪くすると興味本位の「インテリジェンスもの」に引っ張られてしまう危険もあります。しかし今日では、多くの先進民主主義諸国で、これまで秘密にしてきた歴史上の公文書などの情報公開が進んでいますので、専門的な学術研究の分野としては大変有望な分野となっており、その成果が今後、さまざまな歴史の書き換えにつながることになるでしょう。

第3のアプローチとして、その国の文化や社会の中でインテリジェンスの位置付けはどうなっているのか、人びとはインテリジェンスについてどんな見方や関心を持って見ているのか、ということに着目して学ぶことも大切です。たとえば、自分が関心を持つある特定の国での「インテリジェンス・リテラシー」は、日本とくらえ、どのような状況にあるのか。あるいは歴史上、その国ではインテリジェンス問題についてどんな態度や扱い方をしてきたのか。さらには特定の国や文明圏におけるインテリジェンスをめぐる文化(インテリジェンス・カルチャー)は、多と比べてどんな特徴があるのか、ということも今後は重要な関心分野になっていくでしょう。

本書がとっているのは、この中の第1のアプローチです。それは、まずは何よりも方法や着眼点として学びやすく、かつインテリジェンスについてのさまざまな問題を学ぶ上で重要な出発点となりうるものだからです。ただ、本書がこの点でこれまでの類書とはっきり異なっているのは、単に各国には「こんな情報機関があります」という組織の解説で終わるのではなく、「インテリジェンス・コミュニティ」という概念を前面に押し出しているところではないか、と思います。

近代国家はどの国も、昔から政府のもとに、対外的・対内的といっ担当別に複数の情報関係の機関や組織を持っています。しかし、それらが個々バラバラに動いていたのでは国として政策や国益に資することはできません。そこで、現代では主要国においてはどの国でも、これらの書記官の間で高度な情報共有をシステム化しており、それを政府の一元的な管轄下で1つの政策や長期的な国家戦略の策定につなげる体制をとっています(ただし日本だけは例外で、まだこの域に達しておりませんが)。そうすると、こうした体制のもとで、さまざまな情報機関が全体として1つの有機的な共同体を形づくっている、と見ることができます。これが「インテリジェンス・コミュニティ」と呼ばれるゆえんなのです。本書は多くの章で、この観点から各国の情報機関を見てゆこうという、斬新かつ意欲的なものになっています。

また、この「インテリジェンス・コミュニティ」という視点は、今後の日本のインテリジェンスのあり方を考えるうえで、実践的にも大変重要な問題提起となっており、またそれについての各国の状況を紹介することで具体的な提案ともなっているのではないかと思います。実際、いま日本のインテリジェンスを考えるうえで、2つの大変重要な課題があるのですが、その1つはこの、真に有機的な「インテリジェンス・コミュニティ」を、日本においてどうやって築いていくか、ということです。そしてもう1つは、前述したように国民的な「インテリジェンス・リテラシー」の向上をどのようにして図っていくか、ということです。

各国の歴史が示している通り、国の存在にとって情報活動や情報機関は必須不可欠なものです。しかしまた、それは時に暴走したり大小さまざまなしっぱいをしたりするのも歴史の教えているところです。それゆえ、国益と共に民主主義の社会と価値観を守るためには情報コミュニティに対する監視や監督、いわゆる「民主的コントロール」が求められるのです。そのために国民の代表たる政治家をはじめメディア識者あるいは一般市民にもリテラシー、つまりインテリジェンス問題への十分な知識と理解が求められます。そして、そうした正確かつ健全な国民のリテラシーを高めるうえで、客観的で堅実な学問研究の基礎が不可欠なのです。日本は小野店でも大変出遅れています。

すでに欧米の民主主義国では、多くの大学や民間の研究機関で「インテリジェンス科目」の講義が行われ、インテリジェンス専攻の学科・学部が数多く設置されています(詳しくは雑誌『情報史研究』2009年5月創刊号の拙稿「情報史学の発展をめざして」を参照)

インテリジェンスについての知識を広め深めることは、国の存立や国益にかかわる課題であるとともに、世界や歴史について考える我々の眼を豊かで深いものにしてくれます。本書はそのための有力な足がかりを提供するものだと確信しています。

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