『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください:井上達夫の法哲学入門』毎日新聞出版、2015

(聞き手・毎日新聞出版書籍本部志摩和生)

第1部 リベラルの危機

信用失墜

――リベラルの評判が悪い。以前からその傾向がありましたが、とくに昨年(二〇一四)の朝日新聞の件*は、象徴的であり、決定的でした。

(慰安婦報道検証記事のあり方を批判した池上彰氏のコラムを、上層部の意向で掲載拒否しようとしたことがわかり、世の非難を浴びた)

朝日新聞の問題は、リベラルの問題というより、まずは巨大権力化したメディアの問題だと思う。経営陣が編集現場に介入してくることに対する、内部からの批判的チェックが弱まっていた。大組織ならではの「ことなかれ主義」が広がっていたのではないかと感じました。

それは朝日だけでなく、同じような問題は、ほかの大きなメディアにもあるでしょう。だけど、かりに読売新聞に同じ問題があるとして、読売はもともとそんなにきれいごとは言わない。やっぱり、きれいごとを言っていた朝日が内部の腐敗を見せてしまったから、世間の反発が強かったんだと思う。

そこにリベラルの問題があるとは言える。リベラルが、言っていることとやっていることが違うという、ダブルスタンダードを見せたら、リベラルの主張そのものが自壊してしまう。

――しばらく前から、リベラルは人気がない。出版界にいればひしひしと感じます。かつてないほど保守的な本や雑誌が売れている。ネットの世界でも同じか、それ以上に保守派が強い。かつての、それこそ岩波朝日文化の全盛期を知る者には、隔世の感があります。

むかしは、リベラルという言い方は、一般的でなかった気がする。リベラル対保守という言い方が広まったのは、冷戦が終わったあとじゃないかな。

――そうですね、それまでは、革新対保守という言い方のほうが一般的だったでしょう。革新陣営、進歩派、平和勢力・・・・・・そのころはマルクス主義も論壇や大学とかで元気でした。要するに同伴者が多かった。それがこうなったのは、やはりベルリンの壁崩壊からでしょうか。

事態はもっとややこしいでしょう。「革新」と言っても、日本ではマルクス主義のよう左翼と、リベラルとは、それほど一致していなかった。いわゆる岩波朝日文化を支えたのは、象徴的には丸山真男とか、法学では川島武宜、経済史の大塚久雄といった人たちだと思うけれど、彼らは左翼ではない。右翼という「敵」を共有する同盟関係があったとしても。そして、彼らの人気というか、影響力が衰えたのは、ベルリンの壁の崩壊以前で、一九八〇年代にポストモダンが大流行して「近代主義者バッシング」の集中砲火がすでに彼らにあびせられていました。

もちろん、そのあとの冷戦の終了の影響はあるでしょう。マルクス主義が自壊した後、保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた。要するに、左翼、リベラルといった、保守に対抗する勢力が衰えていった過程は、何段階かに分かれるのではないか。

終戦直後を支配した空気は、やっぱり大日本帝国という巨大な信仰体系の崩壊による大きな虚無感と、この虚無を埋め合わせてくれるものへの強い欲求だったでしょう。そのダメだった大日本帝国に替わる理念を提示していると思われたのが戦後憲法で、その理念は、進歩的文化人と呼ばれたリベラルな知識人たちがいちばんよく理解している、という、期待というか、信仰があった。そこでは、知的エリートと護憲、リベラルとが結びついていた。

しかし、戦後七〇年たって、大日本帝国への失望の記憶も遠くなり、戦後憲法の魅力も色あせて、今やリベラルのエリート主義と偽善性、欺瞞性ばかりが目立つようになった、と。

――進歩的文化人のエリート臭と偽善性は、私も子供のころから感じていました。受験戦争はよくない、と言っている当の評論家たちが、東大を出ている受験勝者だったりする。

リベラルとエリート主義が結びつき、嫌われているのは日本だけではないけどね。アメリカなどでもその傾向は強い。

ただ、あなたはリベラルの主張全般が信用と人気を失ったように言うけれど、私は必ずしもそう感じていません。

自由市場経済中心主義と小さい政府を唱道する立場がリベラルと思われた時代もありましたが、今はこの立場は「リバタリアン」と呼ばれている。保守対リベラルという図式では、今は、社会経済政策については、保守がリバタリアンで、リベラルはむしろ福祉国家擁護論とみなされている。不公正な格差を減らすとか、社会保障を充実させるとか、そういった福祉国家的主張の部分では、リベラルは、ビジネスの世界は別として、一般の国民のあいだでそれほど大きくは支持を失っていないと思う。むしろ今の日本で、ますます必要とされているのではないか。

信用を失っているのは、エリート主義で偽善的なリベラルとか、欺瞞性を強める護憲派とか、そういった部分だと思う。それは、信用を失って当然だと私は思っています。

pp. 6-

この本のタイトルの背景の良い説明。


啓蒙と寛容

リベラリズムとは何か。リベラリズムには二つの歴史的起源があります。「啓蒙」と「寛容」です。

啓蒙主義というのは、理性の重視ですね。理性によって、蒙を啓く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動です。一八世紀にフランスを中心にヨーロッパに広がり、フランス革命の推進力になったとされる。

寛容というのも、西欧の歴史の文脈から出てくる。宗教改革のあと、ヨーロッパは宗教戦争の時代を迎えました。大陸のほうでは三十年戦争、イギリスではピューリタン革命前後の宗教的内乱。血で血を洗うすさまじい戦争でした。

それがウエストファリア条約でいちおう落ち着いた、というか棲み分けができた。その経験から出てきたのが寛容の伝統です。宗教が違い、価値観が違っても、共存しましょう、という。

この「啓蒙」の伝統と「寛容」の伝統が、リベラリズムの歴史的淵源だということは、ほぼすべての研究者の共通了解です。

pp. 11-12

なるほどですね。


カントの啓蒙

理性が、自分の能力を超えて無責任なことを言い出す、これを「超越的」、ドイツ語で「トランスツェンデント(transzendent)」と言います。

しかし、カントの哲学は、超越的な思弁にいくことを批判する。理性にできることはここまでだと理性の限界を確定する、これを「超越論的」、ドイツ語だと「トランスジェンデンタール(transzendental)」と言います。

人文社会科学における最近の日本の研究者、いや欧米の研究者でも、この二つの言葉を混同して使用している者が少なくない。カントは「超越論的」な立場で、「超越的」な態度を批判したんです。

p. 15

意外と明確な定義を見なかった気がする。


受け入れる度量

たしかに、英語の「寛容」という言葉、「トレランス(tolerance)」には、こうした否定的なニュアンスもあります。動詞のトレレイト(tolerate)というのは、「不快なことを我慢する」という意味ですね。

自分が「忌まわしい」と思っている信念に従って生きている連中がいて、嫌なやつだと思うが、まあ許してやる、もっと言えば、「本当は殺したいけど我慢する」、その代わり、そいつらが自分の生き方や信念に文句をつけたり干渉してくることは絶対許さない。互いたこつぼに相手の蛸壺に介入するのを自制することで、自分の蛸壺のなかでは唯我独尊を守って共存する。そういうニュアンスが「トレランス」という言葉になくはない。

日本語の「寛容」は、それとは違いますね。寛く、容れる、ですから。この意味での英語は、むしろ「オープン・マインデッド(open-minded)」です。

自分と視点を異にする他者に対し、自分に文句をつけてこない限り、「嫌な奴だけど我慢してやる」ではなくて、そういう他者からの異議申し立てや、その攪乱的な影響に対し、それを前向きに受け入れる。それは自分のアイデンティティを危うくするおそれもあるけれど、あえて引き受けよう、という度量ですね。それによって自分が変容し、自分の精神の地平が少し広がっていくかもしれない。

それこそが、寛容のポジだと、私は思います。

単に「おまえはおまえ、おれはおれ」と棲み分けて、「批判はお互いにしないぞ、聞かないぞ」という自閉的態度。その結果として、お互いの国がお互いの政治的抑圧を許し合う。それは、寛容のネガです。

そうではなく、自分自身が、他者からの批判を通じて変容していく。その可能性を引き受ける。お互いがそうした態度をとる。それこそが、寛容のあるべきポジです。

pp. 19-20

確かに「寛容」と訳された時に、日本語で理解すると誤解しやすい。まあ、欧米式の「寛容=tolerate」が大事なときもあると思いますが…


「正義」がリベラルの核心

リベラリズムは、啓蒙と寛容という二つの伝統から生まれたと言いました。

しかし、啓蒙にも寛容にも、これまで言ったように、ポジとネガがある。

両者のネガを切除し、そのポジどうしを統合させるための規範的理念が、私が考える正義なんです。

もちろん、一口に正義と言っても、対立競合する正義の規準を掲げるさまざまな思想、たとえば功利主義とかリバタリアニズムとか、平等主義的権利論とか、いろいろあります。哲学用語でそれらを「正義の諸構想(conceptions of justice)」と呼びます。しかし、正義の構想が対立するのは、正義という同じ概念について異なった判定基準を提唱しているからです。この同じ概念を哲学用語で「正義概念(the concept of justice)」と呼びます。

「正義の諸構想」が共通して志向する「正義概念」の中身は何か。「等しき事例は等しく扱うべし(Treat like cases alike.)」という命題で正義概念は伝統的に表現され、これを形式的、無内容なものとみなす立場もあります。

しかし、私は正義概念は重要な規範的実質をもち、それが啓蒙と寛容のポジを統合してリベラリズムを再編強化する指針になると考えます。

pp. 20-21

これは面白い切り口。


保守主義との違い

――理性の絶対化の危険という話がありました。理性への懐疑は、保守主義が主張している点ではないでしょうか。理性が頼りないからこそ、人々が脈々と築きあげてきた伝統のほうを重視する。あえて聞けば、なぜ保守主義ではいけないのでしょうか。

個人的理性の倨傲、「ヒュブリス」への批判という意味では、保守主義も理性批判です。

しかし他方で、「自分たちの社会の伝統や歴史に埋め込まれた集合的理性というのがある。おまえ一人じゃわかんないけど、何代にもわたって蓄積されている。それにくらべて個人の理性などたいしたことがない」というのは、逆に集合化された理性を絶対化している、と私は思う。

いくら集合化された理性とか、長い歴史に裏打ちされたとかいっても、たとえば、カースト制はいいのか、と。

たしかに、カースト制にしろ、それが長く続くことで社会システムの安定化があるだろう。そして、その安定が失われると、たしかにある弊害が生じるのかもしれない。しかしそれらはつねに批判的に吟味していく必要があると思う。

だから、個人理性の傲慢化を批判するという意味での保守主義には共鳴はするけれども歴史や伝統というものに無批判な信頼を置いてしまうのは、私は違うと思う。

啓蒙のポジの伝統である、絶えざる自己吟味というのは、自分個人に対してもそうだけど、自分がコミットしている社会、文化、歴史に対してもおよぶべきです。

自分たちの文化、自分たちの歴史を誇りたい気持ちは自然です。日本文化は素晴らしい、と誇りをもつのはいいけれど、それが他者に対する抑圧効果を何かもつとすれば、それに対する批判には謙虚に耳を傾けていかなければいけない。

pp. 26-27

自分も元々はイギリス流の保守主義・懐疑主義にかぶれて、ハイエクも好きだったりするんですが…ただ、現実に現代の国家は多かれ少なかれ福祉国家にならざるをえず、そうだとしたらトライアル・アンド・エラーでも国家運営みたいな大文字のRも洗練させていく必要があると、最近は思うようにはなってます。


愚民観

・・・
民主主義の存在理由は何かというと、われわれが自分たちの愚行や失敗を教訓として学習する政治プロセスを、民主主義が提供してくれるということですね。完璧に頼れる人などどこにもいないが、愚者が自分の失敗から学んで成長することはできる。そのための政治プロセスが民主主義だ、と。

民主主義は愚民政治だという考え方とは逆です。愚民政治を批判するエリートも含めてわれわれはみんな愚かさから免れないからこそ民主主義が必要だ。この考え方を私は「我愚者の民主主義」と呼んでいます。

「我ら人民(We the People)」が主権者、これが民主主義だ、と言われますが、私は「我ら愚者(We the Foolish)」が愚者としての謙虚な自覚をもって自分の失敗から学ぶ政治こそ民主主義だと言いたい。

民主主義といっても複数のタイプがあるけど、私が提唱しているのが、「批判的民主主「義」です。アカウンタビリティを明確にして、だれが間違ったか、何を間違ったか、ごまかしがきかないような制度にしよう、と。そうしないと、失敗から学ぶことができないから。

批判的民主主義論は、『現代の貧困」という拙著で展開しました。これを、「われら愚者の民主主義」として再定義して発展させようと思っています。

pp. 57-58

禿同。




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