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THA BLUE HERB

と自分。



ここまでがタイトル。
おこがましくて「自分」を同じフォントサイズで綴れない。


ブルーハーブそのもののヒストリーや伝説なんて至る所にあるしここで語るまでのことではない。
あくまで自分の立ち位置から望むブルーハーブをここでは話す。


札幌、ブルーハーブの始まりは1997年。
オレがブルーハーブからの衝撃を喰らったのは1999年。

当時住んでた地元北見でアパレルショップに勤めながらDJしたりフリーペーパー作りをしたり思いつくまま暮らしていたある日、勤める店の近所にある別のアパレルショップに顔を出したらそこで働く遊び友だちの後輩ゴトウくんが1本のビデオテープを差し出してきてこう言った。
「きっと好きっすよ。観てみて」って。

1999年5月2日 初めてTBHが東京でライブした時の記録が収められた歴史的記録。

当時自分はハタチそこそこ。
10代半ばで知ったハードコアパンクに溺れ学校という「あんまりうまくやれない」システムから遠ざかりフラストレーション全てを音楽とスケートボードのプッシュにぶつけて生きるのち、熱量は沸点を超える一方で同世代のバンドメンバーとの熱量には差が生まれ葛藤してる途中、街に初めて産まれたクラブオーナーのサトさんとそこのスタッフで一個上のマツ(現・DJ fanta)から誘われDJへシフト。
ディスコとは違うテクノにハードコアと似た思想を感じ思いのままに夜のDJブースで行き場のないイライラをぶつけていた。

ヒップホップはほんのちょっと知っていたけどビースティーボーイズとかパブリックエネミー、あとは「ミクスチャー」と称される音楽が増え始めた時代でメタルとヒップホップが融合した音を聴いたりrage against the machineが好きなくらい。
ケミカルブラザーズもテクノやるきっかけだったっけな。
レイジもケミカルもヒップホップじゃないね。笑

「札幌のヒップホップ?」
「どんなだろ?」

オレが当時知ってた札幌はカウンターアクションのSLANG・KOさんだったりNEXT STYLE、カウパーズ、あと死んじまったけど友だちの兄貴カンノくんのバンドぐらい。

ゴトウコウスケから借りたそのVHSテープを手に当時住んでた三角形の10畳もない変なカタチのワンルームへ帰った。
ゴトウくんの友だちでヤクザになる前のジュンイチロウを誘い、その狭い部屋で野郎2人肩を寄せ合いながら小さなテレビモニターでそのビデオを観はじめた。

野郎2人で狭い部屋(マンション角部屋三角形)。
始まりから終わりまであまりの衝撃にお互いひと言も発することなく、
ライブが終わり音も画も止まってからもしばらく黙ったまま。

長い沈黙のあとに2人でボソっと言い合った。
「ヤバいものを観てしまったな」と。


がむしゃらに音を鳴らしフラストレーションを爆発させながらいつも喉が詰まって言葉にできなかった、「音から感じとってくれ」なんて思っていた全てをブルーハーブのBOSS THA MCはそこの底で全てぶちまけていた。

言いたいけれど言葉にできなかった全てを「洗いざらい」が相応しいほどに。

「喰らう」とはあのことだろう。

その日以降、その想いを分かち合いたくて遊び仲間の集いでビデオ流すも「深すぎる」と言われて終わったり、
自身のDJ中に針を落とすも「テクノのパーティーでブルーハーブはちょっと…」と怒られたりしていた。笑

自分勝手な確信は「この人たちがジャンルを越えて音を鳴らすようになったら本当にすごいのに」という願いを持つことに変わっていったのだけど、オレなんかが心配しなくてもすぐにブルーハーブはあらゆる垣根を壊していった。


いくら怒られても「きっといつかは気づく」と針をおろし続け、
それまでと変わらずフラストレーション全てを音にぶつけていたある日。

住んでた北見から車で2時間半の街「釧路」でブルーハーブがライブをやることを知る。

フジロック2000の伝説の少し前でO.N.OさんがまだライブDJしてた頃。
「行くしかない」の前のめりなバイブスだけ抱えて釧路へ向かい初めて生身のブルーハーブを体感した。

ライブ直後に興奮収まらないオレは無理矢理BOSSさんを呼び出して、北見から来たこと、いつか自分の街でライブしてもらいたいことを懇願し次はオレが自分の街でやってやるぐらいの気持ちで釧路をあとにした。

けれどもそこからの自分はどんどん生活に行き詰まりブルーハーブのライブをオーガナイズするどころか地元を離れ出稼ぎに出たり精神病んだりうまくいかないことばかりで自分を責めるぐらいしかできずにいた。

自分の手で…

そのチカラと想いはどんどん遠くへ離れていった。。


自分が遠ざかる一方で、ブルーハーブは地元北見の連中を気付かせる曲を世に放った。

「未来は俺等の手の中」がそれだ。

奇しくも衝撃を受けた1997年5月2日六本木COREのことがリリックに乗った曲だった。

その後すぐに、オレをDJへ導いたマツが主宰するクラブ「HOOPLA」でのライブが決まった報せが届いた。

自分のチカラでは無理だったけど、苦楽も共にした仲間たちのもとで地元でブルーハーブが鳴らしてくれることを当時住んでた網走から嬉しく思った。

それからのことは全国のブルーハーブを知る奴等が承知のことで、北見とブルーハーブとの繋がりはとても深い縁へと発展してくれた。

当時見向きもしてくれなかったオーディエンスもライブにやられていた光景は忘れられるものではない。

すっかりその輪から遠ざかってしまったオレではあるけど、
マツはひとつも忘れていなくて、初めてHOOPLAでライブをやる時から当時やってたオレの店をチケット取扱店としてクレジットしてくれた。

「お前が一番言ってたじゃん」って。

あとね、
自分で店を始めることを決めたタイミングでブルーハーブも新作のリリースを発表したんたけどそのタイトルが「HIP HOP 番外地」でオレが始める店の名前が「番外地」だったの。
「なにこのシンクロ!」ってマツと震えたのも良い思い出だし今でもこのジャケットは店に飾ってイル。

その後数々の伝説が北見の夜に刻まれたり、当時の仲間たちがどんどんBOSSさんと仲良くなる中で今もオレはBOSSさんに近づけないでいる。

あの時、あの夜釧路でイキがってた以上、どんなどん底でもブルーハーブからチカラを授かり生き延びてきた以上、
自分で納得できる自分になるまでは近づくなんて失礼かなと。

あの釧路の夜からとっくに20年以上の時が流れた。

けれども未だ自分は納得いく自分に届いていない。

恥ずかしいけどそれが事実。


そして今月の今週15日土曜日にブルーハーブは釧路に来る。

まだまだオレはBOSSさんに近づけやしないけど、ここまでのありがとうとここからのチカラを得にライブへ向かおうと思う。


これを読んでいるのはブルーハーブをまだ知らない人も居ると思う。

けど、もしアナタが今日までのアナタ自身の人生において何かしらの自分の内側の「葛藤」と向き合ったことがあるのなら、
ブルーハーブの音と言葉は心を響かせるだろうし、今以上のエネルギーを受け取ることができると思うよ。

これを読んでもし感じてもらえるものがあるのなら、
もしまだ間に合うのなら、
新たなこの街の伝説を共有しましょうよ。

あの日、三角形の部屋で喰らった続きもそこにはあるのだろうし。

あと最後に、
「番外地」の屋号を失った今もポスターを店に届け続けてくれているTHA BLUE HERBにでかい感謝を。

正直ここ数年は「自分らしさ」を削って生きていたけど、最後は「らしさ」を大事にして貫きたくて今日がある。

いまの自分にはなにもないかもしれないけれど、譲らず全うすべき「らしさ」を守れたのはブルーハーブをはじめとする音楽と関わってくれる人々のおかげだと感じてる。

ありがとうございます。

読んでなにか感じてくれた人と、
勝手に許可なく実名で綴った音モダチたちへこの曲を。

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