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1997年 ジョホールバルの記憶

 あの頃、まだ僕は小学生だった。小学校に入学して間もなくJリーグが開幕して、野球からサッカーに公園の主導権が変わり始めていた時だ。緑色のユニフォームを着たカズやラモスやキタザワに誰もが夢中になっていたあの頃。サムライブルーなんていう言葉もまだなかったあの頃。

93年ドーハの悲劇は、いまでもよく覚えている。ワールドカップの持つ意味や、日本サッカー界の悲願などはよく理解していなかったけれど、子供ながらに「何か大きなことが起きている」という空気を感じ取っていた。試合の翌日、学校でもドーハの話題で持ちきりだった。しかし、日本が逃したものの大きさに、この時は全く気付いていなかった。

それから4年後、フランスワールドカップアジア最終予選。中学生になった僕は、4年前よりも事の重大さを理解していた。モジャモジャ頭の10番はもういなかったけれど、カズもキタザワもまだ現役バリバリだった。短く刈り上げた髪を茶色に染め抜いた伊達男が、中盤から幾多のチャンスを演出する様は、はるかフランスへの道標のようだった。

そして1997年11月16日、マレーシアはジョホールバル。日本はイランとの最終戦を迎える。試合は押しつ押されつの展開で、2-2同点のまま延長戦に突入。ここで投入された野人が、何度目かの決定機をスライディングしながら押し込み、アジアでの長い旅は終わった。黒い長髪をなびかせて全身で喜びを表現する野人の姿は、今なお多くの人の脳裏に焼き付いていることだろう。

あれから20年以上が経つ。日本はアジアでの地位を確固たるものにし、あの日あの時、野人がこじ開けた世界への扉は未だ開け放されたままだ。日本代表の印象的な試合を思い出す時、同時期の自分の人生も思いだす。それはつまり、日本にサッカーというスポーツが文化として根付きはじめていることと同意義で。だから、20年前に開いた扉のもっと先へ、もっと奥ヘ、僕たちは今日も、青いシャツを身に纏った彼らに、自分自身を投影する。




#サッカー日本代表観戦記

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