見出し画像

#133 詩・寅・午

 また小学生が「詩を書け」という宿題を持ち帰ってきた。詩については思うところがあり、結果としてどうでもよくなったのであるが、ノウハウを教えもせんで(教えたのかな)ペラ紙一枚もたされて帰されて、先生も「なんでもええわ」と思っているのかもしれない。まあ結論としては「なんでもいい」のではあるけれど。今回はそのへんを書いていこう。

 あたくしなんぞがいたいけな子リスちゃんだった時分にも、詩の宿題というのはあって、得意か不得意かというとどっちかというと意味のない言葉の羅列をすることは得意で、中学生のときにそうした課題を山ほど作って国語の先生にもっていって「書きゃあいいってもんぢゃないのヨ」と怒られたのが心の傷となっている。拒絶されたこともさることながら、ぢゃあ詩ってなんなんだよ、というところにすとんと落ち込むと、わからなくなった。先生が教えてくれた覚えもない。

 詩というのは、はじめにソロモン王あたりが神の言葉を預かるあたりから始まって、光あれ、というと光がいきなり実在したりして(この辺、あえてごちゃごちゃしています)韻文が踏めないと格調が出ねえだの、それだと窮屈だからおのれの心中から噴き出したずるずるどろどろを壁に塗りつけていこうだの、そのときどきのシーンがみんな並列に顕現してしまっているのから「何某か」「何が詩か」というのがわからなくなっている。
 あ、急に思い出した。小学校のときに通過する詩として、工藤直子の「ねがいごと」という詩があり、

あいたくて
あいたくて
あいたくて
・・・
きょうも
わたげを
とばします

工藤直子「ねがいごと」

 この詩自体が問題なのではなく、この詩を読むにあたって「『あいたくて』はみっつ続くのでどんどんと大きく読みましょう」という担任の先生の演出がいまだによく分からねぐてやはり心の傷になっている。そういう指導要領だったんだろうか。「駄目だとわかっていても飛ばし続ける」のかもしれないぢゃん、とつよく心に思ったのを覚えている。つまり、あんまり、意にそまなくて「つまんねえな」と思ったのだ。

 時代は30年くらい下る。大学生も終わりかけて、それなりに社会人になるとweb文芸にしばらく浸かっていた。詩も書いたが「おまえのは詩ではない」と云われ続ける。思い返してみれば、前述の通り、みんな抱えているフォーマットがバラバラだったんだろうな。それぞれバラバラだったところのものを持ち寄って、お前は駄目だのわかっていないだのとそれこそ実生活に影響が出るレベルで罵り合っていた。で、界隈に滞留する人間はおおむね精神的に弱いところがああるので病んだり壊れたりしていった……思いかえしたくもないけど、自分は傷つきたくはねえけど狭いコミュニティではちやほやさえたい、みたいな了見の連中が満たされたくとも満たされずゴチャマンとしておった。まるで餓鬼道。

 このweb文芸の時代もSNSが世に出回るようになって急に衰退していくわけではあるが――えーと、ネットをほじくりかえすと、弊社作の詩らしきものも(それなりの量)発掘されると思うのですが、#えねーちけーアーカイブには残しません。いまだに詩なんぞよくわかってねえ。詩のことなんぞ考えると一生モヤモヤする。……ンが、すべてを取り払って考えるとこういうことだ。小学生にはこう教えた。野球好き向けにわかりやすくしてある。

①書くべきモチーフを決めてしまう。ストライクゾーンを設定する。
②好きに書く。ストライクが取れるように試行錯誤する。
③うまいことを言おうとしない。

――ということを(あくまでも、最後の3つだけ)伝えたところ、息子はなんらかをもらった紙に殴り書き、(そんな雑な字のものを提出するな、とあたしが雷を落とし)、じゃっかん不貞腐れて親を避けるようにしてランドセルに放り込んでいた。

 別に見ませんとも。宿題なんぞ、片付けばなんでもよかろうなのだ。

この記事が参加している募集

今日の振り返り

みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。