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孤独について③

ごきげんよう、note諸兄。

いやはや、早いもので、このシリーズも3回目となり申した。しかし、孤独に関する探究とは尽きぬもので、また尽きる前に用無しとなるのが理想のようなものですから、気長にやっていこうと思います。

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先日、以下の記事にて、

最後は自分が、”ホンモノの孤独”を作り出してしまう。
故に、1番の対抗策は、自分から孤独にならないこと。つまり、人と関わるのを避けたり、塞ぎ込んだり、理由をつけて誰かに甘えることを放棄すること。これに気をつけなくてはいけない。

と書いた。もちろん、これもまた、一つものごとを言い表していると思われるが、最近発見があったので、今日はその話をしてみようと思う。

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孤独は、孤独を作り出す。

しんどいときに限って、誰からも連絡がない。あるいは、本当にツライときこそ誰も助けてくれないと思ったことはないだろうか。

そう、孤独は孤独を呼び、自分の行動の決断いかんにかかわらず、孤独は深まるのだ。

無論、二者間に相関関係があるとは言い切れず、たまたま、偶然、ツライときに誰からも連絡がないように感じられるだけかもしれない。

ただ、ここで重要なのは、その真偽によらず、我々はそう感じてしまうということだ。

そして、この仮説が仮に正しければ、あるいは暫定的、部分的にでも正しいなら、不幸なことに、自分自身では孤独を打ち破ることはできないということになる。

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ただ、幸か不幸か、あるいは人間の神秘的機能性のおかげか、やはり我々には打開策が与えられている。

内側から閉めた心の扉、窓には内側からは開け難く、外からの圧力に弱いという性質がある。年月が経ってしまったものは、難易度は上がるというのも確かだが。

すなわち、外に味方ー都合の良いときでなく本当の意味で味方である人ーさえいれば、孤独の霧を払うことができるのである。

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結局のところ、そういう人を大切にしようだとか、自分が元気なときは自分の大切な人に寄り添うだとか、そういう結論には変わりない。

しかし、今回の気づきーつまり孤独は本人の手によって打開し得ない大きな闇であるということーが我々に教えてくれていることは、他人に優しくあること、寄り添うこと、声をかけ行動を起こすことが、唯一の灯りとなるということだ。

それ以外に解決策が未だないことに、大きな意義があるのだ。

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孤独の闇、というのは人からあらゆる灯りを奪い取る。

例えば、以前は楽しいと思っていたことに喜びを見出せない。好きな音楽を聞いても絵や詩を書いても、映画やドラマ、アニメ、小説を鑑賞しても、それが楽しくない。

明日への希望を見出せず、みる気もせず、過去ばかりに囚われてしまう。

明くる日も明くる日も、一人ではないのに寂しさばかりが募りゆく。

夜は眠れず、朝は起き上がれない。

そうなる前に。

もし、仮に自分がそういう状態にあるのなら、専門家に助けを求めることをお勧めする。私も実際そのようにした。だが、それも自分一人の決断ではなく、共にその傷や、錆び付いた心に向き合おうとしてくれる人があってこそだった。

だから、どうか。どんな小さなことでもいい。ハリーがディメンターに襲われたあと、チョコレートのかけらを食べることが最も有効であるのと同じように。幸せな記憶が溢れる幸福感が守護霊を呼び出すように。

あなたの小さな優しさが、ある人の世界を救うのだから。

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あなたの楽しい世界においては、あなたは無敵である。

それは、幼子だったあなたがそうであったように。

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