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自分はズレているんじゃないかという恐怖について (エッセイ)

見当違い、的外れ。
自分はズレているんじゃないかという恐怖がある。

これは「他人と違う私」とか「個性的な考え」とか「独創性」とかの話ではない。

もっとコミュニケーションにおいて致命的な、
・相手の意図が汲みとれない
・要点が分からない
・本筋からズレている

などと言った話だ。

例えばこのnote上でも、どなたかの記事にコメントを書く時、自分がズレたコメントをしているんじゃないかと思うことがある。
小説やエッセイ記事の感想に、見当違いなことを書いていないか。聞かれてもいない自分語りをしていないか。グルメ記事でカレーのことを書いているのに「カレー美味しそうですね、私は天ぷらが好きです!」的なことを書いていないかと。
ファンレターのつもりで私はコメントを書いているのだが、それが作者の意図や要点とズレていて困らせてしまっていないかと心配になる。

考えすぎと言うかもしれない。だが、このようなことは日常生活でも起こり得るし、実際に起きていると思うのだ。
しかもこの問題で私が懸念しているのは、

それを指摘してくれる人は少ない。

そして、指摘されなければ本人がそれに気がつかない。

という点だ。

先ほどのコメントで言えば、ズレたコメントに対してもそれに触れないことが多い。相手を傷つけないようそれに乗っかって「天ぷら、私も好きですよー」と返信をくれる。
とても優しい。作者は「そこじゃないんだよなー」と思いながらも優しくしてくれる。世界はそれを愛と呼ぶんだろう。そんな愛で回るこの世界が私も好きだ。
同時に、自分はそれに気がつかない側の人間じゃないかと不安になる。実はこの輪の中で浮いているんじゃないかという恐怖がある。

この考えは実に危うい。行き過ぎると精神を病むかも知れない。
村上春樹は『スプートニクの恋人』の中で、「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」と言った。
あまり深く突き詰めると、哲学の迷宮から出てこれなくなりそうだ。何より書いている私が混乱してしまう。
なので、この問題を私なりに軽く考えてみた。

この問題は『お笑い』という尺度で考えてみると説明がつくと思った。
例えば一つの話題があった時、それに対してズレたことを言えば『ボケ』となり、『つっこみ』によって笑いは成立する。

このズレの幅が大切で、あまり遠くでズレてしまうとピンと来ない。無理問答のように、そもそもの会話が成立しない。
逆に近すぎると、今度は面白味がない。
絶妙なズレの距離感で『ボケ』は生まれ、そこに『つっこみ』が成立するんだと思う。

『天然』という言葉もある。
これは本人が意図していない言動が周りとズレていることで笑いが起こる。
お互いの認識がズレたまま進行する『すれ違いコント』なんてのも発展形だろうか。

この理論で考えると、今回私が懸念しているのは「近い距離のズレ」だと思った。
「近いズレ」には面白味がない。面白くないのでつっこむまでもない。ただ流されてしまう。
つっこみ(指摘)の不在によって、その場には少しだけズレた違和感だけが残ってしまう。
こんな構造だろうか。

自分なりにモヤモヤしていたことが判明したので、なんだか満足してしまった。
根本的な解決にはなっていないけど、そもそもこれは解決できる問題なのだろうか。
自分だって誰かに対し、感じたズレを指摘するのは難しい。

自分だけがズレているわけじゃない。
今日のところは、そう思うことにしよう。


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