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78 寛平

大学4年生の時に「第5回淀川寛平マラソン」に出たことがある。
寛平マラソンとは、芸人の間寛平ちゃんが発起人を務める産経新聞社・吉本興業主催のチャリティーマラソン大会でよしもとの芸人も参加するイベントである。

フルマラソン、10キロ、3キロとレースに分かれており、私は同じ大学のフィールドホッケー部の友人に誘われて10キロの部に参加した。

ふう…友人には黙っていたがこう見えても長距離走には自信があったのだ。寛平マラソン出ようと言われたとき、思い出作りに出てみるかぁ~。とか言って適当に受け流したが、心の中では芸人にも会えるし表彰とか狙えると本気で思ってニヤニヤしていた。

学生時代はずっとバレーボール部に所属していたのだがバレー部はなぜか走ることが多い。
中学の時は体育館が2日に1回しか使えないので、使えない日は部活の時間が終わるまで永遠(とわ)に学校の周りを走り続けていた。
そのおかげか、中学に入学したときは自他共に認める冴えないぽっちゃり君だったのだが3年生の時には痩せこけ、校内マラソン大会で3位に入賞するほどの強心臓を手に入れていた。高校でも練習や試合でダメだったりするとコートを全力疾走させられることも日常茶飯事だし、週に1回のトレーニングの日は校内を規定タイム以内に走らないとさらに罰で走らされるというリアルリセマラを強行していた。(まぁ自分は3年間、規定タイム内に走りきった覚えしかないが。キリッ。)そのおかげで、春の体力測定でシャトルランで1年時は126回、2年時は136回、3年時は138回という記録を残していた。このように3年間のシャトルランの記録を1の位まで鮮明に覚えているあたり、他に自信に持てるものがなにも無かったことが垣間見えるが、130回を超えたあたりで周りは誰も走っていないので同じクラスの女子に注目されて黄色い声援を浴びたことは今でもたまに思い出す。あの130~136の瞬間だけは、この世界中で私が主人公だ!と平成最後の大勘違いをしたものである。まぁ3年間で1回も彼女は出来なかったのだが。

と、フィールドホッケー部には負けないし、芸人を観ながら適当に走るか。と当日なんの準備もせずに自称Mr.シャトルランの私は会場へ向かうと10キロの部もマラソンガチ勢で溢れかえっている。もうここですでに雰囲気が怪しかったのだが、お察しの通り大学のバレー部では長距離のトレーニングはほとんどやらない。大学生になってからというものの高校の時の練習は5時間くらいしてたのに大学は2時間だけ。チャリ登校から原付に代わり、夜中はバイト先のまかないのハンバーグを貪り食う。空きコマがあれば大学の庭でパズドラをするという舐め腐りきった生活を繰り返しているうちに、見た目は成長しても心臓だけはあの頃の忌々しいぽっちゃりくんにバック・トゥ・ザ・フューチャーしていた。

7キロ地点で友人に「先行っとくで!」と叫ばれてぐんぐんと距離を離される。あなたタバコも吸ってるくせに一体シャトルラン何回なんですか…と、体力の基準をシャトルランでしか測れないほど退化した自分の脳みそを恨みながらアヘアヘと体力を限界まで振り絞っていると、前にガタイの大きいノロノロした男が。そう、あの焼肉屋で一世風靡したたむらけんじである。この寛平マラソンでは普通に芸人が走っていたりするのだが、若手芸人はぶっちゃけ知らない人もたくさんいて、分からないまま通り過ぎるのだがたむけんはオーラが違った。「頑張りましょう!」とたむけんに声をかけると「はぁ…はぁ…」と天下無敵の焼肉屋オモシロおじさんはただのおっさんに成り下がっていた。私みたいな有象無象が幾多にも声をかけるからもう反応する余裕がないのだろう。横を通り過ぎながらマラソンは人を狂わせると痛感しつつゴール。


そこには笑顔で手を振っているフィールドホッケー部の友人が。
本来私がそこにいるはずだったのだ…!と思いながら飲んだポカリスウェットの味と、寛平マラソンなのに寛平に会えなかったことは一生忘れないだろう。



井の中の蛙どころかミジンコも甚だしい。

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