VRと、恐怖の美少女ゲーム

もくじ
第1話 美少女ゲーム『Doki Doki Literature Club!』との出会い
第2話 パラフィクションとVR
第3話 ホントもウソもない世界


第1話 美少女ゲーム『Doki Doki Literature Club!』との出会い

 自己紹介もかねて。私は神奈川にすむ大学生。ゲームをあまりやらなくなって久しい。小中学生の頃は友達と遊ぶときはゲーム、友達と遊んでなくてもゲーム、三度の飯よりゲームで「モンハン」や「メタルギア」等、それこそ寝る間も惜しんで没頭していた。

それは偶然の出会いであった。友人に「ヤバイゲームがある」と教えてもらい、ある1つのPCゲームを試すことになった。

『Doki Doki Literature Club!』(チーム・サルバト、2017)

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ん~笑。あまりこういったものはやらないんだけどなぁと思いつつ、なんだかんだやってみることに。

『Doki Doki Literature Club!』とは、ハーレムな主人公が複数の女子とイチャイチャを繰り広げる軽快な美少女ゲームである、、、はずだった。
申し訳ないが、ゲームのあらすじ、詳細は、以下のリンクからWikipediaを読んできてほしい。まず私とほぼ同じ経験をしてほしいからだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Doki_Doki_Literature_Club!#%E8%B3%9E%E6%AD%B4%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%88%E6%AD%B4

(ここからは完全にネタバレなので注意!!)

ー ネタバレ注意 ー


 みなさんはどういった感想を抱いたでしょうか。私は、とにかく、怖かったです。ホラーゲーム的怖さでも、レポート提出前日の追いつめられる恐怖でもない。何かわからない。でも、なぜか、怖い。この強烈な怖さの正体を明らかにしたいと思い、説明付けるべく思索をめぐらせることにした。

※内容についての考察はいろんな人がしているので、私は省略します。


第二話 パラフィクションとVR

 ①メタフィクションとパラフィクション

 私はまず、この体験はパラフィクション的だなぁと感じた。パラフィクションとは、メタフィクションから生まれた概念なのだが、まずメタフィクションとパラフィクションの区別をしておこう。

メタフィクションとは

メタフィクション(Metafiction)とは、フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体に言及・批評するような小説のこと[1][2]。メタフィクションは、それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する[3]。
Wikipedia「メタフィクション」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

パラフィクションとは、佐々木敦氏の提唱する概念で、佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる』(2014、慶応義塾大学出版会)の一節に見て取れる。

「何が起ころうと究極的には作者の権能へと回収されるフィクションとは決定的に異なった、読者の意識的無意識的な、だが明らかに能動的な関与によってはじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることのプロセスの中で、読者とともに駆動し、変異していくようなタイプのフィクションのことを、パラフィクションと呼んでみたいと思うのだ。」

 メタフィクションを、究極的には作者の権能へと回収されるフィクションであるとし、それを乗り越える形で提示された概念である。フィクションとは「作り話、虚構、想像上のもの」を意味するものであるが、それがこのパラフィクションとなって読者が作品に関与した時点で、もうそれは辞書的な意味でのフィクション(虚構、想像上のもの、仮想)ではもうないのではないかと私は考えている。
 パラフィクションの概念は小説について用いられた概念ではあるが、私はこのゲームを体験した時にこのパラフィクション性を感じた。プレイヤーはキーボードとマウスを通してゲーム側に働きかけている。そしてゲームキャラクターによって「こちら側」すなわちゲームファイルそのものが操作される(ゲームのwikipedia読んでね)ことにより、ゲームとプレイヤーにパラフィクション的関係が成立する。相手はコンピュータ。ただのコンピュータの情報であるのに、この強烈に引き込まれる感覚。この縮こまってしまうような恐ろしさ。揺さぶり。寒気。臨場感のようなもの。
 ここまで、考えてまた悶々とした。この感じ、どこかで体験したことあるような感覚だ。。。。。
 しばらく考えてから、ひらめいた。
 そうだ、VRだ!

 ②VRと『Doki Doki Literature Club!』

 VR(Virtual Reality : 仮想現実)と聞くと、私はPS4のヘッドマウントディスプレイがすぐに浮かぶ。視覚と聴覚を仮想空間に接続し、あたかも現実であるかのようにコンテンツを体験する。『Doki Doki Literature Club!』をプレイする際には、もちろんヘッドマウントディスプレイは装着しない。しかし、この強烈に引き込まれる感覚が「現に」ある。視覚と聴覚はコンテンツ外部との接触を保ってはいるが、何かがRealityを感じさせる。なぜ私はこの吸い込まれるような感覚がしたのか。
 ところで、例えば私たちは自分のコンピュータ上の文書について、これは物質ではないといちいち意識して作業しない。意識するのは、紙に印刷しろと言われた時と、なにか書き足したいと思った時くらいであろう。私たちは既に、物質と実質の区別は意識の上ではしていないのではと思う。物質としての物も実質としての物も、「モノ」として扱っている。だからコンピュータ上の自分のモノ(ゲームデータ)がゲームキャラクターに改変、削除されたとき、自分の直に所有する物質が改変されたのと同じような感覚(Reality)を感じるのではないか。

第三話 ホントもウソもない世界

 コンピュータ上などの実質的(Virtual)な情報について、我々はもう物質と同じように扱っている。仮想現実もまた現実であり、そこでの情報や経験にウソもホントもない。このことは、社会のあらゆる所に当てはまる。フェイクニュースも広がれば真実として扱われたも同然であり、仮想通貨も信用を持ち、化学調味料味を○○風味として受け入れる。音楽はイヤホンとiPhoneを通して聴き、ビデオゲームの勝ち負けでお金が動く。
 パラフィクションが人間の分解能を上回る解像度(視覚、聴覚、など感覚一般についての解像度)で実現された時には、もう人間の感覚にとって現実と虚構の区別は無い。VR、MR(mixed Reality)技術などの発達により区別が無くなった時に、私たちはこの強大な影響力をどう扱っていけばいいのか。『Doki Doki Literature Club!』はヘッドマウントディスプレイ無しにVRを想起させる。このパラフィクション的体験が、より実感、手触り感、存在感をも与えるようになると人にどのような影響を与えるのか。
 現実もフィクションも、ホントもウソも無い、そこにモノが在ることがすべて。物象と心象の区別がつかず、どちらも像として扱われる世界。そんな世界にもう既に入っている事を実感させる体験であった。

皆さんはどう考えましたか?お気軽にコメント等どうぞ。

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