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【まとめ】少年野球の問題は哀しい大人たちの問題だ(9)

 この【まとめ】記事も残り2回となった。

 最後の記事に行く前に、ここで改めて少年野球(学童野球)において「試合で勝つこと」がどんな意味を持つかを考察しておきたい。なぜなら、これまで書いてきた私の記事をもし全面的に受け入れるとすると、多くの指導者がこのように疑問を持つと予想できるからだ。

「確かに大人が楽しみすぎてはいけないだろうが、では練習も試合も、ただ子どもたちを楽しませ、ヘラヘラ笑ってやれば良いのか。負ければ子どもたちは泣くのに、勝つための厳しさは受け入れないなんて指導者はどうすれば良いのか。勝つことを目標にしなければ学童野球は何のための活動なのか・・・」と。

 こう考えてしまう大人にはまず、「学童野球の現場は小学校の運動会だ」と説明したい。
 小学校の運動会は、特徴的な教育をする学校を除けばだいたい似たり寄ったりのシステムだ。子どもたちは縦割りでいくつかの色に別れて競技し、それぞれの競技の勝敗で得点が加算され、最後にどの色が勝ったか「総合優勝」が決まる。
 もちろん野球が好きで集まった子の活動と、強制的に参加させられる運動会は前提が違うと言う人もいるだろう。しかし本当にそうだろうか?
 子どもたちが野球を始めた理由は、「親が野球が好きだったから」とか「WBCを見て憧れたから」とか、聞いてみればその程度だ。「好きで始めたんだから厳しくしごかれる覚悟があるはずだ」などと言う大人がいるなら、真面目に言うが、ちょっと頭がどうかしている。自分が子どもの頃を思い出せと言いたい。

 話を戻そう。なぜ小学校で運動会があるのか。運動が苦手で活躍できない子がいても、なぜ全員参加で毎年行われるのか。(もちろん賛否はあって良い)
 それは運動会もまた「教育」の機会だからだ。運動会は子どもひとりひとりの成長につながると考えられているからだ。決して「総合優勝」が目的ではない。「勝つ」ことを目標に全員参加することで、苦手なことに取り組んだり、練習に励んだり、互いに助け合ったりできる。その過程にこそ意味があるのだ。「勝つことを目標にする」ことが皆の心をつなぐ接着剤となり、子どもたちがそれぞれに成長するのだ。

 これを学童野球に当てはめれば簡単だ。「勝つことを目標にして活動はするが、その過程こそが大切だ」というそれだけのことだ。学童野球は心身ともに成長過程にある小学生の活動である。絶対に「やりすぎ」てはいけない。偏ってはいけない。勝つために犠牲になる子がひとりでもいれば、それはチームの活動としては失敗なのだ。「教育」から外れてしまうのだ。

 それでも、大人はどうしても「勝つことを目標にがむしゃらになって練習する」ことにうっとりする。それは自分が完全燃焼したいからだ。自分が「精一杯やった」と思って試合に臨まないと不安だからだ。
 そして、大人はどうしても「勝つために冷徹な采配をする」方が指導者として上だと考える。それは負けたとき「情で采配した」という後悔が残るからだ。結果でしか評価しない他人を「その過程で子どもたちが大きく成長した」と説き伏せる自信がないからだ。
 
 もし小学校の運動会で先生が「勝利至上主義」の指導をしたら、あなたはどう思うだろうか。普通にドン引きだろう。「子どもの教育の場で、総合優勝?先生の達成感?知らんがな!」だ。生ぬるいから成長の余地があり、自由にのびのびやれるのだ。子どもが自ら考えて行動できるのだ。
 だいたい「勝利至上主義」という言葉もよろしくない。ちょっとカッコイイではないか。その語感に惑わされそうになるが、「勝利至上主義」の実態は指導者の自信のなさのあらわれだ。それ以外何があるのか?








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