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人間が大っ嫌いだった私が他人を嫌わなくなって生きるのが楽になった話。

私は私に負の影響を与えてくる人間を嫌いにはならない。嫌うといった行動が自分に負荷を与えてしまうからだ。

私は中学生の時まで人間という生き物が大っ嫌いだった。嫉妬や軽蔑、ほんの些細なことで揉めて差別という現象が起こってしまう。

私は小学.中学といじめを受けていた。今考えるとほんとくだらない理由から始まったものだった。当時(小4)少年野球で一緒に野球をやっていた子が急にやめた。本人曰く私に嫌なことを言われたのが原因だという。もちろん私は身に覚えもないし嫌味を言う理由も一切なかった。おそらく自分より野球が上手くなかったのが気に食わなかったのだろう。当時その子はクラスの中心的人物で回りからの人望もあった。野球にしか興味のない私はクラスの中でも特に目立つこともなくただただ平凡な日常を送っていたような人間だった。そんな私に負けているという現実がよっぽど気に食わなかったのであろう。その日を境に周囲の私を見る目が変わった。そこからはよく聞くような陰口や明らかに人を避けるといったいじめの日々が続いた。ただ当時の私はとことん負けず嫌いだったため、どんなことをされようが学校を休むことはなかった。何をされてもさほど態度を変えない私を見ていじめの度合いが酷くなっていく一方だった。ただ私には野球という支えがあったため精神的にもかなりすり減っている状態であったが耐えることができた。

中学生になってもいままでとさほど変わらない日々が続いた。私と同じ小学校だった人が周りに伝達し、どんどん関係ない人を巻き込みいじめの輪を広げていった。時には同じ野球部の人に私物を捨てられることさえあった。ただここでも周りの人より野球は上手くエースとして活躍していたため私は「お前ら俺がいなかったら勝てないくせに何ほざいてんだ」と内心思っていた。さほど気にもせず、正直その人たちを集団でかかってこないと何もできないかわいそいうな人たちなんだとさえ思うようになっていた。

そして中学校を卒業するころにはその人たちに対し嫌いや憎いといった感情はなくなっていた。

「なんでそいつらのことを考えて苦しまなくちゃいけないんだ。」

そう。私はその子たちに対し無関心になっていたのだ。

ただただ騒がしい物体がそこには存在していた。

それから私は人を嫌うことをやめた

嫌うということは少なからずその人のことを意識してしまっているといいうこと。決してその人を受け入れろというわけではない。その人を人として認識しなければいい。わかりやすく例えると不良品のロボットだと思えばいい。今あなたが嫌っているその人はただの不良品のロボットだ。不良品のロボット相手にイラついても何も自分にメリットはない。そう思うと自分の心に余裕が出てくるだろう。更に他人を受け入れる余裕さえでてくる。人間が大っ嫌いだった私も今ではどんな人間でも否定せず受け入れる余裕があるくらいだ。

人は生まれる時も環境も全員違う。100人いたら100通り以上の考え方や価値観がある。それだけあれば自分に合わない人だって必ずいる。だが考え方を変えれば、自分が考えもしなかったことをほかの人は考えていることだってある。

ネット上でよくいる「アンチ」という存在。それさえも私にとってはありがたい存在だとおもっている。その人たちは何も言わずとも自分の欠点を教えてくれているのだから。むしろ私自身の成長を手助けしてくれているありがたい存在だ。中には理不尽なことを言う人だっているだろう。その時は先ほど言った「不良品のロボット」だと思えばいい。他人を嫌う労力があるならばその労力をその人を理解するために使ったほうがよっぽど自分のためになるし、気持ちも楽になる。

今では周りから「心が広い」や「優しい」といわれるような人間に成長できた。きっと今でも他人を嫌っていたら心の狭いみじめな人間で世間から白い目で見られていたことだろう。

今現在人間関係に悩まされ苦しい思いをしている方がいたら、一旦嫌いという思考を捨てその人を客観的に見て理解する努力をしてみてはいかがだろうか。受け入れろとまでは言わない。あの人はこういう人間なんだとほんの少しでも理解してあげるだけでいい。

きっとあなたの心が豊かになっていくことでしょう。


最後までお読みいただきありがとうございました。




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