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自己憐憫 に 孤独 と 他人から羨むこと がついてしまうと大変です。ということ。

映画 グリーンブックを観ました。

映画は好きなので観ている方だと思うのですが、とてもいい映画でした。

是非観てみてほしいと思います。

グリーンブックを観て気づきました。

「自己憐憫」

だれもが一度は持ってしまうものなのではないでしょうか。

私は大変だ。私はかわいそうだ。だれか助けて。→自己憐憫です。

自己憐憫に浸っていることは自分を大切にできていないこと。自分で自分を救うことができると自分を信じることができない証拠なので、手放した方がいいことですが、仲間がいてくれるのであれば、救いは大いにあるのだと思います。

自己憐憫 に 孤独と他人が羨む環境がセットになってしまう状態が続くと希望がみえなくなってしまうのではないかと思いました。


「恵まれている環境を持っていると他人からは苦痛が見えづらくなる。」


私の場合、私は育った環境はとても裕福な人たちに囲まれ、子供の意見、自由意志を尊重してくれる学校、食育を大切にしてくれる環境、多国籍の人たちが当たり前に共存している環境で育ちました。

でも、父と母はたまたまそこに居住していただけで、私の育った環境とは違う価値観を持って生きている人たちでした。

差別もなく、寛大な大人に囲まれていましたが、家に帰るとその考えは否定されるのです。

子供なので、青臭いことばかりいうものです。実体験がなく、理想をえらそうに語るのです。でも、それでいいのだと思います。子供の理想論はすがすがしいものだと私は思います。

学校や塾、家の外では私の青臭い理想論を私が頑張って訴えることを大人が後押ししてくれました。たとえばいじめです。泣いている子がいれば、誰かが苦しんでいる事実があるのだと解決のために力を尽くす子供でした。

一方家に帰ると、子供のくせにえらそうな口をきくなと父からも母からも頭ごなしに怒鳴られます。子供のくせにその口の利き方は何だ!反省できるまで外にでてなさい!と家から放り出されました。

このバランスの悪さをずっとかかえていきてきました。

多国籍の人々が交流することが当たり前で、ゲイなどセクシャルマイノリティの人たちと交流する機会もあったので、差別という概念を感じることなく育ってきました。

自分でお金をためて海外留学したときに、私自身が差別という概念がないので、いろんな国の人たちと友だちになりましたし、ゲイの友だちもたくさんできました。

母が留学先に遊びにきてくれたとき、「韓国人と友だちなの?(やめなさい。)」と母が言ったことに驚きました。「ペルーの人でもホゼ(私のシェアメイト)は特別よ。日本にいるペルーの人はものを盗むから気を付けるのよ」私のシェアメイトのお兄さんがゲイで、とても紳士的で母に親切にしてくれたとき「ホモでもあんなに素敵な人っているのね。ホモって気持ち悪いのに。」と。

私には母が理解できません。自分が友だちになったこともなく、何をされたというわけでもないのに偏見だらけなのです。

そして、留学から帰国後、母からは「宇宙人になって帰ってきたわね。あなたの言うことが理解できないの。だまってちょうだい。」といつも言われました。

私は外の世界に自分の居場所を求めました。とても裕福な環境で育った人たちと話が合うのです。

でも、みんなお金持ちなのです。とてもとてもお金持ちなのです。墓地はみんな同じ場所にあって、葬式や法事のあとにいくレストランの話とか、私はわからないのです。食事のマナーとか、ある程度は知っていても、幼少期からマナーを学んでいるわけではないので、なんとなく恥ずかしい思いをするのです。なんとなく、あれ?と違和感を感じられているような疎外感を感じるのです。家賃収入のトラブル話あるある、ビルの広告収入の話、親が保有している株の話。私を仲がいいと思ってコミュニティに入れてくれているのか、身内話をされるのですが、私は全くわかりません。

実家は隠れ貧乏で、親は下品です。両親ともに食事のマナーなんて知らないし、どこでも大声で話します。父はどのような場所でも酔っ払い、驚くような大声で話し始めますし、母もオーケストラを聴いている中私に話しかけます。お金もなく、実家は借家です。

私は育ちのしっかりした家の人とはつり合いがとれないから結婚なんてできないと思っていました。

私は家でも外でも孤独で、自己憐憫のかたまりでした。

孤独を解消したくて、自分の居場所を見つけたくて、離婚後は私の両親のような人たちが働いている環境を探して就職しました。

親は毒親で、みんないい人なのですが、なんかうまくいかない。

居心地が良かったです。傷をなめあうような感じで。でもオーナーからつまはじきにされました。私はNOというのです。他の人はクビになることを恐れて過酷な労働環境に文句を言わないのですが、私は私が一番売り上げを作っているのに私だけにボーナスがないのはおかしいと訴えるのです。

結局、私はそこにはいれないのです。

この状況、死にたいです。

私自身、自ら喜んで「いえーい!私貧乏!家は借家!親もお金ない!」なんてアピールしたくないですし、私が「私、貧乏だよ」と言ったところで、「本当の貧乏は自分のことを貧乏っていったりしないし、どうみても貧乏じゃない。」と言われます。私立の学校を卒業して、留学して、就職先も一流と言われるところで。いろいろ心のバランスがとれないことが原因で長続きしなくて、本人は苦しんでいるのですが、他人は理解できないのです。私が大切にしないで捨ててるだけだと思われているのかもしれません。それに、結局最後のところはあなたは大丈夫よ。と言われます。

自己憐憫 孤独コンボでも十分にしんどいです。


結局のところ、自分を100%うけいれてもらえる場所を探して放浪するのではなく、自分で自分にOKを出す方がよっぽど近道なのです。

映画の話に戻りますが、グリーンブックを観て、才能ある黒人のピアニストが私は何ものなのか教えてくれ!と叫びます。

そのとき、わたしは思いました。

なにを言ってるのですか。あなたはこんなにすばらしいのに。

と。

40年以上ずっとさまよってきました。こんな簡単なことがわからなかったのです。

私は私のままでこんなにすばらしいのです。価値をまわりにゆだねないでほしいのです。

言葉でいうのは簡単です。こんな言葉以前もどこかで耳にしたような気もします。

よかったらグリーンブック観てみてください。もしかしたらこの陳腐な言葉がずしっと心に響いてくれるかもしれないと思います。

2021/7

いいこというな。と自分の文章を読んで感心しました。笑

こういう発見をしても、忘れてまた「自己憐憫+孤独」のコンボにさいなまれていましたYO!

でも、多分、螺旋階段のようにゆっくりとぐるぐるとまわってすこしずつ消化していくのだな。と思います。

どんなに私が努力しても結局「あなたは○○なんだから私とは出来がちがうのよ」と、努力を認めずに言われてしまう○○こそが私の財産なのだと最近気付きました。


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