見出し画像

オカネカルト⑩むかしむかし「オカネを使え」という命令が何回も何回も出された

むかしむかし ずーっとむかしのお話です
今から1300年も前のお話です

先進的なトナリの国ではオカネが使われていることを知った
古代のオカネカルトの国の国王は
トナリの国にならって
「我が国の民にもオカネを行き渡らせようではないか」と
オカネの鋳造を始めました。
トナリの国のオカネの形によく似たオカネが作られました。

7世紀の後半 天武12年(683年)
「これからは取引に必ずオカネと使うように」
古代オカネカルトの国の民に 命令を出しました。

ところが…

古代オカネカルトの国の民たちは取引にオカネを使いませんでした。

おかしい…と思った 古代オカネカルトの国王は

何回も
何回も
何回も

「取引にはオカネを使うように」と命令を出しました。

何回も国王の命令が出ているのに
それでも古代オカネカルトの国の民たちは
オカネを使いませんでした。

なぜでしょうか?

古代オカネカルトの国の民たちは
オカネを使っていませんでした。

物々交換の取引を日常にしていた訳でもありませんでした。
生活に必要なものは全て村の中で手に入りましたし
村ではみんな顔見知りで大きな家族のような共同体でした。
だれかが困っていたらだれかが助けるのは当たり前のことで
また助けれた人はだれかが困ったときには助けようと思うのでした。

村の中で手に入らないものがあれば
その時にはじめて物々交換をします。
しかしそんなことはたびたびあるものではありません

基本的に生活に必要なものは、自分たちの村の中で
自分たちで作ったのです。
家を建てる時には村のみんなが総出で手伝って家を建てます…
船を作る時にには村のみんなが総出で手伝って船を作ります…

作った船で漁に出て、たくさんの魚が取れたら
村の中でそれぞれの家族の必要な分だけ分かち合います

そんな感じの暮らしを古代オカネカルトの国の民はしていたので
オカネを使う必要がありませんでした

取引交換にしても、その作られたオカネそのものに
価値が感じられなかったので 古代オカネカルトの国の人々はオカネを使うことはありませんでした。

村の外の町に働きに出た 村人たちに報酬としてオカネを渡そうとしても 受け取るのを嫌がりました。村では作れないウマイ酒や珍味、村では織れない布地などを人々は喜びました。

オカネの流通は古代オカネカルトの国でオカネが鋳造されてから
100年経っても200年経っても
なかなか広まりませんでした。

11世紀〜12世紀半ば 価値が安定した米や絹・麻布がオカネとして取引に使われました。オカネとは違って米や絹・麻布にはまさしく価値がありますからね

しかし米や絹・麻布は持ち運びが不便ですので信用取引が行われるようになりました。中央の役所は所管の倉に支払いを命じた書類をだし、それが現在の小切手の役割を果たしていました。実はオカネの流通より先に信用取引が普及していたのですよ

オカネが流通し出すのはなんと
古代から500年経って中世オカネカルト国
12世紀半ば トナリの国のオカネが大量に輸入されて
やっと流通し始めるのです…

それから400年間 中世オカネカルトの国ではオカネは鋳造されず
トナリの国のオカネが流通しました。

オカネが流通すると言ってもこの当時でも
村の中でオカネのやりとりが発生することはなく
オカネが活躍するのは 旅先など、顔見知りではない人とやりとりする時です。



16世紀になってオダノブナガ王など戦国大名が鉱山の開発をして
やっと近世オカネカルトの国でオカネが鋳造されるようになったのでした。
17世紀 オカネカルトの国王となったトクガワイエヤスは1601年に様式・品位(金銀の含有率)・形態などを統一した慶長金銀を発行しました。


古代オカネカルト国はじめてのオカネの鋳造から 
およそ1000年かかって 
やっと自国で鋳造されたオカネが流通することになりました。

このように今ではオカネカルトの国では
オカネを日常的に使うことが当たり前になっていますが

オカネを国民に使ってもらうようになるまでに
長い長いの年月がかかっていたことなのです




↑ 参考:日本銀行金融研究所 貨幣博物館 日本貨幣史

お金のなりたちや本質をわかりやすく伝えようとする活動は2007年から、2017年からは京都や滋賀県高島市でスペース運営をしています。並行してイラストレーターとしての活動をしています。サポートいただけましたらありがたく有効に活用させていただきます。